プロムナード -35ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま


普段、見慣れている地図も、あれこれひっくり返してみると、

これまで見えなかったものが見えてくる。


物理的な位置関係はもちろん、現在の日本列島やそこに帰属している島々の位置を俯瞰してみると、政治的、或いは経済的な事情や思惑といった奥深い事柄までが見え隠れする。

自分のいる位置から目線の方向に地図を回転させてみるとという行為、実はカーナビで誰しも経験がある行動なのだが、日本列島そのもの、更にアジア全体といった規模で地図をぐるぐる回すという行為は、意外としていないかもしれない。

小生、昔から地図を眺めるのは好きで、学生の頃、アンケートなどの愛読書という項目に「地形図」と書いたりもしていた。実際、趣味の一つである洞窟探検も、実際に洞内を踏襲しながら平面図や断面図を作って報告書をまとめるということが大きなテーマの一つでもあったので、地図への思い入れは、また格別でもあった。そもそも洞窟を探し出す(通称、山狩りともいう)ためには、事前の地質調査が必要であり、実際の山狩りに行く前には調査探検対象地域の地質図を入手し、それらを拡大したり縮小して地形図に書き込んでは、仲間内であれこれと協議したものだった。

しかし、思い起こしてみると、小生等もあまり地図を回転させるということはしていなかった。もともと、地形図をみて付近の地形、特に山の形を想像するという訓練はしていたので、湧水の流れに伴って地図をぐるぐる回転させてみれば見える山の形も変わってくるために、洞窟を胚胎している「アヤシイ」地域が見えるようになっていた可能性もあったかもしれない。

とにかく、まずは地図を回してみよう。

アジア諸国から見る沖縄

上の図は、通常の地図をひっくり返し、沖縄を中心としてアジア諸国との位置を俯瞰してみたものだが、こうやって見てみると、沖縄が位置する場所の重要性が痛切に理解できる。

また、アジア諸国から見た場合、日本の位置を大地震の津波防波堤とみているとか、逆に大洋に出る場合のウザイ位置にいるとみているとか、そんなことも推測できる。

しかし、先の沖縄の位置を見ると、そういう次元の話を超えて、東アジアの中心としてのHUB的な役割を担える大変重要な場所にいることが理解できよう。グローバルな視点に立ってアジアを活性化させることを鑑みると、今の沖縄に対する政策はあまりにもお粗末な気がする。

とにかく地図を回転させながら世界を見ることは意義深いと思う。例え回転させなくても、どこを中心として見るかによって、地図は大きく様変わりする。アメリカを中心と考えれば、日本はFar East、つまり東の端っこにいる小さな島国なわけだし、四の五の言おうが、それは事実だ。つまり、話の中心をどこに置くかによって地図の描き方や見方は大きく異なってくる。聞いた話ではあるが、米軍関係者は東アジアの地図を描かせると、沖縄を四国よりも大きく描くらしい。

我々、日本地図は見慣れている。当たり前だ。しかし、それを回転させてみたり、或いは視点を少しずらして客観的に日本を眺めて見れば、隣国が日本をどう見ているのかについて見えてくる。隣国と協調しあう上で、それを認識することは大変大きな意義があると考える。

相手の立場に於いて自分がどう見えているのか、それを俯瞰的あるいは鳥瞰的に眺めることは極めて大切だ。

本当の意味でのグローバル化はそこから生まれる。


世の中には理系の人間と文系の人間がいるといわれている。
下記のレシートに記載されている文言、どちらの人が書いたんだろう?


「ご使用の前に必ず動作確認を行って下さい」??


これ、言いたいことは理解できるが、

・  動作確認を行うためには使用してみる必要がある
・  しかし、動作確認以前に使用することを禁止している
・  一方、使用することによってのみ動作の確認が可能である

結果として、「動作確認を行うためには使用する必要があるにも拘わらず、使用が禁止されているので動作確認が出来ない」という、デッドロック状態を引き起こす。

恐らく、品質管理的に言えば、不良品発生時期の傾向を表すバスタブカーブ上のinfant mortality(初期不良)を検出するために「本格稼動を行う前に試運転してください」と言いたかったのだろう。従って、書いて欲しい内容を決めたのは理系人間だと思う。書いた人が理系だったか文系だったかは分からないが、書いた内容に論理的な矛盾があることについて理解していなかったことは想像できる。

論理的な矛盾と、文章に於ける文法的な矛盾とは大きく異なる。その辺りで理系センスと文系センスが旨くコラボできれば良いのだろう。従って、この場合は「一度動作を確認したあとで、お使いください」ぐらいにしておけば良かったんじゃないだろうか?

ところで、冒頭に書いたように、世の中には理系の人間と文系の人間がいるといわれている。大変単純な分割方法だ。
しかし、本当にそうだろうか?

人間は、意識として相手を差別化することで自我が確立できるという習癖を持っていると思う。自分は「相手と違う」という意識を持つことで自我を保つのだ。これは集団においても成り立つ。実際、たとえ仮想であっても、敵を作ることによって互いを結束させるという政策は、古今東西を問わず組織を存続させるために行われてきた定法でもある。

差別には、国籍、人種、性別、出身地といった物理的に変更できないことや、政治的信条、宗教などの心情的なものまでたくさんの種類がある。差別している方はあまり意識していなくても、差別されている方はひどく意識するもの。その意味、差別している方は、実は相当に罪深いものなのだ。しかし、罪の意識は低い。

「足を踏んだことは忘れても、踏まれたことはずっと覚えている」

人間とはそういう動物なのだから、遺伝子レベルまで継承していってもおかしくはない。

この、「差別したい」、或いは「差別することによって自分を確立したい」という意識は、先に述べた国籍、人種、性別、出身地などの物理的要素が同じであっても発生する。つまり同じ地に住む同じ人種、同じ文化の下でも差別化したいと考える。ゆえに、我が国の様に明確な人種差がない国でも、差別はあった。


一方、現代世界では、更に別の方法で差別を行うようになってきた。

小生、血液型で性格を分けようとする方法は、この一つの例だと考えている。

例え統計的に傾向が表れているにせよ、科学的根拠に乏しいこの分割方法は、生活態度や教育などで変わることのない物理的な区分けであるために、人種差と類似している。様々な行動や考え方を血液型として一絡げにすることは、お笑いネタとしてであれば良いが、人格や性格を血液型で評価するのはいかがなものかと思う。職業や職種を血液型で仕分けるなんぞ、問題外。

更に、冒頭に書いた理系、文系というカテゴライズも、実は体(てい)のいい差別の一つなのじゃないかと、小生は思うのだ。

たしかに理系的な考え方と文系的な考え方というのがあるが、どちらが優れているとかいうものではない。

よく言われる理系人間と文系人間の物事の捉え方の差を表すものとして、「雪が解けたら何になる?」という質問への答えが、理系の人間は「水になる」と答え、文系の人間は「春になる」と答える、などと、まことしやかに言われているが、相当に嘘っぽい。とにかく普通の人だったら、「水」と答えるんじゃないだろうか。うるさい理系人だったら、雪が解ければ「水と、雪に溶け込んでいた塵埃、周囲に伝達する冷熱エネルギーとに分解される」とか、どうでもいいことを真剣に言うかもしれない。

この質問、一説には小学校の入学テストで出されたという話もあるらしいが、「春」と答える子がいたとすれば、類まれなる天才か、こまっしゃくれたクソガキかどちらかなはず。

さて、そんな「どうでもいいこと」をのたまわっている小生は、果たして理系?それとも文系??

