金曜日の午後2時に、埼玉から、叔父が、従兄弟の夫婦といっしょに実家に来ることになっていた。


昨年亡くなった叔母の葬式の報告だった。
家族だけで、ということだったので、僕もその叔母の葬式には参列しなかった。


金曜日だったので、僕は仕事を10時で切り上げ、それから実家まで車を飛ばした。
実家では、姉がお茶や和菓子の用意をして待っていた。
僕が買ってきた日本酒を「叔父さんのおみやげに」と取り出すと「私が大吟醸を買うから日本酒はいらないって言ったでしょ!」などとあまり僕が聞いてなかったことを言って怒るのだった。


僕の父親の葬式のときには、叔父さんといろいろなところに挨拶に行った。
「葬式なんて、故人が好きだった音楽でも流して、お別れをすればそれでいいように僕は思うんだけど、なかなか世間は許してくれない。仕方がないことなんだよ。」
お寺からの帰り道、叔父さんは疲れ果てた僕に、そう優しく声をかけてくれた。


僕が司法試験に失敗し、仕方がなく就職をしたときも、叔父さんが励ましてくれた。
「私は、自分で言うのもおかしな話ですが、非常に優秀な成績で入社したものですから、私が入社したときは、お祝いの花火が上がったんですよ。それから、同期の仲間たちが、お酒や麻雀をしている間に、私は勉強をしました。もちろん、大学で会計学も経済学も学んでいますから、根本的なことはわかっているのですが、簿記の実務は知りません。私は就職をしてから、簿記をマスターしたんですよ。」
「いいですか。就職してからもしっかり勉強をするんですよ。司法試験をあきらめたからといって、勉強をやめてはいけません。その差が、将来、大きく出てきますから。」


僕は、叔父さんの言いつけを守らなかった。
就職すると、多くの仲間たちと、飲み会に明け暮れ、深夜まで麻雀をしていた。
最初に就職した松本では、毎晩5次会とか平気で過ごし、就職してからの方が、貯金が減ったほどだった。
数10軒の店が軒を連ねる西堀地区など、僕が行ったことのない店はないというくらい、飲み歩いた。
毎晩が楽しく、毎日、探検をしているような気分でいた。


それでも、叔父さんの教えは、心のどこかにいつも引っかかっていた。勉強をしなくては、といつもどこかで思っていた。
叔父さんの言葉は、僕にとって北極星のようにぶれていなかった。
僕自身はあさって方向に進んでいても、それでも「本当はあっちに進まないといけないんだ」といつも思っていた。


久しぶりに、叔父さんや従兄弟に会い、嬉しかった。
叔父さんの手は大きく、握手をした手は力強かった。
「会えるとは思わなかった。」
僕と会って、叔父さんも嬉しそうだった。


身長が180センチを超える、大きな従兄弟は、今、2社目の会社を起ち上げて、社長業をしている。
「僕の仕事は、不景気の方が需要が高まるんだ。」
従兄弟と会うのももう10年以上ぶりだ。
「何もないところから、会社を起ち上げて、それを軌道に乗せるってすごい才能ですね。」
「そんなに大したことはしていないんだよ。本当に。」
そういって、従兄弟は大らかに笑う。従兄弟の話し方からは、僕が小さな頃から感じていた都会を感じた。
どれだけ東京を知っても僕には身につかない、洗練された都会の子が持つ独特の雰囲気だ。
いつまでも大きな存在でいてくれて、僕はそれも嬉しく思った。


叔父たちは、日帰りということで、僕の家にいたのは1時間にも満たなかった。

母の見舞いも今回は見合わせたいと言うことだった。
それでも、濃い時間を過ごせたように思う。
叔父たちの前で、自分が小さく感じたけれど、叔父たちと話していて、自分自身もそんなに悪くないように少し思えてきた。
随分回り道をしたけれど、今は僕も叔父さんと同じ方向を向いて進んでいるような気がした。


叔父さんたちが来るのを待つ間、家の掃除をした。
家の大部屋に「清備自守」の大きな額が飾ってある。
今まで、きちんと見たこともなかったし、意味もよくわからない。
「清らかさを備えれば、自ずから守られるってこと?」
姉に聞いても、「知らない」と言うばかり。


でも、いい言葉だと思ったし、そうあるべきだと思った。
よくわからないけれど、そう生きるべきのように思った。


叔父が帰った後、母を病室に見舞った。
母の病状は、先週よりは見違えるほどよくなった。
それでも、声に力はなく、体力も乏しい。
叔父さんが来た話をすると、それでも少し嬉しそうな表情を見せ「叔父さんに会えて、よかったわね」と言った。

母は4人姉弟だ。そのうち東京にいる弟も、今、重い病気と闘っている。
昔からお酒好きの弟で、家族や親戚からお酒を控えるようにといつも言われていた。
一度、母方の親族が集まった夜、お酒が足りなかったのだろう。
こっそり夜中に起きてきて、お燗をつけたのが、日本酒ではなくみりんだったのは、今でも親戚のなかで笑い話になっている。


