救い主イエス様

 

天国は救い主イエス様を心に迎え入れた時、明日ではなく今日!体験できます。

                

「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:39-43)

 

イエス様が十字架につかれた時、強盗罪で捕えられ、おそれ多くもイエス様の隣の十字架に並んで釘打たれ、そこで救いを受けた名もなき一人の強盗が垣間見た栄光を、空想力を大胆に働かした作り話という前提でこれからお聞き下さい。

 

ある日のこと、ローマ政府の属国支配に強い敵意と独自の政治的野望を抱く悪名高き犯罪人バラバを首謀者に、手下のテロリストたちはイスラエル全体を混乱と重圧に陥れるような暴動を引き起こしました。綿密な策略の下、テロリストたちはローマ軍派遣のわずかな駐屯兵たちに一斉に襲いかかり、これを剣の刃で打ち破り、そのまま政府直属の取税所や金融機関まで襲いかかって金銭を略奪し、住民を突然の恐怖へと陥れました。しかし、通報で駆けつけたローマ全軍部隊は優れた指揮の下、戦いにたける勇士たちであり、馬に引かれた一人乗り戦車を巧みに操作して、迅速な対応で暴動を鎮圧し、バラバ率いる一連のテロリストたちを一網打尽に逮捕していきました。

 

そんな暴動の最中、ドサクサにまぎれて強盗を働いて即座に逮捕されたのが、この名もなき一人の男でした。ポンテオ・ピラトは注目度の低いこの男に多くの取調べをすることなく簡単な略式裁判で即、十字架刑を宣告しました。

 

それ以降、死刑当日まで獄中生活を強いられた男は力の限り鉄の扉をつかんでむなしい叫びを繰り返しました。「たった一度の強盗で十字架刑!なんてついてないのだ。他にもっと悪いやつらが大勢いるではないか。ここから俺を出せ!出しやがれ!…」

 

やがて死刑執行の当日、看守が鍵の束を持って獄舎に現われ、突然この名もなき一人の男ではなくバラバのいる獄吏の扉を開いて言いました。

「さあ、バラバ。出て来い。おまえは実に運のいい奴だ。過越祭の慣例でおまえが選ばれ、特別赦免されたのだ。寛大なローマ皇帝に感謝しろ。」

 

バラバの叫び狂う歓喜の声と裏腹に他の死刑囚たちは一層がくぜんとうなだれ口々につぶやき始めました。

「あの一番極悪なバラバが釈放?暴動と人殺しの主犯格が無罪放免?俺たちは、幸運にも見放された!」

その日は皮肉にも年に一度の過越祭のため世界中のユダヤ人たちが帰郷してイスラエル全体が活気づくなか、獄中から2人の死刑囚は連れ出され、そこにピラトの総督官邸からたったいま連れ出されたばかりの男1人を加え、計3人がゴルゴダの処刑場へと自らの十字架を強制的に背負わされながら、見せ物となって大群集の只中を引かれて行きました。

 

獄中からついに十字架へと連れ出された名もなきこの強盗人がそこですぐに気付いたことは、道端の両サイドに群がりこぶしを振りかざす熱狂的な大群衆の最も注目する非難と怒りの罵声の矛先は自分ではなく、圧倒的に先頭で重い十字架によろめきながら険しいドロローサの道を歩む、血に染む白長い衣を着た男ひとりに対するものでした。

「除け!除け!十字架だ!十字架につけろ!」

「俺たちにカイザル以外の王はいらない!」

「イエスはユダヤ人の王ではない!イエスは俺たちの王ではないぞ!…」

 

強盗人はその声にハッとしました。

「イエス!この先頭の血だらけの男があの有名人イエスなのか。いつか一度は会ってみて、その教えを直接聞きたいと思ったこともあったあのイエスが、いま皮肉にもこんな所で始めて身近に会えるとは…イエスは一体どんな罪を犯したのだろう、あの顔も背中の出血もそうとう痛めつけられたようだ。…それにしても俺の前を白色の衣を着てあんなに罵倒されても口を開かず、ただ黙々と歩むあの姿はまるで、ほふり場に引かれて行く白い小羊のようだ。十字架が怖くないのだろうか。俺は怖い。俺は絶対いやだ。俺はまだ死にたくない!…十字架が重い。」

 

こうして、見通しの良い道路わきの小さながけにある岩のおうとつがまるでどくろの面のように見える岩棚のちょうど真下に設定された演出効果抜群の薄気味悪い処刑場ゴルゴダへ到着するや否やローマ兵は無情にも彼らを地面に突き飛ばし、そこで手足を大きなハンマーで十字架へと釘打ち始めました。

「ガツン!ガツン!ガツン!」

 

AD32年4月11日(金曜日)午前9時、天まで響く壮絶な叫びと共に3本の十字架がゴルゴダの地を赤く染めました…。

 

熱狂する大群衆のざわめき。罵倒する怒鳴り声。首を振りながら軽蔑する視線。全身の激痛とけいれんする手足。しかしその時確かに強盗人はまるで地獄のような哀れみなき凄惨な恐怖体験の只中にこの世とは全く異質な聖なる天的で信じられない光景を垣間見たのです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

