二十一世 本因坊秀哉 | 墓守たちが夢のあと

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本因坊秀哉の墓

 

本因坊秀哉

 

 世襲制による最後の本因坊である秀哉は東京芝桜田町の生まれで、本名は田村保寿(やすひさ)と言いました。旗本の家に生まれ父親は上野戦争では彰義隊に参加して新政府軍と戦っています。
 父の趣味の影響で囲碁を覚え、11歳で方円社へ入塾。翌年から住み込みとなり本格的な修行に入ります。石井千治、杉岡榮治郎とともに方円社の三小僧と呼ばれるまでに成長しますが、政官界の人たちと接するうちに碁打ち以外の生活を志し、明治24年(1891)に方円社を飛び出し除名されます。
 しかし、始めた事業もうまくいかず、19歳の時に金玉均を介して19世本因坊秀栄門下に入門。再び囲碁の世界へ戻りました。
 秀栄門下でも強さを発揮し、本因坊継承の最有力候補と見られるようになりますが、秀栄は田村を嫌っていて後継指名には消極的だったそうです。田村は我が強く金銭にうるさかったためと言われています。秀栄は中川亀三郎の弟子で亀三郎の死去により秀栄門下となった雁金準一を後継に望んでいたと言われています。田村には及ばないものの将来性を期待しての事です。病に倒れてからも田村とは会おうとはしませんでした。
 明治40年(1907)に後継者を指名しないまま秀栄が亡くなると後継者問題で本因坊家内は大いにもめます。門下一の実力を誇りながら師匠に嫌われていた田村は孤立無援に追い込まれますが、それに手を差し伸べたのが秀栄の弟で16世本因坊であった土屋秀元でした。秀元は一旦、自ら本因坊家を継ぎ20世本因坊となると翌年、秀栄の一周忌をもって田村に本因坊を譲ります。秀元は低段位で家督を継ぎ苦労した自らの経験により最高の実力者が継ぐべきだと考えてのことでした。こうして、明治41年(1908)34歳で本因坊家を継いだ田村は、二十一世本因坊秀哉(しゅうさい)を名乗ります。
 本因坊となった後も強さを発揮し続けた秀哉は41歳の時に名人位就位。名実ともに棋界第一人者になります。
 大正13年(1924)には念願であった日本棋院が設立され、秀哉以下の坊門や方円社等のほとんどの棋士が集結します。また、天才棋士呉清源の来日と木谷実の登場により囲碁界は新しい時代を迎えます。そうした中、本因坊家では秀哉が後継にと期待した小岸壮二が早世します。秀哉は自らの本因坊家継承のいきさつから最強のものが本因坊位を継ぐべきだと考え世襲制廃止に踏み切ります。 昭和11年(1936)に秀哉は日本棋院に本因坊の名跡を譲渡。選手権戦によって本因坊を決める本因坊戦が誕生しました。
 昭和13年(1938)、64歳の秀哉は現役引退を発表。木谷実を相手に引退碁を打つこととなります。約5ヶ月にも及ぶ対局は途中秀哉の入院などもありましたが木谷の5目勝ちで終局します。この対局の観戦記を担当した川端康成は後に小説「名人」を発表しています。
 昭和15年(1940)1月18日、秀哉は選手権制による第一期本因坊の誕生を見ることなく、67歳で亡くなりました。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2