こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ!

 

接骨院を開業して、1日目に来院してくださった方は

今でも、友達としてお付き合いさせていただいてます。

 

1日目の1人は、本当に忘れられない方となりました。

その方が、周りの友達に宣伝をして下さり、

徐々に、利用者様が増えてきました。

 

開業して、すごく良く分かったことがあります。

 

成功したことで、今まで挨拶さえして下さらなかった方が

180度態度を変えて、相手からとても親しい友人にでも

なったように、声をかけてくる方。

 

反対に、今まで無職で、バツイチでお金がなかった時は

すごく良くしてくださった方が、接骨院の評判を聞き

見に来てから、無視を続ける方。

 

勿論、態度を変えない方もいました。

 

人はこんなに、態度が変わるものだと

初めての経験でした。

 

又、だんだん、忙しくなるにつれ、

結婚話を、持ってくる方もたくさんいました。

 

が、「もう男なんて、まっぴらごめん」と

思っていたので、お断りをしていました。

 

しかし、とてもお世話になった方から

「みほりさんが、いらなくても、子供さんがお父さんを知らないと

言うのは気の毒だよ」と、言われてしまい、

 

娘が、祖父の事を「パパ」と呼んで祖母に怒られたことを曾祖母から聞いたり

公園で遊んでいると、お父さんと遊んでいる子をジーっと見ていたり、

 

そんなことが、だんだん続いてきたため、

「やっぱり、娘には父親が必要なんだな」と

考え、紹介していただいた方と会い、

再婚することとなりました。

 

父と母は猛反対しましたが、祖母からはプッシュされ

娘も「お父さん」と呼び、喜んでいたので、

最悪な、またもや結婚となるとは、まだまだ

人生経験が少ない、私でした。

 

(この頃は開業して、毎日県内・外からも患者さんが来院してくださり

1日100人近くの患者さんを診ていました。ので、身体は疲弊していた時でもあったのです)

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ!

 

学校に通い、無事卒業し、国家資格も取得。

 

娘も小学校1年生となりました。

 

私は、娘が小学校に行ったときには、無職では格好がつかないので、

4月に娘が小学校に入学と、同時に、

 

接骨院の建設に歩みだしました。

店舗の場所・客数・駐車場・お金・揃えなければならない機械、等考える事がたくさんでした。

 

この時に力になってくれたのは、やはり中学からの友人夫婦

不動産会社を紹介してくれたり、現地を一緒に見に行ってくれたり・・・

 

最後に場所を2か所に絞りましたが、どちらにして良いのか決めかねていて

両親と祖母に見てもらいましたが、両親は見ただけ、

なんのアドバイスもしてもらえず、

 

困っていた私に相談に乗て下さったのが、

友人夫婦から紹介していただいた、この地域を熟知している方でした。

 

「みほりさん、この地域は車社会ですよ。誰でも車を止めやすいところを

まず、考えてみることです。タクシーで来る方もいるでしょう」

と、この一言で、迷っていた場所を1か所に決め、

 

内装工事をしてもらえるように、頼んでくれたのも中学からの友人夫婦。

待合室から、色々考えて、出来上がりは、作ってみないとわからなく、

仕上がりは、一か所を除いては、想ったように仕上がり

 

保健所からの審査も通り6月から開業をする事になりました。

 

この間3か月、寝る暇もないほど、忙しく、

シングルマザーということで、○○市からも利息なしに、お金を借りる事も出来ました

(○○市で今まで貸借した中でこんな金額が出たのは初めてだと、職員に言われました)

 

でも、それだけでは足りなく、大きな借金を抱え

でも、未来に希望を持ち、6月の開業に踏み切りました。

 

その時も、無料で、広告をつくてくれて、無料で新聞広告を出してくれたのも

中学からの友人Kさん夫婦でした。

 

祖母以外の家族からは、「どうせ失敗するよ(笑)(笑)」と言われていた私でしたが、

周りの方たちの力に支えられて、明日から接骨院開業となります。

 

(この時の事を数年経過して思いましたが、友人の協力や、

関わって下さった多くの方たち、そして若かったのと、パワーがあったからこそ出来た事

だったと感謝をしながら回想しています。)
 

こんにちは!

 

みほりの日記に、ようこそ!