そんな叔父だが、デザイナーの仕事もしていたこともあり、絵を描かせると信じられないほど精緻できれいな絵を描く。
その叔父が鉛筆で書いたオートバイの絵など、見た人からため息が出るような精確さだ。
酒好きで、どこかのんびりした口調で話すので、どこか軽く見られている感のある叔父だが、僕は叔父の絵のすごさを知っているので、尊敬をしている。


今、叔父は定期的に入院をして化学療法を受けている。
体も弱っているらしいのだが、つい先日は「高田馬場に行って友達と会ってくる」と無理をして出かけ、帰ってきたのが夜10時。
どうしても我慢ができずにお酒を飲んでしまったらしい。


ほかにもこんなことがあった。
入院して帰ってきて、付き添いをした家族が疲れて寝ていると、夜10時頃、自転車に乗って叔父が出て行ったらしい。
「近くのコンビニにお酒を買いに行ったのよ。信じられる?」
叔父の奥さんは、半分笑いながらそう嘆いていたという。


僕はそんな叔父の話が好きだ。
そこまでお酒が好きなのかとあきれる気持ちもあるが、医師の言うことにそれほど耳を傾けようとしない姿勢も頼もしく「なかなかやるなあ」と思う。


今週末も実家に帰り、1週間ぶりに母に会った。
体重が減り、私はもうだめ、と力なく僕に言う。
「あなたの買ってくれたベッドに1度だけでも寝たかった。」
そう言って泣いている。
電話で様子を聞いていたら、随分とよくなっているイメージがあったので、その落差に驚いた。


「元気になるから、大丈夫だよ。」
励ますが、なかなか積極的になってくれない。
東京の叔父の話をしたら、そのときだけは笑っていた。


土曜日には、横浜から叔父が来てくれて、母を見舞ってくれた。
「会いたかった。夢のよう。」
そう言って母は、また泣く。姉弟というのはそういうものなのだろうか。


夜は横浜の叔父や姉といっしょに飲んだ。
最近は、お酒を飲むこともぱったりとやめていた。
久しぶりに飲んで、そしたらかなりの量を飲んでしまい、姉から飲みすぎだと怒られた。

「16日の日曜日は、朝から仕事が入っているから、来週末は実家に帰れないよ。」
先週末、母にはそう話していた。「お見舞いにも来られない。」


10日の火曜日の夜、姉から電話があった。


母の微熱が続き、月曜日は一睡もできず、姉と僕に会いたがっていたらしい。
翌朝、姉が母と会ったら、「会えてうれしい」と言って泣かれてしまい、僕は何をしているのかと何度も聞かれたのだという。
「仕事でしょ。」姉はそう答えたという。


仕事に身が入らなくなった。
いろんな仕事の打ち合わせをしながら、「こんなことは本当のところ、俺にはどうだっていいんだ」と叫びだしたいような気分になった。
こんなくだらない仕事のために、俺は病気の母親に会いにも行けないのかと思ったら悲しく、そして情けなくなった。


カリフォルニアに住んでいるクリスに「母が病気になった。仕事が忙しくて、会いに行けない。仕事を辞めようかと思うけど、どう思う?」とメールで聞いてみた。
「それはタフな質問だ。日本は不景気なんだろ?今辞めて、就職ができるのか?」そう返事が来た。
姉も仕事は辞めない方がいいと言う。
僕自身は、大抵の仕事であれば自分にはできるような気がしていたけれど、2人には、俺には見えていない現実が見えているのだという気がした。


週末、どうしようか?
「私なら、ちょっと無理をしてでも会いに行く。会えば、きっと元気が出ると思うから。」
そんなメールをくれた人がいた。


水曜日と木曜日は、「仕事を合理的に進めるんだ」と自分に言い聞かせながら、くだらない仕事を片付けていった。
仕事は、複雑な数種類の料理をいっぺんに作ろうとするのと同じ。それぞれの空き時間に、別の仕事を上手に組み合わせれば、短時間でも完成させることができる。
そう自分に言い聞かせながら仕事を進めた。


金曜日は朝8時から会議がある。
それには出席し、午前中に雑多な仕事を進め、午後になってから休みを取った。


職場を出て、高速道路に乗り、松代のSAでしょうが焼き定食を食べた。
満腹になって眠たくなってしまい、実際、ときどき目をつぶりそうになる。
運転に危険を感じるようになったので何とかたどり着いた駒ヶ根のSAで20分ほど寝た。
車のなかで寝ながら外を見上げると、新緑がまぶしく、青空が美しかった。


「俺たちはきれいな世界に暮らしている。」
コールド・プレイの歌詞が、何度も頭の中で蘇った。


病院に着くと、母の病室に着くまでの間にN95という高性能のマスクを装着した。
僕自身が風邪を引いているので、絶対にうつさないようにしなければならない。


母は、ちょうどシャワー室から戻ったばかりのようで、看護師に付き添われていた。
看護師がいなくなるまで、廊下でしばらく待っていた。


母に会うと「今週は来られないはずでは、なかったの?」と言う。
「大丈夫。日曜日は仕事だけど、今日明日は大丈夫。」
N95の大げさなマスクが僕の風邪を重く見せたのかもしれない。
「目が疲れているわよ。体に気をつけなさい。」
「俺のことは心配いらないよ。」
「今日は、シャワーを浴びたのだけど、やっぱり疲れて、なかなか立ち上がれなかった。」
母は1週間のうちに、何年も年を取ったように見えた。


