プロムナード -39ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

小生、趣味はと聞かれたら、そのひとつとして「変電所散策」と答えている。いやマジで。

変電所の魅力ってナンだろうって、考えた。

小生にはふるさとがない。学生の頃、それがコンプレックスだった。
生まれも育ちも東京。一方、当時の友人たちは、男も女も元カノも、皆、地方出身。だから彼らが語るふるさとの話は、小生にとって異次元の世界のものだった。その話をする彼らに、小生は心が折れそうになるほどの距離間を感じた。

ある意味、その変えようのない運命に,、言いようのない負い目すら感じることさえあった・・・・

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発電所は、発電しているところが実際に見えると大変面白いのだが、原発はもとより、水力も火力も総て建物の中に置かれているので外からその姿を見ることが出来ない。これが魅力を落としている原因だろう。

かつては、つまり3.11の東電による原発事故以前は、テプコ館主催の見学会などがあって、発電所の見学が出来たのだが、今は総て中止されており、総て秘密基地化してしまっている。それに、見学会という性質上、長居も出来ないし、じっくり見ることが出来ないので、気の済むまで鑑賞することはできない。これも魅力をそぐ原因の一つだった。


その点、変電所はいい。特に超高圧を扱う一次変電所は、見ていて最高に気持ちがいい。トランスの唸る音が、自分の波長と共振してなんとも落ち着いた気分になれる。この音、幼少の頃によく遊んでいた電車の引き込み線辺りの変電所で聞いていた音だったので、小生にとっては、ある意味懐かしい音でもあるのだ。

それと、真夏になると超高圧送電の碍子付近から聞こえるジリジリ、ブチブギという電気虫の声が聞こえるが、アレがまたいい。思わず笑みがこぼれる。恐らくあんなもの聞いて微笑んでいる姿は、興味ない人から見たら相当に異常な光景だとは思うが、別に構わない。

設備されている機器も鑑賞用として大変興味深い。なにしろ実生活とは無縁の機器だし、SF映画に出てくる秘密基地の様な様相にワクワクさせられる。遮断機にしても変圧器にしても、電気工学技術の粋であり、とにかくかっこいい。遮断機が作動し、雷鳴の様な音と共にアーク放電を伴って遮断するシーンなど見れたら、嬉しくて発狂してしまうだろう。

変電所の魅力というと、そういった設備の物理的な面白さもさることながら、もう一つの魅力は変電所への給電や変電所からの送電の送電網を見ることだ。

埼玉県には、超高圧変電所として新所沢変電所とか、新坂戸変電所、新岡部変電所などがある。この変電所に引き込まれている送電の鉄塔にはそれぞれの送電線名が掲げられているので、その名称を見れば、遠く離れた福島県の水力発電所や新潟県の原子力発電所などで発電された電力が遠路はるばる運ばれてきていることがわかる。

例えば、埼玉県を南北に縦断し、川越にある電源開発(JP)の川越変電所に給電している「只見幹線」という送電線は、福島県の田野倉ダムで発電された電力が、山奥から様々な経路を経て、はるばると送られてきているものだ。送られた後、その電力は一時変電所で電圧を落とし、そこから再び次の変電所へと旅立っていく。そして最後には、街中にある配電変電所で一般家庭用の単相100V・200Vや、町工場などへの三相200Vに変換されて給電されるのだ。

電力は基本的に貯蔵が不可能。蓄電池で貯蔵ができるとは言っても微々たるもの。従って大半の電力は今、発電所で生成されたものだ。電気の伝導速度は光速に近い。つまり、今見ている送電線に送られてきている電力というのは、自分が見ている瞬間にダムや原発で生成されたばかりのもの。

変電所を眺めながら、遠くにある発電所や変電経路を思い浮かべる。それが楽しみのひとつである。

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その後、社会に出てからは、仕事がら海外人とも多く交流するようになって、ふるさととの距離感はだんだん短くなり、その存在は別の意義を持つようになった。今では、その距離感があるほど交流が楽しめるほどだ。

だが、当時の痛みは今でも覚えている。送電線を見ると、その頃の甘酸っぱい思い出がたくさん駆け巡ってくる。

つまり、変電所に引き込まれている送電線は、遠い昔の自分と今の自分をつなぐ、記憶の架け橋なのだ。




学生時代、遠くを見るような眼差しでふるさとを語っていたあの子は、大学を卒業してふるさとへと帰っていった。その姿を見送った上野の駅で、列車がホームを去ったあとも、小生は列車を導いている送電線をずっと見続けていた。
まるで、あの「なごり雪」の歌の様に・・・・


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あの子のふるさとは、昨年発生した大震災と津波の被災地、女川の海辺の近くだった。
とっくの昔にどこかに嫁いでいることだろうとは思うが、ご家族共々無事でいて欲しいと、心より祈るばかりだ。



AKB48の東京ドーム「1830m」に参戦してきた。といっても、フツーにチケットを入手し、フツーに入場して参戦し、フツーに帰ったということでは小生らしくないので、そこは変則的な方法で参戦してきた。その戦記です。

 

まずは秋葉原へ行き、雰囲気を確認。小中学生の頃から小生を育ててくれたアキバの街は、決して裏切ることなく小生を迎えてくれた。街のあちらこちらにはためく「祝・前田敦子卒業」の垂れ幕、そしてなんといっても秋葉原駅に掲げられた超特大のサイネージ。もちろんAKB Coffe & Shopは大賑わい。

完璧にアキバはAKBしていたね。天晴れ!


