毛利輝元像(萩城跡)
毛利輝元は中国地方の覇者、毛利元就の孫で父・隆元の急死により11歳で家督を継承します。当初は祖父・元就が健在で実質的には元就が実権を握っていましたが、祖父の死後も毛利は勢力を拡大し中国地方全体と九州の一部を支配下に治めていきます。
織田信長とは、当初友好関係を結んでいましたが、都を追われた将軍足利義昭を保護したことから対立することとなります。織田軍は中国地方へ侵攻を開始しますが、その最中「本能寺の変」により信長が倒れると一旦和睦が成立。その後、輝元は天下人となった豊臣秀吉に臣従し、豊臣政権の五大老の一人になりました。
豊臣秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では徳川家康に次ぐ勢力であった輝元は、石田三成に推されて西軍の総大将となります。しかし、自らは大阪城に入り出陣せず、西軍が敗北すると大阪城を出て隠居します。家康は当初、毛利家を改易しようとしましたが、輝元の従兄弟で東軍と通じ勝利に貢献した吉川広家の説得により周防・長門の2ケ国に減封することで存続が許されます。こうして誕生した長州藩が時を経て幕末に幕府を倒す原動力となったのは皮肉なものです。
天樹院境内
長州藩では幕末に山口へ藩庁を移すまで現在の山口県萩市の萩城を藩庁としていました。そして萩城のすぐ近くにある「天樹院」に毛利輝元の墓所があります。
元は輝元の隠居所「四本松邸」があった場所で、寛永2年(1625)に輝元が亡くなると、ここで火葬され「天樹院」を創建して菩提寺としました。寺は明治2年に廃寺され、現在は墓所のみ残っています。なお、天樹院とは輝元の法号です。
毛利輝元の墓
境内にある輝元火葬の地
天樹院:山口県萩市堀内
撮影日:2012.11.18