人に説明するということ、更に理解してもらうということは、本当に難しいことだ。

ノーベル賞をもらった人について、巷では「世紀の大発見をした」と云った言葉で紹介されることも多々あるが、何が偉いかと云うと、発見したことよりも、発見した内容を「客観的に説明したこと」が偉いのだ。

発見ということは、ある意味誰でもできる。例えば、水と油を容器に入れたら油が浮いたということ、この発見は子供にも出来る。しかし、なぜ浮いたのかと云う説明はきわめて難しい。

「水より油の方が軽いから」

そう気づいた子供は、発見した内容に対して説明しようと試みているから相当に優秀である。しかし、大人の科学的には半分以下の点数となってしまう。

なぜなら、軽いとは何か、浮くとはどういうことか、では軽いとなぜ浮くのか、ということを理解してもらうためには、これらの禅問答みたいな質問に対して、いちいち説明する必要がある。つまり、水に油が浮くということを説明するためには、それこそ万有引力の法則から水や油の分子構造に至るまで、きちんと説明する必要があるわけだ。

「夕焼けって赤いんだ」、子供はそういう発見をする。が、それを説明することは、大人であっても相当にシンドイ。


しかし、

逆に言えば、発見した事象について「第三者が理解できる様な、客観性を持った説明が出来れば良い」、ということでもある。

発見するチャンスは、観察する心を持てば誰にもある。日頃の心がけ次第。ひょっとすると、さっき道端で見かけた現象が、人類を救うことになるかもしれない。

しかし、発見した事柄について、説明しないか、できないか、或いは説明することをあきらめてしまう、そういうことが圧倒的に多いのだ。そこに差が出る。ノーベル賞を取る人は、それをきちんと説明できる。そこが凡人と違う。

科学とは、発見したことがらの真理を見出し、現象の一つとして説明することだ。

科学と云うと、身構える人も多いと思う。昔習ったと思しき数式やワケの分からない論理やらを展開するという学問だと思うから、敬遠したくもなる。もちろん、ノーベル賞とかそういうレベルになれば、説明する側のみならず、される側にも基礎知識や経験が必要だし、理解できるように説明するためには相当の知識がないと困難だし、説明される側にしても相当の「体力」が必要だろう。

しかし、
説明するということは、何も崇高なことでもなんでもない。要は発見した事象について自分なりに理解するということと、それを他人に理解させるだけのことだ。しかも、実はこれ、訓練によってできることなのだ。

親が子供に教えるべきことは、知識そのものよりも、この「説明する方法」だろうと思う。

親が子供に与えようとする知識と云うものは、得てして子供の興味と異なる場合があるから、無理強いすることは良くないが、すべてにおいて親が子供に教えておくべきことは、「説明する態度」だ。これがきちんとできる様になれば、理系や文系といったカテゴリを越えて相手に理解されるようになれる。

子供には色々なものや事象を見せ、たくさん発見させよう。しかしその発見に対し、何故と思わせ、発見した理由を説明させることが大切だ。

説明を行うというテクニック、ないがしろにしていないだろうか?

これ、実は子供に限らないわけだが。

田原総一朗氏がAKBのファンになったことは知っていたが、秋元康氏との対談というのは文句なしに面白いと思ったので、ソッコーで買ってきた。最近は雑誌や参考書以外の本を買う機会が極めて少なくなっていたが、この本は発刊されたと聞いて即買いした。

タイトルに「2時間で、いまがわかる!」と副題がついているが、さすがに2時間は読み切れないものの、逆に2時間程度で読み終えてしまっては勿体ないほど中身は濃い。


この本では、二人がAKB48という共通の題材を使って現代のマーケティングの盲点を鋭く突き、科学的手法を用いて市場を分析することを声高らかに嗤っている。

確かにそういった手法で成功するのであれば、挑戦者は全員成功するはずだが、現実はそうではない。考えてみれば当たり前のことだ。

秋元氏はこの本の中で、そういう手段の盲点として消費者の嗜好が必ずしも反映されてないことを指摘している。つまり、本当に面白いことなのか、消費者が本当に欲しているものなのか、そういうことが分析されていないというのだ。

早い話、市場分析というのはあくまでも客観的データなデータを単に分析しているだけに過ぎないわけで、必ずしも消費者のニーズが反映されているとは限らないということだ。

この本当のニーズを把握するにはどうすればいいか。それには「企画する人が自問すればいい」と秋元氏は語る。企画者が立案した企画が消費者にとって本当に魅力的なのか、対価を払う気にさせることができるかどうか、もしもその答えがNoだったら、ヒットしないと断言する。もちろん産業材ではなく大衆向け一般消費財の話ではあるが、自分を消費者としての立場として考えれば、その通りかもしれない。

このこと、確かに昨今のテレビなどのデジタル機器を見れば一目瞭然だ。本当に必要なのかどうかわからない機能、或いは一度も使わないと思える機能をてんこ盛りしてあげく、「こんなに便利」と訴求して何とか買わせようとするから、消費者にそっぽを向かれてしまうのだ。テレビはこれ以上薄くなくてもいい。色数も今の24ビットで十分だ。3Dでなくても困らない。

本当のニーズと、提供する側のシーズの乖離が著しい。それでいて、「売れない」と嘆くのはお門違いというものなんだろう。

メーカーからの押しつけがましい不必要な機能や過剰な性能に対し、消費者は開発技術者の苦労とは次元の異なるところで辟易しているのが現状なのだ。もちろん、開発者も消費者の一人でもあるからそれに気づいているが、止めることは出来ない。こんなもの作ったって売れないと思いつつ製造し、販売し、もちろん売れず、結果玉砕する。秋元戦略はその様な伝統的手法に対する警鐘であり、新たな技法の提案なのだ。

小生、まさしくそのデジタル家電の分野に携わっているから、この言葉、耳がイタすぎる。。。

そもそもハードウェアが先でコンテンツ制作が後というのは、相当にナンセンスな話ではある。この流れだと、コンテンツをハードウェアの仕様に合わせなくてはならない。いきおい、ハードウェアの制限を前提とするからつまらないものしか出来ないし、例え画期的なコンテンツのアイデアがあってもハードウェアの開発待ちとなるし、さりとてハードウェア開発を促す力もない。そこにヒット商品が生まれる隙はない。

秋元氏はその状態を「料理とお皿の関係」と揶揄する。本来、お皿は料理に合わせるものだと。お皿が先で、それに料理を合わせようとするから料理がお皿の制限を超えられない。まったく同意である。

ところで、秋元氏によると、AKB48は不完全なまま世に輩出したものなのだという。確かに個人個人はもとより、束ねられた組織にしても相当に不完全だ。ただし、それは秋元氏が市場ニーズを鑑みて産み出した戦略に他ならない。