母から茶渋をとって欲しいと渡されたステンレスのコップを持って、姉の家に行く。
姉にコップを洗ってもらい、話をする。
「どうだった?お母さん?」
「疲れてたよ。俺がN95をしていたせいか、泣いてたし。」


姉に茶渋を取ってもらったコップを持って、もう一度病院に行った。
病室のカーテンを開けると、寝ながら泣いていた。
「私に何かあっても、あなたはうろたえたりしちゃだめよ。あなたはできるんだから。」
「まだそんな話しは早すぎるよ。」
コップを渡して、帰った。


帰り道、お寺に寄ってお墓参りをした。
お寺は新緑の木々に包まれて、とてもきれいだった。


幼稚園の頃、家が火事になった。
祖父がお寺の本尊を彫刻したこともあって、僕はお寺に住んでいたことがあった。
和尚様を怪獣扱いして、自分はウルトラマンとして戦っていたらしい。
そして当時、高校生だったお寺の姉妹に随分とかわいがってもらった。
僕は一時期、このお寺からカトリックの幼稚園に通っていたのだ。
今でもお寺に来ると、どこか懐かしい気がする。


夜7時過ぎに、姪が、母に会いに行ったと電話をくれた。
「元気そうだったよ。」
「元気そう?疲れてなかった?」
「ううん。今週は仕事があるから、会えないって言っていたんでしょ。会えて嬉しかったって喜んでいたよ。ちょっとハイになってた。」
それを聞いて、ちょっと、無理をしてでも会いに来て本当によかったと思った。


土曜日には午後2時間くらい、話しをした。
そしてその夜、再び長野に帰ってきた。
明日の日曜日は朝から仕事だ。


帰ってくるとすぐに、薬が効きすぎて母が低血糖になって倒れそうになった話しを聞かされた。
俺が長時間話しすぎて疲れたのだと、姉から言われた。
「あなたが来ると、つい頑張っちゃうから。」


何も答えられなかった。
「ちゃんと聞いてる?」
電話口の姉の声を聞きながら、なんて言うか、世の中は、そう、僕の思ったようにはすすまないものだと思った。

連休明けと聞いていた母の退院が、先に延びた。
シャワールームでシャワーを浴びているうちに動けなくなってしまったという。
肺炎はよくなったが、今度は心臓がよくないらしい。


土曜日に長野から病院に向かう。
本人は気力を相当失ったようで、葬式の準備をするようにと僕に言う。
「喪主の挨拶も下書きを作っておいたから、これに手を加えなさい。」
「原稿を見ながらでもいいから、しっかりと挨拶しなさい。」という。


「まだ気が早いんじゃない?」
「早いくらいでちょうどいいの。私が小学校の教諭をしていたとき、児童に通知表を手渡すその日まで通知表を書いていた先生がいたけれど、そういうのが私は大嫌い。」
「わかるけど、早すぎる気がするよ。よくなると思わなくちゃだめだよ。」
お見舞いから帰ろうとすると、泣いている。
退院できなかったのはショックだろうけれど、困ったなあ、と思う。


土曜日の夜、夕食を食べに姉の家に行く。


カトリック系の幼稚園だったので、僕も姉も幼稚園での勉強はシスターや神父様に習った。
英語は外国人の神父様から習っていたが、彼はイタリア人なので、今から考えるとRの発音が極端に強い英語だった。
父親はファーゼール、母親はマーゼール。
僕は小学校6年まで、毎週1回は幼稚園に行って賛美歌を歌ったり、聖書の勉強をしたり(仏教徒だけど)、英語を習っていたけれど、学校で教える英語の方が間違いだと、その神父様はいつまでも言い張っていた。おかげで学校英語に最初はなかなかなじめなかった。
姉も小学校6年まで、週に1回幼稚園に行っていた。そして今でもシスターと連絡を取っている。


アフリカのシエラレオネにいるシスターから、母へのお見舞いメールが届いていて驚いた。
73歳になるシスターは、今でもバイクに乗っているらしい。
メールを扱っていることも驚きだ。
「アフリカからでも本当にすぐにメールって届くんだね。すごいね。」
母や姉が、昔、何度もこのシスターに手紙を書いて、それが全然届かなかったことを思い出す。
今ではアフリカからでも瞬時にメールが届くのか。


以前、トシオという中学校時代から友達の大工と話していたとき、彼が第2次大戦のシミュレーションゲームの話をしていた。
「日本は、勝てないんだよ。日本が必死になって戦艦を造っても、アメリカは、日本では考えられないペースで戦艦を造って送り込んでくるからキリがない。消耗戦になったら負けちゃうんだ。」
「絶対に勝てない?」
「勝つ方法が一つだけある。っていうか、見つけた。兵隊を訓練する費用とか、戦艦とか造る費用を全部、科学技術開発につぎ込むんだよ。そしてジェット戦闘機を開発すれば勝つ。」
そのときは笑っていたけれど、この話は僕にとって印象深くて、未だに科学技術開発と聞くと、絶対に伸ばすべきだと単純に思ってしまう。


