Truth Hawkのblog

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聖書研究と世界情勢をリンクさせて調査するブログ

補遺2-6

「宮の敷居」

――神は境界に立たれる


エゼキエル9章3節。

前の補遺では、
神の栄光が、
動き始めたことを見た。

ケルビムの上から、
神の栄光が、
上がる。

しかし、
その栄光は、
いきなり、
遠くへ去ったのではない。

まず、
ある場所へ移った。

宮の敷居。

ここが、
今回、
見てみたい場所である。

■ なぜ「敷居」なのか


敷居。

あまりにも、
小さな場所である。

神殿全体と比べれば、
ほんの一本の境界にすぎない。

しかし、
エゼキエルは、
わざわざ、
神の栄光が、
宮の敷居へ移った
と記している。

なぜ、
そこなのだろう。

■ 「敷居」という言葉


ここで使われているのは、
ヘブライ語の、
מִפְתָּןmiptānミフタン
という言葉である。

基本的には、
戸口の、
敷居
を指す。

つまり、
まず、
特別な暗号として、
読む必要はない。

物理的な、
建物の境界である。

しかし、
まさに、
そこが重要なのである。

■ 敷居は「内」と「外」の間にある


敷居とは、
不思議な場所である。

部屋の、
完全な内側でもない。
完全な外側でもない。

一歩、
こちらへ進めば、
中。

一歩、
向こうへ進めば、
外。

つまり、
敷居とは、
物理的に、
内と外を分ける境界
である。

そして、
エゼキエル9章では、
神の栄光が、
そこへ移る。

■ しかし「敷居=境界の象徴」と決めない


ここで、
いつものように、
線を引いておきたい。

聖書の中で、
「敷居」という言葉が出てくるたびに、
必ず、
「霊的境界」
を意味するわけではない。

敷居=境界
という、
象徴辞典を、
作る必要はない。

エゼキエル9章3節でも、
まず意味しているのは、
実際の神殿の、
敷居である。

■ では、なぜ象徴的に読めるのか


それは、
単語そのものに、
秘密の意味が、
埋め込まれているからではない。

その後、神の栄光が本当に宮を離れていくからである。

ここが、
大切。

9章だけなら、
まだ、
判断を保留しておくことができる。

しかし、
10章。
11章。

そこまで、
神の栄光を追いかけると、
9章の敷居が、
非常に意味深い場所だったことが、
見えてくる。

■ ケルビムから、敷居へ


まず、
9章3節。

神の栄光が、
ケルビムから、
宮の敷居へ移る。

まだ、
完全に、
神殿を離れたわけではない。

しかし、
元の位置から、
動いている。

そして、
敷居に立つ。

■ 10章でも、再び「敷居」


エゼキエル10章でも、
敷居は、
繰り返し登場する。

神の栄光が、
ケルビムから、
宮の敷居へ移る。

そして、
雲が、
宮を満たす。

庭は、
主の栄光の輝きで、
満たされる。

さらに、
ケルビムの翼の音が、
外庭にまで聞こえる。

つまり、
この時点でも、
神の栄光は、
圧倒的である。

■ 「離れ始めた」=「神が弱くなった」ではない


ここも、
大切である。

神の栄光が、
宮を離れ始める。

だからといって、
神の力が、
弱くなっているのではない。

神が、
敗北して、
追い出されているのでもない。

むしろ、
エゼキエルの幻では、
神ご自身が、
主権をもって、
動かれている。

誰かが、
神を、
神殿から追い出したのではない。

神が立ち上がり、神が移動される。

■ そして栄光は「敷居から出る」


エゼキエル10章18節。

ここで、
さらに、
決定的な動きが起こる。

主の栄光が、宮の敷居から出る。

そして、
ケルビムの上へ移る。

ケルビムたちは、
翼を上げる。

車輪も、
その傍らにある。

そして、
彼らは、
主の宮の、
東の門の入口へ、
移っていく。

■ 敷居は、本当に「途中」だった


ここまで来ると、
9章3節の敷居が、
単なる、
偶然の位置ではなかったことが、
見えてくる。

ケルビム。
↓
敷居。
↓
東の門。
↓
町の東の山。

栄光が、
段階的に、
外へ向かっている。

だから、
「敷居」を、
境界として読むことには、
物語そのものから、
一定の根拠が出てくる。

■ ただし、意味が完成するのは11章まで読んでから


だから、
9章だけで、
こう言い切らない方がいい。

「敷居とは、神が去る象徴である。」

まだ、
早い。

9章では、
まず、
栄光が、
敷居へ移った。

そこまで。

しかし、
10章で、
敷居から出る。

11章で、