ターゲットとなる若い世代のファンは、最初から完全なものを与えられることに対して抵抗感を持つ。

ファンが求めているもの(こと)は、対象となるアイドルを育てることであり、一緒に成長していくことなのだ。たしかに、それはAKB48の総選挙の結果を見ても明らかだった。AKBらしくないほどルックスが良く、運営や一般人からの絶賛を得たサラブレッドの様な子であっても、選挙の結果として圏外となってしまうことすらあった。

昨今のK-POPを見ても、いわずもがな容姿端し、頭脳明晰、運動神経抜群、もちろん歌手としてのスキルは高いし、つまりアイドルとしての理想形といっても過言ではない。よってファンがたくさんついて当たり前だろう。

しかし、AKBのファンはそういうマネキン人形のような完成形を求めず、脳内妄想と言われようが何といわれようが、とにかく未熟なものを自分で育てたいと考えるのだ。かつて大流行した「たまごっち」みたいなものかもしれない。自分がファンとしてついていくのではなく、ファンとして背中を押し、成長させる。ファンはそういう長期的なプランの実行を妄想として楽しんでいるのだ、と秋元氏は説く。

そういえば、オーディションで落選した篠田麻里子は、まさしくファンが再選させている。

また、同氏曰く「そういう風に背中を押されると、押されたメンバーには徐々に自信が付き、やがては自発光して輝き始める」という。驚くべき相乗効果である。秋元氏はそういった、筋書のはっきりしていないドラマの舞台を作っているといえる。

要は、ファンは自分好みにカスタマイズしたいということなのだろう。考えてみればパソコンにしてもスマホにしても、工場出荷状態で使用するということは殆どなく、必ず自分好みにカスタマイズして使用している。若い世代は、完成されて手の付けられないものには興味を持たない。そこを勘違いすると大失敗をする。秋元氏の実験はこういう前提で行われているのだろう。

どこまでが、それが秋元氏のいう「予定調和」なのかどうかは、その言葉自身の定義が曖昧なので難しいが、秋元氏は「奇をてらうということとは違う」と説明している。つまりAKBを実験台としているということではないらしい。ただ、様々な試行をしていることは確かだ。もちろん試行には失敗もつきものだが、それは想定内ということなのだろう。

そういえば、秋元氏の驚くべき試行として「マジすか学園」という画期的なドラマ制作があった。あれはアイドルの主演ドラマとしては、相当に過激でかつ挑戦的だった。

知らない人のために説明すると、「AKB48の面々がヤンキーを演じ、ケンカに明け暮れるというドラマ。その中では、テーマとして仲間の絆というお題目があるものの、ケンカの場面では殴る蹴るは当たり前、果ては死人まで出る」というすさまじいドラマ。フツーなアイドルドラマとは全く違う、それこそ、予定調和をぶっ壊す展開だったことが極めて新鮮だった。

ただし、ぼこぼこにされて血みどろとなるシーンは、さすがに教育関係者から苦情が出たとのことで、再放送では一部カット、もしくはモノクロで放映されていたようだが、オリジナルはそのままだし、DVDはもちろんオリジナル。相当にエグい。

ところが、テーマである仲間の絆というところは見事にまとめてあり、相当に感動的な仕上げとなっていた。また、セリフにも名言がたくさんあったし、「学芸会の延長」という前振りとは別に、かなり楽しめる作品となっていた。

更にきちんと計算されていたこととしては、喧嘩のシーンで椅子や傘といった道具で戦うことはあっても、基本は素手での殴り合いであり、リアルなヤンキーに欠かせないナイフなどの凶器は使わなかったことや、授業中に七輪を囲んでホルモン焼きしても、酒やタバコを吸うシーンは全く出てこなかったことがある。その辺は抜かりがない。ある意味、予定調和の範囲ともいえるのだが。

小生、秋元氏の戦略を「緩いビジョン」と見る。

練りに練った戦略を立案し、それを全うするためには手段を択ばないというマキャベリズムではなさそうだ。むしろ、アンテナに入感してくる信号を瞬時に情報処理して軌道修正を行うとい、風向きに対して敏感に対応するという戦略なのだろうと思う。

飽食となった今の時代、時代が求めていることは、時代が求めていることに対して的確に回答を提供することなのだろう。
秋元氏はその回答をAKBという形で世に出したといえる。

物理学的でいう、「慣性系で考えると、各々の位置で時間の流れは異なる」ということだ。我々はまさしく4次元にいるわけだから、慣性系の中に存在している。であれば、相対的に時間の流れが異なるのはアタリマエ。

この流れを原理原則で考えると、かなり単純なことの様な気がしてきた。


 『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN  少女たちは涙の後に何を見る?』 

映画のパンフレット


やたら長いタイトルなので書くのも難儀するが、ドキュメンタリものとしては秀逸な作品である。

ただし、AKB48のことを相当に理解していないと、ストーリ展開についていくのが厳しいかもしれない。最低でも選抜メンバー程度の顔や名前はもとより、内部での立ち位置や上下関係について、それなりといえども理解しておく必要はありそうだ。
映画では、メンバーによるコメントが次々と出てくるのだが、そのコメントのバックグラウンドを理解しておかないと、意味合いが理解できないだろう。尤も、コアなファン以外は、おそらく見ることはない映画でもあるが。

逆にそれらを理解していれば、メンバー間の人間関係はもとより、メンバー個人の人生観などを垣間見ることができるので、最近ファンになった人や、AKBとは何か、といった研究を行いたい人にはお勧めな映画だ。

本稿、思いっきりネタバレとなるのだが、元来ドキュメンタリーものの映画の場合、そこに描かれている内容は過去の事実情報なので、書くとしよう(以下、敬称略)。

前作の「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」という映画が、その試写会をみた秋元康に「AKBって大変なんだな、と思った」と言わせしめるスポーツ根性風の仕立てであったのに対し、今作は「これでもか!」と言わんばかりの残酷物語仕上げとなっており、見ていて相当にイタイのであるが、競争世界の成功裏には悲話がつきものだから、そこにもフォーカスするということは全体像を正しく認識する上で、ある意味必須だろう。本映画はそのネガティブ部分にフォーカスした作品となっている。


本編のテーマにある「涙の後に何を見る?」の問いかけは、大きく5つのカテゴリでビジュアル化している。

1.センターの孤独感
センターというポジションはメンバーにとって如何に憧れであるか、しかし、その実態は想像以上に孤独な立場であるということが、プロローグとエピローグできちんと説明されている。

恐らく、というか間違いなく、センターポジションは実際に立ってみないと判らないことがたくさんあるはずで、センターはボーリングでいえば先頭ピンの位置にいるというピラミッドフォーメーションのトップであり、「自分の後ろに大勢の仲間がいてもそれは見えず、一方、スポットライトを浴びているので前にいる観客の姿も見えない」と云うナレーションを伴いながら、映像を通じて観客に実体験させるエピローグは、センターの持つ重圧感を十分に表現していて見事だ。センターなんぞ誰にでも出来るものじゃない、しかし、それにチャレンジさせることで開花する人もいるということを、この映画はしっかりと物語っている。

その意味、その重圧感の下に6年半もセンターを努めた前田敦子は、本当にエラかったんだなと思わせて余りあるものがあるし、一方、前田敦子を起用した運営側には、見事なまでの選球眼があったことも確かだ。

