十六世・二十世 本因坊秀元 | 墓守たちが夢のあと

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 14世本因坊秀和の長男・15世秀悦は明治維新後、生活も困窮するようになり心労のため精神に異常をきたします。、次男で林家を継いだ秀栄と三男の土屋百三郎は、秀和門下で当時の実力者であった村瀬秀甫に当主就任を打診しますが、仲介した中川亀三郎の策略により不調に終わります。
 そこで、明治12年(1879)に秀悦を退隠させて百三郎が16世本因坊となり秀元と名乗ります。当時、秀元は三段で、本因坊家の歴史上最も低段の当主でした。
 秀元は本因坊就任前から秀悦の代理として方円社の設立にも参加していましたが、家元の権威を認めない方円社の方針に反発して、秀栄、安井算英とともに脱退。門下の方円社員の段位を剥奪しています。
 しかし、明治という新しい時代に世間は新組織「方円社」を支持し発展していったのに対し、家元側の勢力は衰えていったため、秀元はその状況を逸回するために兄の林秀栄に本因坊家当主を譲ります。17世本因坊秀栄は明治19年(1886)に方円社と和解して秀甫を18世本因坊に迎えますが、秀甫の死去により本因坊を再襲。19世本因坊となった秀栄は八段、そして名人となり、本因坊家は方円社を凌ぐ勢いとなりました。この間秀元は酒を楽しむ生活を送り、酒仙、畸人と称されています。囲碁も段位は四段ながらも秀栄から「璧玉たるを失はず」「六段の価値がある」と評されるようになります。
 秀栄が明治40年(1907)に亡くなるとその後継者として、最も実力のあった田村保寿(本因坊秀哉)を推すグループと、秀栄未亡人ら雁金準一を推すグループが対立します。秀元は事態を収拾するために自ら20世本因坊を継ぎ、翌年の秀栄一周忌を待って田村に本因坊の地位を譲りました。退隠後は土屋秀元と名乗り、1917年に死去しています。
 余談ですが 「八百長」の語源となった八百屋の長兵衛は大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間で、本当は強かったのに商品を買ってもらうために、わざと負けて親方の機嫌をとっていましたが、ある日、回向院近くの碁会所開きに来賓として招かれていた本因坊秀元と好勝負を行ったため、本当の実力がばれてしまったという逸話があります。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2