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来たる艱難期 第3部A パート12
艱難期の始まり (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )
2.艱難期直前の教会と「見える教会」の状況:
b.ぬるま湯に浸かった信者の弱さ(自己満足の問題):
未信者や名ばかりのキリスト教組織の問題に加えて、
大背教に大きく寄与する第二の主要な要因は、艱難期が始まると、
大多数の本物のクリスチャンの間に蔓延する「ぬるま湯」の問題です。
艱難期が始まる前の教会の最後の時代であるラオデキヤの時代は、「ぬるま湯」、
つまりイエス・キリストや神の言葉、そして神の御計画の中で
私たちがそれぞれ召されている役割に対して、
無頓着な態度であることがすでに分かっています。[1]
この時代の信者の大半の特徴は、(艱難期が近づくにつれ、その傾向は強まるでしょう)
信仰を築き、神の言葉を通して成長し、イエス・キリストに近づき、
神が私たちに定められた賜物、任務、効果に備え、実践することに無関心であることです。
(第一コリント12章4-7節; エペソ2章10節参照)[2]
私たちを買い取ってくださった主イエスに対するこのような無関心の原因については、
もっと長く述べることができるでしょうが、
ここではこのひどい態度の本質が、主にイエスよりも世を愛することから生じていることを
指摘するだけで十分です。
イエスのおかげで私たちの罪は赦され、
イエスを拒んだ者を待ち受ける火のような死から私たちは解放されました。
イエスのおかげで、私たちは現在の肉体をもって耐えているすべての苦しみ、痛み、
試練を、取るに足らないものにする栄光の体で復活することを待ち望んでいます。
イエスのゆえに、私たちは義の住まう新しい地と新しい天を待ち望んでおり、
そこでは現世の腐敗や悪が二度と思い起こされることはありません。
イエスのゆえに、私たちはこの世の者ではありません。
私たちは一時的にこの世にいるかもしれませんが、イエスは私たちの内におられ、
私たちはイエスによって、イエスのために生きるのです。
イエスによって、私たちはこの世に対して十字架につけられ、
この世は私たちに対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ6章4節)
イエスは私たちのいのちであり、私たちにとって生きることとは、イエスなのです。
とても明瞭なことです。
死は、私たちが永遠に愛する方と顔を合わせられるということです。
これらのことはすべて真実です。
私たちはこれらのことを信じています。
では、なぜ私たちはそれを実践しないのでしょうか?
ラオデキヤの時代、物質主義が王である時代、この世が多くの気晴らしを提供し、
それらを享受する機会が多くあり、
私たちが生存のためにも娯楽のためにも依存しているこれらすべての「不思議」が
私たちから奪われてしまわないかという多くの恐れがある時代、
私たちの心をこの世から遠ざけることは簡単なことではありません。
ですから、日を追うごとに主から遠ざかっていくラオデキヤのこの世的な態度は、
ある面では理解できます。
しかし、だからといって、残念でないことではありません。
このような圧力が存在し、クリスチャンにとって「普通 」のことが、
自分の信仰に口先だけの奉仕をすることでしかない時代においては、
イエスへの真の献身は、より一層注意深く守られなければなりません。
神と、御子の賜物という神の恵みに対する自己満足は、
クリスチャンにとって卑しいことであるだけでなく、非常に危険なことでもあります。
主は独りよがりの弟子を喜ばれません。
主は情熱的な弟子を喜ばれます。
ですから、イエス・キリストに対する熱情か、イエス・キリストとの関係に対する
無関心かの選択に迫られたとき、良いクリスチャンがどうあるべきかは聖句から明らかです。
それは、私たちの主人を心から熱烈に愛し、
この地上の生涯を通して主人と主の模範に忠実に従い、
イエスと私たちとの関係を地上のあらゆる宝物や心遣いよりも尊び、
主の喜びを最優先とする人となることです:
1)良きクリスチャンは、キリストのために熱心である:
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。
だから、熱心になって悔い改めなさい。(黙示録 3章19節)
キリストとの関係において、生ぬるくはない:
わたしはあなたのわざを知っている。
あなたは冷たくもなく、熱くもない。
むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、
あなたを口から吐き出そう。 (黙示録 3章15-16節)
2)良きクリスチャンは、神をひたすら愛する者である:
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、
主なるあなたの神を愛せよ』。
(マタイ22章36-37節)
この世を愛する者ではない:
世と世にあるものとを、愛してはいけない。
もし、世を愛する者があれば、父[へ]の[真の]愛は彼のうちにない。
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、
父から出たものではなく、世から出たものである。
世と世の欲とは過ぎ去る。
しかし、神の御旨を行う者は、[神と共に]永遠にながらえる。(第一ヨハネ2章15-17節)
3)良きクリスチャンは、イエス・キリストの友人である:
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、
あなたがたはわたしの友である。
わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。
僕は主人のしていることを知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼んだ。
わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15章14-15節)
この世の友ではない:
不貞のやからよ。(つまり、この世との交わりによって神に対して不誠実な人々)
世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。(ヤコブ4章4節)
4)良きクリスチャンは、聖霊に燃えている:
熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、 (ローマ12章11節)
御霊が私たちの熱意を燃え立たせてくださるのに逆らうべきではない:
御霊を消してはいけない。 (第一テサロニケ5章19節)
5)良きクリスチャンは、キリストのためにあらゆる機会を最大限に生かす:
今の[すべての]時を[最大限に]生かして用い、
(教会の)そとの人に対して賢く行動しなさい。(コロサイ4章5節)(エペソ5章16節参照)。
この世と関わりすぎない:
世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。
この世の有様は過ぎ去るからです。(第一コリント7章31節)
6)良きクリスチャンは神様に対して一心である:
わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる。