しかも、あれだけの競争社会にあって、誰も前田敦子を引き摺り降ろそうとしなかったということは、ある意味オドロキでもあるが、絶対的な存在ということは、つまりそういうことなのだろう。実際、大島優子はインタビューの中で「(前田敦子は)、唯一無二の存在だった」と語っている。

東京ドーム公演を終えて秋葉原に帰ってくる前田敦子を迎えるために、秋葉原の街角には至る所にポスターや看板が並べられた。更に秋葉原駅ビルには、ちょー特大のポスターが貼られ、その日の秋葉原の街は異様に沸き立っていた。因みに小生もそこにいた一人だ。

そして、アタリマエのことなのだが、卒業公演が終わった翌日にはそれらのポスターや看板はすべて撤去され、秋葉原の街はいつもの街に戻った。

映画の中では、前田敦子が卒業した日の夜、駅のシャッターがしまっている深夜に、業者達によってそのポスターが破ら剥がされていく様子が描写されている。そのシーンは、「ひとつの時代が終わった」ということを暗黙に物語る。夢の世界から現実に戻ってくる瞬間だ。

寂しくもあったが、あの場面はまさしく「涙の後」に続く次章へのモノローグでもあったわけだ。


こうして、前田敦子の卒業式は終了していったのである。

2.恋愛禁止条例
本映画の「涙の後に」というテーマの「ネガティブな部分」でもある恋愛禁止条例に関しては、様々な議論があり、小生の考えについては先日のブログでも述べたので、ここではそのことについて蒸し返すことは控え、映画に登場する当事者等の言動や行動について述べる。

そもそも、先に述べた様に、この映画は「これでもか」と言わんばかりの残酷映画でもあるが、その大半はこの条例によって処分されたメンバーのことを言っている。

しかし、メンバーが恋愛禁止条例に違反したことによって数々の解雇通達を行い、かつその発表を行っていたAKB支配人の戸賀崎智信が、平嶋夏海と米沢瑠美によるファンへの謝罪を行っている舞台の裏で嗚咽していたシーンは、極めて衝撃的だった。そのあたり、管理側にいる側の人間性も映画の視聴者に伝わるような配慮がなされていることも、ドキュメンタリ映画として手抜きはない。

平嶋夏海と米沢瑠美による謝罪場面で、指原莉乃は「見ていられない」といって逃げて行った。その後、指原が過去のことであったにせよ、同等のコンプライアンス違反を犯していたことが発覚してHKT48に左遷となったことと照らし合わせてみると、身に覚えのある指原莉乃が平嶋夏海と米沢瑠美の謝罪現場を逃げ出したときの心情は、手に取るようにわかる。

一方、菊池あやかは、自身が条例違反の罰則で解雇となり、再度オーディションを受けて再復帰したという稀有な経歴を持つ「つわもの」だけに、また、復帰後も多くのバッシングを受けつつも、「涙の後に」立ち直って来たことなどから、指原への処遇について「甘い」と一蹴している。これは、かつて処分を受けて去って行ったメンバー達の率直な気持ちを、菊池あやかが映画の中で代表として訴えていると考えることができる。

ただし、所属事務所との関係、或いはAKBという組織に於ける立場や人気度といった事情によって処罰内容が異なるという事実は、条例そのものや処罰方法が不透明であることに起因しているためだろうし、いきおい、指原莉乃の処遇についても、いわずもがな公明正大とは言い難いのも事実だ。従って、そこにいわゆる「大人の事情」という要素が介入しているということは想像に難くない。

その後、指原莉乃は稀なるサービス精神を活かして、自分よりもずっと年下で未経験者ばかりのHKT48のメンバーに対し「タブン、イヤだと思うけど、仲良くしてね、よろしくお願いしまーす。私が来たことで、そんなに悲しまないで」と愛嬌を振りまき、斜に構えるHKT48に溶け込むことに成功しているし、過去を肥やしとして成長している姿は立派だ。芸能人として生きて行くためには、それぐらいの度胸や根性がなければ務まらないことを、指原梨乃はきちんと伝えているし、映画タイトルである「涙の後に何を見る?」の答えがそこに描かている。

指原莉乃同様に、増田有華も条例違反のケースとして犠牲者となったことも記憶に新しい。映画の中での謝罪場面では、朋友でもある大島優子も無念の意を隠さず、さりとて断罪に対して無力であることをはっきりと認めている。大島優子にとっては最大にして最悪の番狂わせだったようだ。

ただし、増田有華の場合は、先の菊池あやかの場合とは少々異なっており、すでにピンとしてオズの魔法使いでのドロシー役に抜擢された経歴を持つこと、またそちらの活動を優先すべく、AKBの最も大きな目標であった東京ドームでの公演をすべて欠場したことなど、AKBへの執着心は他のメンバーよりも薄く、ある意味いち早く自分の進むべき道を見出していたために、解雇処分に対して抵抗することなく自己解決させていったとも考えることも可能だ。

AKBを離れ、自分の道を自分で切り開く。これも将来へパスとして正しい選択の一つである。

3.総選挙
こうした中で、総選挙では毎年恒例の行事として数々のドラマが繰り広げられ、本編でもハイライトとして取り上げられた。
前作のドキュメンタリでは、前田敦子に1位の座を奪われた大島優子が舞台裏で篠田麻里子にしがみついて大声で号泣している姿、普段、ともすれば気丈にも見える大島優子のその姿に、競争世界での熾烈な戦いの本性が見え隠れして大変に衝撃的な映像でもあった。

その翌年、前田敦子は総選挙を辞退する。この番狂わせがどう作用するか、ファンはもとよりマスコミも大変注目した「戦い」だったが、大島優子は見事1位に返り咲き、雪辱を果たした。両手を挙げてガッツポーズをする姿は、前回前田敦子が大島優子を倒して雪辱したときのそれと比較すると、いかにも大島優子らしく、涙の奪還挨拶にも、なにか清々しさを感じさせるものがあった。

しかし、このようなポジティブな涙の裏で、当然のことであるがネガティブな涙も多数ある。不本意な順位に甘んじた高城亜紀などがその例だ。彼女をジャカルタへの移籍を決心させたこと、或いは多田愛佳のHKT移籍もしかり。

敗者が敗者なりに新たな血路を見出すべく行動を起こすことということは、誰もができることではない。業績の思わしくない営業マンが自ら地方への左遷を申し出て、そこを立て直すために苦心することを宣言するなんぞ、並みの神経の持ち主ではできないことだ。あっぱれという言葉以外にいい言葉が見当たらない。大島優子をして、「すごい決心だと思う」と言わせている。また、「AKBと云う文化を世界に広めることになる」とも言っている。

「涙の後の、何か」を求めて世界へ旅立つのも、大きな選択肢の一つだ。

だが、こうした決意表明をする子達とは別に、完全に打ちのめされた子もいた。光宗薫だ。

これまで、「AKBらしからぬ」という、褒め言葉とも皮肉ともいえる類い稀な美貌を持ち、彗星のごとく現れた後に各種メディアに登場し、サラブレッドとして異例の速度で研究生から正規メンバーへと大抜擢されたものの、一般人の持つ価値観と、完成されたものを求めるというより完成させていく、或いはメンバーと共に成長していくという過程を楽しむファンの価値感、またメンバー同士間の和を尊ぶ精神とか、ファンへの直接的なフィードバックを求めるというファンの価値観との相違は大きく異なるものがあり、下馬評とは裏腹に、総選挙で光宗薫は「圏外」という判決を突き付けられた。彼女にとってこのギャップはあまりにも大きく、舞台裏で泣き崩れ、体を動かすこともできなくなったその姿は、あまりにも哀れで悲しい。

