理系人間と文系人間   - 体(てい)の良い差別? | プロムナード

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世の中には理系の人間と文系の人間がいるといわれている。
下記のレシートに記載されている文言、どちらの人が書いたんだろう?


「ご使用の前に必ず動作確認を行って下さい」??


これ、言いたいことは理解できるが、

・  動作確認を行うためには使用してみる必要がある
・  しかし、動作確認以前に使用することを禁止している
・  一方、使用することによってのみ動作の確認が可能である

結果として、「動作確認を行うためには使用する必要があるにも拘わらず、使用が禁止されているので動作確認が出来ない」という、デッドロック状態を引き起こす。

恐らく、品質管理的に言えば、不良品発生時期の傾向を表すバスタブカーブ上のinfant mortality(初期不良)を検出するために「本格稼動を行う前に試運転してください」と言いたかったのだろう。従って、書いて欲しい内容を決めたのは理系人間だと思う。書いた人が理系だったか文系だったかは分からないが、書いた内容に論理的な矛盾があることについて理解していなかったことは想像できる。

論理的な矛盾と、文章に於ける文法的な矛盾とは大きく異なる。その辺りで理系センスと文系センスが旨くコラボできれば良いのだろう。従って、この場合は「一度動作を確認したあとで、お使いください」ぐらいにしておけば良かったんじゃないだろうか?

ところで、冒頭に書いたように、世の中には理系の人間と文系の人間がいるといわれている。大変単純な分割方法だ。
しかし、本当にそうだろうか?

人間は、意識として相手を差別化することで自我が確立できるという習癖を持っていると思う。自分は「相手と違う」という意識を持つことで自我を保つのだ。これは集団においても成り立つ。実際、たとえ仮想であっても、敵を作ることによって互いを結束させるという政策は、古今東西を問わず組織を存続させるために行われてきた定法でもある。

差別には、国籍、人種、性別、出身地といった物理的に変更できないことや、政治的信条、宗教などの心情的なものまでたくさんの種類がある。差別している方はあまり意識していなくても、差別されている方はひどく意識するもの。その意味、差別している方は、実は相当に罪深いものなのだ。しかし、罪の意識は低い。

「足を踏んだことは忘れても、踏まれたことはずっと覚えている」

人間とはそういう動物なのだから、遺伝子レベルまで継承していってもおかしくはない。

この、「差別したい」、或いは「差別することによって自分を確立したい」という意識は、先に述べた国籍、人種、性別、出身地などの物理的要素が同じであっても発生する。つまり同じ地に住む同じ人種、同じ文化の下でも差別化したいと考える。ゆえに、我が国の様に明確な人種差がない国でも、差別はあった。


一方、現代世界では、更に別の方法で差別を行うようになってきた。

小生、血液型で性格を分けようとする方法は、この一つの例だと考えている。

例え統計的に傾向が表れているにせよ、科学的根拠に乏しいこの分割方法は、生活態度や教育などで変わることのない物理的な区分けであるために、人種差と類似している。様々な行動や考え方を血液型として一絡げにすることは、お笑いネタとしてであれば良いが、人格や性格を血液型で評価するのはいかがなものかと思う。職業や職種を血液型で仕分けるなんぞ、問題外。

更に、冒頭に書いた理系、文系というカテゴライズも、実は体(てい)のいい差別の一つなのじゃないかと、小生は思うのだ。

たしかに理系的な考え方と文系的な考え方というのがあるが、どちらが優れているとかいうものではない。

よく言われる理系人間と文系人間の物事の捉え方の差を表すものとして、「雪が解けたら何になる?」という質問への答えが、理系の人間は「水になる」と答え、文系の人間は「春になる」と答える、などと、まことしやかに言われているが、相当に嘘っぽい。とにかく普通の人だったら、「水」と答えるんじゃないだろうか。うるさい理系人だったら、雪が解ければ「水と、雪に溶け込んでいた塵埃、周囲に伝達する冷熱エネルギーとに分解される」とか、どうでもいいことを真剣に言うかもしれない。

この質問、一説には小学校の入学テストで出されたという話もあるらしいが、「春」と答える子がいたとすれば、類まれなる天才か、こまっしゃくれたクソガキかどちらかなはず。

さて、そんな「どうでもいいこと」をのたまわっている小生は、果たして理系?それとも文系??