科学技術って本当にすごいなって、今回、改めて思った。


何度も長野と実家を行き来して疲れたのだろうか?
今回僕も、軽い風邪を引いた。
日曜日の朝、起きたら扁桃腺が腫れて痛い。
何度もうがいをするが、全然よくならない。


夜になって、うがいをしようとして、長野の部屋にはうがい薬がないことに気づいてがっかりした。
それから、ふと、そう言えばハチミツって消炎作用があるんだったよなあと、昔、アロマで学んだ知識を思い出した。
お湯にハチミツを溶かして、うがいをしてみる。
半分冗談でやってみたのだけれど、本当に痛みがかなり和らいだので、ちょっとびっくりした。

昨年の5月は1ヶ月間に4日間しか休めなかったが、今年は暦通りに休むことができた。
楽しみにしていたゴールデンウィークも過ぎてしまえばあっという間だ。


ゴールデンウィークの間、ジムに行ったり、温泉に入ったり、おいしいものを食べたり、名古屋まで遊びに行ったり、いろいろとしたけれど、母が入院中ということもあって、その他のほとんどの時間は実家で1人で過ごしていた。


実家に1人でいれば時間は無限にあるように思っていたけれど、母親のベッドを搬入したり、掃除だの、庭を造ってくれた方への支払いだの、洗濯だの、その他つまらない仕事がかなりあって、自由な時間というのは少なかった。
もちろん、毎日、母親のお見舞いにも行かなければならない。
相変わらず、実家に帰ると信じられない時間寝てしまうし、心の底からつまらないと思いつつ、ついついテレビも観てしまう。


テレビでは、昨年「米軍基地を最低限でも沖縄県外に」と言っていた鳩山首相が、「やっぱり基地は沖縄県内に」などと言って非難を浴びている。
政府案というのは未だに公表すらせず、腹案のままだ。
鳩山首相を見ながら「何やってんだよ。」と思いながらも「そういうおまえも何やってんだよ。自分こそベストを尽くしていないくせに」と自分に言う。


かつて「国会議員は国民の代表。国民は決して自分たち以上の政治家を生み出せない。それが民主主義というものだ」と某憲法学者が言っていたのを思い出す。
「政治家の悪口を言うのは、自分たちに悪口を言うのと同じ。なぜなら、彼らは自分たちが投票して決めた代表なのだから。国会議員を見てバカだと思うのは、彼らを選んだ国民、あなたたちがバカなのだ。」


きっとその憲法学者の言ったとおりなんだと思う。
彼らの姿は、自分たちの姿なんだと思う。
俺の姿なのか、あれは。やれやれ。


肝心の勉強はゴールデンウィークの間、なかなか進まず、気持ちばかりが焦る。
焦ったって意味がないことはよくわかっている。
焦るのをやめて、単純にコツコツと勉強すればいいのだ。
わかっているけど、でもなかなか勉強に身が入らない。


夕方6時になると町内放送でビートルズの「イエスタデイ」がかかる。遊んでいる小学生に「帰る時間だよ」と知らせる音楽だ。
いろいろなことを反省しながらそのメロディを聴く。
しっかりしろよ、と自分に対して思う。


DVDでミッキー・ロークの映画「レスラー」を観た。


My Kiasu Life in JAPAN-wrestler

映画「ランブル・フィッシュ」でマット・ディロンの兄貴を格好良く演じていたミッキー・ロークだとは信じられないほど、風貌が変わっていた。


My Kiasu Life in JAPAN-homeboy
    (写真はホームボーイ)


ミッキー・ロークと言えば2枚目俳優の代名詞だった時代だってあるのだ。
それが…。


My Kiasu Life in JAPAN-wrestler-1

My Kiasu Life in JAPAN-wrestler-2

My Kiasu Life in JAPAN-wrestler-3

死の危険を感じながらも伝説のレスラーとして、そしてファンのために、トップロープに上るミッキーロークの姿はとてもリアルで、彼自身も今、ギリギリのところで演じているのだという思いがした。


「第9地区」という映画を映画館で観た。


My Kiasu Life in JAPAN-district9

最前列しか空いておらず、またその最前列がとんでもないところにあって、超仰角で観た。
あまりに仰角過ぎるので、最前列にはリクライニング機能でもついてるのかと思って、レバーを探したけれどそんなものはなかった。


エビのような宇宙人が、地球にやって来る。
彼らは残飯をあさり、キャットフードが大好物だ。


My Kiasu Life in JAPAN-district9-1

人類は彼らを「第9地区」に隔離し、その後もっと住環境の悪い「第10地区」に移転させようとする。
反対する宇宙人を殺し、強制的に移転させようとする人間。
そこで、事故が起こり…。という内容。


