罪人さえ用いる主 

 

ジョージ・ミュラー(1805~1898年)は「信仰の使徒」と呼ばれ、神からの取り扱いを受けた生涯は「信頼の人生」と名づけられている。衰えることのない情熱をもってキリストを宣べ伝え、神の御名に栄光を帰すという一事に、生涯の大半の70余年をささげました。


ジョージ・ミュラーは、14歳で教会の堅信礼を受けたものの、16歳になる頃にはならず者の泥棒として刑務所にいました。

二十代のはじめ、彼は祈りと聖書研究のために定期的に集まる人々と接するようになり、彼らの証しをとおして、ミュラーは人生の転機を迎え、神の家族の一員として生まれ変わりました。

 

「信仰の人」と称されたジョージ・ミューラーは、一生の間に9,975人もの孤児を養いました。

その間に、お金や食料が足りなくなったことが何千回もあったそうです。

けれども、本当に必要に迫られたとき、彼はその必要をだれにも告げずにただ祈りました。

すると神はいつも必ず必要なものを与えてくださいました。 

 

1864年5月から翌年の5月までのことです。この孤児の家には、15の大貯水槽がありましたが、日照りのためにどの貯水槽にも水がなくなってしまいました。

300人の子どもたちのために毎日、10キロリットルもの水が必要なのに、九つの深い井戸もかれて、そのうえ、今まで一度も枯れたことのない泉からも、ほとんど水が出なくなってしまったのです。
ジョージ・ミューラーは、職員や子どもたちと一緒にみんなで心を合わせて祈りました。

天候も支配される神様に、「どうか雨を降らしてください」と祈りました。

するとどうでしょう。彼らの必死の祈りとは裏腹に全く雨が降りませんでした。

けれども神様は、雨を降らせてくださる代わりに、何人かの人の心を動かして、必要な水を与えてくださいました。まず、大きな井戸を持っている農家が協力してくれました。

その農家の水が足りなくなると、今度は別の農家の人が、自分の畑のなかを流れる小川を分けてくれました。その人たちは、何も頼まなかったのに、進んで協力してくれたのです。

雨が降って貯水槽に水がたまるまで、一日も欠かすことなく、必要な水が与えられました。

 

 

聖霊の力が大事 チャールズ・スポルジョン

 

イギリスにチャールズ・スポルジョンという有名な説教者がいました。彼の語る説教には力があり、多くの人たちが教会に集まっていました。

 

しかし、ある聖日、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。

そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。

「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」


 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。

そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。

その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。

礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。

満足して家に帰ったとき、彼はこう自分に問いかけました。

「あれっ、ちょっと待てよ。失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心したのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったというのはどういうことか」彼の結論はこうでした。

「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということです。
 
少女のビジョン 

 

(大正3)、北米オハイオ州に住むJ・ウォーレン・ジェームズ夫妻に、ジャニスという娘がいました。ジャニスは幼くして信仰と愛に富み、日本で行なわれている伝道の話を聞いていたそうです。ジャニスはその時から、大きくなったら日本へ行って、日本の人々のために自分の一生をささげたいと希望するようになりました。しかし不幸なことに、8歳の時、ジャニスは突然召天してしまいます。


 ちょうどその頃、日本に女学校を建てるための募金運動が開始されたことを、ジェームズ夫妻が知り、これこそ亡き娘の望みに沿う神の定めた計画にちがいないと信じ、多額の寄付を申し出ました。


 ジャニス・ジェームズという少女の心に宿していた希望こそ、学校のめざすものと同じであるところから、米国の募金本部は、この新しい学校の名称を「ジャニス・ジェームズ・スクール」と命名し、日米間の控文書にはこの校名が用いられ、また当時の校門には「九州女学院」と並んで"Janice James School"の校名が掲げられました。

 

子供の体験重要 

 

ジョン・ウェスレーは、弟や友人たちと共に、メソジストと呼ばれるキリスト教の一つのグループを作った人で、それは、日本では青山学院大学などの背景になっているグループです。


ジョン・ウェスレーは、1703年、イギリスのリンカーン州にあるエプワースという町で生まれました。今から300年以上前の話です。お父さんはサムエル・ウェスレーと言い、プロテスタント教会の牧師をしていました。