町を離れる。

そこまで追って、
初めて、
9章の敷居が、
「宮の内から外へ向かう途中の境界」
として、
見えてくる。

■ 8章では「内側」が暴かれた


そして、
ここで、
前章との流れを見ると、
さらに面白い。

エゼキエル8章。

神は、
エゼキエルを、
神殿の、
内側
へ連れていかれた。

そこで、
何が行われているのかを、
見せられた。

外から見れば、
神殿。

しかし、
中へ入ると、
忌むべきものがある。

■ 壁の向こう側


8章では、
エゼキエルが、
壁に穴を開ける。

そして、
中へ入る。

すると、
壁の内側に、
這うものや、
忌むべき獣、
偶像が描かれていた。

さらに、
長老たちが、
その前で、
香をたいていた。

つまり、
8章は、
徹底して、
「内側には何があるのか」
を、
暴いた章でもある。

■ そして9章では、栄光が「境界」へ来る


この流れが、
非常に強い。

8章。
神殿の内側が暴かれる。

9章。
神の栄光が敷居へ移る。

つまり、
内部の状態が、
明らかにされた後、
神の栄光が、
内と外の境界へ、
立つ。

■ 神殿の中にいる者が、神に背を向けていた


しかも、
8章最後の場面を、
思い出したい。

二十五人の者たち。

彼らは、
神殿の中にいる。

しかし、
彼らは、
主の宮に背を向け、東の太陽へ顔を向けていた。

身体は、
神殿の中。

しかし、
顔は、
神から離れている。

そして、
次の章。

今度は、
神の栄光そのものが、神殿の内側から境界へ移る。

これは、
非常に重い流れである。

■ 人が先に、顔を背けていた


ここで、
結果から、
原因へ戻ってみる。

9~11章では、
神の栄光が、
宮を離れていく。

しかし、
その前の8章では、
人間が、
すでに、
神へ背を向けている。

これは、
考えさせられる。

神が去った。

その一文だけを見れば、
神が、
突然、
人間を見捨てたように、
感じるかもしれない。

しかし、
物語を遡ると、
その前に、
人間の側の、
長い離反がある。

■ 人間が歩いた「道」の先に、敷居がある


ここで、
以前見た、
דֶּרֶךְderekh道
というテーマとも、
つながってくる。

人間は、
ある方向へ、
歩き続ける。

最初は、
小さな一歩。
小さな妥協。
小さな方向転換。

しかし、
道は、
どこかへ、
つながっている。

エゼキエル8章では、
神殿内部の偶像礼拝まで、
その道が進んでいた。

そして、
9章では、
神の栄光が、
敷居へ立つ。

■ 「境界」は突然現れたのではない


人間は、
境界線に来てから、
慌てる。

しかし、
その境界へ至るまでに、
道を、
歩いている。

だから、
預言は、
単に、
「ここを越えたら終わり」
という恐怖を、
与えるためだけにあるのではない。

もっと前を見る。

私は今、どちらへ歩いているのか。

■ 敷居は「決断の象徴」なのか


ここも、
慎重にしたい。

聖書本文は、
エゼキエル9章の敷居について、
「これは人間の決断を象徴する」
とは言っていない。

だから、
そう固定することはできない。

しかし、
内と外を分ける場所として、
そして、
実際に、
この後、
栄光がそこを越えていく場所として、
境界
という視点で、
黙想することはできる。

■ 神は境界に立たれる


ここからは、
象徴的な読みである。

神の栄光は、
すぐに、
見えなくならなかった。

敷居へ移る。

そして、
そこから、
さらに動く。

この姿を見ていると、
私は、
一つの問いを感じる。

神は、なぜ敷居に立たれたのだろう。

■ 去る前に「立つ」


もちろん、
本文は、
神の心理を、
説明していない。

だから、
「神は名残惜しくて、
敷居で待っておられた」
などと、
断定することはできない。

しかし、
幻が、
段階的に描かれている以上、
私たちは、
その速度を、
無視する必要もない。

一瞬で、
消えない。

敷居。
門。
山。

去るという出来事が、段階をもって描かれている。

■ これは「神の忍耐」を思わせる


聖書全体を見るなら、
神が、
裁きを、
喜んで急がれる方として、
描かれていないことは、
何度も確認できる。

預言者を送る。
警告する。
呼びかける。
悔い改めを求める。

だから、
エゼキエルの、
段階的に移動する栄光に、
神の忍耐を、
響きとして感じる
ことはできる。

ただし、
これは、
9章3節が、
直接、
そう説明しているのではない。

ここは、
区別しておきたい。

■ ノアの時代にも「境界」があった


ここで、
一つ、
聖書全体の響きを、
考えることもできる。

