「人間は可能は証明できるが、不可能は証明できない。」
有名な「悪魔の証明」。
最近の日本の国策を見ると、「ないということは証明できない」という悪魔の証明論理を不文律として振りかざしたあげく無策だから、すべてが迷走する。
領土問題にしても原発問題にしてもしかり。
問題を論理に落とし込んで国民に考える隙を与えない。証明できないのだから、策を打つことすら意味がないとする。実はこれ、反則技だと思う。責任回避以外の何物でもないのだ。
かつて、イラクが大量破壊兵器を所有しているという説から米国はイラク戦争に踏み切った。日本は、ときの首相がイラク戦争について「大量破壊兵器が存在しないと証明するための情報がない」ということからイラク戦争を支持するという立場を取った。つまりイラクに悪魔の証明を求めたわけだ。
逆に言えば、「日本にはそういう兵器がないことを証明できるか」と問われ、我国は胸を張って「No」といえるかどうか。これとて同様の「悪魔の証明」を求めることになるのだ。つまり「ないことは証明できない」が「ある可能性も否定できない」となり、果てには「ある可能性がある」と論理をすり替えられたら、日本だって攻撃対象となり得るわけだ。
その証明を求めることは、論理的な矛盾を含んでいる以上、意味がない。しかし問題は、その問題を棚上げにしてしまって無策に走っていることだろう。結果、手をこまねいて成り行きに流されるだけという体たらく。しかし、実はこれ、国策に限らず日本国民が持つある種の道徳に基づいている気もするのだ。
そこに日本の弱さがある。
古来から我が国には「敵を作らぬことが尊い」という考え方や、よしんば出来たとしても敵を追い詰めない「武士の情け」が美徳であるという教育が施され、その伝統が今でも遺伝子に組み込まれていると、小生は思うのです。
日本では「出る杭は打たれる」という。しかし、海外では「軋む車輪は油をもらえる」と言われる。この違いを体で理解できないと、悪魔の証明を超えて行動を起こすことは困難だ。
よく「若い人はどんどん海外に出るべき」というが、これは年配者が自分のことを棚に上げて言っているだけであって、若いかどうかではなく、要はチャレンジしようという気概を持っているかどうかだと思う。何も海外に直接出ることだけが海外を知ることではない。今や居ながらにして海外の状況や動向については手に取るようにわかる時代だ。本気でそれを知ろうとする気構えがあるかどうかなのだと。
武士の情け、小生はその思想について全く否定する気はありません。だが、そういう価値観が海外では土地によってダイナミックに変わるのだということを、直接的な海外との切磋琢磨を通じて体で覚える必要があるのではないかと考える。
その昔、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という強烈なテーゼがあった。
そうです、いまこそ、
悪魔の証明という「書」に屈するよりも、「外」に出よう。日本が取る道はそれしかない。
かつて、イラクが大量破壊兵器を所有しているという説から米国はイラク戦争に踏み切った。日本は、ときの首相がイラク戦争について「大量破壊兵器が存在しないと証明するための情報がない」ということからイラク戦争を支持するという立場を取った。つまりイラクに悪魔の証明を求めたわけだ。
逆に言えば、「日本にはそういう兵器がないことを証明できるか」と問われ、我国は胸を張って「No」といえるかどうか。これとて同様の「悪魔の証明」を求めることになるのだ。つまり「ないことは証明できない」が「ある可能性も否定できない」となり、果てには「ある可能性がある」と論理をすり替えられたら、日本だって攻撃対象となり得るわけだ。
その証明を求めることは、論理的な矛盾を含んでいる以上、意味がない。しかし問題は、その問題を棚上げにしてしまって無策に走っていることだろう。結果、手をこまねいて成り行きに流されるだけという体たらく。しかし、実はこれ、国策に限らず日本国民が持つある種の道徳に基づいている気もするのだ。
そこに日本の弱さがある。
古来から我が国には「敵を作らぬことが尊い」という考え方や、よしんば出来たとしても敵を追い詰めない「武士の情け」が美徳であるという教育が施され、その伝統が今でも遺伝子に組み込まれていると、小生は思うのです。
日本では「出る杭は打たれる」という。しかし、海外では「軋む車輪は油をもらえる」と言われる。この違いを体で理解できないと、悪魔の証明を超えて行動を起こすことは困難だ。
よく「若い人はどんどん海外に出るべき」というが、これは年配者が自分のことを棚に上げて言っているだけであって、若いかどうかではなく、要はチャレンジしようという気概を持っているかどうかだと思う。何も海外に直接出ることだけが海外を知ることではない。今や居ながらにして海外の状況や動向については手に取るようにわかる時代だ。本気でそれを知ろうとする気構えがあるかどうかなのだと。
武士の情け、小生はその思想について全く否定する気はありません。だが、そういう価値観が海外では土地によってダイナミックに変わるのだということを、直接的な海外との切磋琢磨を通じて体で覚える必要があるのではないかと考える。
その昔、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という強烈なテーゼがあった。
そうです、いまこそ、
悪魔の証明という「書」に屈するよりも、「外」に出よう。日本が取る道はそれしかない。