 

 AKB48 CAFE & SHOP前

真夏の炎天下でのこの光景、さながら新大統領誕生に沸く途上国の街角の様だった。

 

秋葉原駅に掲げられたAKB48と祝・前田敦子

アキバといえばエレキとアニメという、殆ど接点のない両雄が仲良く共存しあうフシギな街。両者とも底知れず「深い」から、恐らく暗黙の不可侵条約が結ばれているのだろう。というより、互いに尊敬というか敬遠しあっているのかもしれない。

 

そんな街角に安堵感を感じたあとは、いよいよ、東京ドームへ参戦!

 東京ドーム 正面ゲート前


ゲート到着した時は、開場1時間ぐらい前だったが、スゴイ人だかりだった。特に正面のゲートは大変な賑わい。しかし、それにも増してすごかったのが、グッズ売り場の列。炎天下、ひたすらグッズ購入のために並んでいるのは、大変な苦労だと思う。よく倒れないものだと思ったほどだ。恐らく、2時間ぐらい並ばないと調達できないのではないだろうか。それに「推しメンタオル」については、売り切れが多発状態のようで、長いこと並んだ挙句に売り切れに直面する人も少なくはないだろう。

 この売り方については、売り場を増やすなどの再考が必要だろう。

 

さて、入場が開始された。入場に当たっては、持ち物検査と身分証明書の提示が必要。さながら国際空港のセキュリティ然としている。さすがに金属探知機やボディチェックこそないとはいえ、抜き打ちでの確認を行うという触れ込みにも拘らず、入場者全員に対して検査が行われていたことには驚く。まずはダフ屋締め出しに全力を尽くしているというところなのだろう。

 

カメラの持参はご法度。ゲートに入って預けなくてはならない。但し、携帯の持参はOKとなっている。従ってそれほど厳密なものではないといえる。

 

と、ここまで書くと、まるで入場したように思えるが、ところがどっこい、

チケットなんか持ってないもんね、ワシ

 

そこで次なる行動へ作戦を移した。即ち、場外音漏れ地帯の捜索。いいところあったんですよ、

ゲート25付近。ここ、相当な音量で音漏れしている。

MCの声までは聞こえないが、歌や聴衆の雄叫びは総て聞こえる。地べたに座り、或いは歩道橋の階段に座って聞いていると、さながら野外コンサートの開場にいるような気分になれる。これは絶対お得!

 

近くには大勢の同志がたくさんいるし、思い思いのカッコで楽しんでいる。更に面白いこととしては、場内にいる輩がツイッタでつぶやいていることをリアルタイムで見れること。それを伝える人がいるということ。「タカミナがこんなこといってる」みたいな。

 

ゲート25付近

そうやって約4時間近く経ち、辺りがすっかり暗くなってコンサートは終了した。終了後、場外だと帰宅ラッシュに巻き込まれることなく、電車に乗れる。これも大きなメリットだ。因みにゲート25の位置は地下鉄後楽園のすぐそばだから、極めて快適に乗車ができる。これは絶対お得な方法。とはいえ、ざわめきをあとに立ち去る時は、名残惜しかったけどね


目的であった、「ここにいたこと」は十分に達成できた。

小生の様な「ライトではないがヘビーでもない」というファンにはうってつけの参戦方法だと思う。お勧めである。

 

 

そして、翌月曜日の前田敦子卒業公演。これなんぞ、AKBシアターのチケット購入確率が916倍という驚異的な数字なので、よほどのことがない限りチケット入手は困難。


この日は会社を半休し、取り急ぎアキバの状況を見て、「ここにいたこと」の印を心に刻み、自宅へと急いだ。

このライブについては、主催者側も早い段階からYoutubeとGoogle+での完全生中継を企画しており、現地で参戦できない場合には、自宅でPCをテレビへ接続して観戦するというのが最も正しい方法だ。 

実際、拙宅のNotePCをHDMIでテレビへ接続してみたところ、思ったよりも画質が良いので驚いた。恐らくビデオカメラは720p以上だろう。また回線の帯域幅も十分にあり、SD画質のコンサビデオなんかよりもずっと臨場感もあって、好感度抜群だった。たまにコマ落ちしたり、フリーズすることもあるが、まぁ、タダなので文句はない。