 

娘が1歳になったときに、

 

調停での離婚が成立し、新しい家を父が建ててくれて生活も

やっと、落ち着き、

 

なんと、学校にも合格したので4月から自宅から学校まで

朝の4時起きをして、電車にて東京まで毎日通いました。

 

駅までバイクで10分、冬は寒くコートやダウンを重ね着3枚

電車の中は途中暑くなるので、2枚はバイクの中にしまい

3年間通いました。

 

この学校での事を書くと、またまた、長くなるので、次回機会があったら

詳しく書かせていただきます。

 

娘は父、母、祖母が見てくれました。

私は、国家資格が取れたら、すぐにでも開業する

と決めていたので、夏休みや冬休みは、

 

名古屋の叔母の接骨院に修業をさせていただきに

行きました。

 

娘には寂しい思いをさせてしまいましたが、

3年後を夢見て、兎に角頑張るしかなかったのです。

 

父や母に約束をしたように、私に関するお金は、出してもらわず、

昼食は、マックか近くの学校の学食等に食べに行ってました。

 

マックしか食べれないときは、お腹がいっぱいになれず、

卒業してからも、マックはトラウマになり、

 

ご飯として、食べれるようになったのは、娘が10歳になったときでした。(笑)(笑)

 

又、コンビニの、おむすびや弁当は、私にとっては、ぜいたく品。

早く、稼げるようになって、コンビニで、食べたいものを

沢山買う事が、もっぱら私の夢でした。

 

もう1つ食べ物において、途中の駅の構内に、ミスタードーナツがあり、

いいにおいがして、毎日食べたいのを我慢していたので、

ミスド―も、私にとっては、ぜいたくな食べ物でした

 

ミスド―も、いつかは、10種類ぐらい買って食べるのが夢。(笑)(笑)

 

こんな思いを抱きながら、通学した3年間

 

お金がなかったのでインフルエンザの予防接種を

していなかったため、

1年生と2年生のお正月1月1日に2年連続40度の熱を出し、

 

布団の中で苦しみました。

その時世話をしてくれたのが、祖母でした。

40度以上の熱を出し、水分を取ることが、やっとの私を

看病してくれて

 

母に「このままじゃ、死んじゃうよ。病院に連れて行かないと肺炎

にでもなったら大変だよ」と言ってくれましたが、

 

母は「自分の好きなことをして、病気になっているんだから

死んでも、本望じゃあないの」

妹「そうだよ、ほっとけばいいじゃん」

 

祖母「自分の娘が、苦しんでるのに親じゃないのか。

死んだら、幸子はどうするの?ママまでいない子にするのか?」

 

と、言ってくれましたが、無視。

 

父が見かねて、「みほり、歩けるか?」と言い

病院に電話をして、連れて行ってくれました。

 

私は熱にうなされながらも、(必ず成功して、娘はもちろん、祖母にも恩返しし、

私の事をバカにして居る人たちを見返してやる)と、何度も心に誓いました。

 

次に続きます。

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ!

 

私は、接骨院の事を何も知らずに受験をして

一度不合格でした。

 

その時は、娘を産んですぐに受けたので、

自分では、勉強不足と思っていました。

 

ですが、現実は厳しいものでした。

その時に、後ろで受験をしていた男性に

「今年で受験するの何度目?」と聞かれ

 

「初めてです」と答えると

「何校受験するの?」と又聞かれ

 

「この学校だけです」と答えました。

 

すると、その方は

「えっ?ウソ。そんなんじゃ甘いよ、受からないよ、

僕なんか、今年で5年目だよ。みんな10年目とかいるし、

学校が全国で7つしかないから、みんなどこか受かればいいと最低でも

3~4校は受けるよ。だってね、60名しか受からないのに、受けてる人の数

600人以上だよ」

 

と、教えてくれました。

又、「どこかの接骨院に勤めていないと、そこの院長先生に

力があれば、受かるけど、あなたの様に素人は、無理だよー」

 

と、ご丁寧に、入学できたら儲けもの。

その入学が大変。医学部並みだよ。

でも入ったら、国家資格は大体合格するから・・・

 

とのことでした、

 

私は、この難関に挑戦しなければならなかったのです。

 

(今はこの後九州の方で、学校建設の裁判があり、この業界が裁判で負けたため、

学校が増えてしまい、中々今度は開業しても、儲ける事が難しくなりました。)

 

この頃は、開業すれば、儲かるとのことで、難関になってました。

 

 

私は、どうなるのでしょうか?