その後、体調不良を理由に東京ドームコンサートもすべて欠場し、光宗薫は僅か1年足らずでAKBを去っていったが、映画では、彼女のその後のことは描かれていない。

小生は、このボロボロになった光宗薫が瀕死の姿をさらけ出す場面は、光宗薫に於ける「涙の後に何を見る?」に対する解が描かれていない以上、この映画の中で唯一如何なものかと思う場面だ。

確信犯的にコンプライアンス違反という掟破りをしたメンバーとは異なり、普通に活動をしてきた彼女に、後ろ指を刺されるような落ち度はない。にも拘らず、打ちのめされた姿を晒したままでは、見ているものが消化不良を起こしてもおかしくない。「先が見えないままフェードアウトするメンバーもいる、ということを言いたい」のかどうかは分からないが、映画タイトルの趣旨が、「涙の後に新たな道を血路を見出す」という意味を持つのであれば、このシーンを入れる以上、光宗薫のその後の姿も入れるべきだった。このままでは儚過ぎる。

4.チーム4の解散
意気揚々としていた若年層で構成されたチーム4が、東京ドームコンサートで沸く会場で何の前触れもなく唐突に解散発表された。突如として目標を見失った彼女たちの絶望感は想像に難くない。

しかし、先に述べた様に、ファンはメンバーが成長していく過程やそれに加担していくことを楽しんでいるのであれば、チームの解散はほんの序章に過ぎず、試行錯誤そのものは、むしろ歓迎すべきことだ。いみじくもリーダーの大場美奈がメンバーに語ったように、チーム4が解散してもAKBのメンバーであることには変わりはなく、新たな展開の道を探ればよいことなのだ。これこそ、「涙の後に何を見る?」のタイトルに最もふさわしい、発展的解消に他ならない。

そうした中で、チーム4の島崎遥香がじゃんけん選抜でセンターを射止めた後の公演に先立ち、不安におののいた。大島優子は「若い世代の子達って、あんまり泣いている姿を見ない。何が悔しくて、何をバネとして頑張るのか、よくわからなかった」と、それまで若い世代と自分達の世代との価値観の相違のようなものを感じていたと語ったが、それでも、
「ぱるるが泣いている姿を見てちょっと安心した」とコメントしている。喜びも悲しみも、そして苦しみも経験してきた先輩としての指導への使命感が感じられて、見ている方も少し安心するシーンでもあった。チーム4はまだまだ未熟だったし、独立独歩させるには時期尚早と判断した運営の考えは、まずは正しいと考える。

解消の涙の後には、発展的な何かが絶対あるはずだ。


5.板野友美の卒業宣言
初期メンバーであり、かつまた世代を問わず女性からの支持も圧倒的に多い板野友美の決意を表明させる舞台が映画の中だったというお膳立ては、はっきり言って失敗だったと思う。

総選挙で順位を落とした悔しさを爆発させることなく内に閉じ込めて封印し健気に活動してきた板野が最も欲しかったのは、ファンからのナマの支援や応援の声だったはずだ。映画での発表は一方通行であり、板野には何も伝わらない。数々のバッシングの中でなんとか歯を食いしばってマイペースを保ってきた板野と言えども、卒業発表をする自分に対するファンの声は、直接聞きたかったことだろう。

また、たまたま偶然、峯岸の不祥事件が板野の決意表明ニュースを思いっきり薄めてしまったことを見ても、不本意ながら板野が不運で幸薄く見えてしまうのだが、しかし、
卒業発言をしている時の顔には、飽くまでも板野友美らしいクールさが感じられた。

Give me Five!の歌詞にあるように、

卒業は出口ではなく入口であり、新たなスタートラインだ。



ドキュメンタリの内容はこのような具合だった。問題を自ら克服するために葛藤する姿は、ある意味、生々しく、そして哀れでもあるが、AKBを知る人にとっては裏事情も含めて大変参考になる映画だと思う。

今後、メンバー達は恋愛禁止条例違反も含め、様々な問題に直面するだろう。小生は握手会はおろか、シアターにもコンサートにも行ったこともないが、それでもAKBに対して理解を持つ大人の一人である。今後も、おそらくメディアを通じてしかコンタクトする機会はないと思う。しかし、彼女たちの更なる発展に対して、これからもエールを送らせて欲しい。

以上


映画、『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』が2月1日に封切りとなり、初日に足を運んだ。具体的な内容についてはネタバレとなるから述べないが、AKBを知っている人なら誰でも知っている出来事が並んでいる映画だ。おりしも峯岸みなみさんのお泊りスクープで大荒れとなっている最中での封切りだったから、高橋みなみさんの舞台挨拶も、いきなり重たいスタートから始まった。


この映画のテーマの一つは、AKB48の有名な条例、「恋愛禁止条例」。

昨年一年間だけ見ても、この条例に引っかかって平嶋夏海さん、
米沢瑠美さん、最近では増田有華さんがAKBを辞退(自主的な辞退となっているが、実際には退職勧告があったものと思われる)、そして指原莉乃さんがHKT48への左遷があった。

ここ数日、峯岸みなみさんの事件と、ケジメとしての衝撃的な坊主刈問題、更にそれに対する様々な論議が、こうしたドラマの展開が描かれている映画とも共振し、ファンのみならずマスコミを中心としてまことにかまびすしい。たまたま体罰問題がクローズアップされている時節でもあるので、なおさらだろう。聞けば、海外33カ国でも取り上げられるほどの話題となっているとのこと。日本人のケジメについて、かつての切腹まで含めた文化比較論まで展開されているらしいので、この事件の影響力は巷の想像を超えるものがある。 



くだんの事件、この恋愛禁止条例という、実は極めて曖昧な条例がもたらす功罪によるものに他ならないのであるが、原則論から言えば、この条例が組織を運営鵜する上で必須であるという条件下において、ルール、或いはコンプライアンスとして定められたものであるならば、メンバーたちが条例を定めた組織に所属している限り、それを遵守することは必須だろう。
幼い子供達には難しいことかもしれないが、組織活動を行う上では教育すべき重要な事柄だ。

ただし、どの程度遵守すべきか、というか、そもそも恋愛に関する明確な定義は無さそうなため、その解釈に関するブレが当事者間で生じてもおかしくないことも事実だろう。実際、秋元康氏も、恋愛している時間なんかないんじゃないかということは言いたいものの、「恋愛禁止と名言したことはない」とラジオ番組で言ったという。つまり、ある意味、取り決めとしてのルール程度なのだろうと思える。


また、処遇、つまり罰則についても、本来、組織運営側としてはコンプライアンス違反を起こしたものを解雇することによって禊を済ませると云う方法もあるにはあるが、条例の違反に対する罰則が明確でない場合には、いきおい、かなり緩い処遇を取らざるを得ないのが現実だろう。