しかも、先の総選挙の時よりも伝送品質は高く、コマ落ちや画面フリーズの回数も格段に少なかったのは見事だった。

テレビでも中継していたが、途中でCM入ったり、最後まで中継できなくて、相当に不満があるようだが、こちらは完全中継。素晴らしい。

ステージからの完全垂れ流しだし、CMも入らないので下手にテレビで観戦するよりもずっと宜しい。なかなか粋な計らいをするものだと感心した。

 

YoutubeライブをPC受信してHDMI経由でTV接続

AKB48というと、主催者側の商魂について厳しい指摘も多いが、それはそれ、好きなものはしょうがない。趣味に金を使うことは人間の特権だ。金を使わせることは悪いことじゃない。

こういうビジネスモデルを考えつかなかった弱者の吼え面に付き合う必要はない。


金を使うことで充電できるのであれば、旅行だってグルメだって似たようなもの。
 いつしか醒めた時に、人によっては後悔するやも知れぬが、人生の中の1ページとして、情熱を注いだという記録がない人生はつまらない。

 

今週はこういうスタートだったせいか疲れちゃたので、行動報告だけでござる。


中央アルプスのふもと、南信州・駒ヶ根高原の高台に位置し、南アルプスを正面に一望する絶好のロケーションにある中央アルプス千畳敷カールに最も近い旅館、「二人静」。

早太郎温泉、「二人静」

これまで色々なホテル、旅館、民宿、素泊、山小屋、そういったところに投宿してきたが、


この二人静の気配りや接客はこれまでの経験上では秀逸だった。最高位と言っていい。


この旅館のネーミングは元々野草の名前である「二人静」に由来している様だが、その花の印象にも似て、雰囲気が清楚で大変良い。
なんといっても、的を得た接客態度が秀逸だ。また、女性スタッフが圧倒的に多いからなのか、「いにしえ」の日本女性的な気配りがそこはかとなく感じられて頗る心地よい。

それと、ホテルや旅館などでよく見られる注意書きや説明書きの張り紙文章。言葉の使い方は、相手に対する印象の与え方として大変重要で、浴場の場所を示す壁の張り紙など、たった一文字の違いで読み手が受ける印象が異なるもの。例えば、廊下に段差がある場合などに、「段差があるのでお気をつけ下さい」と書いてあるのはよく見るが、「下さい」が「下さいませ」となっているのとでは、驚くほど印象が違ってくる。さすがに道路工事じゃあるまいし、「段差在り」としか書いていないというところは無いだろうが、

とにかく些細なことでも言葉遣いに気を配っているかどうかは、読む相手に与える印象として重要な分岐路となる。


そう考えると、日本の警告看板には、注意書きと共に漫画が書かれていることが大変多いと思うが、あれも相手を和ませるという役割をしているのだろう。考えてみれば、メールの顔文字も同じだね。

仕事で使うメールでも「何々して下さい」という文章が徘徊しているが、本来はこの「下さい」という表現は依頼というより「指示」であって、客や上司に対して使う言葉ではない。その辺りを履き違えている輩が多いと思う。

それはともかく、二人静は素晴らしかった。こんなこともあった。

夕食を摂りに部屋を空けている間に布団を敷いてもらったあと、下足箱にある靴に「お客様の人生がこれからもますます光り輝きますように、願いを込めて磨かせていたえだきました」と書いた小さな紙が置いてあったのだ。この際、どの程度磨いたのかとか、そういう問題じゃない。心意気の問題だ。この小紙を見て不愉快になる人は全くいないだろう。こういう小さな気配りとか心遣いが、旅の印象をよくするのだろうと思った。

下足への気配り


千畳敷カールに行くならお勧めの宿だ。部屋の窓から見える南アルプス連峰の眺望も絶景。


ただし、難点を言えば千畳敷カールの散策以外に目的地が少ないこと。それと、駒ケ岳ロープウェイの大混雑。シーズン中は、覚悟が必要だ。といっても、もし自然散策が好きなのであれば、待ち時間に近場を散歩すれば様々な発見があって、小生的には特に大きな問題だとは思わなかったけどね
今回のアメリカ出張にて、2012年4月22日付で書いたブログ「アメリカの高圧送電線と電磁波 -悪魔の照明」に大きな間違いがあることが分ったので、至急訂正します。


今回の米国出張で、この写真を撮影した場所(Los Gatos, CA)へ再度行ってみたのですが、鉄塔の結界の下に、当時は気付かなかった小さな建屋がありました。この建屋はAT&T Mobility社の携帯電話用中継基地であり、従って付近には電磁放射があるために、警告として「電磁波放射在り」という看板を掲示していたのです。即ち、くだんの警告看板は送電線からの電磁波について警告しているのではありませんでした。


勘違い、すいません。。。



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送電線鉄塔にある警告


この看板、書主が「PG&E」となっていたから、てっきり送電線に関連する警告だと思ったのだが、しかし、こういう看板をはっきり掲げるということは、

いずれにしても「アメリカは進んでいる」と思った。



先のブログでも述べたように、「疑わしきは罰する」というか、罰しないまでも「存在そのものについては肯定しておく」というスタンスを取っていること、これは極めて大切なことだと思う。


