数詞ではなく数字で数えること | メタメタの日

 京大霊長類研究所のチンパンジーが、インド・アラビア数字を使って0から9までの1桁の数を認識できているということは、すなわち「数える」ことができているのかどうか、ということを考え続けている。

 数えるという行為を、数詞という音声と個物を対応させる行為と限定するなら、数詞を知らないチンパンジーは数えてはいない。しかし、数字と個物を対応させる行為も「数える」行為に含めるなら、チンパンジーは数えているといえるだろう。

 数えるという行為は、ヒトにあっても、歴史的にいくつもの層、段階をなしているようだ。

 数詞で数を数える方法を命数法といい、数字で数を書き記す方法を記数法という。歴史的には命数法が先に生まれて、後から記数法が生まれた。命数法は、おそらく部族段階から使われ、部族ごと民族ごとにいくつものバリエーション、段階を経て進化し、現在も全世界では異なる言語で異なる命数法が使われている。記数法もいくつものバリエーション、段階を経たが、現在は、インド・アラビア数字による10進位取り記数法がグローバルスタンダードになっている。つまり、現段階は、グローバルスタンダードで記された数字を、異なる命数法で読んでいる。

 命数法にはいくつものバリエーションがあったが、どの民族のどの言語でもだいたい10進法に落ち着き、10進法の命数法を書き記す方法について、最終的にインド・アラビア数字の10進位取り記数法が制したわけだが、10進記数法の後で、2進法による記数法が生まれた。つまり10進法は命数法があって後に記数法ができたが、2進法は命数法がないまま記数法ができた。命数法がないということは、2進法で書かれた数字の読み方はないということだ。

たとえば101(2) を読むとしたら、日本語では「イチ、レイ、イチ」だろうか、それとも「ヒャク、イチ」だろうか。論理的には「ヒャク、イチ」の方が正しいだろう。ただ、2進法だから、ヒャクの位は22乗の4を表わしていると解釈する。しかし、実際は、「2進法のイチ、レイ(ゼロ、マル)、イチ」と読むのが一般的のようだ。英語なら「one hundred and one」と読むほうが、「one,zero,one」と読むより論理的だと思うが、11(2) の場合、日本語なら「ジュウ、イチ」の方が「イチ、イチ」より理にかなっていると思うが、英語では「eleven」が「one,one」より論理的とは言えない。「ten,one」と言うのもどうだろうか。これは、英語の命数法が、中国、日本の漢数字の命数法より整合的でないということであり、漢数字の整合性については、ジョルジュ・イフラー『数字の歴史 人類は数をどのようにかぞえてきたか』(1981年、平凡社版1988年)で教えられた。

 さて、2進法で数を書き記すとき、私たちは2進法で「数えている」のだろうか。数えていると言ってもよいだろう。つまり、命数法がなく、数詞による数え方がなくても、記数法で数で記すということは数を数えている、と言ってもよいだろう。

 このことは、考えるという行為は、音声言語(ことば)でなされるだけではなく、書記言語(文字)でもなされることとパラレルの事態だろう。聴者は、黙って考えているときでも声帯は微動しているというから、基本的には音声言語で考えているのだろうが、そのとき文字も意識の表面のすぐ下あたりで浮き沈みしているような感もある。いま英語で考えようとしたら(考えることなどできはしないが)、英語の音ではなくアルファベットの単語の方が主に意識に浮かんでくるようだったが、英会話ができない者のサンプルは参考にならないだろう。

では、ろう者が考えるときは、文字が基本なのだろうか、手話の映像が基本なのだろうか。どちらにしろ音声言語で考えていないことは確かだろう。すると、ろう者が数えるときも、数詞ではなく、インド・アラビア数字(あるいは漢数字?)か手話の数字で数えているはずだ。数詞ではなく数字で数えることも可能だということだ。

すると、チンパンジーも数字で数えていると言えるのだろうか。

「数える」という概念には、どこまでも数え続けられる、数えることには限りが無い、つまり「無限」という概念も含んでいるだろう。というか、ヒトは、無限という概念を、「数える」という概念の延長上に初めて意識するようになったように思う。

しかし、1桁の数しか認識していないチンパンジーは、数えることには終わりがない、ということが分かっていないばかり、2桁の数を認識することもできず、位取りという概念も認識できないのではないだろうか。この意味では、1桁の数字の意味を、基数的にも序数的にも認識しているチンパンジーが「(数字で)数えている」と言えるとしても、そのときの「数える」の意味は限定的に理解しなければならないように思う。