こんにちは!

 

みほりの日記へようこそ!

 

離婚調停の間、娘を育てるのに

何か資格の必要性を感じました。

 

でも、資格と言っても、沢山あり、

資格を取っても、自分の仕事に生かせなければ意味がありません。

 

私は「もう、男はこりごり」と言う、気持ちと

「娘は、私がしっかり育ててみせる」との思いしかありませんでした。

 

 

悩んだ末、母の従弟にあたる、医学部予備校を

経営している、叔父様に相談をしてみました、

 

すると「今、妹が名古屋で、接骨院を経営していて

女性が珍しいから、すごく流行っているよ。

小さい時には、医者にも見えるし、国家資格で職業としては

恥ずかしくないと思うよ。」と、教えてもらい

 

私は気持ちが決まれば、猪突猛進タイプ。

接骨院の仕事がなにかもわからず、受験することに。

 

父・母に3年間勉強したい事を伝えると、

父より「そんなことをして、出来なかったらどうするんだ。

今までのように、事務職で働いてればいい。」

 

でも私の中では「事務職で働いていて、若い時は良いかもしれないけど

歳をある程度とっていくと、邪魔にされるところを見てきた」

 

事を告げ、反対を押し切って、受験勉強に取り組みました。

 

この時は、妹が借りてくれた、雇用促進住宅で、

テレビも、冷蔵庫もなく、あるのは私の勉強するためと食事をする為の

小さな机だけでした。

 

でも、祖母が一緒に居てくれて、娘0歳を、私が勉強する2時間も

おんぶしてくれて、周りは田んぼだけの所を散歩しながら

「今日は、梅が咲いていたよ」

「今日は、鯉を見てきたよ」

と、75歳の祖母に感謝・感謝です。

 

又、周りに買い物するところが無い為

母が週に何回か、来てくれて

冷蔵庫が無い為、缶詰等を買ってきてくれました。

 

そんな生活でしたが、今思えば、

未来に希望を持ちながら、娘と祖母との3人暮らしは

楽しいものでした。

 

何もないけど、窓から高速道路が見えて、

休みの日には、沢山の車が行き交うのを見ながら

「絶対に、成功して、娘と祖母と一緒に旅行に行こう」

 

と、心に誓っていました。

 

又、娘の成長をみれる事も、受験勉強に力が入りました。

寝ていた状態から、寝返りを打つようになり、

ハイハイが出来て、机につかまって立ち上がろうと

 

一生懸命にあきらめず1日中行ってる娘をみて

微笑ましく、「私もがんばらなきゃ」と

思えるのでした。

 

この間、友達たちが、娘の為に

下着や洋服のお古をたくさんいただき

又、おもちゃや、三輪車等々

持ってきて、時には、お弁当迄買ってきてくださり

 

(勿論、中学からの友人は毎週来てくれました)

 

本当に、感謝・感謝でした。

 

 

でも、この後大変な現実を突きつけられます。

 

次回をお楽しみに

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ!

 

 

最初、裁判所に行くのがとても怖かった。

裁判所と言う所に足を踏み入れること

主人と出くわしたら、どうしよう

 

などなど、控室に入るまで、ドキドキしていました。

控室で弁護士と待ち合わせでした。

 

離婚調停が終わるまで1年かかりました。(普通らしいです)

 

①私が、市の無料相談をした弁護士(100万円と言った弁護士)が

相手側の弁護士になっていたことに、私側の弁護士が気が付いたのが

調停が始まって、半年以上になってました。

 

本来、相手側の話(私)を聞いた弁護士が、そのまた、相手(主人)の

弁護をしてはいけないことになっていたにも関わらず、

平然と主人側について弁護士を行っていた。

 

②その弁護士は、「養育費・慰謝料を払わなくてもいいようにしたい」と

言う、主人の意見を尊重していたこと。

 

③養育費を払うなら、「自分が(主人)が娘を養育する。また、みほりのような

人間に育っては娘が可愛そう」などと、どの口がよくそんなことを言ってきた

と、私側が思うようなことを平気で言ってきた。

 

④近所中に、みほりは家事一切しなくて、みんな義祖母と義母に押し付けていた

と、言いふらし、名誉棄損。

 

⑤私が、嫁ぐのに持って行った、家具や電気器具(テレビ・洗濯機等)を返せ

などと、言ってきた。

 