こういう場合には、過去の事例(判例)をリファレンスとして処遇を考えることになると思うが、それから言うと、コンプライアンスの解釈はもとより、違反者が所属する組織に於ける当人の役割によって罰則内容についても相当に違う様にも見えるので、処遇方法の決定は困難さを極める。


但し、コンプライアンス違反をしたことが事実であるならば、まして条例を理解した上での確信犯となれば、謝罪はもとより何らかの罰則は必要だ。そうでなければ、これまで同様の違反を行ったことで離れたメンバーに対する示しがつかない。また、離れた(離れさせられた)メンバーと同様の位置にいる現在のメンバーに不公平感を募らせないためにも、適切な罰則は必要である。

しかし、処遇方法については、そこにファンの意向も組み入れる必要もあろう。


掟破りは、運営側の思惑からすれば大問題なのかもしれないのだが、法律によって裁かれるような人の道を逸した行動ではなく、組織運営を円滑に行うための「緩く定めた程度」であるコンプライアンスならば、その掟破りに対する処遇は、運営判断だけでなく株主であるところのファンに裁断を仰ぐか、少なくともファン意見を参考とするという方法もあったのでないか?



坊主刈にしてでも、AKBに留まりたい。その心意気は理解できるとしても、少なくともコンプライアンスに違反していることは十分に承知の上、すなわち確信犯として行動を起こしたことは事実なのだから、組織に留まれるかどうかは本人の意思で決まることではなく、彼女を支えているファンが決めることだろう。それに委ねることが正しい。これまでの総選挙の例を挙げるまでも無く、AKB48という組織はファンの意向や嗜好に迎合させながら成長している組織なのだから、今回の件、ネットを通じるにせよ何にせよ、要はファンの声を反映させた上で処遇を決定しても良かったと思うのだ。


それよりも、今回の処遇について小生が一番不可解なことは、峯岸みなみさんが自己判断とはいえ坊主刈するといったことを容認し、更にはそれをネタとして扱った運営側の対応である。



坊主刈にするという、若い女の子にとっては、ある意味リストカットに近い行動に出るということも、「予定調和を崩す」という趣旨から、実は秋元氏を含む運営側はその行動を黙認したのではないかと、小生は考えるのだ。もし、本当に坊主刈について、事後まで何も聞いていなかったということだとすれば、運営側のプロデューサーとしての組織把握や管理能力などの手腕が問われても仕方がない。


つまり、たとえ筋書きがなかったにしても、小生、ことが発覚してからの一連の事件の流れを見ると、ある意味、ドラマ仕立てに見えて仕方がないのだ。先に述べたように、坊主刈事件に対してはAKBの姉妹グループが活動している近隣諸国以外にも、アメリカヨーロッパなど、AKBとは殆ど縁のない国まで含めた世界中が関心を寄せているという。この事件、そんなに大きな事件だったのか。世界のマスコミが率先して書き立てるほどの事件だったのか。そう考えると、誰かが各国のマスメディアに対して意図的に情報を流したとしか思えないのである。



ところで、恋愛禁止条例についてだが、確かにアイドルにはリアルとバーチャルとに拘らず、イメージとしてのバージニティは必要だろう。小生はアイドルたるもの云々とかいう、いわゆる「べき論」はともかく、もしも恋愛禁止条例によって組織が成り立っていて今日の様な業績を産んでいるとすれば(AKB商法といわれているが)、条例の有効性は否定できないと考えている。故に、それに従えないのであれば、さっさとやめて独立するか引退すればよい。篠田麻里子さんがドキュメンタリ映画の中で「今、AKB48という組織にいる中で、素敵な人が現れたとしても、それは運命的な人ではないと思うことにしている。運命的な人は、AKBを卒業してから現れると考えている」と言っていた。また、高橋みなみさんも、「普通だったら、恋愛ってみんなが応援してくれるけど、今の立場だったら誰も応援してくれない。そういうものだと思う」と言っている。その通り。組織にいる以上、その組織のコンプライアンスには、たとえ理不尽だと思っても従うのが定法。アタリマエのことだ。そうでなければ組織が成り立たない。くどいようだが、それに従えない、或いは従いたくないなら組織から離れればいい。そういう決断があってもおかしくないし、コアなファンであれば応援続けるだろう。

AKB商法とはそういうものだ。法に背くことなく条例が奏功して稼いでいるのであれば、海外でもこの商法が
禁忌対象となることなく成功しつつある現状を見ても、勝者であることに代わりはない。運営は敗者の遠吠えに迎合する必要はない。四の五の言わず、認めるべき。それが競争社会の原則だ。



しかし、先に述べたように恋愛の定義が緩すぎる。
感情としての恋愛については、年ごろの女性として当たり前の感情として持つものだから、それを真っ向から否定するのも如何なものかとは思う。まして、恋愛を歌う立場にあって、恋愛の感情を実体験していないというのでは、歌の迫力に欠ける気もする。

従って運営側としても、恋愛禁止条例とは、プラトニックな恋愛感情を抑制させる条例というより、むしろ性行為を禁止する条例としたいというところが実は本音かもしれないが、若年層もたくさんいる組織にあっては、そういう即物的な表現ができないところが悩みどころか。


今回の事件、意見が分かれるところは、プラトイックな恋愛感情を超えた「お泊り」という事実から想像される男女行為を、果たしてファンが容認できるかどうかだろう。たとえ、事実関係としては何もしていなくても、だ。

バージニティのイメージとはそういうもの。商法としてそのイメージを活用して成り立っているのであれば、それを反故にするということは、
いわゆる脳内妄想の世界においては背任行為とも言える。



今後も同様の事件はありそうだ。とにかく、結束力にほころびが出ない様、頑張って欲しい。


<ネタバレあり注意!> 今後この映画を見てみようとお考えの方はご注意ください。

小生のお気に入りの映画の一つに2001年宇宙の旅という映画がある。中学生の頃、学校行事として銀座だかどこだったかは忘れたが、学校単位かクラス単位で、見に行かされた映画だ。

当時の印象としてはストーリがさっぱりわからなかったことや、画像が幻想的でインパクトがあったことぐらいだったのだが、今、考えてみれば、現在の仕事や趣味も併せ、小生の将来を暗示するような映画だった様な気がするのだ。

人類の誕生場面、コンピュータを始めとする電子工学、そもそも探検という行為すらも、小生の価値観や興味対象はあの映画から始まっていた。もちろん、そういったことに対しては映画を見る前から小生の興味対象ではあったのだが、あの映画がある意味直接的なトリガーになっていることは事実の様だ。

まず冒頭の、

「人類の誕生」
何をきっかけとして類人猿が猿人となったか。
それは人類史上の大きな謎のひとつでもあるが、あの映画の中ではうまく描かれていた。相当にベタな演出ではあるが、誕生の説明がキチンとされているから、「そんなものだったんだろう」と納得させるだけの説得力がある。

小生は中学1年の頃から地学部に所属していて、地質や天文に関するテーマに親しんだ。
また、それから転じて洞窟探検をするようになり、大学で有志とともに地底研究部を創立するころには洞窟学の権威諸兄とも交流を持つようになった。古生物学、人類学の先生方とも親交を持った。