とにかく、無害であることを立証するためには「悪魔の証明」が必要だ。あらゆる可能性をつぶさに確認するということは、実質上不可能に近い。であるならば、存在自体は肯定しておき、隔離しておく。それが大切である。


更に驚くべきは、民間会社が積極的に表示を行っているということ。場合によっては会社に対してネガティブな印象を与えることによって、会社のイメージダウンを引き起こしかねないにも拘らずだ。しかし、敢えてそういうスタンスを取るということは「結果的に好印象を与える」という読みもあるかもしれないし、或いは将来的に問題が発生した時のことを鑑みて手を打っておくということかもしれないが、とにかく勇気ある行動だと思う。漏洩している電磁波が、本当に人体に対して影響がないかどうかはまだ解明されていないにも拘らず警告しているのだから、スゴイことだ。



下の写真は、更に別の場所(Sunnyale, CA)で見かけた送電線真下に設置された中継局の看板。ご覧の様に、木材による建て付けの良し悪しはともかく、建物は完全防備されており、各種の警告がたっぷりと貼られている。この看板を見ると、立ち入り禁止理由として、FCCが定める47CFRによる電磁放射の「一般曝露許容限界」を超えるからだと明確に書かれている。更に、すべてのアンテナから3フィート以上離れること、アンテナの前に立ち止まってはいけないなどの警告が書かれている。これ等は作業者に対する警告だと思われるが、いずれにせよ、小生等の様な一般人に対しても明確に表示されているのだ。

 


携帯電話中継基地の看板群


 FCCとは、Federal Communications Commission(連邦通信委員会)のことで、通信、電信及び電波を管理する米国の連邦政府機関であり、米国内の各州間の通信や国際通信を規制を行っている委員会のこと。



余談になるが、日本から輸出される電子機器は、このFCCの定める規制に合致しているかどうかの審議がされ、認証されないと輸出が出来ない。これは無線機器に限らず、すべての電子機器が対象となる。


電子機器は不要輻射(EMI: Electro Magnetic Interference)という、本来の目的以外に発生する不要な電磁波が他の電子機器へ影響を及ぼすために、ここから発生する電磁波のエネルギーは周波数帯域ごとに厳しく規制されている。例えば、ラジオをテレビの近くに近づけるとスピーカから大きなノイズが聞こえることはご存知だと思うが、あれがまさしく不要輻射。これを抑えることが規制となる。電子機器の技術者は、あの手この手を駆使してこの規制をクリアするために日夜努力をしているのだ。


一般家庭にある電子機器から漏洩する電磁波は微々たるものであるが、この施設のように無線中継局ともなればその量は大きなものとなる。だから立ち入り禁止としている。


翻って我国の対応はどうかというと、確かに立ち入り禁止処置はされているものの、電磁波に関する存在や、その理由については明示されていない。隠匿体質によるものなのか、或いは、知らなくても良いという対応方法なのかはわからないが、はからずも福島原発で露呈したような「安全神話が崩壊」した今、

危険はもとより、危険かもしれないということについても、はっきりと明示することが必要なのではないだろうか。

男女や年齢を問わず、世の中に虫嫌いはたくさんいる。小生的には彼等を蔑む気は全くなく、むしろかわいそうだと考える。

そもそも生まれつき虫嫌いという人はいないはずだし、どこかの段階で虫嫌いになってしまったのだろう。それには理由があるわけで、恐らくその大半は親や育った環境に虫嫌いがいたことが原因ではないかと思うのだ。そういう境遇にあって、

他人の嗜好を押し付けられた結果として、虫嫌いとなる。これはもう不幸としか言いようがない。

気持ち悪いという感覚も同様だろう。「虫にかぎらず、ミミズやヘビをキモイと思うということも同様だろう。

虫がコワイというなら、理解できなくはない。急に襲ってくるとか、突然増殖して足の踏み場がなくなってしまうとか、おぞまし系のホラー映画の様な場面に出くわすとすれば、それは確かに怖い。

しかし、ミミズが人間を襲ってくることはないし、ヘビだって徒党を組んで襲ってくることはないだろう。だから、何がコワイのか、或いはキモイのか、小生にはどうしても理解できないのだ。

先に述べた様に、このキモイコワイについては、本人の意思というより、両親や周辺の人たちの価値観、感性がそのまま伝えられてしまった結果ではではないか、と考えている。両親のどちらか一方が、或いはご両人とも虫が出る度に「きゃーきゃー」言っていたら、子供としても影響を受けてアタリマエだと思う。


この本は、講談社が出版した学習大図鑑シリーズの一つ、「昆虫の図鑑」だ。

小生が小学生低学年の時、母親に買ってもらった本なのだが、小生の蔵書の中でダントツに古い本だ
当時の頃の本なんて他には全くないけど、この本だけはずっと本棚においてある。なんというか、昔の図鑑って極めて写実的というか、逆にシュールと云うべきか、とにかく表紙はこんな感じだった。

