「命数法ありて後数あり」 | メタメタの日

「数を表す言葉(数詞)がなくても数の観念は存在するのか?」

数詞を欠くピダハン語や「一,二,たくさん」という貧弱な数の体系しかもたない言語や,幼児教育をめぐって,現在,言語学や脳科学などでホットなテーマに,29歳の高木貞治は,『新式算術講義』(1904年)でこう答えています。

「或数に名なきは其数なきにあらざるなり」(ちくま学芸文庫版17頁)

 高木は,この直前に,「順序数の原則」について書いています。「ペアノの公理系」に似ていますが,クロネッカー「数の観念につきて」,ヘルムホルツ「数ふること及計ること」,デデキント「数とは何ぞや」などの文献をあげていますが,ペアノ「数の概念について」(1891年)はあげていません。

 高木は,こう書いています。

「所謂最初の数を1と名づけ,直ちに1に次ぐ数を2,直ちに2に次ぐを3と名づく。斯くの如くにして如何(いか)なる数に及ぶとも,(略)其数に次ぐ数必ずあるべきにより,あらゆる順序数に一つ一つ命名せんことは語の数に限りあるべき吾人の語彙の能(よ)くすべき所にあらず。(略)凡ての数に命名すべき必要は何処(いづく)にか在る。(略)吾人の有する凡ての観念が必ずしも一々其名を有すべき必要は何処にかある。或数に名なきは其数なきにあらざるなり。」(1617頁)

 そして,いかなる数でも,ある符号で書くのは容易で,最初の数を・,その次は・・,その次は・・・とすれば,どんな数でも書き表すことができるが,こんな記数法は実用的でない,とした上で,

「命数法,記数法は理論上の問題に非ずして実用上の問題なり。(略)十進法の説明は,数の加減乗除を説きたる上ならでは理論上なし得べからざることに属す。」(17頁)

 これは,十進法による命数三百五十七,記数357は,3×10^25×107という四則演算を前提にしていることを指しているのでしょう。

 そして,こう断言します。

「数ありて後命数法あり」(47頁)

 

 はたして,そうでしょうか? 

論理的には(あるいは,一つの論理としては)そうなのでしょう。

高木によれば,先ず「名なき数=数の観念」があり,次に十進法などの命数法によらずに「名が付いた数」が存在し,その数を用いて,加減乗除の四則演算の法則・原理が説かれ,而して,十進法などの命数法が可能となり,「名が付いた数」に改めて命数法で名がつくという構成のようです。

 しかし,始まりにある,何とも命名されていない「名なき数=数の観念」とはどんな観念なのでしょうか? 大小,多少だけを持った「量」でしょうか。しかし,高木は,この書では,「量と称するは連続的の量に限れり。此故に物の数などは之を量の圏外に排斥せり」(216頁)としています。大小・多少の量の圏外にある「物の数」の観念は,順序だけを持った「順序数の観念」のようです。(補注※1



 命名される以前から存在する「数の観念」。プラトニズムもカント哲学も現代の脳科学も,それを否定はしていないでしょう。しかし少なくとも,脳科学が存在を認める「数覚」は,量的直観を伴ったもののようです。(※2

 一方,ある数の観念に数詞が命名されることでその数の観念がはっきりすることは,4までの数の体系しか持たないアマゾンに住むムンドゥルク(Munduruku)と完全な数の体系を持つフランス国民との,同じ実験に対する正答率の違いからも明らかです。

http://www.sciencemag.org/content/306/5695/499.full.pdf



 高木の論理構成では,数の観念→数の加減乗除→命数法,という順序になるようですが,歴史は,少なくともこういう階梯は踏まなかった。

 人類は,「一,二,たくさん」などの原初の数の体系を,数詞を付け加えることで拡張していった。最後は,どの民族も十進法の体系に至ったが,それは,手指の数が10本だったことが定説となっているが,その過程では,二進法,三進法,四進法,五進法,十二進法,二十進法などが現れた。それらは,それぞれ,23から20までを1かたまり(チャンク)として,チャンクの数とチャンクからはみ出る個数(あるいはチャンクに足りない数)として表象され命数化されていった。さらに,チャンクのチャンクが新しい大きなチャンク,つまり,次の「位」となった。(レオナルド・コナント『数の起源と発達』1896年,寶文館1934年) 加減乗除の演算が命数法の前提にあるのではなく,この位取り命数法の原理(いくつ分のチャンクと個数の和あるいは差)が一般化されて四則演算が成立したというのが,歴史的事実としては近いだろう。(※3

 歴史構成は,命数法→数の体系→数の加減乗除,と図式化できるのではないか。

 教育構成も,論理構成よりは,歴史構成に近いものになっていることは,個的発展が類的発展をたどることからも妥当だろう。つまり,論理構成では,「命数法,記数法は理論上の問題に非ずして実用上の問題」だとしても,歴史的事実や教育的実践では,命数法こそが,数の本質とさえ言えるのではなかろうか。高木テーゼの代わりにこう言いたくなります。

「命数法ありて後数あり」







補注

(※1)数を,基数ではなく順序数で定義するやり方は,基数にともなう「量感」を嫌悪し,数学の世界から量を追放したいという数学者の願望に由来するようです。少なくとも,高木の東京帝大での前任者藤沢利喜太郎はそうでしたし,藤沢の言によれば,同時代のクロネッカーなどの数学者もそうだったことになります。しかし,高木は,少なくともこの本では,「カルヂナル数は全く順序数と同一の条件によりて定められるべきものなり。若し言語の明白を欲せば,(略)先後の語に代ふるに大小の語を以てすべし。(略)同じく是数なり」(19頁)とアッケラカンとした印象です。



(※2)脳科学が存在を認める「数覚」をめぐって,『数覚とは何か?』(スタニラス・ドゥアンヌ原著1996年,早川書房2010年)には,こんなことが書かれています。――5歳の子どもでも数の意味は理解できるのに,論理学者たちは定義できない。脳は(ペアノの)公理に頼っていない。フランスなど多くの国で,1970年代に数学教育が壊滅的な状況になったのは,ブルバギなどが,子どもたちにより厳密に教えるべきだと,具体的な物を使った計算問題ではなく,意味不明な公理や形式論理,抽象的な群論を教えようとしたからだ。(418頁)―― ここで書かれているフランスの教育事情の当否は,私はわからない。



(※3)世界の各民族の数の体系で一番首尾一貫しているのは,中国の記数法である(ジョルジュ・イフラー編『数字の歴史 人類は数をどのようにかぞえてきたか』1988年,平凡社)が,中国のかけ算九九は,N進法を十進法に「翻訳」したものと見えなくもない。「四五二十」は,5進法の「四五」は,十進法の「二十」であり,「六八四十八」は,8進法の「六八」は,10進法の「四十八」である,と。九九の口訣が,前数が後数より小(同)の半九九であるのも位取り法の適用であり,したがって,前数が乗数,後数がチャンク(位数)の被乗数となる。