 

また、お母さんはスザンナ・ウェスレーと言い、非常に勉強好きで教育に熱心な母親でした。スザンナは19人の子供を産みましたが、ウェスレーはその15番目の子として生まれています。
しかし、先に生まれた14人のうち、8人は幼くして亡くなってしまいました。

当時は、子供の死亡率が高かったので、子供をたくさん産んだ時代であったのです。


ところで、ウェスレーは、幼年時代、一つの忘れられない体験をしています。それは、牧師館が火事になり、そこから奇跡的に救い出されたという体験です。

牧師館とは、教会に付随している、牧師一家が住んでいる家ですが、ウェスレーが5歳のとき、その家から火が出たのです。

火は瞬く間に燃え広がり、2階で寝ていたウェスレーは取り残されてしまいました。しかし、そこに駆けつけた2人の男性によって、家が崩落する直前に、奇跡的に助け出されたのです。

そのとき、子供は全部で8人いましたが、その全員が助かったのです。両親は、当然のこと、このことを深く神に感謝しました。

ウェスレーも、この経験をとおして、自分には神から特別の使命が与えられているのではないかと考えるようになったのです。この経験が、後のウェスレーの活動に重要な影響を与えました。


子供の体験は重要です。

 

アフリカへの医療宣教者シュバイツァー博士は、少年時代、両親の真剣な礼拝に対する姿勢を通して「敬虔」を学んだといわれています。


無学な普通の人 ムーディー

 

靴のセールスマン。学歴は無く、信仰の道に入る前は基礎的なキリスト教の知識も無かったけれど、後には誰にでも理解できる説教をする名説教家になりました。


典型的な福音主義者として聖書を重視しましたが、信仰の道に入ったばかりのムーディーは、ヨハネの福音書を開くように言われて旧約聖書の項を開いて探しました。このようにムーディーは一般的なキリスト教徒が持つ教養も当初はありませんでした。連合王国の最高学府で説教した時、彼の説教の英語文法の誤りにエリート大学生たちは、不満を鳴らしましたが、そこに集団回心、リバイバル(信仰復興)が起こりました。

 

神様は無学な、普通の人を用いられます。

 

1884年。 アメリカはフィラデルフィアの小さな教会。


その教会の外で少女ハッティ・メイ・ウィアットが泣いていた。 
教会が小さくてとても混んでいたので、門前払いを受けたのです。
少女は、そばに歩いて来た牧師ラッセル・コンウェルに、
「教会学校の教室に入れないの…」 と泣きつきました。
牧師は、その子の着古した洋服やみっともない様子を見て、そのわけを想像したのですが、
彼女を抱きかかえ、近いうちに必ず子供たち全員が入れる教室を建てると約束しながら
彼女の手を引いて日曜学校のクラスに連れて行き席に座らせました。

その夜、少女はこのできごとがとても心に残りました。
そして、『教会が小さくて、子供たちにはイエス様を礼拝する場所がないこと』 を考えながら
眠りにつきました。

2年後のある日、

その少女ハッティは亡くなり、その遺体が貧困者救済の家の1室に横たえられました。

両親は、娘に親切にしてくれたこの牧師に、お葬式をお願いしました。
このかわいそうな幼い娘を動かそうとした時、ごみの山から探し当てたような、
ぼろぼろで、しわくちゃな財布が見つかりました。
中には57セントが入っており、子どもの手で書いたようなメモで、


「もっとたくさんの子どもたちが教会学校へ行けるように、
ちっちゃな教会を大きくするために使ってください。」 と書いてありました。

このお金は、2年間の間、愛の捧げものとしてこの子が貯めていたものでした。
牧師は涙ながらにこのメモを読み、そして即座に何をすべきかを悟ったのです。

牧師はこのメモを持ち、説教のための赤い手帳をしっかと持ち、この幼い女の子の無償の愛と捧げものについて話しました。
また、新聞社がこの話を知り、新聞に掲載しました。

これを読んだ不動産屋が、何千ドルもする土地の提供を申し出たのです。
教会は、そんなに広い土地を購入することはできないと言った時、
不動産屋は、57セントだけを要求したのでした。

