巌埼健造 | 墓守たちが夢のあと

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歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

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総持寺

 

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巌埼健造の墓

 
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墓の裏側

 
 西東京市田無町にある真言宗智山派の寺院・総持寺に幕末から大正にかけて活躍した囲碁棋士・巌埼健造の墓があります。健造は本姓を海老沢といい多摩郡田無村で生まれ、囲碁界で天保四傑と呼ばれた安井門下の強豪・太田雄蔵の門下となり、後に家元の九世安井算知の門下となります。安政6年(1859)に後に碁聖と呼ばれる本因坊秀策と二子で十番碁を打ち、7勝3敗として四段に昇段。文久2年(1862)には、明治に入り囲碁結社・方円社を設立し、十八世本因坊となる村瀬弥吉(秀甫)に先番で勝って五段に昇段。安井家四天王の一人とされます。
 この頃、ある出来事がありました。師匠算知の息子算英(安井家十世)の面倒をみていた健造は、算英の碁の内容があまりにも未熟なため、思わず手をあげてしまいます。算英は母にそのことを伝えると、母は夫の算知に健造の暴力を訴えます。これを聞いて怒った算知は建造を破門しようと思いましたが、建造にその時の碁を見せられ納得。妻に一方の言い分だけを聞くなと逆に叱り建造を許します。そして、再びこのような碁を打つことがあれば容赦なく叱ってくれといったという話が残されています。
 健造は明治に入り囲碁界が混乱する中、大久保利通に従い、東京府消防指図役、神奈川県始審裁判所書記などの官職についています。また、この頃、絶家となっていた巌崎家を継ぎ巌埼健造と名乗ります。明治15年(1982)に司法庁所属となって東京へ戻ると方円社の手合にも参加するようになります。
 明治20年に六段へ昇進。明治25年には、方円社二代目社長・中川亀三郎に請われて副社長となり、明治32年(1899)には中川の後を継いで三代目社長へ就任しています。明治39年(1906)に八段に昇段した後、大正元年(1912)に、二代目中川亀三郎(石井千治)に社長を譲り引退。翌年73歳で亡くなっています。
 
西東京市田無町3-8-12
撮影日:2010.8.10