「16日の日曜日は、朝から仕事が入っているから、来週末は実家に帰れないよ。」
先週末、母にはそう話していた。「お見舞いにも来られない。」
10日の火曜日の夜、姉から電話があった。
母の微熱が続き、月曜日は一睡もできず、姉と僕に会いたがっていたらしい。
翌朝、姉が母と会ったら、「会えてうれしい」と言って泣かれてしまい、僕は何をしているのかと何度も聞かれたのだという。
「仕事でしょ。」姉はそう答えたという。
仕事に身が入らなくなった。
いろんな仕事の打ち合わせをしながら、「こんなことは本当のところ、俺にはどうだっていいんだ」と叫びだしたいような気分になった。
こんなくだらない仕事のために、俺は病気の母親に会いにも行けないのかと思ったら悲しく、そして情けなくなった。
カリフォルニアに住んでいるクリスに「母が病気になった。仕事が忙しくて、会いに行けない。仕事を辞めようかと思うけど、どう思う?」とメールで聞いてみた。
「それはタフな質問だ。日本は不景気なんだろ?今辞めて、就職ができるのか?」そう返事が来た。
姉も仕事は辞めない方がいいと言う。
僕自身は、大抵の仕事であれば自分にはできるような気がしていたけれど、2人には、俺には見えていない現実が見えているのだという気がした。
週末、どうしようか?
「私なら、ちょっと無理をしてでも会いに行く。会えば、きっと元気が出ると思うから。」
そんなメールをくれた人がいた。
水曜日と木曜日は、「仕事を合理的に進めるんだ」と自分に言い聞かせながら、くだらない仕事を片付けていった。
仕事は、複雑な数種類の料理をいっぺんに作ろうとするのと同じ。それぞれの空き時間に、別の仕事を上手に組み合わせれば、短時間でも完成させることができる。
そう自分に言い聞かせながら仕事を進めた。
金曜日は朝8時から会議がある。
それには出席し、午前中に雑多な仕事を進め、午後になってから休みを取った。
職場を出て、高速道路に乗り、松代のSAでしょうが焼き定食を食べた。
満腹になって眠たくなってしまい、実際、ときどき目をつぶりそうになる。
運転に危険を感じるようになったので何とかたどり着いた駒ヶ根のSAで20分ほど寝た。
車のなかで寝ながら外を見上げると、新緑がまぶしく、青空が美しかった。
「俺たちはきれいな世界に暮らしている。」
コールド・プレイの歌詞が、何度も頭の中で蘇った。
病院に着くと、母の病室に着くまでの間にN95という高性能のマスクを装着した。
僕自身が風邪を引いているので、絶対にうつさないようにしなければならない。
母は、ちょうどシャワー室から戻ったばかりのようで、看護師に付き添われていた。
看護師がいなくなるまで、廊下でしばらく待っていた。
母に会うと「今週は来られないはずでは、なかったの?」と言う。
「大丈夫。日曜日は仕事だけど、今日明日は大丈夫。」
N95の大げさなマスクが僕の風邪を重く見せたのかもしれない。
「目が疲れているわよ。体に気をつけなさい。」
「俺のことは心配いらないよ。」
「今日は、シャワーを浴びたのだけど、やっぱり疲れて、なかなか立ち上がれなかった。」
母は1週間のうちに、何年も年を取ったように見えた。
母から茶渋をとって欲しいと渡されたステンレスのコップを持って、姉の家に行く。
姉にコップを洗ってもらい、話をする。
「どうだった?お母さん?」
「疲れてたよ。俺がN95をしていたせいか、泣いてたし。」
姉に茶渋を取ってもらったコップを持って、もう一度病院に行った。
病室のカーテンを開けると、寝ながら泣いていた。
「私に何かあっても、あなたはうろたえたりしちゃだめよ。あなたはできるんだから。」
「まだそんな話しは早すぎるよ。」
コップを渡して、帰った。
帰り道、お寺に寄ってお墓参りをした。
お寺は新緑の木々に包まれて、とてもきれいだった。
幼稚園の頃、家が火事になった。
祖父がお寺の本尊を彫刻したこともあって、僕はお寺に住んでいたことがあった。
和尚様を怪獣扱いして、自分はウルトラマンとして戦っていたらしい。
そして当時、高校生だったお寺の姉妹に随分とかわいがってもらった。
僕は一時期、このお寺からカトリックの幼稚園に通っていたのだ。
今でもお寺に来ると、どこか懐かしい気がする。
夜7時過ぎに、姪が、母に会いに行ったと電話をくれた。
「元気そうだったよ。」
「元気そう?疲れてなかった?」
「ううん。今週は仕事があるから、会えないって言っていたんでしょ。会えて嬉しかったって喜んでいたよ。ちょっとハイになってた。」
それを聞いて、ちょっと、無理をしてでも会いに来て本当によかったと思った。
土曜日には午後2時間くらい、話しをした。
そしてその夜、再び長野に帰ってきた。
明日の日曜日は朝から仕事だ。
帰ってくるとすぐに、薬が効きすぎて母が低血糖になって倒れそうになった話しを聞かされた。
俺が長時間話しすぎて疲れたのだと、姉から言われた。
「あなたが来ると、つい頑張っちゃうから。」
何も答えられなかった。
「ちゃんと聞いてる?」
電話口の姉の声を聞きながら、なんて言うか、世の中は、そう、僕の思ったようにはすすまないものだと思った。