教会員達も、大きな献金を申し出ました。小切手が、あちらこちらから届きました。
5年もの間に、この幼い女の子の献金は、25万ドルにも跳ね上がったのです。
それは19世紀の終わり頃ですから、当時としては巨額なものでした。
幼子の無償の愛に大きな配当金が付いたのでした。

1912年。コンウェル牧師は、少女ハッティが捧げた、わずか57セントから始まった様々なプロジェクトを振り返ります。時を経て教会は大きく発展。
彼らが建てたクリニックは街で最大の病院に。
職業訓練センターは現在、州で最大の教育機関であるテンプル大学に。 
1890年代に、ペンシルバニア州フィラデルフィア市であった本当の話です。

 

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」

 

 

名も無き老牧師の働き ロバート.モファット 

 

スコットランドのある田舎の村であったことです。

小さな教会で牧会をしていた牧師が、教会の役員から辞任を要求されました。それまでの牧師の働きを評価したところ、実質的な実を結んでいるものが何もないということでした。

回心者も一人もなく、記憶に残るほどの説教もたった一回だけでした。


その一回の説教が印象的だったのは、礼拝の中で起こった小さな出来事のためでした。

ある聖日、献金袋が回ってきたとき、一人の少年が献金袋を床に置いて、その中に入りました。どうしたのかと尋ねると、ささげるものが何もないので、自分をささげたいと言いました。

 

結局、その少年は礼拝を妨げたと小言を言われただけで、この小さな出来事もやがて忘れられてしまいました。しかし、その少年は自分自身を神にささげたということを絶対に忘れませんでした。神はその少年の献身を祝し、ご自身の栄光のためにお用いになりました。


自分自身を献金袋にささげたその少年はやがて成長し、生涯をキリストのためにささげました。彼は偉大な開拓宣教師となり、南部アフリカの多くの人々の人生と、部族および国の運命を変えるために用いられたのです。

この一人の少年ロバート・モファットは後日、宣教師となってアフリカのクルマン地方へ行って伝道し、リバイバルを起こしました。

実際、クルマン地方の全部族が救われ、現地のベチュアナランド語で聖書翻訳を成し遂げたのです。


ロバート・モファットの娘がやがて結婚しましたが、そのパートナーも同じ意志を受け継いで宣教師として生涯をアフリカにささげました。
彼はアフリカ奥地へと宣教網を拡大し、後の大きなアフリカ・リバイバルの礎を築き上げました。彼の名は著名な宣教師であり、探検家のリビングストンです。
過去の名も無きスコットランドの一老牧師の働きはしばらくの後、海外で大きな実を結んだのです。

 

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」(ガラテヤ69

 

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書 3:11)

 

聖霊は激励者


「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」(ローマ8:15)。

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)。

デンマークに文章を書くことが好きな少年がいました。
彼は一生懸命に書いたのですが、だれも、何の感想も言ってはくれませんでした。
それで、この少年はとても落胆し、文章を書くことを諦めてしまったのです。
それを知った母親が息子をお花畑に連れて行き、言いました。
「この花を見てご覧。まだ咲く時期ではない花は、つぼみは膨らんでいるけれど、咲いていないだろ?でも時期が着たら咲くよね!お前の文学的な才能はこのつぼみと同じだよ。確かに今は人々の目に留まらないだろう!でもしばらくすれば、このつぼみがぱっと開き、全世界の人が読むんだよ。私はお前の母親だから、お前のことがよくわかるんだよ。だから気を落としてはだめだよ!」。
この少年は母親の励ましにより、大きな勇気を持ったのです。
「母親が自分を認めてくれた。勇気を出そう」と。この少年こそはその後、偉大な童話作家になったハンス・クリスチャン・アンデルセンです。


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している!だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ!」(イザヤ43:4)

 

聖霊はすべてを益に変える

 