これは彼らが彼ら自身とその後の子孫の幸を得るためである。(エレミヤ32章39節)
(エゼキエル11章19節; 第一コリント7章35節参照)
神に対して二心でない(神とこの世との間で心が揺れ動かない):
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、
その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。
そうすれば、与えられるであろう。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。 (ヤコブ1章5-8節)
7)良きクリスチャンは、キリストとその教会のために情熱的である:
そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、
熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、
わたしの喜びを満たしてほしい。
何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって
互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、
あなたがたの間でも互に生かしなさい。(ピリピ2章1-5節)
神と神の民に対して無関心でない:
「わざわいなるかな、安らかにシオンにいる者、
また安心してサマリヤの山にいる者、
諸国民のかしらのうちの著名な人々で、イスラエルの家がきて従う者よ。
カルネに渡って見よ。
そこから大ハマテに行き、またペリシテびとのガテに下って見よ。
彼らはこれらの国にまさっているか。
彼らの土地はあなたがたの土地よりも大きいか。
あなたがたは災の日を遠ざけ、強暴の座を近づけている。
わざわいなるかな、みずから象牙の寝台に伏し、長いすの上に身を伸ばし、
群れのうちから小羊を取り、牛舎のうちから子牛を取って食べ、
琴の音に合わせて歌い騒ぎ、ダビデのように楽器を造り出し、 鉢をもって酒を飲み、
いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
それゆえ今、彼らは捕われて、捕われ人のまっ先に立って行く。
そしてかの身を伸ばした者どもの騒ぎはやむであろう」。(アモス6章1-7節)
(申命記31章20節, 32章15節; イザヤ32章9-14節;
ホセア13章6節; ゼパニヤ1章12-13節参照)。
8)良きクリスチャンは、「二心ではない思い」で神様に従うはず:
主よ、あなたの道をわたしに教えてください。
わたしはあなたの真理に歩みます。
心をひとつにしてみ名を恐れさせてください。 (詩篇86篇11節)
神とこの世の間で揺れ動かない:
エリヤは皆の前に進み出て言った。
「おまえたちは、いつまで、どっちつかず[の意見の上に]に
(すなわち、「バアル踊り」をして;26節参照)よろめいているのか。
もし【主】が[まことの]神であれば、主に従い、
もしバアルが神であれば、バアルに従え。」 (新改訳Ⅳ列王記上18章21節前半)
9)良きクリスチャンは、主が私たちのためにしてくださったことを、
いつも覚えている人でなければならない:
わたしは、主から[直接]受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。
すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、
そして言われた、
「これはあなたがたのための、わたしのからだである。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、
「この杯は、わたしの血による新しい契約である。
飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。(第一コリント11章23-25節)
栄える時に主を忘れるような者となってはいけない:
あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。
あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、
あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。
あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、 また牛や羊がふえ、金銀が増し、
持ち物がみな増し加わるとき、 おそらく心にたかぶり、
あなたの神、主を忘れるであろう。
主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、
あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、
水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、
先祖たちも知らなかったマナを[この]荒野であなたに食べさせられた。
それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、
ついにはあなたをさいわいにするためであった。
あなたは心のうちに
『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。
[むしろ]あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。
主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、
あなたに富を得る力を与えられるからである。 (申命記8章10-18節)
(ホセア13章6節参照)
[1] 「来たる艱難期」 第2A部「七つの教会」第7節「ラオデキヤ:無気力」参照。
[2] 霊的成長については、ペテロの手紙シリーズ、特に#10から#14を参照。
--パート13に続く
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あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、
その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、
願い求めるがよい。
そうすれば、与えられるであろう。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
(ヤコブ1:5-8)
感謝します
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知恵に不足しているものですが、願い求めて祈ることができることを
感謝します
ただ疑わないで、信仰をもって
お祈りします
桜・・ツツジ‥藤・・そしてバラにと
季節の移り変わりを花たちが教えてくれていますね
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イノルカエル ネムルカエル
エリゲロン
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こんにちは~
ワイヤーフォックステリア
今日もお鼻が可愛いね
また来るね
今日もありがとう~