四世本因坊道策(察元・伯元) | 墓守たちが夢のあと

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 江戸時代、碁聖と呼ばれた四世本因坊道策の墓も京都寂光寺にあります。ただし、道策は遺言により江戸の本妙寺に葬られたことから墓碑として建てられたものかもしれません。先代の三世道悦が長命で京都で隠居生活を送っていたため、気をつかって江戸とは別に、これまでどおり本因坊家発祥の寂光寺にも墓を建立したのかもしれません。
 道策は、現在の島根県太田市の山崎家の出身で先祖は毛利元就の家臣でした。7歳で母に囲碁を教わり、14歳で江戸に出て本因坊算悦の門下に入っています。なお、出身の山崎家は、道策の弟・道砂が三世井上因碩に。後の時代には十世井上因砂因碩を輩出するなど囲碁界との関わりが大変深い家柄です。
 道策の実力は本因坊家を継承する前から知れ渡っていて、算知道悦の争碁により算知が碁所を返上した二年後に道策は本因坊を継承するとともに碁所に推挙されます。実力が際立っていたため他家からも異論は出なかったといいます。道策は圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称されていました。今なお史上最強の棋士に名を上げる人も多くいます。
 道策は手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出します。従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖とも呼ばれています。
 段位制を確立したのも道策で、名人を九段、名人上手間を八段、上手を七段として、以下二段差を1子としますが、この段位制は日本棋院が設立されるまで使われていました。
 多くの門弟を抱えていましたが跡目とした小川道的佐山策元が相次いで亡くなったため、門弟で井上家を継いだ井上道節因碩(桑原道節)を後見として13歳の神谷道知を跡目とし、元禄15年(1702)に亡くなります。

 道策の墓には八世伯元九世察元の戒名も刻まれています。察元が本因坊家を継承するまで数代にわたり本因坊家当主が若い年代で亡くなり囲碁界全体が低迷していましたが、察元は半ば強引な形で名人碁所に就任し、その結果囲碁界全体が活気をを取り戻していきます。そして察元は大々的な行列で京都寂光寺へ墓参りを行い本因坊家の威光を示します。

寂光寺 : 京都府京都市左京区仁王門通東大路西入ル北門前町469 地図
撮影日 : 2011.5.14
 
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