My Kiasu Life in JAPAN-district9-2

深い意味合いを感じるハードSF映画で、この映画から引っ張り出される教訓は幅広いだろう。
僕にとってはストライクの映画で、考えどころが豊富ないい映画だった。
臆病者が1人も出てこない勇敢な映画で、そういう面も気に入った。


ゴールデンウィークも今日でおしまい。
実家から長野に帰ったので、夕方に流れるイエスタデイももう聴けない。
今となっては、ゴールデンウィークだった昨日に戻りたい。

先日、上司が「9.11の世界貿易センタービルへのアルカイダのテロ攻撃で大儲けした人たちがいる」という話を残業している隣の席でしていた。
「あの事故が起きることを知っていて、あの航空会社の株を大量にカラ売りをしていたんだ。」
「将来、何が起きるかわかっていれば、当たり馬券がわかっていて馬券を買うようなものだから、それは儲かるでしょうね。」
「アメリカでは、そのことを知っていた人は何人もいたって話だよ。」
「まあ、いたのかもしれませんね。」


そんなこと、でもあり得るのかなあなんて思いながら、帰りの車のなかで考えていた。
そのとき、ふと、あの事件を起こした当事者たちなら知っていて当然だ、ということに思い当たった。
つまりテロを起こしたアルカイダ自身が、飛行機会社の株をカラ売りすれば、アルカイダは大儲けできる。
そいういうことであれば、アルカイダが関与している株取引先を見張っていれば、そこが大量に飛行機会社の株取引を始めたら、アルカイダが何らかの事件をその飛行機会社で計画していることがわかる。


確かに、一握りのその情報を知っている人たちは大儲けできるよなあって思ったし、テロがビジネスに使われて、合法的に多額の利益を得られることに思いが至って、テロもビジネスなのか、と思った。
ひどい話しだ。


今週末も実家に帰った。
母の顔色も少しずつよくなってきた。でも、体力があまりになくて、早く回復するように祈るばかりだ。


実家では、姉と徹底的な掃除の続きをした。
棚の掃除もしたし、冷蔵庫の中身をすべて出して、分解できるパーツはすべて外して掃除もした。
大量のゴミが出て、あまりの量に驚いた。
「来週は庭。」帰るとき、姉はそう言い残して帰って行った。


庭かあ。めんどくさそうだ。


自立支援用というベッドの注文もした。
何十万もすると思って身構えていたけれど、10万円前後で買えることがわかって少しほっとした。


実家に帰ると、本当によく眠れる。
土曜日は夜8時頃には眠たくなってしまい、それから朝7時頃までずっと眠ったままだった。起きてから2度寝して、姉が掃除に来た朝8時頃までまた寝ていた。


今まで職場の昼休みにずっと読んでいたティナ・シーリグの「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」(阪急コミュニケーションズ)をようやく読み終わった。


My Kiasu Life in JAPAN-20歳のときに知っておきたかったこと

起業家向けの考え方を教える本で、決して読みやすい本ではないけれど、考えどころの多い本だ。
「1000のルールを教えるよりも、3つのしてはいけないことを教えるべき」とか「成功と失敗の比率は一定で、何もしないことが最悪の選択」というあたりはなかなかよかった。
一番印象深かったのは著者の父親が、人生で一番大切なことは「自分に対してはまじめすぎず、他人に対しては厳しすぎないこと」だといった話しだ。
僕の考え方に近く、僕もそうありたいと思っている。


ユーキャンの全10冊のテキストのうち、7巻目の「憲法」だけは、家のトイレに行くたびに必ず読むことを自分に義務づけていた。
内容もそんなに難しくもなく、簡単に読めたこともあって、この「憲法」が真っ先に読み終わった。
勉強では、簡単なところから終わらせていくのが筋なので、それでもいいけれど、勉強を進めているはずの民法はなかなか前進せず、困ったものだと思っている。


2週間ほどかけて観ていたDVD「ジェイミーのラブリー・ダイニング新たなる挑戦」もようやく観終わった。


My Kiasu Life in JAPAN-ジェイミーのラブリーダイニング

いつか家を建てるときは、でっかいオーブンが欲しいなあ。
彼の番組を観るたびにいつも思うのだけど、今回もそう思った。

今週末も、実家に帰り、病院に行って母親を見舞った。
先週末からはだいぶ回復をして、酸素吸入も点滴も、モニターももう外れている。
それでも、体力が消耗しているのか、ずいぶんと老けて見えた。


医師からも話を聞き、危険な状態は脱したことがわかった。
肺の機能もある程度は回復した。
退院まではまだ1月くらいかかりそうだけど、それでも快方に向かっていることは嬉しいことだ。


レントゲンを見ながら、医師がどれだけ危険な状態から回復をしたのか教えてくれる。
「もう少し病院に来るのが遅かったら、今頃は初七日をしていたのね。」
医師の話を聞きながら、母が僕に言う。
「ふざけるな。」
言いながらも、安心して笑った。