肺炎や梅毒などから、多くの人間の命を救ってきたのが抗生物質のペニシリンですが、抗生物質は、偶然に実験失敗を契機に発見されました。1928年、イギリスの細菌学者フレミングは、ブドウ球菌を培養していたシャーレの中に青カビの胞子がどこからか飛んできて、混入したのに気づきました。シャーレの中に異物の青カビを混入させるなど、細菌学者としては初歩的なミスです。しかも培養途中で、フレミングは家族旅行に出かけて研究室を留守にしていました。しかし、フレミングは、青カビの周囲だけブドウ球菌が繁殖していない、つまりシャーレに落ちた青カビが周囲の細菌を殺すのを発見し、不思議に思って研究を進め、カビがつくり出す化学物質のペニシリンが細菌の生育を妨げる抗生物質だと発見して、論文発表しました。

 

その後、1940年になって、オックスフォード大学の研究者、エルンスト・チェーンとハワード・フローリーの2人がペニシリンの抽出に成功。第二次世界大戦では、負傷兵の治療のため大量のペニシリンが必要になり、負傷兵たちは、化膿した傷口から細菌が入る敗血症で命を落とすことが多く、感染を防ぐ医薬品開発は国家の緊急課題となり、イギリスとアメリカはペニシリン研究を国家機密に指定し、巨額の研究資金を投じられました。

こうしてペニシリンは大量生産が可能になり、一般にも広く用いられるようになり、戦争が終結した1945年、フレミング、チェーン、フローリーの3人は、ノーベル生理学・医学賞を受賞し、ペニシリンは戦後の日本でも用いられ、それまで40歳代だった平均寿命を押し上げる要因の一つになりました。ブドウ球菌培養の失敗が結果、多くの人を救う幸いになったのです。

 

聖霊なる神様は人の失敗さえも相働いて益にしてくださいます。

 

 

 

ヨハ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

 

ヨハ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。15:27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

 

聖霊は復活の力 53歳ですべてを失って無一文からの再出発

 

清水安三はアメリカ宣教師の聖書講座参加をきっかけに17歳で洗礼。1917年、清水夫妻が北京に着いた直後、中国北部を大干害が襲った。農民たちは飢えに苦しみ、妻や子を売りに出す始末。清水はすぐさま救済活動に取り組んだ。日華実業協会の委託により災童収容所を開設し、収容された子どもたちの生活の面倒を看た。どの子も痩せ衰え、体は埃にまみれ皮膚病で膿だらけの子も多かった。二人の奮闘により、700名近い子が健康を取り戻し、彼らに識字など初等教育まで施した。

 

安三はさらに酷い「中国随一のスラム街」と言われる朝陽門外の惨状をたびたび耳にした。子どもたちは、数日水だけで過ごすという飢餓寸前で子どもの犯罪は多発し、女の子は身売りされるケースも少なくない。大多数の子は学校とは無縁で、読み書きもできない始末。安三はここに女学校を作ろうと考えたのが工読女学校、後の崇貞学園である。

「工」は手に技を持たせること、「読」は読み、書き、計算の能力を養うことを意味した。最低限の教養を身につけ、手に技を持つようになれば、家族を養うだけでなく、遊郭に身売りされなくて済む。事実、卒業生たちは刺繍の技術を身につけ、売春から抜け出すことができたのである。

 

1937年に日中戦争が勃発し、日中が全面戦争に突入しても、夫妻の活動は止むことを知らなかった。もう一つのスラム街天橋に、医療施設である愛隣館を建てようとするクリスチャン女性を助け、天橋の人々が無料で飲める井戸まで掘った。しかし、戦後、国民党政権から崇貞学園の全施設の接収命令が出され、退去せざるをえなくなってしまった。

 

日本に帰国後、53歳ですべてを失って無一文からの再出発。敗戦後の混乱した日本の将来を憂いて畑の真ん中で「神様、日本の将来を担う若者達に教育する学校を与えてください。」と、ひたすらに祈った。その後、わずか2ヶ月足らずの内に東京町田市に武器弾薬工場があり、そこで働く工員たちの荒廃した寄宿舎を安く借り受け、桜美林高等女学校(桜美林学園)の開校式にこぎ着けた。ここが幼稚園、中学校、大学、大学院まで発足させ、大学・大学院では、中国の言葉、文化、思想を教え、中国の学生も迎え入れ「日中の架け橋」となる人材を育てるミッションスクールを願った。牧師でもある清水氏はこう語る。