中央の十字架につけられたあのイエスが天を見つめて祈っているではありませんか。しかも自分を殺す者たちのためにその赦しをとりなし祈るとは…。

強盗人も初めはイエスを群集同様ののしっていたが、この聖なる祈りの前、あまりの衝撃に言葉を失いました。しばしの沈黙。絶え間ない激痛。強盗人は十字架上。

隣のイエスのことを考え、打ち消しても打ち消しても心から離れないイエスの言葉とその存在。強盗人はやがて十字架上、自分の罪汚れた姿を心底悲しく思い、このような罪人たちのために祈られる聖なるお方のことをもっと知りたい、できればその聖さに自分も預かりたいと考え始めました。

男は自分の心が次第に変えられていくのを感じました。

先ほどまで迫害することが当然の使命と思えたこの中央のイエスに対してこのお方は本当に神様が世界に送られた救い主なのだと。

何の抵抗もなく自然にこのことが信じられるように変えられてきたのです。

その時、強盗人は自らを制することができなくなって心からイエスに向かって告白していました。

 

「イエスさま。あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 

それは強盗人の一生涯ただ一度のしかし心から生じた真剣で飾り気もない本物の祈りでした。その時、強盗人は罪汚れた自分のことさえ愛に満ちた御目でこちらを見つめながらやさしく権威に満ちて語られるイエス様のみ声をはっきり聞きました。

 

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 

強盗人はかみなりに打たれたように心に熱い感動が走り全身に鳥肌が立ち十字架の上にいることさえ忘れてしまう幸福感が心にあふれました。一生涯感じたことのなかった暖かく全く新しい感覚が心を満たし、いかなる境遇にも関係ない真の平安が彼の心に寄せては返す大波のように押し寄せてきました。今まで全く知らなかった本物の神の愛の世界です。

 

「これだ!。これが神様の愛なのだ。私の捜し求めていたものはこれなのだ。私は今ついに救われたのだ…!」

 

その後、強盗人が肉体的に死の地と死の陰にみまわれながら苦しみもだえて最後に見た光景とは、ローマ兵たちが何かを話し合いながら再びあの大きなハンマーを手にこちらに近づいてくる光景でした。まずは十字架の一番向こう側につけられた死刑囚。ローマ兵は冷酷で事務的に彼の前に立ち止まるとそのすね目がけて思いっきり一振りしました。一瞬の死の叫びと共に先ほどまで騒がしかった男が怖いほどに静まりうなだれました。

 

ざわめく群衆。次にローマ兵は中央で十字架につけられたイエス様の前をそのまま素通りして真っ直ぐ自分の所へ近づいて来るではありませんか。強盗人はローマ兵と死の恐怖から逃げ出したいと心底思いましたが、無情にもローマ兵はすぐに自分の前でしっかりと立ち止まり、大きな死のハンマーを天高く振りかざしました。強盗人は恐ろしさのあまり震えながら目を閉じただイエス様のなされた約束の御言葉だけを信じて運命を神様にゆだねました。

 

「イエス様。信じます。イエス様。信じます。イエス様。信じます…。イエス様」

 

振り下ろされたハンマーは正確にすね目がけて一撃されました…。

 

「ガツン!」

 

その瞬間です。なんと霊魂が十字架の死の苦しみに耐え切れず、肉体から逃げ出したかのように勢いよく飛び出ました。

 

「あれ?おかしい。確かに俺は今、死んだ。体は十字架上なのに、俺はここにいる!」

「あれ?あなたは誰?」

「はじめまして。私は天使です。あなたは私のことを知りませんでしたが、私は一生涯あなたの救いのために陰でお仕えしていました。そして、今日あなたは救い主イエス様を信じて、とこしえの御救いに入ったのです。おめでとうございます。偉大な我らの神様に栄光あれ。ハレルヤ。さあ。共に行きましょう。」

「ちょっと、待って下さい。あれはどうなるのですか?俺、いや私の大切な体です。十字架の上に死んだままぶら下がっています。しかも、足の骨まで折れています。」「心配は要りません。み父は良い神様ですから、時が来ればあれよりもはるかに優れた第一の復活の体を与えて下さいます。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。さあ。それより時間がありません。歴史的大聖会が今、地下のパラダイスで既に始まっています。急ぎましょう。私も参加したいのです。」

 

こうして天使は素早く男の手を取り、足元に開かれた霊的な穴からゆっくり回るトンネルの中へ急降下して行きました。下へ、下へ、地下の国、栄光のパラダイスに近づくにつれ盛大な賛美と歓喜の声がトンネル内の壁に反響しながら聞こえてきました。

 

「ホサナ!ホサナ!いま来た我らの王に栄光あれ!ホサナ!ホサナ!ダビデの子イエス・キリストに栄光あれ!」

 

パラダイスに到着すると、そこは全く聖なる別世界。広く開かれたエデンの園の美しいオープンスタジアムがあり、そこに集う大群衆の大半はユダヤ人で、部分的に改宗した外国人たちも入り混じって礼拝を捧げていました。

 

「あっ。イエス様だ!。」

 

たった今、天使に連れられてここに到着したばかりのこの男はあまりに栄光輝くパラダイスと最も際立つ御座におられる天国の王イエス様のかいまみた栄光に激しい感動が全身を襲い、そのまま崩れるように神聖な臨在の中でひれ伏し礼拝しました。

 

「そうか。そうだったのか。あの十字架の頭上の岩棚に大きく掲げてあった罪状書「ユダヤ人の王・イエス」とは本当のことで、イエス様は天国の王様だったのか。救い主イエス様感謝いたします。ユダヤ人の王なるイエス様礼拝いたします。全世界の王なるイエス様あがめます。私の王の王なるイエス様愛します。私を救って下さり本当に感謝します。!」

 

