田原総一朗氏がAKBのファンになったことは知っていたが、秋元康氏との対談というのは文句なしに面白いと思ったので、ソッコーで買ってきた。最近は雑誌や参考書以外の本を買う機会が極めて少なくなっていたが、この本は発刊されたと聞いて即買いした。
この本では、二人がAKB48という共通の題材を使って現代のマーケティングの盲点を鋭く突き、科学的手法を用いて市場を分析することを声高らかに嗤っている。
確かにそういった手法で成功するのであれば、挑戦者は全員成功するはずだが、現実はそうではない。考えてみれば当たり前のことだ。
確かにそういった手法で成功するのであれば、挑戦者は全員成功するはずだが、現実はそうではない。考えてみれば当たり前のことだ。
秋元氏はこの本の中で、そういう手段の盲点として消費者の嗜好が必ずしも反映されてないことを指摘している。つまり、本当に面白いことなのか、消費者が本当に欲しているものなのか、そういうことが分析されていないというのだ。
早い話、市場分析というのはあくまでも客観的データなデータを単に分析しているだけに過ぎないわけで、必ずしも消費者のニーズが反映されているとは限らないということだ。
この本当のニーズを把握するにはどうすればいいか。それには「企画する人が自問すればいい」と秋元氏は語る。企画者が立案した企画が消費者にとって本当に魅力的なのか、対価を払う気にさせることができるかどうか、もしもその答えがNoだったら、ヒットしないと断言する。もちろん産業材ではなく大衆向け一般消費財の話ではあるが、自分を消費者としての立場として考えれば、その通りかもしれない。
このこと、確かに昨今のテレビなどのデジタル機器を見れば一目瞭然だ。本当に必要なのかどうかわからない機能、或いは一度も使わないと思える機能をてんこ盛りしてあげく、「こんなに便利」と訴求して何とか買わせようとするから、消費者にそっぽを向かれてしまうのだ。テレビはこれ以上薄くなくてもいい。色数も今の24ビットで十分だ。3Dでなくても困らない。
本当のニーズと、提供する側のシーズの乖離が著しい。それでいて、「売れない」と嘆くのはお門違いというものなんだろう。
メーカーからの押しつけがましい不必要な機能や過剰な性能に対し、消費者は開発技術者の苦労とは次元の異なるところで辟易しているのが現状なのだ。もちろん、開発者も消費者の一人でもあるからそれに気づいているが、止めることは出来ない。こんなもの作ったって売れないと思いつつ製造し、販売し、もちろん売れず、結果玉砕する。秋元戦略はその様な伝統的手法に対する警鐘であり、新たな技法の提案なのだ。
小生、まさしくそのデジタル家電の分野に携わっているから、この言葉、耳がイタすぎる。。。
そもそもハードウェアが先でコンテンツ制作が後というのは、相当にナンセンスな話ではある。この流れだと、コンテンツをハードウェアの仕様に合わせなくてはならない。いきおい、ハードウェアの制限を前提とするからつまらないものしか出来ないし、例え画期的なコンテンツのアイデアがあってもハードウェアの開発待ちとなるし、さりとてハードウェア開発を促す力もない。そこにヒット商品が生まれる隙はない。
秋元氏はその状態を「料理とお皿の関係」と揶揄する。本来、お皿は料理に合わせるものだと。お皿が先で、それに料理を合わせようとするから料理がお皿の制限を超えられない。まったく同意である。
ところで、秋元氏によると、AKB48は不完全なまま世に輩出したものなのだという。確かに個人個人はもとより、束ねられた組織にしても相当に不完全だ。ただし、それは秋元氏が市場ニーズを鑑みて産み出した戦略に他ならない。
ターゲットとなる若い世代のファンは、最初から完全なものを与えられることに対して抵抗感を持つ。
ファンが求めているもの(こと)は、対象となるアイドルを育てることであり、一緒に成長していくことなのだ。たしかに、それはAKB48の総選挙の結果を見ても明らかだった。AKBらしくないほどルックスが良く、運営や一般人からの絶賛を得たサラブレッドの様な子であっても、選挙の結果として圏外となってしまうことすらあった。
ファンが求めているもの(こと)は、対象となるアイドルを育てることであり、一緒に成長していくことなのだ。たしかに、それはAKB48の総選挙の結果を見ても明らかだった。AKBらしくないほどルックスが良く、運営や一般人からの絶賛を得たサラブレッドの様な子であっても、選挙の結果として圏外となってしまうことすらあった。