「夢を見よ。夢は必ずなるものぞ。」

Ⅰペテ3:15 心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

聖霊は生きる道を開く

 

クリーニング業界最王手の「白洋舎」創業者五十嵐健治は最初、北海道の開拓団に加わるが、うまく行かず、裏切りにあって、重労働を強いられるタコ部屋へ入れられました。脱走して北海道の小樽まで逃げ自殺を考えながら町をさまよっていた際、夜の明かりに引かれてキリスト教会に導かれ、自殺を思い留まり、19歳のときに五十嵐は洗礼を受け、クリスチャンとなった。「突き出さず謙虚に世の中の方々に奉仕する心を常に持つ」ことを表す意味の「白洋舎」と会社を命名。当時クリーニング業と言う仕事はなかったが、人のお役に立つ事、事業資金がない事、自分の体一つで出来る事など様々な条件の中から「小学校しか卒業していない自分でも人様に喜んでいただけることがある」と、洗濯請負を始め、人から「他人の垢でめしを食う」と冷やかされながらも働いて、日本でクリーニング業界最王手になりました。1941年に太平洋戦争が起ると社長の座を譲り、残りの生涯をキリスト教の伝道に費やし1956年には病床にあった三浦綾子を尋ね、この事がきっかけで後にクリスチャンになった三浦綾子は後に五十嵐の伝記「夕あり朝あり」を著しました。五十嵐は1957年頃、クリーニング業者福音協力会を起しました。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」ピリピ2:3~4

 

「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」伝道者5:19

 

ロマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

ロマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 

聖霊はビジョンを下さり成就する 

 

1914年、北米オハイオ州に住むJ・ウォーレン・ジェームズ夫妻に、ジャニスという娘がいました。ジャニスは幼くして信仰と愛に富み、日本で行なわれている伝道の話を聞いていたそうです。ジャニスはその時から、大きくなったら日本へ行って、日本の人々のために自分の一生をささげたいと希望するようになりました。しかし不幸なことに、8歳の時、ジャニスは突然召天してしまいます。

ちょうどその頃、日本に女学校を建てるための募金運動が開始されたことを、ジェームズ夫妻が知り、これこそ亡き娘の望みに沿う神の定めた計画にちがいないと信じ、多額の寄付を申し出ました。
ジャニス・ジェームズという少女の心に宿していた希望こそ、学校のめざすものと同じであるところから、米国の募金本部は、この新しい学校の名称を「ジャニス・ジェームズ・スクール」と命名し、日米間の控文書にはこの校名が用いられ、また当時の校門には「九州女学院」と並んで"Janice James School"の校名が掲げられました。

 

使2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 

 

ルカ24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

聖霊は罪人を用いられる

 

詩51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

 

アメリカにスティーブ・ライダーという有名な伝道者がおられますが、この方は救われる前に、銀行強盗で逮捕され、9ヶ月間、独房に入れられたことがありました。彼は他の囚人と完全に隔離されていたので何もすることがなく、ずっと聖書だけを読んでいたのです。

その中で聖霊にとらえられ、イエスを救い主として信じました。

 

しかし、9ヶ月後、彼は刑務所の本部に移されますが、そこで大きな試練を受けます。食べ物にガラスを混ぜられたり、いじめに遭ったりと、同じ収容者からさまざまな嫌がらせを受けました。彼は精神的にも肉体的にも限界を感じ、あるとき野球のバットで2人の囚人を傷つけました。彼は自分が悪いことをしたと思い、神様に悔い改て祈ります。

「神様は、私は本当に悪いことをしました。」

 

そのときです。独房の中で、はっきりと神様の声を聞きました。

「あなたは御霊に満たされる必要がある」

彼は、刑務所の独房の中でひざまずき、知らないうちに手をあげて

「イエス様、どうぞ私をあなたの聖霊で満たしてください」と祈りました。

すると突然、聖霊に満たされ、それからというもの、彼の生活はすっかり変わり、キリストの愛が心にあふれ、大胆さが与えられて、福音を恥じることがなくなりました。刑務所の中でキリストの愛をもって人々に仕え始め、3週間のうちにこのイエスの愛と喜びを刑務所内の全部署に伝えました。聖霊の満たしを受けたことで、彼は大胆に福音を伝えることができるようになり、神様は刑務所長までも変えてくださいました。