それから、時も忘れて礼拝に没頭し、よみのパラダイスにおける3日間の大聖会終了後イエス様は御言葉通り復活の初穂として大群衆の見守るなか真っ直ぐトンネルを上って出て行かれ地上に戻られました。そこで興奮冷めやらぬうちにそのままパラダイスに取り残された男が周囲を見渡していると、そこは確かに麗しいエデンの園であり、なんと背の高いハンサムなアダムがいるではありませんか。

 

「イエス様に少し似ているなあ。」

 

探してみるとノアもいます。アブラハムもいます。「ふところが大きいですねえ。」イサクもヤコブもダビデも…。男は旧約聖書の有名人たちの前で興奮してふるえながらなぜか突然自己紹介を始めました。

 

「義人の皆様。始めまして。俺いや、私はパラダイス新入りの者です。お会いできて大変光栄です。実は3日前に来たばかりですけど、地上では本当に恥ずかしい話ですが元強盗人でした。それで捕まって十字架で処刑されて死にました。今思えば当然の報いでした。ところが、私の真横の十字架上にはおそれ多くもあのイエス様がいらっしゃったのですよ。」

 

「え!それは大変興味深い。あなたは受肉された救い主イエス様の十字架の栄光の最初の目撃者ですね。ぜひ、その証しを我々にも聞かせて下さい。」

 

こうして、地上では一生涯良いことでは一度も注目されることのなかった無名な元強盗人のパラダイスにおける証しのリバイバル聖会が始まりました。

 

「…それでね、イエス様は十字架上、初めにこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」…いやあ、さすがにこのお言葉には私も心底驚きましたよ。なんせ自分を殺す者たちの赦しを真剣に祈られるのですからねえ。私は始めからこのお方はただの罪人だとは思わなかったのですけど、ついついそのみんながいっせいに熱狂的に悪口するもので、私も悪の性分上つられてしまいましてね、気がついたら始めの3時間位は「十字架から俺たちを降ろせ。そうすれば信じてやるよ。」とかなんとか言いながら口汚なくイエス様を呪っていたのですよ。今ではイエス様に対して暴言を吐いて本当にすまなかったと思っております。…それから、そうそう太陽が真上に昇ったから昼の12時頃、悔い改めた私をやさしく見つめてこう約束してくださったのですよ。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」私は鳥肌が立って全身に電撃が走り抜けましたわ…」

 

このような感じで元強盗人の証しの聖会は延々と続き、旧約聖徒たちからも、かつて主がなされた偉大な御業についての証しを聞いたり、質問したりしながら意見交換をしつつ時も忘れて40日間が瞬く間に過ぎ去りました。一方、イエス様の戻られた地上ではさらに一歩進んだ会話が500人以上の聖徒たちを中心になされていました。

 

「本当なのです!イエス様は墓からよみがえったのですよ。私はこの目で見たのですよ。その手に傷跡もしっかりありました。間違いありません。正真正銘イエス様です。いやあ、私は始めからこのお方がただの宗教家だとは思っていませんでしたよ。ただ、みんなが見捨てて逃げ去るもので、ついついその私も臆病な性分上つられてしまいましてね、あれは完全な裏切り行為でした。今では大事なときにイエス様を見捨てたことを本当にすまなかったと思っております…」

 

こうして、地下と地上で平行して40日間リバイバル聖会が開かれるなか、御自身の復活を確かに証明されたイエス様は時満ちてついにオリーブ山頂で宣言されました。

 

「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…」

 

最後の遺言級の重要なメッセージを語られたイエス様は祝祷されてから、瞬く間に雲につつまれ空中高く弟子たちの見守るなか引き上げられて行きました。ちょうどその頃、地下のパラダイスでも天使たちによる総動員の大号令が旧約聖徒たちに掛かっていました。

 

「さあ!今が旅立ちの時です。急いで下さい。あなたがた神のイスラエルたち。あなたがたの中のある者たちがかつてエジプトからカナンの国へ旅立ったように、今再びこの古いやがて滅び行く地球と言うエジプトから離れ、天国と言うカナンにエデンのパラダイスもろとも民族大移動の旅に行かねばなりません。イエス様は既にオリーブ山から天に上られました。聖書に「高い所に上られたとき、彼(イエス様)は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」と書かれている通り、あなたがたも今、一緒になって天国へ上って行かねばなりません。さあ!早くイエス様の後について行くのです。」

 

こうして、旧約聖徒の大群衆は瞬く間に空を飛ぶ蝶々の群れのようにトンネルを通り抜けて、明るい地上のイエス様を取り巻く栄光の雲と共に合流して空中高く引き上げられ、天国へと移されて行ったのです。しかし、彼らは皆、過去に一度死んだ人々として霊たちであったため、地上でオリーブ山頂に立つ弟子たちには全く雲の一部分位にしか見えず、ただ肉眼でも直視できたのは復活の初穂として栄光輝く空中携挙のイエス様ただお一人だけだったのです。ハレルヤ。

 

元強盗人も何がなんだか分からないうちに空中高く天国へ引き上げられました。そこで、男が垣間見た栄光とはさらに大いなるものでした。第一の天である大空を通り抜けて、第二の天である宇宙も通り抜けて、第三の天である天国のパラダイスへ入ったとき、なんとそこには千の幾千倍、万の幾万倍の美しい天使たちがいるではありませんか。天使たちは口々に大声で叫んで合唱しました。

 

「ハレルヤ!我らの王に栄光あれ!今来た。我らの主イエスに誉れあれ!イエス様お帰りなさいませ。あなたは十字架の上で勝利をとられました!」

 