この本を見て思うことは、

自他共に認める大の虫嫌いだった母親が、良くもまぁ、買ってくれたということ。

今日びの虫嫌いの母親だったら、子供が虫に興味を持った途端、「そんな気色悪いものに興味持つんじゃねぇよ」と、興味心を根元から刈り取ってしまうことだろう。ところが幸いにして、拙宅ではそういう仕打ちはされなかったのだ。


逆に、母親には教えるつもりが毛頭無かったから、自分で調べろということだったのかも知れないが、いずれにせよ小生の興味の芽を詰まれることは無かった。これが今日の自分を作る原点となった。自分が理系に進むきっかけの大きな一つであった。

親はよく「自分の子供は自然の中で遊んでいるから、自然には親しんでいる」と思って満足している。それはそれで間違ってはいないのだが、
ただ単に遊んでいるだけだったら、はっきりいって他の野生動物の子供達の行動とあまり差がない。サバイバルっぽいことには強くなるかもしれないが。

しかし、重要なことは、
彼らが遊んでいるときに発見したことや考えたことを、あとで調べたり整理することができるかどうか、その機会が与えられているかどうか、なのだ。

ここが分かれ目。もしも後々調べる機会がなければ、子供の好奇心や向上心、探究心、想像力といった能力が発達しなくなってしまうのです。

子供がそれらについて調べる機会を持つとか云々の前に、そもそも見ることや近づくことから遠ざけてはいませんか?

こんにち、昆虫採集を行う子供が激減しているという。上述の様な虫嫌いな親御さんが増えていることもあるのかも知れないが、とても残念なことだ。別に昆虫採集を奨励するということではないが、身近に接する本当に良い機会が失われていることが残念でならない。



「殺生はよくない」と言うオトナも多いが、子供の頃に虫を捕まえて殺しまくった輩は、子供心なりに命の尊さや不思議さを知るものだ。結果、彼等が大人になった時には殺生をしなくなる。逆に言えば、

残虐な犯罪を起こすオトナこそ、子供の頃に「殺されること」を見たことがないからではないだろうか。


昆虫採集によって乱獲されることで絶滅する可能性があるというオトナもいるが、年々産出される虫の数、子供たちの昆虫採集ごときで絶滅するわけがない。それよりも、大人達による森林などの昆虫棲息地を乱開発する方がずっと深刻だ。

それと、虫を直接触ることで、彼等の、つまり生命体の生きる力を体で知ることが出来るということも、自然との接点を持つという意味で重要だ。

テレビや映画などの媒体を通じて見ることととは大違い。コガネムシにしてもカブトムシにしても、体の大きさと比べてその脚力の大きさは驚くべきものがある。そういう感覚を体で知るには、彼等の体に直に触れるしかないのだ。

人間は様々な技術革新を行って今日の文化を築いてきた。しかし、そろそろ思い込みだけで発達することに限界が見えてきた。今、革新的な技術を得るとすれば、他の生物から教えてもらうことが一番だ。じっくり観察して何かのヒントを得ること、それが大切だと思う。

子供が昆虫から何かを教えてもらうというのは難しいことかもしれないが、観察するという習慣を手に入れられれば、大人になったときに、彼等に教えてもらうことが可能になるだろう。虫に限らない。ごく身近にいる虫たちで経験しておけば、他の生物や、もっと広く自然現象に対しても、それを観察するという行為が身につくというもの。これが新たな原理や技術を取得する、最も大切な入り口なのだ。

偶然は準備をしていない人の前には現われないという。

親や周辺達が子供たちの「虫に親しみ、観察したり、会話をするという権利」を自分の価値観で剥奪してはいけない。

子供って、親が教えようが教えまいが、色々なことに興味を持ちます。親にとって大切なことは、その興味をゼッタイに否定しないこと。自分の趣味じゃないからとか、合わないからとか、そういう自分勝手な価値観で子供の向上心を砕いてはだめ!。

現在小さなお子さんのいる方やこれから親になる方にアドバイス。お子さんが何かに興味を持ったら、

リスクばかり考えずに、その向上心を伸ばす様に仕向けてあげて下さい。

拙宅で、19年間生きていた金魚が天寿を全うし(タブン)、7月始めに召されていった。さすがに19年間は長いもので、埋葬後も暫くは出窓に置いてある水槽のポンプを止められなかったね。

まあ、そうはいっても、そのままにしておくわけにもいかず、水槽を洗って水を張り、この前、近場にある蓮の公苑でもらった蓮の種を入れて、次の金魚を迎える準備だけして暫くしたら、

水槽の中でボウフラが何匹も湧いた!


