こんにちは!

 

みほりの日記に、ようこそ!

 

娘が1歳になったときに、

 

調停での離婚が成立し、新しい家を父が建ててくれて生活も

やっと、落ち着き、

 

なんと、学校にも合格したので4月から自宅から学校まで

朝の4時起きをして、電車にて東京まで毎日通いました。

 

駅までバイクで10分、冬は寒くコートやダウンを重ね着3枚

電車の中は途中暑くなるので、2枚はバイクの中にしまい

3年間通いました。

 

この学校での事を書くと、またまた、長くなるので、次回機会があったら

詳しく書かせていただきます。

 

娘は父、母、祖母が見てくれました。

私は、国家資格が取れたら、すぐにでも開業する

と決めていたので、夏休みや冬休みは、

 

名古屋の叔母の接骨院に修業をさせていただきに

行きました。

 

娘には寂しい思いをさせてしまいましたが、

3年後を夢見て、兎に角頑張るしかなかったのです。

 

父や母に約束をしたように、私に関するお金は、出してもらわず、

昼食は、マックか近くの学校の学食等に食べに行ってました。

 

マックしか食べれないときは、お腹がいっぱいになれず、

卒業してからも、マックはトラウマになり、

 

ご飯として、食べれるようになったのは、娘が10歳になったときでした。(笑)(笑)

 

又、コンビニの、おむすびや弁当は、私にとっては、ぜいたく品。

早く、稼げるようになって、コンビニで、食べたいものを

沢山買う事が、もっぱら私の夢でした。

 

もう1つ食べ物において、途中の駅の構内に、ミスタードーナツがあり、

いいにおいがして、毎日食べたいのを我慢していたので、

ミスド―も、私にとっては、ぜいたくな食べ物でした

 

ミスド―も、いつかは、10種類ぐらい買って食べるのが夢。(笑)(笑)

 

こんな思いを抱きながら、通学した3年間

 

お金がなかったのでインフルエンザの予防接種を

していなかったため、

1年生と2年生のお正月1月1日に2年連続40度の熱を出し、

 

布団の中で苦しみました。

その時世話をしてくれたのが、祖母でした。

40度以上の熱を出し、水分を取ることが、やっとの私を

看病してくれて

 

母に「このままじゃ、死んじゃうよ。病院に連れて行かないと肺炎

にでもなったら大変だよ」と言ってくれましたが、

 

母は「自分の好きなことをして、病気になっているんだから

死んでも、本望じゃあないの」

妹「そうだよ、ほっとけばいいじゃん」

 

祖母「自分の娘が、苦しんでるのに親じゃないのか。

死んだら、幸子はどうするの?ママまでいない子にするのか?」

 

と、言ってくれましたが、無視。

 

父が見かねて、「みほり、歩けるか?」と言い

病院に電話をして、連れて行ってくれました。

 

私は熱にうなされながらも、(必ず成功して、娘はもちろん、祖母にも恩返しし、

私の事をバカにして居る人たちを見返してやる)と、何度も心に誓いました。

 

次に続きます。