こうして、イエス様は偉大な栄光を受けられ天国のパラダイス大宴会が始まりました。イエス様はそのとき講壇に立たれメッセージされました。

 

「あなたがたは今確かに約束の天国に入りました。聖書の御言葉はこのように一点一画も朽ちることなく真実です。私はあなたがたに言いましょう。いつどんな時かは言えません。ただみ父だけが御存知です。やがてその時が来ます。私はもう一度地上に下って行かなければなりません。そのとき、あなたがたも全員共に下るのです。」

 

民衆の中にざわめきが起こりました。

「主の言われたことは一体どういう意味なのだろう。私たちがもう一回人間になって地上で生きるのだろうか?」

 

するとイエス様は御手を静かに伸べて言われました。

「静粛に。もうまもなくしてみ父の定めの時が来ると、私は空中再臨の主として栄光の雲につつまれて空中に降りていくつもりです。それは今から先、あなたがた同様、たくさんの私を信じる神の子どもたちが地上に生まれようとしているため、私は彼らをも私のいる所へ迎えに行かなければならないのです。あなたがたもその時、地球の地上に共に下りて行き、おのおの自分の埋葬された墓地で乾ききったかつての自分の体の骨々から復活することになっています。恐れることはありません。み父は以前にも優る栄光の体を与えて下さいます。復活するべき号令の合図はあなたがたキリストにある死者が御使いのかしらの声と、神のラッパの響きを聞くその時です。そして、復活と同時に空中で待っている私の所へ一挙に引き上げられることになっています。このようにして、私たちは、地球の上空で婚宴期間を7年設けた後、地上に下りてそこから1000年間、創世当初と同じような完全な地球で王権をもって共に過ごすことになります。その後はあなたがたは聖書の預言通り神の国が力を持って到来する天国のエルサレムを見るでしょう。今あなたがたのいるこの美しいパラダイスという天国内の待合室に優る正真正銘、夫のために飾られた花嫁のように整えられた天国そのものです。」

 

これを聞いたパラダイスの民衆は再び歓喜の叫びのうちにざわめきました。民衆に混じって元強盗人の男はイエス様が語られた福音にわくわく感動しながら言いました。

 

「そうか!やがて私はもう一度よみがえってあの十字架上、足の折られた体に優る栄光の体を受けて地球で生きられるのだ!やったー!」

 

そう言いながら男はそれ以降ひたすら今日まで約2000年間、復活の日を夢見て待ち望んでいます。その日が今から近い将来実現しようとしております。まもなくイエス・キリストが帰って来られ死者はよみがえります。その時、もし私たちが生き残っていたならば生きたまま空中に引き上げられつつ栄光の体に変化します。実はその日、大群衆の空中携挙に混じって、最も復活の栄光が小さく死刑囚用の粗末な共同墓地から空を小さく飛ぶ男がおります。誰ですか?それは約2000年間天国パラダイスでわくわくしながら待っていた名もなき元強盗人の男です。天国の記録の書を開いてみるとそこにちゃんと書いています。白い御座の審判の日、行ないに応じた報いを授けようと神様が元強盗人の記録の書を開いて御覧になると、

 

「タイトル・元強盗人の生涯。信仰歴、十字架上の3時間。礼拝回数ゼロ。わずか3時間の信仰歴ですからしょうがないですね。奉仕経歴ゼロ。まあ、行ないで救われるわけでありませんから。献金額ゼロ。…キリストにある成熟度ゼロ。…とりなし祈りのリクエストゼロ。…愛の犠牲ゼロ。…伝道回数ゼロ。…ゼロ。…ゼロ。…」

 

これが十字架の上で悔い改めた強盗人なのです。でも、男はそんな小さな復活でも大きな希望を持って天のパラダイスで、ニコニコしながらちゃんと座ってその日を今日か明日かとハラハラしながら結局2000年間も夢見ながら首を長くして待ち望んでいるのです。

 

それを考えると今すでにイエス様を信じて毎週礼拝を捧げていらっしゃる読者の皆様はどんなに素晴らしい幸いな人なのでしょうか。少なくとも信仰歴、奉仕歴、献金額…などいろいろと長いはずです。きっと死者の復活の日、もっと栄光輝く体を受けて天国に入れますね。

 

もし、読者の皆様の中にまだ救い主イエス様を心に受け入れていない方がおられましたら、教会に毎週通われて聖餐式にあずかり救いの道を早く見いだすことを切にお願いします。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ伝6:54)

 

救いの確信を受けたクリスチャンは誰でも恐れることなく大胆に告白できるでしょう。「しかり。わたしはすぐに来る。」「アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)

 

ある人にとっては聖書預言もこれら一連のストーリーも信じられないかもしれません。しかし、はっきり言えることは救われた元強盗人のように誰でも行ないにはよらずただ恵みのゆえに信仰だけで救われ天国に入れます。確かに元強盗人は行ないでは完全な罪人でした。しかし、栄光の雲に乗って来られる神様の御姿ではなく、十字架上最も惨めな姿で群集も迫害する中、一つの奇蹟も行なわないイエス様を誰一人弁明も理解も伝道もしてくれないのにただ一人で神様であると信じた大変勇気ある信仰者です。神様が認められる義人は罪を心から正直に悔い改めて信仰で生きる人です。

 

