長州藩初代藩主 毛利秀就 | 墓守たちが夢のあと

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鐘楼門

 
 山口県萩市にある大照院は長州藩初代藩主、毛利秀就の菩提寺として建てられ秀就を含め7名の藩主の墓があります。なお、大照院とは秀就の法号、霊椿山大照院からきています。
 
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毛利秀就の墓
 
 豊臣政権・五大老の一人で「関ケ原の戦い」で西軍総大将を務めた毛利輝元は、西軍が負けると大阪城を出て隠居します。徳川家康は当初、毛利家を改易して東軍に味方した吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与え毛利氏の家督を継がせようとします。しかし、広家は家康に掛け合い自分に与えられる予定だった周防・長門の37万石を毛利本家へ譲ります。112万石からの大厳封でしたが、こうして毛利家は存続していくこととなります。
 そして、輝元の跡を継ぎ初代長州藩藩主となったのが毛利秀就です。なお、輝元には長く子供が出来ず、従弟の毛利秀元を養嗣子としましたが、秀就が生まれたため、秀元は別家を立てて独立しています。
 こうして毛利家の当主となった秀就でしたが、就任当時はまだ幼く実際は輝元が実権を握ったままでした。輝元が亡くなった以降も、秀就の後見人となった毛利秀元らが藩政を取り仕切り秀就には実権がありませんでした。こうした事から、しだいに秀就と秀元の間に確執が生まれていきます。本来、自分が毛利家を継ぐはずだった秀元が秀就を軽んじていたという説や、秀就が若い頃に素行が悪く遊びまわり、領民に対して高圧的な態度をとり嫌われていて秀元が諌めても聞かなかったためとも言われています。
 両者の対立は深刻で秀元が治める長州藩の支藩・長府藩が長州藩からの独立の動きを見せるようになります。秀元は将軍家光の御伽衆を務めていたため秀就も簡単に処分することもできず最終的に幕府の仲裁により和解が成立したそうです。
 毛利秀就は慶安4年(1651)に57歳で死去し、跡は四男の綱広が継ぎました。
 
山口県萩市大字椿4132番地
撮影日 2012.11.16