入院した前日の夜、母親が詩の朗読をしたときの記事が、地方の新聞に出ていた。
ピアノにもたれかかりながら、一生懸命立っている姿が写っていた。
やめさせればよかった、どうしてやめなかったのか、と言う声をいくつも聞いたけれど、「何ヶ月も前から決まっていたことなんだから、やめられるわけがない」のだそうだ。
「やらなかった後悔は、やった後悔より深いって言うよね。」
ベッドサイドで僕が言うとその通りだと少し笑っていた。「こういうことは死んでもやらなければいけない」のだそうだ。


急速に肺の機能が低下した原因はよくわからなかったけれど、本人に言わせると、カビ取り剤をかけて壁をこすった後からつらかった、というので揮発した塩素がよくなかったのかもしれない。
それから、今までマスクなしで作品の仕上げに使っていたラッカーシンナーもよくなかったのかもしれない。


直接的な理由がハウスダストなのかもよくわからなかったけれど、家のなかのハウスダストを減らそうと、土日は姉と実家の掃除をした。
東芝のタイフーンロボという掃除機を使って掃除したのだが、多少うるさいものの、性能がよくて気に入った。
いろいろと掃除しているうちに疲れて、土曜日は10時間くらい寝た。
やはり、実家に帰ると信じられないくらい寝られるものだ。


週末はそんなわけで、あんまり勉強をしなかったけれど、最近、法律の本を読んでいると、昔よりも理解力が増しているのに気づく。
現役の法学部の頃よりも理解がきちんとできているような気がする。
社会生活を送るという実践のなかで論理操作が鍛えらたせいなのか、いろんな資格試験を受けてきたせいなのか、原因はよくわからないけれど、昔よくわからなかったことも今ならよくわかる。


精神年齢が上がったからなのかも知れない。
「ようやく法律の勉強ができるようになった」ような気がする。


小学生のときに何度か受けた知能検査。これは、精神年齢を測る試験なのだと聞いたことがある。
僕はいつも高かった。
「記号問題はわからなくても、とにかく書くことが大切だ。運がよければ、当たるかもしれない。」
そう父親から教わっていたので、知能検査のときも、問題を見る前に、全部の問題に解答を記入していたからだ。
父親が言うように、運がよくて当たる解答もある。
そんなわけで、僕は知能テストの点数は高かったけれど、当然のことながら、実感はあまりなかった。


突然、できるようになっているという思いをすることが、僕は何度もある。
英語も高校3年の3月までまったくわからなかった。
10段階評価で3年間ずっと4だった。


何か事件が起きて、外国語の試験科目が、突然ドイツ語とかにならないかなあ。そうすれば、他の受験生と同じスタートラインに立てる。
そんなことばかり考えていた。
高校3年の10月からちゃんと勉強しようと思ったけれど、勉強方法もわからなかった。
英語の授業中は、隣の席のちづるちゃんって名前の女の子と、ノートや教科書に毎回筆談をして時間をつぶしていた。それはそれで楽しかったけれど、それだけだった。
でも3月になって、すべての大学に落ちたら、自然と勉強方法が身についた。
ちゃんとした英語かどうかはわからなかったけれど、英語っぽい(正解っぽい)英語の書き方がマスターできてきていた。
そのときも思った。
「ようやく英語を勉強できるようになったんだ」って。昔の自分を責めないようにしよう。
だって、勉強の仕方が全然、わからなかったんだからしょうがないよ。


勉強ができないとき、自分はその勉強をするには精神年齢が低いんだって思うのも一つの手かも知れない。
そして、大人になるように努力するのだ。
良質の映画を観たり、本を読んだり、美味しくて高価な食事に行くのもいいかもしれない。
どこかで、正しいやりかたが突然、身につくことがあるかも知れない。


昔「船になりたくなかった船」という本を読んだことがある。


My Kiasu Life in JAPAN-the boat who wouldn't float

※読んだのはこの翻訳本。

あんまり正確ではないけれど、父親と2人の息子が、社会から切り離された無人島で暮らしていた話が印象深かった。


彼らは、猟をして生活をしていた。彼らの他には誰もいない無人島で暮らし、外の世界に行ったこともなかった。
あるとき、父親が死んだ。
2人の息子たちは、父親の皮をはぎ、天井の梁からぶら下げた。
死んだ獲物をそうしていたからだ。


この話を主人公にした人は、確かこんなことを言った。
「2人の息子を責めることは誰にもできない。彼らは死んだものに対するほかのやり方を知らなかったんだから。」


「ほかのやり方を知らなかった」って悲しいことだと初めてその本を読んだときも思った。
僕も、正しいやり方を知らなくて、正しいやり方さえ知っていれば楽なのに、不必要に苦しんでいる部分が多くあるのだろうと思う。


精神年齢がもっとあがって、もっと適切な対処ができるようにならないかなって、僕は未だにそう思ったりする。

金曜日は花見だった。職場から歩いて15分くらいの桜の名所に行く。
桜はまだ1つも咲いていない。
予約したのは僕の前の幹事で、激戦だからと1か月も前に予約を入れていた。
桜がいつ咲くかは賭けなので、仕方がないといえば仕方がない。