勇気をもって人目を気にせず、信仰告白した元強盗人の男のようにイエス様をわが救いの神と大胆に告白しましょう。男は十字架上悔い改めてイエス様を救いの神と信じたその日から想像以上の栄光を垣間見たのです。それはよみにおける大祝会、天国パラダイスにおける大祝会、そしてこれから先イエス様の再臨に伴い更に大いなる栄光を垣間見ることでしょう。私たちの人生も同様です。ただ、悔い改めてイエス様を信じただけで新たな霊の世界が開かれ、いまだかつて知らなかった聞いた事も想像した事もなかったような信仰という新しい大いなる世界が開きます。神様の栄光を垣間見る者として新たに生まれ変われます。いまだかつて体験したこともなかった新感覚の温かい神の愛という新天新地に今、信仰で飛び込もうではありませんか。

 

自分はまだ救われていないと思われる方、救いの確信が乏しい方、以下の信仰告白を声に出して読み上げ、必ず十字架のある教会に通ってください。イエス・キリストは十字架で血を流して命を捨てるほどあなたの事を本気で熱く愛しておられます。

 

「天の父なる神様。感謝します。今、信仰を持って祈ります。私は今まで私を造られた創造主の神様から離れて罪人として歩んできました。私はこの罪を悔い改めます。罪なき神様の一人子イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架にかかり、血潮を流して死んで、葬られ、よみにくだり、三日目に死人の中からよみがえられたことを信じます。イエス様の貴い血潮で私の罪を赦して清めてください。私は救い主イエス様を心に受け入れます。助け主、聖霊様、私の中に来てくださり、すべての問題を解決して、病を癒して、悪霊を追い出して、今からとこしえまで悪しき者からお守りください。神様と聖書のことがもっとよく分かるよう助けて、毎週教会へ通えますようお導きください。イエス様の血潮で契約が結ばれた今、神様は私の愛する父であり、私は永遠に神様の子どもとされました。私は本当に救われました。永遠の命は私のものです。ハレルヤ。感謝します。主イエス・キリストの御名で心からお祈りいたします。アーメン。」

 

 

 

 

 

 

 

七つの悪霊を聖絶せよ

 

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。」(申命記七・一~二)。   

   

 これは主からモーセを通じてイスラエル人に与えられた歴史的課題、七つの異邦人聖絶命令です。そこでヨシュアの時代、イスラエル人は主の聖絶命令に従って勇敢に戦い抜き、約束の相続地ヨルダン西岸を征服し、戦争はいったんやみました。しかし、ヨシュア記十一章二二節では詳細に戦況報告します。「それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。」

 

この時、勝利に酔いしれるイスラエル人にとってこれら「わずかに残された者」が、後に大きな問題を招くことになるとは当時、誰もが想像さえしませんでした。しかしその後の歴史はまさに主が事前に警告されていた通りです。「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。」(民数記三三・五五)。

 

聖絶から逃れたわずかな者が住む第一の地方ガザ地域。ここは使徒の働き八章二六節によると主の使いが伝道者であるピリポ執事に向かって「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。(このガザは今、荒れ果てている。)」と宣教命令を与えられた地です。

 

それはガザに残されたわずかな者たちがやがて増え広がり、何千年も経過した後の時代にこの地域を不信仰で満たし、荒廃させてしまったからです。

 

わずかな者が残された第二の地方ガテ地域。ガテからはやがて3メートル35センチもある巨人の代表戦士ゴリアテが立ち上がり、イスラエル人の代表戦士とひとつ国の命運を賭けた戦いをしようと呼びかけ、朝に夕に四十日間イスラエルの陣営を悩ませました。

 

第三の地方アシュドデ地域。ここでは後にダゴンの偶像の宮が造られ、イスラエルから重要な契約の箱が奪われて後、ここアシュドデにある偶像ダゴンのかたわらに安置されてしまいました。そのため主の聖なるみ怒りに触れたアシュドデの全住民は非常な大恐慌と死に直面する腫物に打たれました。

 

このように本来追放すべき異邦の七部族に妥協してすべてを聖絶しなかったイスラエル人にとってそのわずかに残された者が、後の時代に彼らの「目のとげ、わき腹のいばら、悩みの種」となってしまったのです。

 

ここに教訓があります。今日の聖絶とは私たちの相続地なる乳と蜜の流れ出る祝福の基、心の中という地域から違法の七つの悪霊どもをすべて一匹残らず追い出すことを教えています。心のうちにわずかに残された悪霊を持っていてはいけません。

 

私たちは主イエス・キリストを信じた時から聖霊様が心のうちに入って来られ死んでいた霊魂が生き返ります。心の王座に新しい王、聖霊様が住まわれます。そのためローマ軍の千人隊長や百人隊長が砕かれて取り除かれた時のように古い隊長悪魔は縛られて追放されます。しかし、隊長が除かれて組織の統制力を失なった配下所属の雑兵のような悪霊どもの軍隊は、私たちが礼拝を繰り返すうちに継続して追放されますが、時にある領域で徹底した悔い改めがなされていないため、わずかに古きの悪霊が心の中で依然壊されていない要塞をとりでに取り残されているケースがあります。

 

心の中の要塞とは憎しみや悔い改めていない罪です。ここをとりでとして悪霊は住みつき内側から仲間を再び住まわせようと引きつけるのです。徹底した罪の告白によって全ての領域でこの古きの要塞を破壊しなければなりません。      

 

