(承前)
立体を切断して2つの立体に分離した場合、切断面は2つの立体のどちらかのみに属し、他の立体には切断面が存在しない。‥‥‥デデキントの「直線の切断」にもとづく現代数学ではこのように考えるらしいが、はたして妥当なのだろうか、という疑問は、疑問自体がなかなか理解されないようだ。
たとえば受験算数ではこのようには考えない。切断面は、切り離した両方の立体に当然存在すると考えるし(どちらかに切断面が無いなどとは青天の霹靂だろう)、世間の常識もそうだろうから、デデキントが「直線の切断」について、なんでそんなことを言っているのか理解されないだろう。
デデキントは、「有理数の切断」で無理数を定義し、実数の連続性を保証し、連続性の本質とは、「直線の点の組分け(これを「切断」と呼んだ)を引き起こす点、直線の二つの半直線への分割を引き起こすような点がただ一つだけ存在する」ことだと述べた。(『数について』岩波文庫、20-21頁)
デデキントの「直線の切断」では、切れ目になる点は、一方の半直線に属し、他方の半直線には端の点が存在しないことになるのだ。
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アリストテレスは「連続的」と「接触的」と「継続的」を区別して、「末端が一つであるものどもは連続的」であり、「連続的なものは、接続するものの一種」で、「接続するものどものが互に接触し合うところのおのおのの限界が〔たんに一緒にあるのではなく〕同じ一つのものとなるとき、連続的である」。また、「線が連続的であり、点が不可分割なものであるからには、線が点から成ることは不可能である」とも述べている。(『自然学』岩波書店版アリストテレス全集3、204、221頁)
つまり、こういうことになる。別々の連続しているもの、たとえば2本の線分を考えよう。「線の端は点である」とはユークリッドの定義である。この2本の線分の末端が互に接触するだけではなく、同じ一つのものとなったとき、2本の線分は連続した1本の線分になる、とアリストテレスは言っている。この時間の流れを逆にすれば、1本の線分が2本の線分に分かれたとき、分かれた線分の末端には元は同じ1つの点だった2つの点がある。
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「連続性」については、私は、アリストテレスの文章の方を先に読んで知っていたので、何年か後にデデキントの文章を読んだときには納得できなかったし、アリストテレスの文章について一言も触れずに、デデキントが連続性の本質を前記のように述べ、「読者の大多数は、連続性の秘密がこのように平凡な取るに足りないことによって解き示されるべきだと聞いてはなはだ幻滅を感ずるであろう」と書いていることにも釈然としなかった(いまもしていない)。デデキントとアリストテレスを共に俎上に載せて論じている文章はあるのだろうが、不勉強でいまのところ後に引用する文章しか知らない。
大森荘蔵が「羊かんの切り口には羊かんはない」というときの「切り口」とは、包丁で切った羊かんが切り離される前の切断面のことのようで、有理数を無理数のところで切れば、有理数の切り口には有理数がないので、その切り口を無理数として定義して実数を連続させたように、羊かんの切り口に羊かんを注入すれば羊かんの連続性が保証されるだろう。
しかし、いま問題にしているのは、切断面が1つなのか2つなのか、ということなのだ。
以上縷々述べてきたことと同じ問題意識のもとに書かれた文章を国会図書館で見つけた。
中村伊作「ゼノンの運動否定論とデデキントの切断について」(日本大学工学部紀要、1971.03)
デデキントは、点を直線の要素と考えていて、その点は、「不可分割の個別的存在というピタゴラス的観念を残しているのではないか。その結果次の様な矛盾が指摘される」として、中村さんが挙げた例の2.が次である。
「x軸を軸とする回転体例えば円柱を作り、x軸に垂直な平面Pで切断し、2つの円柱に分ける。平面Pはx軸をも切断するが、その切断点aをデデキントに倣って半直線の一方に属せしめ、他方を無端とする。その時平面Pの方程式がx=aである以上、平面Pは一方の円柱に属し他方の円柱の切断面は無端即ち切口に平面がない事になる。面を有たぬ立体は明らかに矛盾である。」(26頁)
と述べ、「これらの矛盾は2つの半直線が共に有端aとすれば除くことが出来る」としている。
中村さんの問題意識は、私も共有するし、教えられるところも少なくなかったが、「面を有たぬ立体は明らかに矛盾」という下りは疑問である。
ここでいう「矛盾」とは、現実にはありえないという意味なのだろうか。数学は「自由」だから、立体を閉じる面の部分を欠く立体、端の点を欠く線分も考えられるし、現代数学はその方向に発展しているようだ。
つまり、直線を1点で切断して2つの半直線に分けたとき、切断箇所にあたる1点を1つの半直線のみに属させ、他を無端にすること(デデキントの考えたこと)も、1点を2つの半直線に属させ、1点から2点を生じさせること(アリストテレスの考えたこと)も、その後の論理展開に矛盾が生じなければどちらも「自由」なのだと思う。
しかし、デデキントが前者を採り、後者を省みなかったのは、後者から出発すると論理的に矛盾が生じることを証明したからというより、そもそも後者を前提とすること自体が矛盾だと思ったからではないのだろうか。(そして後続する数学者たちもそれを当然と思った。)
1点から(自然に)2点が生じることは、数学の世界ではありえない、同一の1点が同一の2点になることは、数学の世界ではありえない、と。
はたして、そうなのだろうか。
それは、点を「物」のように考えているからではないのだろうか。
現実世界に存在する「或る物」は、ここからあそこに移動させることができ、移動しても同一性は保持している。ここに在るときには、あそこには存在せず、こことあそこに同時に存在することはない。また、或る物が或る空間を占めて存在しているときには、別の物が同時にその空間を占めて存在することはない。‥‥などが「物」の物たる所以だろう。
点をそのような「物」と暗黙の内に考えているのではないだろうか。
しかし数学(幾何学)が対象とする図形は、物ではないはずだ。図形は、物の形から抽象された「形」であって、物ではない。物には二つとして同じ物は存在しないが、形なら、まったく同じな合同の形はいくらでも存在する(と考える。だから、金太郎飴の2つの切断面に並ぶ糖分の分子は異なっていても、そこに現れる形は、全く同じ(正確には鏡像)と考えられる。)
立方体も、円も、長方形の辺も、三角形の頂点も、そして点も、そのような「形」だろう。面や線が形であるように、点も形だろう。
しかし、点を、面や線という形をつくる元になる「物」のように考えている疑念が、デデキントにある。(アリストテレスにさえある。)
数学の対象は、数と形といわれてきた。数は、物の数として生れたのだろうが、物(自然)ではない。負数や虚数が虚構(文化)であるように自然数も虚構(文化)である。形も、物の形から認識され始めたのだろうが、物ではない。同じ物が二つ存在することは現実世界では矛盾であっても、数学では同じ形がいくつあっても矛盾ではない。
円柱の1つの切断面(縦方向でも横方向でも、斜めでも)を考える。その切断面で円柱を2つの半円柱に分けると、切断面が2つの半円柱の切り口にそれぞれ現われるから、1つの切断面が2つの全く同じ切断面となる。こう考えても論理的に矛盾しない数学になるのではなかろうか。