今年度から幹事なので、始めから最後まで飲み会の場所にいなければならない。
「俺は明日、名古屋に花見に行くから、今日は1次会で絶対に帰る。」


宣言していたのに、「どうしてそんなさびしいこと言うんですか」などと言われる。
会計をすませて外に出たら、他の係の係長ら5人ほどが僕が来るのを待っている。
一緒に行かないわけにはいかない。


結局2時まで飲んでいた。
帰りのタクシーで眠ってしまい、「目的地がわからなかった」という運転手に全く違うところに連れて行かれた。
普段使っている代行の2倍ほども料金がかかり、ため息が出た。


8時頃に起きた。
思ったよりは軽い2日酔いだった。でも2日酔いになること自体が間違っている。
鏡を見て疲れてるなあ、と思う。肌もぼろぼろだ。
そういえば、昨日の飲み会で、悩み事を相談されて「問題が起きたら俺が戦う」なんて言っていたのを思い出して「何言ってたんだ、俺。」と急速に自己嫌悪に陥った。


12時過ぎにワイドビューしなのに乗って名古屋に向かう。
電車のなかではユーキャンのテキストや石川九楊の「書く-言葉・文字・書」(中公新書)を読んでいた。
「書く」とはいったいどういうことなのかを書家が追求をした本だ。


My Kiasu Life in JAPAN-書く

まだ最後まで読み切れていないけれど、書くことに対する情熱が伝わってくる。
「書くと言うことは、その人が何を思い、何を伝えようとしたか。筆記具と紙による過程の記録だ。」
そう作者は主張する。


「車だって、ぶつかるときは正面からぶつかるのが一番被害が少ない」などという文章を読むと「そうかあ?」なんて思うし、ワープロは「書くことへの愚弄」、という主張も「?」だけど、熱い思いは伝わってきた。


ホテルは栄のアパホテルだった。
宿泊日を僕が間違えていたらしく、前日に泊まる予定になっていたと言われる。
それでも、同じ条件で泊めてくれて、キャンセル料も取らないように手配してくれる。
親切だなあ、と思った。


夜、イタリアン・レストランで小さな飲み会があった。
思っていたよりもずっと楽しい飲み会で、飲んでいるうちに体調もよくなってきた。
イイダコは中身(卵)が煮ると米粒のように見えるから、その名前がついているのだと教えてもらったりした。
昔話をしたり、いろんな話をして楽しかった。


翌朝8時頃に起きて、シャワーを浴びようとしたら、姉から電話があった。
母親の体調が悪く、入院するのだという。
いろいろと考えて、いったん、長野まで戻って、それから2時間ほど運転をして実家にまで帰ることにした。


病院に着いて、母のベッドまで行くと、苦しそうに目をつぶっている。
「大丈夫?」
昨日は、岐阜でコンサートがあって、そのなかに短い出番があって、詩の朗読をしたのだそうだ。
家に帰ってから血痰が止まらなくなって、動けなくなったのだという。


5時から医師の説明があった。休日なのに僕たちへの説明のため、出勤してくれていた。
姉や、姉の夫(医師)もいっしょに説明を聞いてくれる。
突発的なことがなければ急に死ぬようなことはないけれど、肺の機能がかなり損なわれているので、治療に2~3週間ほどはかかるらしい。
しばらくは、お見舞いも断った方がいい。


説明を聞いているうちに、涙がこみ上げてきた。
母親の死が突然に現実化したような気がした。


日曜の夜は、実家で1人で過ごした。
いつもは実家に帰ると、信じられないくらいに寝られるものだが、この日の夜はなかなか寝付けず、眠りも浅かった。

上司が、今度転勤してくる人と電話で話しているのを、何となく聞いていた。
「4月1日の9時からオリエンテーリングがありますので、よろしくお願いします。」
なんて言っていたので、電話が終わったあと、オリエンテーリングって地図とコンパスを持って走るスポーツですよ。ガイダンスをするのは、オリエンテーションです、と言う。
「相手も意味がわかっていたから、それでいいんだ。」
「それはそうですけど。」


ハイキングに行くような格好をした人が、コンパスを握りしめて上司の話を聞いている姿が目に浮かび、仕事をしていても、何となくおかしくなって笑ってしまった。


4月1日には、歓迎会があった。4月9日には花見があるので、そのときに一緒に飲み会をやればいいような気がしたけれど、上司の指示なので仕方がない。
問題なのは、俺が毎回、幹事をしなければならないことだ。
通知文を書いて、出席確認をして、座席を決めて、司会をする。
めんどくさいよなあ、と毎回思う。


翌日の2日の朝8時から会議があるので、4月1日も飲まなかった。
飲まない飲み会ってつまらないなあ、と思いながら幹事席に座ってただひたすら食べていたら、残って仕事をしていた人たちが呼びに来て、仕事を手伝って欲しい、と言う。