私は昔一つの夢を見ました。夢の中で教会の聖徒たちがなぜか城壁ある屋上にふとんをひいて眠っていました。そのうち下の方から敵軍の数々の矢が屋上めがけて放たれて奇襲攻撃にあいました。一部の目覚めた聖徒たちはこれに対して自分の寝ていたふとんを盾にして応戦し防御しましたが、私もその目覚めた群れと一緒にふとんを盾に応戦しながら、ふとんでは到底勝ち目が無いと思いつつ目覚めました。

私たちはイエス様を信じた時から皆、命が与えられています。

でも、生きていても眠っていたならば何の戦力も現わさないため眠れる信仰から目覚めて信仰の大盾をとる必要があります。

 

イザヤ五十一章十七節には「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。」とありますが、霊の戦いは目覚めて堅い信仰の大盾をもって応戦すれば必ず勝つことができる戦いです。その使命が与えられたのがクリスチャンです。私たちの戦う戦場は心の中です。

箴言四章二三節には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあり、箴言十六章三二節には「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」ともあります。こころを見張ることが霊の戦いです。私たちは皆、霊の戦争をしているということを忘れてはなりません。私たちの戦いは主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。この戦いは私たちが認めても認めなくても参戦しても参戦しなくても現実に朝も夜も絶えず霊的な世界で起きている現実の戦争です。

この戦争の最終的な大勝利は天国に入る私たちクリスチャンのものと既に決定していますが、いまだ戦闘が残っているのです。

 

天国というのはただ黙って立ったままエスカレーター式の王道で入る所ではありません。黙示録三章二一節では 

「勝利を得る者を、わたし(イエス)とともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」とあり、ルカ十三章二四節では「努力して狭い門からはいりなさい。」とあり、マタイ十一章十二節では「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とあります。

 

私たちは必ず天国に帰還しますが、戦争と同じくぼろぼろになって負傷しながらようやく帰還する兵士もいれば、英雄となって捕虜を大勢解放して戦利品を携えながら帰還する兵士もいるように霊の戦いにおいても努力次第で天国の栄光が大きく違うのです。救いは誰でもイエス様を信じるだけで無条件に与えられますが、その後の成長と祝福を受けることにおいては信仰で激しく攻める努力が必要です。

 

貪欲と真理に対する熱意とは別のことです。貪欲とは本来自分の受けるべき領分を飛び越えてすべてをむさぼりながら剥ぎ取る罪ですが、熱心に祝福を祈り求める努力は真理に対する熱意であって称賛すべき愛の行ないであり、決して貪欲ではありません。今までの教会史ではこの点において少し弱さがありましたが、最近は違ってきています。祈りと断食で努力して求め、武装して熱く霊の戦闘をしなければ何もないという真理の知識が広く浸透してきています。

 

人々は悩み苦しみ病んでいます。不信仰と偶像宗教と不正がいたる所にはびこっています。大群衆が次々と地獄に叫びながら落ち込んでいます。この現実を踏まえた上で渇きなく熱い祈りの必要性を感じなければ問題です。熱い情熱をもって祈り求め、涙と断食をもって主を呼び求める戦いの時は今なのです。私たちは熱心に祝福を祈り求めて心を不法占拠しようとする違法の悪霊どもを全て追放しましょう。

 

では、今日私たちが聖絶すべき七つの違法の悪霊とは具体的にどのようなものでしょうか。代表的に見られがちな七つをあげます。聖書ではマグダラのマリヤという女はイエス様から七つの悪霊を追放していただいたとありますが、それはどんな状態だったでしょうか。

想像すると女の性質は多重人格者のようで、

ある時は恐れの霊に捕われて暗い家の中に連日引きこもり、

またある時は偽りの霊に動かされて世間をまどわすうそいっぱいのペテン師になり、またある時は姦淫の霊に満ちて夜の町に立つ売春婦。

またある時は盗みの霊に満ちて市場の泥棒になり、

またある時は病の霊につかれて病院の中。

またある時は寒い道端の占い師に転職。

またある時は貧困の霊につかれて破産してホームレスのこじきに変身…等など大変忙しい毎日だったことがうかがえますが、いずれも悪霊の実はみじめで腐った生活です。

 

救い主イエス様はこのようにみじめなマグダラのマリヤという女性の中から七つの悪霊すべてをみごとに一匹残らず追放されました。ハレルヤ。ある信頼できるクリスチャンのご主人さんから直接聞きましたが、当時まだ不信者だった奥さんを通じて体験した霊的体験の証しをします。奥さんが悪霊につかれて暴れたそうです。その悪霊は長年奥さんの中に住んでいましたが、結局すべて追い出され、今は奥さんも救われた立派なクリスチャンになりましたが、悪霊が追放されるまでの期間はご主人さんは奥さんの解放を祈り続け、イエス様の御名で命じて追放していました。その時、奥さんの中から男のような声でこのように悪霊が答えてしゃべったそうです。

 

「おまえは神様がどんな方か知っているか?この際だからすべてぶちまけて話すけど・・・神様は光と愛をミックスした方だ。おれたちが追い出されたら、他のすでに入っている悪霊たちがたくさんいるからどこでもすぐに入れないので大変だ。入るにもいつでもできるのではない。きっかけがないとだめだ。以前は天国で賛美していた。ものすごい美しい光の国だった。しかしリーダーが堕落して追放されたから、自分たちが知らないうちに一緒に地上へ落とされた。もう一度あの美しいところへ本当は戻りたい。しかし、出来ない。おれたちはやがて負けることに決まっている。 

リーダーにしかられるから言えないけど本当はあそこにもう一度帰りたい。あんなすばらしいところへ行けるお前たちクリスチャンがうらやましい。・・・追い出される!ルシファー!祈ってくれ!・・・」