蓮の芽が伸びて水槽の中をゆらゆらと揺れる中、楽しそうにくねくねと腰を振り振り踊っているのだ。

一体どこから蚊が侵入して来て卵を産んだのか見当もつかないが、とにかく数匹のボウフラが踊っていることは確か。すごいものだと感心させられる。
ところで、この子たちを水槽の真横から見るのは初めてなので、上下に行ったり来たりしている様をじっくり観察していると、

動きが滑稽で意外とカワイイ。。。

      

 
この子たち、四六時中せわしなく水面と底の間を往来しているのだが、水の流れに身を委ねてふわふわ浮いている他の生物や、ヒレを使い、水を掻き分けて移動する魚類とは違って、もの凄い運動量だ。
また、空中とは異なって水と云う物質は相当に運動を妨げる抵抗があるから、それに打ち勝って上下に往来することは、並大抵の体力では出来ないだろう。この馬力は一体どこから来るのだ??

それと不思議なことは、ボウフラは肺呼吸の生物だから酸素を取り入れるために水面に浮上するのだが、極めて軽い体重であるにも拘らず、そして水中であるにも拘らず、引力を感じとって水中を上下し、浮上して酸素吸入を行っている。一体、どんな重力センサーを体内に持っているのだろう。

そもそもヒレがないのに、どうやって水を掻いているのかも不思議。一見無駄な動きのように見える彼等のクネクネ運動だが、人間のように気まぐれに動いているわけじゃないから、この運動にはきちんとした理由があるはずだ。体の内外の器官も、或いは体の動きも無駄があれば、淘汰して遺伝は途絶える。ということは、

このくねくね運動、意味のある運動情報として遺伝子上にプログラミングされ、代々に渡って伝承されているということだ。


この動き、恐らく、水の中にあっては相当に効率の良い動きなのだろう。

いい加減、動体視力も著しく減退している小生の目では、その動きを正確には見極められないのだが、頑張って見てみると、水面に向かって移動する時は頭を下にして浮上し、底に向かって沈む時は頭を上にしていることはわかる。つまり、移動する時は尻尾が誘導している様なのだ。また、時折水中で動きを止めている時があるが、その場合は少しずつ沈んでいく。つまり、比重は1よりも大きいということだろう。

この動きを高解像度カメラで高速度撮影して分析すれば、驚くべき何かが発見できるかもしれない。ウミヘビが水中を泳ぐメカニズムについては尾がヒレのように振舞うことで移動できることが解明されているが、ボウフラだって、その運動を流体力学と機械工学をあわせて解析してみたら面白そうだ。ググってみても、ボウフラの動きに関する解析記述は見当たらない。小生、もっとアタマ良かったら水中移動ロボットなどへの応用展開ができそうなんが、なにせバカだから(笑


小学生に戻って、夏休みの宿題の自由研究テーマにしたいな。


小生、高校時代、自慢するほど古文・日本史・美術という学科が苦手だった。嫌いでも成績はいいという教科がある中、この三つは成績も最低だった。だって、生活に関係ないんだもん。どうも、そんな理由で興味が持てなかったのだと思う。

もちろん、はっきり言ってその三つの教科、今でも苦手。日本史など、正直いって「常識といわれること」すら理解も記憶もしていない。知識の差としては、拙宅の子供達がほんのガキンチョだったころから、西暦の年数以外のことについて彼等に負けていた。

美術についても、しかり。まず、描くことが苦手だ。但し正確な描写は好きだから、顕微鏡や望遠鏡で見た通りに書くとかは好きだった。小学校の時、自分の家の絵を描かされた時に、自宅のちゃぶ台とテレビを描いたのだが、アンテナ線と電源ケーブルをそれぞれ書き分け、電源ケーブルにはACコンセントとテレビの間に中間スイッチ(テレビのスイッチが故障し、コタツのスイッチでおなじみの中間スイッチが入っていた)をきちんと描いたので、担任の先生から「細かいところまで描かれてるね」と褒められた記憶はあるが、それ以外に褒められたことは皆無。

だから、美術系は苦手である。見ることもあまり興味が無い。

しかしそんな小生だって、心に残る絵に遇う事はある。ベアトリーチェ・チェンチがそれ。フェルメールの作品である、あの有名な「真珠の耳飾の少女」のモチーフになったと言われる作品。


この絵に描かれている人も作者もこれまで全然知らなかったが、描かれている子がちょー可愛い子であることと、それとは別になんとも言えない翳りみたいなのが感じられて、以前からこの絵だけは知っていた。

微笑んでいるというわけでもなさそうだし、怒っているわけでもない不思議な表情。

しかし、最近になって、ベアトリーチェの悲惨すぎる生涯や、特にターバンを巻いている驚くべき理由を知って愕然となった。

その話、マジすか??知らなかった方が良かった。。。

それ、最近になって後付された話であるという説もあるようだが、しかし、そもそもそういう時代背景の中で生まれた作品なんだろうし、とにかく「カワイイだけじゃない」というところが刺さった。翳りを感じさせたのはそのせいだったのかもしれない。

日本の道路標識は、ある意味、難解なロールプレイングゲーム並みに解読不可能なところがやたら多い。なぜなら、その土地を知っている人のための標識となっているとしか思えない、つまり、初めて訪れる人のための標識とは思えないものがたくさんあるからだ。