仕事を手伝っていたら、9時までかかってしまった。
飲み会だから当然、残業代はつかない。
なんだかいつも俺はタイミングが悪いよなあ、と思う。


週末はフリーだった。
4月2日の金曜日に誘われたけれど、飲みに行かなくて正解だった。
飲んでいたら、きっと土曜日は一日中、2日酔いで苦しんでいたはずだ。


土曜日は朝9時から髪の毛を切りに行き、日曜日は夜の6時から爪の手入れに行った。
最近、仕事で大量に紙を扱うせいで、指先が切り傷だらけだ。
爪の先も割れたり欠けたりしていて、見せるのが恥ずかしいような有様だったけれど、丁寧に手入れをしてくれて嬉しかった。
爪もかなり短くしてもらった。これでもう、紙に引っかかることもない。


勉強は、ユーキャンの民法のテキストを「総則」まで、憲法のテキストを「人権」まで読み終わった。もちろん、ダラダラと読み終わったと言うだけで、特に問題が解けるようになったわけではない。


それから有斐閣の「会社法」LEGAL QUEST も読み出した。


My Kiasu Life in JAPAN-会社法

まだほとんど読めてないし、本格的に読むのはゴールデンウィークあたりだと思っているけれど、確かに多くの人が絶賛するようにわかりやすそうだ。


それから、俺は昔っからケアレスミスが多かったんだけど、それをいつまでも放置しておくのはよくないなあ、と思っていた。
それで、ベネッセコーポレーションの『「うっかり」をなくそう! 文章読みトレーニング 読みトレ』という小学生向けのDSソフトを買って、やりはじめた。


My Kiasu Life in JAPAN-文章読みトレーニング

できるのは当たり前だけど、小学生の頃はこんな問題も難しいって思いながら勉強していたんだよなあ、なんてことを思い出して懐かしかった。

金曜日は職場の送別会だった。
送別会の規模は30名ほどの小さな会だ。僕は幹事で司会をした。
餞別を渡したり、誰がどのくらいの間勤務して、どこに転勤になるか報告をする。
準備をしながら送別会のルールってのもいろいろとあるんだな、と思った。


今までいた観光や土木関係の世界は、飲み会で早めに座の雰囲気が砕けるものだが、女性が多いせいか、会そのものは落ち着いた雰囲気だった。
会場も料亭で、床や階段が磨き込まれていて、滑りそうなほどだった。
働いている人は皆、上品な着物姿で、こういう世界もあるんだなあ、と思った。


一次会で帰るつもりだった。
最後に料亭の人にあいさつをして外に出たら、「僕と飲みたい」と前から言っていた、中途採用の人が僕を待っていたので、一緒に飲みに行った。
飲み始めると、どうして俺は無意味に元気になるのだろう?
代行がつかまらなかったせいもあって、結局4時まで飲んでいた。
帰りの車のなかで本当に俺はバカだと思った。


翌朝、まだ酔いが覚めきらないうちにクリーニングに行ってスーツを出したりした。
それから2日酔いのだるさで、夕方頃までダラダラと過ごしていた。


「17歳のカルテ」のDVDを最後まで観て、演技はどの女優もすごいと思ったけれど、共感はできなかった。


My Kiasu Life in JAPAN-girls interrupted

My Kiasu Life in JAPAN-girls interrupted2

My Kiasu Life in JAPAN-girls interrupted3

それでも主人公の女の子が境界性人格障害で苦しんでいるのを見ながら、俺も昔は世間ってものになじめないって思いを持っていたよなあ、と思い出した。
高校の頃、学校に行かずに図書館に行ったり、午後の授業は全部サボったりしていたけれど、あの頃の感覚を僕はもうほとんど忘れてしまった。
反体制と言っても雰囲気だけで、ではどういう体制ならおまえは満足できるんだ?と正面から聞かれたら何も答えられなかったあの頃。
甘えていたといえばそれまでだけど、それなりにきちんと悩んでいたように思う。
あの頃の感覚を捨ててしまったことは、人生全体から見ればよかったことだろうけれど、少しさびしいような気がするのも事実だ。


僕にとって2日酔いの一番きつい症状は自己嫌悪に陥ることだ。
本当に心の底からテレビ番組が嫌いだけれど、テレビを見続けるってことはそんなに難しいことじゃない。
テレビを見ていると、時間を効率よく無駄にできる。
俺は何をやっているんだと自問する。
フィギュアスケートのキム・ヨナは毎日10時間の練習を積んでオリンピックに向かったそうだけど、おまえは30分、テキストを読むことすらしないじゃないか、とまともな自分が僕を責める。


日曜日は完全に回復していたけれど、なかなか勉強は進まなかった。


午後は3時から三菱に車を持って行って、点検とタイヤの履き替えをしてもらった。
2時間ほどかかるというので、その間、マンガ喫茶でテキストを読んで時間をつぶした。
気づいたら、うたた寝をしていた。なにやってるんだよ、俺は。


車は洗車もしてもらい、車内もきれいになっていた。
タイヤの履き替えはサービスしてくれるのだという。
「親切だなあ。」
本当にそう思ったので、そう言った。


せっかくのフリーの土日だったのに、俺はろくな過ごし方ができなかった。
大して難しくもない民法のテキストを50ページほど読んだだけだ。
キム・ヨナは1日10時間も…。


「うるせーな。」
高校時代の感覚が、少し戻ってきたような気がした。