ノアの箱舟。
長い準備があった。
箱舟が造られた。

人々は、
日常を生きていた。

そして、
最後に、
戸が閉じられる。

創世記7章16節では、
主がノアの後ろの戸を閉ざされた。

ここにも、
内と外の境界がある。

ただし、
これを、
エゼキエル9章の敷居の、
直接的な型だとは言わない。

あくまで、
聖書に繰り返し現れる、
裁きの前の区別と境界
という響きである。

■ 過越にも「戸口」があった


出エジプト記12章。
過越の夜。

血は、
家の入口に、
塗られた。

鴨居と、
二本の柱。

その入口が、
内と外を分ける。

外には、
裁き。
内には、
血のしるし。

ここでも、
境界がある。

しかし、
エゼキエル9章の敷居と、
同じ単語、
同じ象徴だと、
短絡してはいけない。

むしろ、
神が裁きの中で区別される
という、
大きな聖書的モチーフとして、
横に置いてみる。

■ エゼキエル9章にも「区別」がある


そして、
まさに、
エゼキエル9章。

栄光が、
敷居へ移る。

その直後、
亜麻布を着た者へ、
命令が与えられる。

町を巡れ。

忌むべきことを、
嘆き悲しむ者たちの額へ、
しるしをつけよ。

ここでも、
区別が起きる。

■ 外側の境界と、内側の境界


これも、
面白い。

神殿には、
目に見える境界がある。

敷居。
門。
壁。

しかし、
神が見ておられる、
もう一つの境界は、
人間には、
簡単に見えない。

同じ町にいる。
同じ神殿にいる。
同じ民族に属している。

しかし、
ある者は、
忌むべきことを、
嘆いている。

ある者は、
それを、
行っている。

神は、
そこを、
見分けられる。

■ 本当の境界線はどこにあるのか


人間は、
境界を、
外側に引きたがる。

この宗派。
あの宗派。
この教会。
あの教会。
この民族。
あの民族。

この建物の中。
外。

しかし、
エゼキエル9章を見ると、
神が引かれる線は、
人間の引く線と、
一致するとは限らない。

神殿の中に、
裁かれる者がいる。

町の中に、
しるしを受ける者がいる。

■ 「中にいるから大丈夫」ではない


これは、
非常に重要である。
神殿の中にいる。

だから、
神の側。
とは限らない。

教会にいる。

だから、
神の側。
とも、
自動的には言えない。

安息日を知っている。

だから、
神の側。
とも、
自動的には言えない。

反対に、
神殿から遠い、
捕囚地にいるから、
神から捨てられた、
とも言えない。

エゼキエル自身が、
その証拠である。

■ 境界線は「所属」だけでは測れない


エゼキエル9章では、
しるしを受ける者について、
一つの特徴が示される。

彼らは、
町の中で行われる、
忌むべきことを、
嘆き悲しんでいる。

つまり、
神が見ておられるのは、
単なる所属ではない。

その人が、
何を愛し、
何を悲しみ、
何に心を痛めているのか。

■ 私の心の中にも「敷居」がある


ここからは、
さらに、
自分の足元へ、
戻ってみたい。

神殿の敷居は、
実際の建物の、
敷居である。

しかし、
それを読みながら、
私は、
自分にも、
問いを向けることができる。

私は今、何を内側へ入れようとしているのか。

■ 罪は、最初から奥の部屋にいない


エゼキエル8章で、
最終的に、
神殿の内部にまで、
忌むべきものが、
入り込んでいた。

しかし、
私たち自身の人生でも、
罪は、
最初から、
中心を占領するとは限らない。

最初は、
敷居に立つ。

「これくらいなら。」
「一回くらいなら。」
「みんなやっている。」
「昔からそうだから。」
「別に神を捨てるわけではない。」

その小さな一歩が、
やがて、
道になる。

■ 何を「内側」に入れるのか


だから、
敷居という場所を、
自分自身への問いとして読むなら、
こうなる。

私は、何を心の内側へ入れているのか。

情報。
欲望。
思想。
習慣。
怒り。
誇り。

宗教的優越感。
人間の教え。

それらが、
敷居を越え、
心の中心へ、
入っていないだろうか。

■ 反対に、何を外へ追い出しているのか


そして、
もう一つ。

私は、
何を、
外へ追い出しているのか。

神の言葉が、
自分の考えと、
ぶつかった時。

私は、
御言葉を、
内側へ迎えるのか。

それとも、
自分の思想を守るために、
御言葉を、
敷居の外へ、
押し出すのか。

ここに、
以前から考えてきた、
「心の中の改ざん」
という問題も、
重なってくる。

■ 神を外へ置いて、自分が中に残る


これは、
宗教における、
最も恐ろしい逆転の一つかもしれない。

建物は、
神のもの。