昨今のK-POPを見ても、いわずもがな容姿端し、頭脳明晰、運動神経抜群、もちろん歌手としてのスキルは高いし、つまりアイドルとしての理想形といっても過言ではない。よってファンがたくさんついて当たり前だろう。
しかし、AKBのファンはそういうマネキン人形のような完成形を求めず、脳内妄想と言われようが何といわれようが、とにかく未熟なものを自分で育てたいと考えるのだ。かつて大流行した「たまごっち」みたいなものかもしれない。自分がファンとしてついていくのではなく、ファンとして背中を押し、成長させる。ファンはそういう長期的なプランの実行を妄想として楽しんでいるのだ、と秋元氏は説く。
そういえば、オーディションで落選した篠田麻里子は、まさしくファンが再選させている。
また、同氏曰く「そういう風に背中を押されると、押されたメンバーには徐々に自信が付き、やがては自発光して輝き始める」という。驚くべき相乗効果である。秋元氏はそういった、筋書のはっきりしていないドラマの舞台を作っているといえる。
要は、ファンは自分好みにカスタマイズしたいということなのだろう。考えてみればパソコンにしてもスマホにしても、工場出荷状態で使用するということは殆どなく、必ず自分好みにカスタマイズして使用している。若い世代は、完成されて手の付けられないものには興味を持たない。そこを勘違いすると大失敗をする。秋元氏の実験はこういう前提で行われているのだろう。
どこまでが、それが秋元氏のいう「予定調和」なのかどうかは、その言葉自身の定義が曖昧なので難しいが、秋元氏は「奇をてらうということとは違う」と説明している。つまりAKBを実験台としているということではないらしい。ただ、様々な試行をしていることは確かだ。もちろん試行には失敗もつきものだが、それは想定内ということなのだろう。
そういえば、秋元氏の驚くべき試行として「マジすか学園」という画期的なドラマ制作があった。あれはアイドルの主演ドラマとしては、相当に過激でかつ挑戦的だった。
知らない人のために説明すると、「AKB48の面々がヤンキーを演じ、ケンカに明け暮れるというドラマ。その中では、テーマとして仲間の絆というお題目があるものの、ケンカの場面では殴る蹴るは当たり前、果ては死人まで出る」というすさまじいドラマ。フツーなアイドルドラマとは全く違う、それこそ、予定調和をぶっ壊す展開だったことが極めて新鮮だった。
ただし、ぼこぼこにされて血みどろとなるシーンは、さすがに教育関係者から苦情が出たとのことで、再放送では一部カット、もしくはモノクロで放映されていたようだが、オリジナルはそのままだし、DVDはもちろんオリジナル。相当にエグい。
ところが、テーマである仲間の絆というところは見事にまとめてあり、相当に感動的な仕上げとなっていた。また、セリフにも名言がたくさんあったし、「学芸会の延長」という前振りとは別に、かなり楽しめる作品となっていた。
更にきちんと計算されていたこととしては、喧嘩のシーンで椅子や傘といった道具で戦うことはあっても、基本は素手での殴り合いであり、リアルなヤンキーに欠かせないナイフなどの凶器は使わなかったことや、授業中に七輪を囲んでホルモン焼きしても、酒やタバコを吸うシーンは全く出てこなかったことがある。その辺は抜かりがない。ある意味、予定調和の範囲ともいえるのだが。
小生、秋元氏の戦略を「緩いビジョン」と見る。
練りに練った戦略を立案し、それを全うするためには手段を択ばないというマキャベリズムではなさそうだ。むしろ、アンテナに入感してくる信号を瞬時に情報処理して軌道修正を行うとい、風向きに対して敏感に対応するという戦略なのだろうと思う。
練りに練った戦略を立案し、それを全うするためには手段を択ばないというマキャベリズムではなさそうだ。むしろ、アンテナに入感してくる信号を瞬時に情報処理して軌道修正を行うとい、風向きに対して敏感に対応するという戦略なのだろうと思う。
飽食となった今の時代、時代が求めていることは、時代が求めていることに対して的確に回答を提供することなのだろう。
秋元氏はその回答をAKBという形で世に出したといえる。
物理学的でいう、「慣性系で考えると、各々の位置で時間の流れは異なる」ということだ。我々はまさしく4次元にいるわけだから、慣性系の中に存在している。であれば、相対的に時間の流れが異なるのはアタリマエ。
この流れを原理原則で考えると、かなり単純なことの様な気がしてきた。