京大霊長類研究所のチンパンジーが、アイさんをはじめとして何「人」もが、「数を数える」ことができることは広く知られている。
http://ameblo.jp/metameta7/entry-10428307118.html
2002年には、サル(ニホンザル)も「数を数える」ことができるだけではなく、サルの大脳の中に「数を数える細胞」が発見されたことが、東北大学大学院医学系研究科の院生や助手によって発表された。
http://www.jst.go.jp/pr/report/report213/index.html
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/22269/1/M1H141826.pdf
数の認識の対象は、チンパンジーの場合は、0個から9個までの個物や数字(アラビア数字)そのものという、空間に併存する「もの」だった。0個から9個までの個数の物が示されると、それに当たる「数字」を指示する(スクリーン上の数字にタッチする)ことができるだけでなく、数字を小さい順に指示する(タッチする)ことができる。つまり、数の基数的側面と序数的側面の両方を認識していると言える。
サルの場合は、自分の行動の回数という、時間的に継起する「働き」である。具体的には、サルは、レバー押しとレバー廻しのどちらかの動作を5回繰り返した後に別の動作を5回繰り返した。5回ずつ繰り返すことができただけでなく、その回数を表現する細胞活動を示す大脳細胞が見つかったということであった。
しかし、チンパンジーもサルも、「数えている」と言えるのだろうか。
「数える」とは、「イチ、ニ、サン、‥‥」と口に出すか、心の中で唱えることではないのか。
銀林浩『数の科学』(1975年、麦書房)には、端的に「数えるとは、物と数詞とを1対1に対応させることに他ならない」(29頁)とある。
『日本大百科全書』(小学館)は、詳しく次のように説明している。「数えるという操作は、「1、2、3、4、……」あるいはこれと同じような一定の順序に並んだことばの系列(一般に数詞という)があり、これを順々に、集まりに含まれる一つ一つの物に取りこぼしや重なりなく割り当てて、つまり一対一に対応させていって、最後に割り当てたことばによって、その集まりの大きさを示すことである。」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%95%B0%EF%BC%88%E6%95%B0%E5%AD%A6%EF%BC%89/
つまり、「数える」という行為には数詞が必須であり、数詞とは(内語の場合も)音声語(ことば)なのだ。したがって、上のチンパンジーもサルも数詞を与えられていないわけだから、数えてはいないのではないか、という疑問が残る。
霊長類研究所のチンパンジーには、個物と数字との対応は教えられたが、数詞との対応は教えられなかった。数字を教えられるときにその読み方(数詞)は教えられなかった。チンパンジーの発声器官では字音で分節されたことばを再現できないから数詞を教えなかったということなのだろうが、自分で音声として再現できないからといって、元の音声を聞き分けていないとは言えないだろう。ヒトだってピアノの音とヴァイオリンの音は聞き分けられるが真似はできない。ベートーベンの交響曲3番の演奏か7番の演奏かは再現はできないが(旋律を口ずさむ程度)聞けば分かる。中島みゆきの声と松任谷由美の声を(ふつうのヒトは)再現できないが、違いは分かる。サルだってイヌだってネコだって、ヒトのことばを再現できないが、(ある程度は)聞き分けていると言えるのではないだろうか。
チンパンジーの場合、個物と数字との対応を教えるときに数詞との対応も教えていたら、個物や数字を示したときに音声として数詞をアウトプットすることはできなくても、数詞をインプットしたら対応する個物や数字を指し示すことは可能ではなかったのではなかろうか。もし、これが可能だったら、チンパンジーが数字を小さい順に指示しているときに、チンパンジーの内部の内語として数詞を唱えていることもあり得るのではなかろうか。しかし、チンパンジーの瞬間記憶(映像記憶)の素晴らしさは、数詞を唱えながら時間継起的に記憶を再現する手間を必要としないばかりか、そのような方法を取ると逆に瞬間記憶の能力は衰えていくのかもしれない。
つまり、チンパンジーの数の認識は、時間的継起をともなう数詞という音声によってなされているのではなく、個物という空間的存在と数字という空間的存在を直観的に対応させることで(6個以上9個以下の個物については、5個以下への分割と統合という回路を経ることも含めて)なされているのではなかろうか。だとしたら、チンパンジーは数えないで数が分かっている。チンパンジーによる物の個数の認識は、数詞を唱えることによってではなく、ゲシュタルト(空間的布置、形)の認知によってなされているのだろう。
チンパンジーの物の個数の認識が時間的にではなく(つまり数詞を使わずに)、空間的になされているとしたら、動作の回数という時間的に継起する数を認識するというサルの場合は、「数えている」のだろうか。
このサルも数詞を教えられていないのは確かだし、チンパンジーとは違ってニホンザルに数詞を教えることができるとも思えない。おそらく、ネコやイヌに数詞を教えるのも無理ではなかろうか。だとすると、このサルは「数詞を使って数えること」はしていないのは確かだろう。したがって、異なる動作を5回ずつ繰り返したことをもって、「サルにも数を数える能力がある」と、上記サイトのように断言するのは勇み足ではないのか。
では、サルが数えないで5回という回数がわかったとしたら、それは何故なのだろう。それはリズムではないだろうか。ヒトでも、三、三、七拍子で手を打つとき、3回や7回を数えてはいないだろう。いま自分でやってみたが、リズム感のないと言われる私でも数えないで打てた。なんで分かるのかというと、リズムで分かるのだろう。これはけっこうすごいことなのではないだろうか。ただリズム感には個人差があって、リズム感がないやつは音楽だけでなくスポーツでも英会話でも何をやらせてもダメなようで、我が身を振り返って忸怩たるものがある。歌人の高野公彦さんにインタビューしたときにもお聞きしたが、女子学生に短歌を作らせていても、五七五七七のリズム感のある学生は伸びるが、指折り数えてはじめて音数が合っていないことに気がつくような学生は短歌もうまくならないという。リズム感があれば五七五七七は数えなくても分かるのだ。
5回の動作という回数が分かったサルは、数えて分かったのではなくリズムで体得したのではないだろうか。だとしたら、「動作回数に応じて起こる細胞活動が多数見つかった。」「すなわち数の表現そのものが、細胞活動として発見されたことになる」と断言するのは勇み足ではないだろうか。