「かけ算の意味」についてのメモ | メタメタの日

 「かけ算の意味」は,一つでもないし,固定したものでもない,ことについてのメモ。

 歴史的にも「かけ算の意味」は変遷してきたし,一個人においても,「かけ算の意味」に対する認識は深化していくでしょう(といっても,しない人の方が多い。人生には,認識を深化すべきもっと大事なことがいっぱいあるから)。そして,数学という学問の中でも「かけ算」の意味は変化しているのでしょう。

歴史的には,かけ算の本来(もともとの,という意味で)の意味は,同数累加の簡便化であった可能性はきわめて大きいと思われます。(ただ,エジプトのパピルスに記録されている,倍々の数(二進法)を利用した計算方法を見ると,にわかな断定には慎重になるけれど)

 ユーラシア大陸の東西で,一桁のかけ算の答えの求め方(計算方法)は,「九九」として定式化された。中国では,九九は暗誦されるものだった。暗誦の便から半九九だった。暗誦に適していない音韻体系を持つメソポタミア以西では,九九は表にして答えを見つけるものだった。その便から,かけ算の表は全九九が基本だった(半九九の表もあるけれど)。

 歴史的には,かけ算の意味は,同数累加の次に(おそらく,併存して),倍(倍増)ということだったろう。ある数をある数だけ整数倍して増やすことであり, 「倍増される(かけられる)ある数」がコンテンツ(漢語では「実」という)であり,「倍増する(かける)数」は,そのコンテンツを加える(漢語では「乗(せる)」)回数,つまり操作(オペレーション)の回数だった(漢語では「法」といった)。

 コンテンツは物だから,被乗数は単位の付く「名数」であったが,オペレーションは操作であるから,乗数は単位の付かない「無名数」と,珠算では理解されていたようです。

 かけ算の意味は,長い間,この「累加」と「倍増」として理解されていた。

遠山啓が,これに対し,1950年代に,「1あたり」から「いくら分」を求める演算として,かけ算を児童に導入することを提起した。被乗数も乗数も「量」として導入した方が,乗数を,倍という量と量との関係や量に対する操作(関数)として理解するよりわかりやすいだろう,ということが一つの理由だった。

 現在,日本の児童は,先ず最初に,かけ算とは,「1あたり数×いくら分」という式で,「全部の数」を求めることだと教わる。同時に,かけ算の式は,この順序に書くべきだとも教わる。次に全九九の暗誦を段を追って教わり,「二三が六」と「三二が六」,「二四が八」と「四二が八」,「二五十」と「五二十」,「三四十二」と「四三十二」などが同じことに気が付かされ,授業でも,おはじきを縦横に並べた図や九九表を確認するなどして「かけられる数」と「かける数」を入れ替えても,答えが変わらないことを教わる。また,「いくら分」とは,「倍」のことでもあると,倍という意味も教わり,2年後,3年後には,面積の,縦×横,直径×3.14など,あるいは,小6では順列の数を求めるかけ算の式(立式までは教科書では要求していないようですが)などで,「1あたり数×いくら分」という考え(やその順序)にはおさまらないかけ算も教わっていく。・・・小学校段階でもこういう「かけ算の意味の変遷」があります。

私は,遠山啓が提起した「1あたり量×いくら分」としてかけ算を導入することに賛成です。しかし,この「かけ算の意味」も,かけ算の歴史や認識史の発展段階の,重要ではあるが一つにすぎないということは,かけ算の式の順序を教える小学校の先生も銘記しておくべきことだと思うのです