⑥夫婦生活を果たさなかった、布団を100mも話して寝ていた。

(そんな、100mも離せるほどの部屋がどこにあったんだ・・・)

 

等々 きちがい主人に、頭のおかしい弁護士が付いたため、

話が全く進まず、裁判になるかもしれない、と担当弁護士が言っていた時に

 

主人の弁護士が、以前無料相談で私の話を聞いた弁護士だと判り、解任。

主人は100万を払って、別の弁護士に変更。(私は、けちけちするから罰が当たったと思った)

(だって、女は色々、不利な事だらけだが、私と比べれば主人が痛い目に遭ったのはほとんどない)

 

変更になった弁護士は、話が分かる方だったので

主人に「養育費は払わないとならないこと、これは、決して逃れられない」と話してくれたが

「絶対に払わない。」と頑なに拒否

 

しかし、双方の弁護士が首を傾げたが急に

「慰謝料は払わない。養育費は仕方なく払う」と言うので一括で払ってもらう事にしました。

「0歳~20歳までの養育費として300万一括(とっても少ない養育費)」を私は譲らなかった。

私側の弁護士も、「あの、ご主人では、月々にしても2~3回払って終わりそうだから、一括で

払ってもらった方がいいよ」と言ってくださり、

 

やっと、離婚調停が終わりました。(ちなみに私の弁護士料金は、35万円)

弁護士の先生ありがとうございました。

 

私は心身疲れ果て、主人と4人で住んでいた家の半径2kmは5年の間

近づく事が出来ませんでした。

 

車の運転していても、気が付かなくても、急に吐き気が襲ってくるのです。

克服するのは5年以上の時が必要でした。

 

私の、試練はまだまだ続きます。

 

 

 

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ!

 

人生設計を間違えた私への試練は

まだまだ、続きます。

 

お産の前に言われたように、

市で行っている、弁護士の無料相談に行きました。

 

そこで、今までの経過を話、弁護士からお金の話

になりました、離婚になるまでの報酬は100万円

 

とても私に出せる金額ではありませんでした。

 

私は、信用のある方に相談をして、市議会議員の方へ

誰か、良識のある弁護士がいないか聞いていただき、

紹介していただけました。

 

又、私の嫁いだ先の荷物を運び出そうと義母に連絡をしたところ

主人が「我が家にある物は、全て家の物だ、何一つとして持ち出す事を

禁ず」と言ってきたのです。

 

そこで、担当弁護士から連絡を入れてもらい、

出産前にお世話になった、友人にも引っ越しの件を伝えたところ

 

「きちがい旦那だから、何をするかわからないので、立ち会うから」と言ってくれたのですが、

主人が友人夫婦が入る事を許さず「家に一歩でも入ったら、不法侵入で警察を呼ぶ」と

大騒ぎ。

 

でも、専門の引っ越し業者を頼んだので、それでも主人は、カメラを用意し

「少しでも、家に傷をつけたら、損害賠償でうったえるから」と言い、

引っ越し業者の後を、ついて歩くのでした。

 

そんな息子を注意しない義母と義祖母。いえいえ、やらせていたのかもしれません。

 

私はと言うと「一人で嫁ぎ先に行くのは危ないから」と父に言われ母が、ついてきてくれました。

 

心配そうに、見守ってくれてる友人夫妻。

 

ベネチアグラスのコーヒーセットは半分私がお金を出したのだから、「半分もらっていく」

と言った私に、主人は「俺がお金を出したんだから、お前が持って行く事は許さん」と

口論に・・・・。話しているうちに、こんなのもらっても、嫌な思い出しかないし

こんなバカと話し合っても、話し合いが出来るはずがない事に気が付き、

 

早く、こんな家から出た方が良いと思い、友人夫婦にもお礼を伝え、

自宅に帰りました。

 

この後、この引っ越し業者の事務員が、私の妹の同級生で、

「今まで、離婚の引っ越しを何件もしてきたが、あんな、きちがいの旦那は初めてだ」

と、業界でも有名になったそうです。

 

この引っ越しは、娘を出産して1年後の事です。

母が父に頼んだように、今までの家とは別の所に家を新築したため

引っ越しました。

 

実は、以前の家の前に主人が時々、待ち伏せをしていて

車を止めて、私が出てくるのを待っていたことが数回あったのです。

なんのための、待ち伏せなのか?