拙宅のあるところには国道17号線という道路があるが、この17号線、実は4本もある。しかも、ある地点では17号線同士が互いに交差しあい、別のところでは全く独立したまま2本が並行に走る。また一部においては17号線が二つに分岐して別の国道と合流し、その区間では国道が16号と名前が変わる。
「17号線を道なりに進めばよい」というアドバイスで走っている人はパニック必至。



これまでも17号線が3つあったのだが、最近開通した道路にも17号線という名前がついた。これにはもう、驚くというより笑うしかない。同姓同名の生徒がたくさんいるクラスの担任先生の苦労が想像できるというもの。


こんな状況だから、自宅のある場所を説明する上で道路名で説明することが出来ないのだ。「国道17号線を北上してxxxという交差点を右に」と説明したところで17号線が4本もあるから「一番右の」とかいう追加情報がないと、まともにくることが出来ない。



それと殆どの道路に名称が無いので道の説明を行う時に、「xx通り」という説明が出来ない。おまけに住居表示もてんでバラバラだから、幸いにして目的近辺に到達できたとしても、現地でうろつくこと甚だしい。

こんなの、どうです?どこに向かう道なのか??鳩山に行きたい人だけの看板。こういう看板、税金で作られているのだから、納得いかないよねぇ。




カーナビがあればOKとか、そういう話じゃない。バイクで行く場合などはカーナビなんてないから(高価なバイクは別でしょうけれど)、頼りになるのは道路標識のみ。そんなときに、同じ名前の道路が4つもあったら、たまったもんじゃない。

そもそもカーナビを前提とした行政とは如何なものか。



小生、他の国の事情について詳しくは知らないが、日本の道路標識、はっきり行って先進国の道路標識としては恥ずかしいレベルだと思う。



米国の場合、道路標識は極めて合理的だ。そもそも住居表示が道路名であるため、総ての道路に名称がついているから、道路名だけで目的地の場所が大体見当がつく。しかも、幹線道路の様に長い道路の場合には、交差点を挟んで道路の名称が変わるので、目的地の位置を特定するためには大変好都合だ。因みに住居表示も、左側が奇数、右側が偶数となっているので目的地に到達することが簡単に出来る。



米国では、道路名称がたびたび変わるため、最初は戸惑うが、システムの仕組みを理解できれば大変合理的であることが分かる。目的とする場所のある道路を走っていて、ある交差点を過ぎて道路名称が変わってしまったら生き過ぎということだ。しかも、総ての道路に必ず名称がついていて必ず標識が出ているから、自分の位置を特定する上で便利なこと、この上ない。

また、交差点で運転席から正面に見える標識は、交差する道路の名称となっているので、事前に右左折する道路を把握できる。

こんな矢印だけの標識なんぞ、何の意味があるのかさっぱり分からない。こんなのに税金使っているんだよね?
正直、日本の行政の頭の悪さが露呈していることに他ならないと思う。


しかし、考えてみると、

こんな道路標識でちゃんと目的に行けるということは、ある意味、日本人はもの凄く勘が鋭いのか、或いはこんなロールプレイングゲームを屁とも思わない忍耐強い民族なのかもしれない。

海外からたくさんの方々が日本国内製造品を調達するために来日している。なぜなら、品質のよい製品が欲しいからです。一方、日本人は、原産国を問わず血眼になって激安品調達のために奔走している。そして、こともあろうに粗悪品をつかまされれば「騙された」とばかりに吼えまくる。

激安品を買った人に聞きたい。そういうリスクを覚悟で激安品を買ったんじゃないの?

日本国内製造品は確かに高品質だ。スマホから煙が出たりテレビが爆発したりしない。そういう事件、海外では実際にあったことです。だから海外からの客人はそういう危険を避けるために、わざわざ、しかも高価な日本製品を買いにくる。何故なら、実際に苦い経験をしたか、見てきたからだ。

そういえば、小生、近隣諸国だけじゃなく米国でも結構ビックリするほど当たり前のことが出来ていなくて、憤慨したことが何度もある。ホテルもレンタカーもしかり。しかし、今は、安いところだったから当たり前だったのだ、と理解している。その後レンタカーは必ず日本車を借りる様にしているし、ホテルも気心知れたオーナーがいるホテルを定宿としている。これも、ある意味ノウハウだ。

先日、小生の仕事仲間が米国からの客人の依頼で、客先同行訪問の後、秋葉原へお連れした。その時、その客人の取った行動は、Made-in-Japanと書かれたBD-RのDiscを買いまくったということだったそうだ。いわく、「友人からも頼まれている」。

彼等が日本製品に期待することは、当たり前のことだが、「ちゃんと動くこと」と「壊れないこと」です。

BD-Rなど、要はエラーを起こさずに書き込めて、書かれたデータが保持できればよいのだ。それ以上での機能は求められていない。日本製品にはそれができるはずなのだが、肝心の日本人は安ければ良いという価値観で走り回る。