制度も、
神のもの。

言葉も、
神のもの。

しかし、
その中心に、
神がおられない。

人間の思想。
人間の権威。
人間の伝統。
人間の欲望。

それらが、
中心に座る。

そして、
神ご自身が、
敷居の外へ、
追いやられていく。

■ しかし、神は人間に追い出されたのではない


ここも、
誤解してはいけない。

エゼキエル書では、
人間が、
神より強くなって、
神を追放したのではない。

神は、
主権者である。

神ご自身が、
裁きの中で、
栄光を移される。

だから、
象徴的に、
「神を追い出す」
と表現するとしても、
それは、
人間が神を支配できる、
という意味ではない。

むしろ、
人間が神を拒み続けた結果、神がその状態を裁きに委ねられる
という方向で、
考えるべきだろう。

■ 敷居から、門へ


そして、
物語は、
まだ終わらない。

神の栄光は、
敷居から、
さらに、
東の門へ移る。

門とは、
建物と、
外の世界をつなぐ場所である。

ここで、
栄光は、
さらに外へ近づく。

■ 門から、山へ


そして、
11章。

栄光は、
町を離れ、
東の山へ立つ。

ここで、
ようやく、
9章の敷居から始まった、
一連の動きが、
大きな形を見せる。

内側から、境界へ。
境界から、門へ。
門から、町の外へ。

■ だから9章だけで結論を出さない


ここが、
今回の読み方の、
大切なところ。

9章3節だけを、
切り取らない。

10章へ行く。
11章へ行く。

そして、
もう一度、
9章へ戻る。

すると、
最初は、
ただの建築部分に見えた、
「敷居」
が、
物語の中で、
非常に重い位置を、
占めていたことが、
分かってくる。

■ そして、さらに先には「戻る栄光」がある


ここで、
少しだけ、
ずっと先を、
見てみたい。

エゼキエル書は、
栄光が去るだけで、
終わらない。

40章以降。
新しい神殿の幻。

そして、
43章。

エゼキエルは、
再び、
イスラエルの神の栄光を見る。

しかも、
その栄光は、
東から来る。

■ 去った方向から、戻ってくる


これは、
非常に美しい。

11章では、
栄光が、
町の東へ去っていく。

43章では、
神の栄光が、
東の方から来る。

そして、
宮へ入る。

つまり、
エゼキエル書における、
栄光の物語は、
離脱だけでは終わらない。

帰還がある。

■ 敷居は「終わり」ではなかった


そう考えると、
9章の敷居は、
さらに、
興味深くなる。

そこは、
神の栄光が、
宮を離れ始める、
境界だった。

しかし、
エゼキエル書全体では、
それが、
最後の場面ではない。

裁き。
離脱。
捕囚。

しかし、
その先に、
回復がある。

■ 神は境界に立たれる


だから、
今回、
「宮の敷居」を、
こう読んでみたい。

本文上は、
神殿の、
実際の敷居。

しかし、
9章から11章まで、
栄光の動きを追えば、
そこは、
内から外へ移る境界
として、
物語の中で機能している。

そして、
さらに43章まで見れば、
神の栄光は、
再び、
戻ってくる。

人間は、
境界を越える。

神から、
顔を背ける。

小さな妥協を、
積み重ねる。

それが、
道になる。

その道の先で、
神の栄光が、
敷居へ移る。

だから、
預言を読む時、
私たちは、
最後の結果だけを、
恐れるのではない。

その境界へ向かって、自分が今、どの道を歩いているのかを見る。

そして、
もう一つ、
覚えておきたい。

敷居は、
最後ではない。

9章だけで、
意味を完成させない。

10章へ。
11章へ。

そして、
43章へ。

神の栄光は、
動く。

去る。

しかし、
エゼキエル書は、
戻ってくる栄光
まで描く。

だから、
「敷居」は、
裁きの境界として、
恐ろしい。

しかし、
同時に、
エゼキエル書全体から見れば、
絶望の終着点ではない。

神は、
人間の建物に、
閉じ込められない。

神は、
人間の制度に、
所有されない。

そして、
神の栄光は、
人間が、
「もう終わった」
と思った場所からさえ、
再び、
現れる。

だから、
私たちは、
敷居そのものを、
神秘化するのではない。

敷居を読む。

そして、
その敷居を越えて動かれる、
神を見る。

可能性を消さない。しかし、可能性を事実にも変えない。

9章では、
まだ、
栄光は敷居にある。

だから、
ここでは、
答えを急がない。

ただ、
その場所を、
覚えておく。

そして、
10章。

11章へ進んだ時、
もう一度、
この敷居を、
振り返る。

その時、
初めて、
この小さな境界に立っていた、
神の栄光の重さが、
見えてくる。