中川亀三郎、千治の墓
中川家墓誌
東京都台東区谷中にある谷中霊園の一角に幕末から明治にかけて活躍した囲碁棋士・初代中川亀三郎と二代目中川亀三郎(中川千治)が眠る中川家の墓があります。
明治になり囲碁界では幕府支援の家元制が崩壊した後、亀三郎は村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)らと囲碁結社である方円社を設立し、亀三郎は副社長に就任します。方円社は明治という新しい時流に乗り繁栄しますが、家元の権威を守ろうとする本因坊家と対立します。そうした囲碁界の現状を憂いた支援者の仲介により明治19年に方円社社長の村瀬秀甫は、十七世本因坊秀栄と和解。秀甫は十八世本因坊に就任します。しかし、本因坊秀甫は病のため本因坊就任後わずか二ヶ月半で亡くなってしまいます。
十八世本因坊秀甫が亡くなったことにより、次の当主を決めるために秀栄は中川亀三郎に争碁を申し込みます。本因坊家当主が方円社社長を兼ねるという取り決めに従ったものでしたが亀三郎はこれを拒否。本因坊家と再び袂を分かって二代目方円社社長に就任します。その結果、本因坊家では秀栄が十九世を再襲しています。
その後、亀三郎は後進の指導に尽力し、明治32年(1899)に社長を引退。明治36年(1903)死去に亡くなっています。
二代目亀三郎は石井千治と言い方円社に所属し、田村保寿(後の本因坊秀哉)、杉岡栄次郎とともに方円社三小僧と呼ばれます。初代亀三郎の遺言により中川家へ養子に入り中川千治となります。数年後には二代目中川亀三郎を襲名しています。一時、方円社を離れますが大正元年(1912)に復帰。四代目社長に就任しています。大正9年(1920)に社長を辞任し顧問となります。後に日本棋院の設立にも参画し、昭和3年に亡くなりました。
中川家の墓の墓碑には初代・中川亀三郎と、中川千治の名が刻まれていますが、その後にプロの囲碁棋士として活躍した「中川新」の名前もあります。中川千治が亡くなったとき、後継者がいなかったため遺志により門下の小野寺新が養子となり中川新之と名乗りました。中川家は続けて弟子が養子として跡を継いでいるのです。
谷中霊園 東京都台東区谷中7-5-24
中川家の墓 霊園内 乙6号2側。正面