 

忙しい仕事の人が、何時間も仕事をさぼって私を待ち伏せする時間はあったようですね。(笑)

 

 

まだまだ、試練は続きます。

 

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ!

 

娘と一緒に退院しましたが、

 

娘は、相変わらず、おっぱいを飲んでくれなく

 

毎日、搾乳をして、哺乳瓶に入れて与える事にしました。

 

その後、私は乳腺炎に掛かり熱が出ましたが、

出生届を出さなければならない為、

 

熱が39度出ていましたが、フラフラになりながら、

市役所に出生届を出しに行きました。

 

搾乳を毎日、3時間おきにしていたため3か月後は、

手が腱鞘炎になってしまいました。

 

が、私は、娘の為、熱が出ようが、腱鞘炎になろうが

精一杯の事をしてあげたくて、そのことだけで頭の中は

いっぱいでした。

 

子供の名前は母と考え「幸子(ゆきこ)」としましたが

義母が退院した後、1週間位して、出産祝いと言い

お金をもってきましたが、名前を「さっちゃんに上げてください」

と、間違えて言ってきました。(笑)

 

幸子をさちこと間違えたようです。

「初孫の名前くらい、覚えろ」と、言いたかったのですが、

 

この方たちは、子供の事など、何とも思っていないのですから・・・

 

大体、内孫に出産祝いもおかしな話で、バカ亭主は私が実家に5か月

居ましたが、1回も来ませんでした。

 

その後、離婚の話し合いになりましたが、

主人の方の出席者は義弟と義母が実家に話に来て

 

義弟が「みほりさんは、母が問題なんですか?」と聞いてきたため

 

「義祖母は私と主人と出かけてくると具合が悪い、と言っては連絡してきて、

いつも途中で電話が入るので、1時間くらいで呼び戻されます。

2人でいることを嫌がり邪魔をしました。主人は、ばあちゃんや母ちゃんが心配とは言うものの、

私の心配はしてくれません。

 

又、9月の暑い日、朝もう30度越えをしていた日、つわりで具合が悪くなった私を

主人が「車でおくっていこうか?」と言ったのに義母が「タクシーを呼ぶから会社に行きなさい」と

言い、3kmも歩かせて、それでも病院まで10km以上あったのに、タクシーを呼ばずに歩かせてようと

した為、私と赤ちゃんが義母に殺される、と思い、義母が止めるのも聞かず、公衆電話から実家に電話

そのあと、私は、実家で迎えに来てくれた事に安心したのか、気絶したのです。

でも1番問題なのは、主人です。

 

給料は私に1度もくれなく、義母に全て渡し、私は、主人がいくら給料をもらってるか

知りません。また、私が仕事をしていたため、食べたいものは、自分のお金で買ってきました。

それを、義母が作ったモノとして主人は食べていて、そのことについて義母と義祖母は何も言わず

私が料理をしたことが無いと、周囲の人たちに言ってます。その他、上げればきりがないですよ。

義母の布団で寝ていたし・・・。おかしなことだらけでした」と、義弟に伝えたのです。

 

義弟からは「僕が、みほりさんをお嫁にしていたらよかったです。」とまで、言ってくれました。

 

これも変な話なんですがね・・・(笑)

 

こんな風に、本人(主人)抜きの話し合いが何回か持たれる事になるのです。

 

一度、父と母が、「なぜ? ご本人がこないのですか?」と聞くと

義母が、「息子は仕事が忙しくて来れないんです。」との返事

 

もう、私たちはあきれて 本人は逃げ回ってるのは見え見えでした。

話し合いにも顔を出せないとは・・・・

なんとも、おこちゃまな主人を、見抜けなかった、自分に腹が立ちました。

 

 

次回に続きます。


 

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ。

 

義母と主人は、娘を見に来たようですが(出産の1日後)

私の所には、顔を出さずに、帰りました、

(父から聞きました)

 

でも、その後、またまた事件が起きました。

 

義母と娘を見に来た、主人は、今度は病室に来て

病室の入り口で何を思ったのか、看護師さんに

(私は大部屋で、その時出産後のママたちが6人いました。

毎日、旦那さんが来てみんな、幸せそうでした)

「みほりの所に来た夫ですが、入ってもいいでしょうか?」

と、病室の入り口で騒いだのです。

 

みんなびっくりして

看護師さんも「どうぞ」と?????