 

彼は模範囚として釈放され、彼の全生涯を主にささげ、若者伝道に仕えるようになりました。主は彼を通して多くの奇跡や不思議をなさり、神のことばがさらに広まっていったのです。

 

 

聖書 刑務所で悔い改めて牧師に

 

田中菊太郎先生は、15歳のときに少年刑務所に窃盗の常習犯で入所したのみならず、刑務所に入って後も看守と結託し、刑務所の材料を用いて家具を作り、それを市価の半値で売りさばいて儲けていたのだそうです。
いよいよそれがばれかかると、仮病を使って入院してしまいました。
入院期間中、その退屈なこと、退屈なこと。
あまりの退屈さに病室の台の引出しをのぞいてみると中に新約聖書がありました。手に取って読んでみると、
「丈夫な人には医者はいらない…」、
自分の仮病のことを知られたような気がしてハッとし、続いて読むと、
「わたしがきたのは、…罪人を招くためである」とありました。
「ホウ、なかなか話がわかるじゃないか」と思って読み進むうちに、イエス・キリストが罪人のために十字架にかかったことを知りました。
「どうしてこんなにいい人が十字架にかからなければならないのか! 」
と不思議に思い、そのときハッキリと自分が罪人だということがわかったのでした。今まで何をしても、悪いことをしていると感じたことはなかったのに、聖書を読んで初めて自分が罪人だということがわかったのです。
なぜかしら、そのときから訳のわからないうれしさに心が満たされ、ある日、刑務所の所長にそのことを話すと、クリスチャンであった所長は驚いて椅子から立ち上がり、こう言いました。
「君は救われたんだよ! 」みことばが罪を明らかにし、救いを告げ知らせ、救われてから刑務所の中で伝道を始め、今では日本全国の刑務所でキリストの救いを告げ知らせるオネシモミッションの働きで教戒師の働きをして那覇隣人キリスト教会を建て上げています。

 

みにくいあひるの子

 

デンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年4月2日、貧しい靴直し職人のもとに生まれました。
彼の貧しさは、亡くなった人の棺桶をベッドに使うほどでした。
その上、当時の階級社会から来る差別に苦しめられました。
そこから逃れ、14歳でドイツのコペンハーゲンに来た彼は、職を転々としながら苦学を続けました。役者を目指しても挫折し、脚本を執筆しても不採用となり、2年間まったく途方に暮れていたのです。その後、彼の才能を認めたヨナス・コソンによって大学に入学しましたが、そこでも「えせ文学者」と攻撃され、挫折を経験しました。しかし1834年、名作「即興詩人」を発表し、ついに文筆家としての地位を確立したのです。
彼にはいろいろな女性との出会いがありました。コソン家の娘ルイーゼ、エアステッドの娘ソフィー、スウェーデンの歌手ジェニー・リンドなど。しかし、彼女たちとの厚い友情は続いても結婚には至らず、むしろ数々の失恋の痛みが、彼を新しい創作へと導いたのです。彼は生涯、孤独と悲しさ、友の裏切り、嫉妬と非難、文壇の無視、失恋に苦しみました。

彼は、自伝の初めに「私の生涯は波乱に富んだ幸福な一生だった」と記しています。フィクション化された自伝とも言われる『みにくいあひるの子』が彼の信仰を明らかなものとしています。

 

アヒルの群の中で、他アヒルと異なった姿のひなが生まれた。アヒルの親は、七面鳥のひなかもしれないと思う。周りのアヒルから、あまりに辛く当たられることに耐えられなくなったひな鳥は家族の元から逃げ出すが、他の群れでもやはり醜いといじめられながら一冬を過ごす。生きることに疲れ切ったひな鳥は、殺してもらおうと白鳥の住む水地に行く。しかし、いつの間にか大人になっていたひな鳥はそこで初めて、自分はアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付いて心の底から喜びの声を上げる。そこに描かれているのは、神がどんな逆境の中でも最善をなされるという信仰であり、やがて主であるキリストと同じ姿に変えられる復活への希望です。