 

その後、奥さんの中に住んでいた悪霊は地獄のよみにおけるリーダー・ルシファーのとりなしがあったのか悪霊現象が一時的に強くなり、もっとあばれたそうです。

 

イスラエルの民がカナンの相続地で異邦人七部族を追放した後、始めて乳と蜜の流れる豊かな祝福を全面謳歌できたように私たち神様のイスラエルなるクリスチャンも心のカナン地域から祝福の流れをふさいでいる異邦で違法な七つの悪霊をすべて追放しましょう。

 

では最後に私たちが今日、追放すべき違法の七つの天敵とは・・・ 

    

1、憎しみです。憎い心はすでに悪の領域に所属しています。全てをご存知の神様にゆだねて赦しましょう。

 

2、最悪感です。イエス様が十字架で血潮を流してすでに解決されました。私は赦された義人であると宣言しましょう。

 

3、偶像を慕う心。神様以上に愛する者はすべて危険です。偶像を警戒して真の生ける主なる神様だけを礼拝しましょう。

 

4、恐怖心。恐れには刑罰が伴います。心の恐れが消え去り、勇気と愛が満ちるまで信仰で祈りましょう。

 

5、劣等感。そもそも他人と比較すること自体無知なことです。人の外面も性格も指紋も声紋もみんな違うようにあなたには、あなたにしかできない、あなたならではの神様の良きご計画が必ず用意されています。

 

6、否定的な心。イエス様はあなたのために十字架で命を捨てました。それほどまで、あなたは神様にとって高価で尊い存在です。否定的な敗北意識、非生産的な暗い思いを捨てて、肯定的な思いを聖書を読んで受け取りましょう。

 

7、怠慢・怠惰の心。多くの人が現状に甘んじて、尊い救いや時間、学び、成長の機会を逃しています。イエス様の十字架の愛は一生懸命です。とても熱心です。

忙しく枕する所もなく、朝に夕に徹夜にイエス様は多忙を極めて献身されました。

イエス様を栄光の模範として、万軍の主の熱心で努力して天国の勝利を勝ち取りましょう!

 

 

 

 

 

今日のメッセージ 天国で恐竜と仲良く遊べるかも。  

 

神様は海の巨獣を作られましたが、当初は優しく大人しい恐竜でした。

海の恐竜が正確なヘブライ語です。

ところがアダムが罪を犯したため、全地は呪いを受けて、海の巨獣も弱肉強食という新世界秩序の呪いを受けて凶暴な肉食獣に変質しました。

その一例が陸のオス恐竜ベヘモットと海のメス恐竜レビヤタンです。

しかし、神様は人に害を及ぼす危険な恐竜をノアの時代に大洪水を起こして地の表から一掃しました。ベヘモットもレビヤタンも地上にはいなくなりました。

恐竜が滅亡したのは大洪水が原因です。

 

世界の終わりになると7年間の大患難時代が来ます。その時に現代のゲノム編集技術で、巨大なニシキヘビと、猛毒のコブラと巨大化する恐竜を掛け合わせた遺伝子組み換え生物、生物化学兵器として陸のオス恐竜ベヘモットと海のメス恐竜レビヤタンを復活させます。そしてこれらの竜か蛇のような巨大復活恐竜が7年艱難時代に残された不信仰な人々を襲い殺します。

そのことは外典聖書にも預言者の言葉にも語られています。

 

今日のメッセージではそのことも話しました。信じられないようなことが、起ころうとしています。人々は恐竜復活を見て驚くと黙示録にも預言されています。

 

また、動物たちが天国にもたくさんいると言う証言を集めました。

天国で恐竜を見たと言う証言も話しました。

将来、もしかしたら天国で死んで分かれたペットと再会でき、呪いが解けて大人しくなった恐竜とも遊べるかもしれません。


イザ11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

 

乳飲み子がコブラやまむしと遊ぶ…。であれば、呪いが解けた大人しい安全な恐竜と遊ぶこともあり得るのではないでしょうか。イエス様を信じた将来のあなたが!!

  

 

 

 

祝福と呪い

 

今私たちの前には神様から2つの小包が用意されています。ひとつのラベルには祝福、もうひとつのラベルには呪いと書かれています。人は皆、いずれかの小包をひも解きながら生活しています。知っておくと必ず役立つ情報です。

私たちが聖霊様に満たされると呪いからも解放されます。

「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ三・一三)。

 

 イエス様に使われたローマ軍の死刑道具、十字架はラテン・クロスという種類の、十字の形をもち縦の木が横の木よりも長く、樹皮をはぎ、葉をむしり取っただけの荒削りの木でした。木の高さは明確ではありませんが、ハマンの立てさせた後に自分がつけられた柱の場合、王妃の宴会の席から見えるように高さ二十二メートルもある特別高いものでした。ここでハマンに使われた柱のヘブル語はスタウロスすなわちこの柱は十字架です。

 

しかし、イエス様に使われた十字架の柱は、頭上の岩棚に見せしめのため大きく掲げた罪状書きが道行く通行人にもはっきり読めるような高さにあり、ロ―マ兵のわき腹への槍や、酔い葡萄酒を葦の棒につけたものを伸ばすと、届くぐらいの一般的な高さでありました。私たちがこの十字架を見る時、それは救いのシンボルであり、象徴的な意味合いもよく、縦の木が横の木よりも長いことは天と地を結ぶ神様との縦の関係を横の人間関係よりも、もっと長くしっかりと第一に結ぶことを教えており、十字架は更に全ての否定的、破壊的なマイナス要素さえも肯定的、建設的、創造的なプラス思考へと変えてしまう、不可能を可能にした神様の力を現わす美しいものです。