小生、実は有史以降の歴史については子供が驚くほど疎く、戦国武将など名前ぐらいは知っていても、誰と誰が戦ったのかとか、そもそもいつの時代のことだったのかなど、ほとんど理解していない。もっぱら歴史の興味対象は、人類有史以前、少なくとも旧石器以前の人類史だけである。

そのあとは現代。それもコンピュータが発明されてから以降だけだ。あの映画に描かれている人類も、猿人の誕生以降と木星探索が可能になった人類の話であり、その途中は割愛されている。まさしく小生の対象範囲と合致している。

「コンピュータの叛乱」
これも今だに人類にとって不気味なテーマの一つでもある。
さすがに2001年を超えた現代でも、彼らの叛乱に遭遇してはいないが、「完全なるコンピュータとは何か」というテーマも含めたコンピュータとの付き合い方については、人類はこれからも悩み続けていくことだろう。

映画の中で描かれていた「人間が与えたミッションを遂行するために、人間を排除しなければならないという矛盾」に悩むコンピュータ、HALの姿は、あまりにも人間的で、ある種のブラックユーモアの様にすら感じてしまう。

とにかく、小生が大学でコンピュータ工学を専攻した根底に、あのコンピュータがいることも確かだと思うのだ。

「ソプラノ、メゾ・ソプラノ、1つの混声合唱と管弦楽のためのレクイエム」
それと、映画を見ているときは臨場感に圧倒されてしまい、バックの音楽まで意識が届かなかったのだが、いくつかのシーンで出現するモノリスにはそのテーマとなるバックミュージックがあった。いや、音というべきか。リゲティと云う作曲家の前衛音楽作品だ。

手元にあるサウンドトラック盤によると、タイトルは「ソプラノ、メゾ・ソプラノ、1つの混声合唱と管弦楽のためのレクイエム」とある。

あのサウンドはまさしくモノリスそのものであり、音楽というより何処かへと引きずり込まれて行く際に聞こえるであろう、ある種の空間音の様なサウンドであって、もしも諸説あるようにモノリスが「神」であるならば、この楽曲とモノリス出現とのコラボは、神秘的という言葉だけでは言い表しきれない緊迫感を呼ぶものだった。逆に言えば、このサウンドはモノリスのためにあるし、モノリスはこのサウンドがあって初めてプレゼンスがある、と言ってしまっても決して過言ではないと思う。

後日、その曲の楽譜を見たときは驚いた。
まさしく前衛音楽の楽譜というやつで、こんなものを作曲した人がいるということにまず驚いたし、憧れもしたものだった。学生時代、小生はロックバンドやジャズのバンド活動をしていたのだが、ジャズのインプロビゼーションに魅かれた理由の一つに、あのサウンドがあったと今でも思う。

       


映画を見た後で買ったサウンドトラック盤

当時はBDとかDVDはおろか、VHSだって無かった時代だから、映画と云うものロードショーが終われば、何処かの場末映画館で再放映するか、TVで放送されるまで見る方法は全く無かった。だからサウンドトラックを聞きながら回想するしかなかったわけだ。

考えてみれば、当時の方が感性が豊かに育てる土壌があったかもしれない。


ところで、先日、海外出張の折に機内のVODでこの映画を見る機会があった。いくつかの新作映画を見たのだが、どれもつまらないものばかり。いい加減飽きたところで、他の映画を探しているときにこの映画があることを知り、久しぶりに見た。

おりしも飛行機は目的地に到着するタイミング。
ひょとすると最後まで見れないかも、と思ってみていたのだが、なんと映画のエンドロールが終了するタイミングと、飛行機が着陸してエンジンを停止するタイミングが、それこそ1秒も狂わないほどぴったりと合ったのだ。

これには我ながら驚いた。神が時間を巻き戻して小生に映画を選ばせ、VODのスイッチを入れさせたとしか思えなかった。再び、何か運命的なものを感じて止まないものがあった。

縁とは不思議なものだ。

人には、その時は気づかなくても、人生を暗示させるできごとが必ずある。小生の場合は、一本の映画だったのかもしれない。





相変わらず寒い日が続いているが、晴れると太陽の光の有難味が体で感じられる。早く日照時間が長くならないかなぁ、なんて思うのもこの時期。尤も、日照時間がいくら長くても気温の上昇とはならないことは、北極や南極、そして北欧の白夜でもご存じのとおり。

ところで、冬至って一日のうち昼の時間が一番短い日であることはよく知られているが、冬至以降は日の出時刻が早くなる、と思っている人は多いかも。。。


ところが、

日の出時刻は、冬至以降も更に遅くなるのだ。


そうだとすると、ますます昼の時間が短くなりそうだが、その代わり日の入時刻がどんどん遅くなるので、相対的には昼の時間が長くなるというわけ。

今期の日の出と日の入りの特異点データは次の通り。

今期の場合、
冬至のとき                    2012年12月21日 日の出時刻は06:48、日の入時刻は16:31。
日の出が最も遅い日は 2013年01月07日 日の出時刻は06:52、日の入時刻は16:43。
日の入が最も早い日は 2012年12月03日 日の出時刻は06:35、日の入時刻は16:28。

つまり、冬至以降も日の出はますます遅くなっているのだが、一方、日の入りの方はそれよりも早い日付から、どんどんと遅くなっている。

実生活に対する影響はほとんどないかもしれないけど、トリビアな知識として知っておいても損はないのでは?









「人間は可能は証明できるが、不可能は証明できない。」


有名な「悪魔の証明」。

最近の日本の国策を見ると、「ないということは証明できない」という悪魔の証明論理を不文律として振りかざしたあげく無策だから、すべてが迷走する。

領土問題にしても原発問題にしてもしかり。

問題を論理に落とし込んで国民に考える隙を与えない。証明できないのだから、策を打つことすら意味がないとする。実はこれ、反則技だと思う。責任回避以外の何物でもないのだ。


かつて、イラクが大量破壊兵器を所有しているという説から米国はイラク戦争に踏み切った。日本は、ときの首相がイラク戦争について「大量破壊兵器が存在しないと証明するための情報がない」ということからイラク戦争を支持するという立場を取った。つまりイラクに悪魔の証明を求めたわけだ。


逆に言えば、「日本にはそういう兵器がないことを証明できるか」と問われ、我国は胸を張って「No」といえるかどうか。これとて同様の「悪魔の証明」を求めることになるのだ。つまり「ないことは証明できない」が「ある可能性も否定できない」となり、果てには「ある可能性がある」と論理をすり替えられたら、日本だって攻撃対象となり得るわけだ。



その証明を求めることは、論理的な矛盾を含んでいる以上、意味がない。しかし問題は、その問題を棚上げにしてしまって無策に走っていることだろう。結果、手をこまねいて成り行きに流されるだけという体たらく。しかし、実はこれ、国策に限らず日本国民が持つある種の道徳に基づいている気もするのだ。

そこに日本の弱さがある。


古来から我が国には「敵を作らぬことが尊い」という考え方や、よしんば出来たとしても敵を追い詰めない「武士の情け」が美徳であるという教育が施され、その伝統が今でも遺伝子に組み込まれていると、小生は思うのです。