 

私は、恥ずかしくて「何しに来たの?」と小さい声で

訪ねるも、彼は周りにお構いなし。

 

「これからどうするの?」とか、「かえってくるの?」とか

訳の分からないことを言い、

私は、「そんな話をしに来ないで」と伝えるが、

毎日、来ては、「どうするの?」の連発をし始めました。

 

娘は、上手におっぱいを飲めず、初乳を飲ませないと

で、私はくたくた。

娘の体重は減っていく一方。私はお乳が出過ぎて、胸が張ってしまうために

娘が、うまく飲めないとのこと

 

このままだと一緒に退院出来ないかも・・・と言われて

神経も体力も低下

その中で、バカ亭主はご機嫌でわけわからないことを言いに来るため

 

父に連絡して、千葉のおじさんに連絡をしてもらいました。

が、4日目面会時間が過ぎた21時頃に主人が来て。私に伝えた事は

 

「僕たちが悪いんじゃあなくて、周りが悪いんだ、僕たちを引き離そうとしている

子供の事は後で考えて、一緒に2人で暮らそう」

と、言い出したんです。

 

私は怒り心頭「誰がわるくないんだって?子供の事は後で考える?2人で暮らす?

いい加減にして、私はもうあなたと暮らす気は無いし、子供は後で考えるってどうゆう事?」

「子供は、どこかに預けて2人でまず暮らそう。アパートを借りればいいじゃん」と、言う始末

 

もう病院の廊下は、暗くなっていて、2人で大声で言い合っていたため

看護師さんが駆けつけて、「もう面会時間は終わっています。時間内に来てください」

と、主人は怒られ、病院から出されました。

 

私の怒りは、治まらず、実家に電話、今あったことをすべて話

父から、千葉のおじさんに「お産がすんでまだ数日しか経っていない娘の所に

毎日着て、娘の体調が悪くなったらどうするんだ。来ないように厳重に言ってください」

 

と伝えてもらいました。

この後は、主人も来なくなり、無事に娘と一緒に退院することが出来ました。

 

この後も、まだまだ大変なことが続きます。

 

 

こんにちは!

 

みほりの日記にようこそ

 

出産予定日は3月3日でした。

 

が、初産は1週間くらい遅れると言われ10日くらいかな?

と思っていました。

 

3月6日の14時に無料弁護士の予定に不安はありましたが、

この日しか、空いて無かったため、とりあえずの予約。

 

6日、昼食を摂って、トイレに行くと、破水。

実家に居たので、母と祖母に破水したことを告げると

祖母は「早く、病院に連れて行かないと・・・」と言い

 

母は「弁護士のところに行かないと困るでしょう。ナプキンを

あてて、行きなさい。一緒に行くから」と・・・

 

14時に、予約していた弁護士の所に行き、私は、

何を話をしたのか、覚えていません。

ただ、その弁護士は、東京から来ていたため、

 

弁護をお願いすることが出来なく、地元の弁護士に

お願いするように、言われたことだけは覚えています。

 

それに破水してる事を告げると

「それより、早く病院に行って下さい」と言われ

破水している私を、連れてきたことを、母は怒られる始末でした。

 

このまま、病院に行き、陣痛が来ない私は、

陣痛促進剤を点滴されながら、母の付き添いで

子供を産むことになるのです。

 

子宮口が開かないとのことで、力んではいけないと言われ、

赤ちゃんは、出たくて、子宮口を押します。

 

それを、力まないで耐えることは、想像を絶する痛みでした。

なかなか、子宮口が開かず、

 

やっと、力んでよいと言われたのは次の日の午後15時過ぎ。

やっと15時37分に無事女の子が産まれました。

 

看護師さんからは、「よく頑張ったわね。久しぶりに静かなお産でしたよ。

最近の人たちは、耐えれなくて、大騒ぎする人ばかりだから、本当に

頑張ったわね」

 

と、こんなことで、褒めてもらった事・無事に女の子が生まれた事に

感謝しました。

 

私は、こんなに自分の子が可愛いと思えることにも感謝し、

絶対、私がしっかり、この子を守っていくと誓いました。

 

嫁ぎ先の義母・旦那は、私の父が産まれた事を知らせましたが

来たのは1日後。

 

この後も大騒ぎになるんです。

 

次回に続きます。