そういう激安嗜好に走る日本人に対して答えを用意するとすれば、いまや2つしかない。

1)高付加価値と称し、一生に一度も使わない機能を「てんこ盛り」して価格を見え難くすること。

とはいえ、高付加価値だから値段が高くてもよいというわけにはいかないために、おのずから高付加価値/低品質への道を歩むことになる。多くの日本人は、高機能のものは高品質であると既に勘違いし始めている。この二つは全く別なはず。

2)品質を落としてでも激安に対応すること。



実は、百戦錬磨である海外からの客人はこういう浅はかな作戦をきっちりと見抜いている。だから、「最低限必要な機能がきちんと動き、ずっと壊れないもの」を求める。



こうした中、日本の製造業は瀕死の状態にあり、生き残るための手段として、お家芸である高品質を捨てることも覚悟し始めているかもしれない。そうなったら、日本品質という言葉は近い将来に伝説化してしまう。。。

低消費電力と小型軽量化。そして長期に渡って故障しないこと。

これが備われば、売れないわけが無い。

しかし、今日、「日本企業、生き残りのために日本市場から撤退」そんな新聞見出しが見え隠れし始めた。

こういう状態を阻止するために何をすればいいのか。一つ一つの企業に対して、高品質のものを作り続けなさいといったって、言うことなんか聞くわけが無い。売れなかった時のリスクは誰がとるんですか、と。

日本では風が止まって久しい。だから、たくさんの船が漂流してしまっている。

今、政治が行うべきことは、風を起こすことだ。

ひとたび風が吹けば、すべての船は同じ方向に舵を取ります。一つ一つの船に舵の方向を指示する必要など無い。風も起こさずに税金を取ろうなんて政治のすることじゃない。

昔から、風が吹けば桶屋が儲かると言う言葉があるが、政治やっている人たちには、風が吹けば「黙っていても」税収が上がるということを分かって欲しいです。

以前、あるシンポジウムで東京大学先端科学技術研究センター の西成教授による渋滞学の講義を聴講している時、そこで述べられていた「テント写像」にはぶっ飛んだ。

これこそ、正しく「目からうろこ」

テント写像とは、カオス性をもつ写像のことを言うが、次の様な繰り返しをコンピュータに計算させると、とんでもない値が出るというのだ。

小生、特にコンピュータ崇拝者というわけではないが、学生の頃の専攻が電算機工学(メチャメチャ古い言い方だなぁ)だったし、その後もマイクロプロセッサ技術に拘っていたことから、コンピュータにはかなり感化されている(されてしまっている)。

とはいえ、シミュレーションのデータを盲信するほどバカではないつもりではあるが、それでもたたき出されるデータについてはかなり信じる方だろう。そんな小生だったが、コンピュータはごく単純な計算であっても、繰り返しを行う場合に間違った数字を出すことがあるということを知り、ある意味愕然とした。それがテント写像である。

例:
ある値があって、その値が0.5よりも小さければ2倍する。
その値が0.5かそれ以上であったら、その値を2倍して2から引く。
これを繰り返す。


例えば、

・ ある値が0.1とすると、その値は0.5よりも小さいので、2倍されて0.2となる
・ その値は0.5よりも小さいので、2倍されて0.4となる
・ その値、つまり0.4は0.5よりも小さいので、更に2倍されて0.8となる

・ 
の値、つまり0.8は0.5よりも大きいので、(2-0.8x2)が計算され、0.4となる
・ その値、つまり0.4は0.5よりも小さいので、2倍されて0.8となる

・ その値、つまり0.8は0.5よりも大きいので、(2-0.8x2)が計算され、0.4となる
・ その値、つまり0.4は0.5よりも小さいので、2倍されて0.8となる

・ その値、つまり0.8は0.5よりも大きいので、(2-0.8x2)が計算され、0.4となる 

こう言った処理を繰り返すと、誰が見てもわかるとおり、その後は0.4、0.8が繰り返される。 

はずなのだが。。。

実際にコンピュータでこれを繰り返して計算させると、ある回数の計算を繰り返した後に、その値が0になるというのだ。

マジすか??

そこで試しにエクセルを使って、実際に計算を繰り返させてみた。計算式は簡単だ。次のようにすればいい。

IF(ある値<0.5,2*ある値,IF(ある値>=0.5,(2-ある値*2)))

これを用いて計算を繰り返させたら、なんと途中から計算が狂いだし、56回目の繰り返し時点で、

本当に0となってしまった。






人間は、繰り返しを行っているうちに法則性を見出せるので、上の例であれば0.4と0.8が繰り返されることが判る。しかし、ひたすら計算を続けるコンピュータは、誤差を生むらしい。

こういうことを考えると、

コンピュータのシミュレーション結果は、飽くまでも予測であるということだけではなく、シミュレーションそのものに限界があるということをしっかりと認識した上で、はじき出されたデータを評価する姿勢が必要ということが理解できる。