日本では「出る杭は打たれる」という。しかし、海外では「軋む車輪は油をもらえる」と言われる。この違いを体で理解できないと、悪魔の証明を超えて行動を起こすことは困難だ。


よく「若い人はどんどん海外に出るべき」というが、これは年配者が自分のことを棚に上げて言っているだけであって、若いかどうかではなく、要はチャレンジしようという気概を持っているかどうかだと思う。何も海外に直接出ることだけが海外を知ることではない。今や居ながらにして海外の状況や動向については手に取るようにわかる時代だ。本気でそれを知ろうとする気構えがあるかどうかなのだと。


武士の情け、小生はその思想について全く否定する気はありません。だが、そういう価値観が海外では土地によってダイナミックに変わるのだということを、直接的な海外との切磋琢磨を通じて体で覚える必要があるのではないかと考える。

その昔、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という強烈なテーゼがあった。

そうです、いまこそ、

悪魔の証明という「書」に屈するよりも、「外」に出よう。日本が取る道はそれしかない。





毎年1月に、米国ラスベガスでCES(Consumer Electronics Show:国際家電見本市)と言う展示会が開催される。世界規模の展示会でもあり、また正月早々の展示会ということもあって日本国内でもニュースで取り上げられるため、ご存知の方も多いと思う。一般客や20歳以下の入場はできないことも特徴だ。要するにプロによるプロのための展示会ともいえる。

          



小生はそのCES展示会には、これまで10年ぐらい連続で参戦しているが、今年の目玉商品である4k対応のTVや、今年になって台頭してきたHEMSなどをベースとしたECO商品展示内容の紹介についてはTVやWebでニュースとなっているので、ここでは流れとして感じられたことを紹介する。この展示会には、今年も15万人を超える来場者があり、相変わらず盛況であったが、実はそこには大きな流れの変化を感じさせるものがあった。


これまで、CESでのデジタル家電の花形であるAV機器展示の主役は日本製品であり、また、来場客のうちの東洋人が占める比率も日本人が最も多かった。その後、日本製品が主役である時代が暫く続いたが、来客の国別構成は少しずつ変わり、日本人に代わり韓国人が増え、その後中国人の比率が増えた。現在では中国人の比率がアジアの中で最も多い。


展示内容については、引き続き日本企業の出展規模は大きいものの、ここ暫く韓国勢の台頭が顕著であり、この数年の間に展示の主役は日本から韓国へと変わってきた。結果、かつては日本企業の展示が圧倒的だったCES展示は、現在は韓国企業の展示が最大規模となっている。つまり、

かつての日本のポジションを韓国企業が占めていると言うことになる。

技術訴求についても同様で、韓国勢による技術開発力はついぞ日本のそれを抜き去り、今回の展示内容を見ても日本企業による技術訴求が貧弱であることに対して韓国企業のそれは圧倒的なものとなっていた。実際、新技術の発表や訴求について韓国企業のそれは極めて攻撃的であり、素晴らしい成果が発表されている。恐らくリソースのかけ方もハンパじゃないのだろう。

下の写真は、失敗作ではない。韓国のSamsungが展示していた3D Multi Displayのデモを裸眼で見た場合という写真だ。よく見ると、2つの画像がダブっているのがわかる。このそれぞれが3Dとなっているので、シャッター式アクティブメガネをかけてどちらかの映像を選べば、選んだ映像が3Dで見られるというもの。当然のことだが、音声もアクティブメガネに付いているイヤホーンで選んだ映像に伴う音声を聞くことができる。


実はこの技術、別に目新しいものではないのだが、「ここまでできますよ」という訴求には十分なパワーがある。来場者をうならせることは可能だ。

CESとは、技術の訴求もさることながら、そもそもバイヤーとの商談の場であるわけだから「目を引かせる」、そういう演出の舞台なのだ。

演出面でも、日本は遅れてしまった。

一方、中国企業も負けてはいない。規模に於いても中国企業の技術開発は頭角を現しつつある。今のところ韓国レベルに追いついていないとはいえ、独自技術を磨き、追いつけ追い越せといった鼻息は十分に伝わってくる。
即ち、中国企業の技術レベルも日本を抜きつつということだ。

一方、中国企業も負けてはいない。規模に於いても中国企業の技術開発は頭角を現しつつある。今のところ韓国レベルに追いついていないとはいえ、独自技術を磨き、追いつけ追い越せといった鼻息は十分に伝わってくる。即ち、中国企業の技術レベルも日本を抜きつつということだ。

この技術開発動向とCESの来客傾向との間には、実は深い相関関係がある。日本企業が大々的に出展していたころには多くの韓国人が訪れ、日本の技術動向を分析し、新たな技術開発に着手、その成果が現在の展示となっている。一方、現在多く来場している中国からの来客は、そういう韓国企業の技術をじっくりと分析しているわけで、今後数年かけて更なる技術開発に従事していくことだろう。

日本、韓国、中国それぞれの技術開発を波を考えると、それぞれの波はあたかも三相交流のそれぞれの波の様にも見える。日本の技術という波がピークを迎えた後、韓国の技術が現在最大値を取っており、中国の技術が次の最大値を取るという位置にいる。そして日本は既に最大値を経て下りの位置にいる。実際、かつて日本のTV技術者と面談した際に言っていたことは「なんとか韓国からの追随を振り切りたい」ということだったが、いまや完全に追い抜かれている。

一般消費者の目から見ても、米国の量販店に於いて韓国勢が優勢であることは既知であるが、今回の展示を見る限り日本の技術訴求が貧弱なものである以上、今後もビジネス的或いは技術的にも世界規模に於ける現在の韓国勢のポジションは変わることはないだろう。展示規模はおろか技術についても、もはや日本は主役でなくなってしまったのである。かつて日本勢がRCA、GE、フィリップスなどの欧米の家電企業を駆逐した様な大きなパラダイムシフトが、再び家電市場で発生しているということに他ならない。

こうした状況下、日本企業はCESで「デジタル家電からエコ関連商品へと車線変更する」という戦略に打って出た。小生が会場で見る限り、これまでは各社ともCEATECで展示されていた様なエコ関連商品の展示は殆どなかったが、今年、日本企業はこの分野での訴求に切り替えた。

この戦略変換の理由はどこにあるのだろうか?


小生は、デジタル家電の、特にTV関連製品については、市場投入されている製品が既に消費者が求める機能や性能に到達してしまっているからなのだ、と考えている。

かつて、消費者が考える「こうなるといいな」的な使用方法は既に現実のものとなった。従って、これ以上の機能を盛り込んだとしても一般消費者のニーズとは離れたものとなってしまうために、消費者が「欲しいとは思わない機能」に対価を払うということは考えにくいことになる。

つまり、今、セットメーカーが提供すべき商品は、今の機能を存続させたまま価格を落とすということしかないわけだ。これは利益を逼迫させ、いきおい、開発への投資を削減させることになる。このスパイラルから脱却するには、少なくとも体力勝負を避けたい企業にとっては、早い話「撤退」するしかないのである。



このエコへの転換が奏功するかどうかは未だ分らないが、AV機器での起死回生が困難と見られる状況下では、正しい選択であろう。但し、、これとて日本がリードをとり続けるという保証はない。韓国勢も同様にその分野にフォーカスしていることを忘れてはならないのだ。