 

 ところが同じ十字架を律法を知る全てのユダヤ人が見る時、それは呪いの象徴であり、木に架けられたイエス様こそ呪われた者であると考えられ、軽蔑の対象として見下げる者となったのです。(申二一・三三)。

 

 呪いとは、創世記三:一七~十八で始めの人間アダムが罪を犯してから全世界に入って来た罪の報いです。アダムゆえ土地は呪いを受け、どんなに額に汗して種まき、労働して期待しても、そこからはただ土地をふさぎ、人を害する無益ないばらやあざみが生じてきたのです。

 

今日も知らずに呪いに満ちた環境に入っていき、そこで種を蒔いて失望を刈り取っている人が多くあります。聖書には「いばらの中に種を蒔くな。」(エレミヤ四・三)とありますが、成功的な良き実を結ぶ人生のためにはまず、いばらを焼き払ってから、種を蒔かなければ全てが無駄になってしまいます。いばらは食べられる実を結ばない植物であり、建設資材の角材にもならない無益に土地をふさぎ、人々が忌み嫌う全くの呪いの象徴です。環境から、まずいばらのような呪いを取り除くことが先決課題です。呪いは信じないと言う人もおりますが、聖書では、明らかに世界には命と死、祝福と呪いが実在し、私たちもその子孫も命を得るように祝福を選ぶよう勧めています。(申三〇・一九)。

 

  世には祝福のゲリジム山に立つような人生もあり、呪いのエバル山に立つような人生もあります。(申一一・二九)。それは一種の法則のようなものであり、信者であってもなくても、地上にいる限り、全ての人がいずれかの影響力を背後に受けながら生活しているのです。申命記には、主がモ―セに命じて結ばれた祝福と呪いの法則について、その契約にはその当時まだ生まれていなかった今日の私たちをも含まれていると言われました。

 

「しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」(申二九・一四、一五)。

 

祝福と呪いの法則の対象は私たちも例外ではありません。この世でも国家には法律があり、社会には道徳があり、会社には社内規則、学校には学則、道路にも交通法規があります。そして、これらの法則を一方的に無視して、反した社会行動をとるならば、それ相応の制裁を身に招くことになります。もし国の法律に反すると逮捕されて罰せられます。道徳を無視すると世間に白い目で見られ阻害されます。社内規則を破ると減給や出世の遅れ、解雇、免職もあります。学則を破ると停学や退学もあり、交通法規を破ると事故に遭います。

 

  ちょうどこれらと同じように霊の世界にも法則があったのです。霊の世界のゲリジム山とエバル山とは、イエス様を信じた私たちに与えられた命の御霊の原理と、世にある罪と死の原理です。命の御霊の原理とは簡単に言うと、私たちが真剣に祈れば祈るほど、命の源イエス様に近づき、それに比例して祝福されるものであり、罪と死の原理とは、聖書に反する行ないにより、我が身に招く呪いです。それゆえ、誰でもこの呪いの原理に誤って、巻き込まれないように細心の注意を払い、聖書に従って生きることが幸福の秘訣です。

 

イエス様は私たちを呪いという暗闇のベールの中から救い出すため十字架の木につけられたのです。その時、イエス様の御頭にはあのエデン以来の呪いの産物、いばらで編んだ冠が置かれていたのです。郊外のゴルゴダ丘周辺に生じていたイエス様の王冠に使われたいばらとは、植物分布によるとイスラエルの十七種類あるいばらの中でも最もトゲが鋭く、厳しい、「とげわれもこう」品種であり、束にしてかまどや火鉢の火付け用として使うかエルサレム周辺では侵入者防止用の生け垣に使うほどの堅い物だったのです。

このいばらは一本のトゲが五から六センチはある、鋭い針の集合体であり、ローマ兵はこれで蛇がどくろを巻くようにぐるぐる巻きにして王を皮肉る王冠を作り、イエス様の御頭に押しつけたのです。王冠とは普通その性質上、王の富貴と栄華を現わすものとして、高価な金や銀で作られ、そこには数々の美しい宝石が散りばめられている結果として重量があります。

 

ダビデ王の頭に置かれた王冠の場合、宝石がはめ込まれており、金一タラントに匹敵する三十四キロもの重量がありました。(Ⅰ歴二〇・二)。

そのため王冠とは、軽い帽子とは異なり、王が頭に乗せた後はギュッと押さえつけて頭からずり落ちないように固定する必要があります。

 

イエス様の御頭にはいばらで作った王冠です。それゆえローマ兵によりイエス様の御頭に無理やり乗せられた冠は、次に固定のためギュッと押さえつけられたのです。このためイエス様の御頭は、人間の中で最も大切な脳のある頭から突き刺され、引き裂かれる激痛と共に、額の上で貴い血潮が流れ出たのです。イエス様は私たちの呪いを除くために身代わりとして、頭から足先まで呪いをかぶられ、呪われた者だけが架けられるはずの十字架の木につかれたのです。

 

神様の偉大な犠牲のゆえにどんなに大きな感謝を捧げたらよいのでしょうか。イエス様こそ永遠にたたえられる栄光の王の王です。私たちの呪われた生活を祝福へと変化するために主は来られたのです。イエス様の血潮は今も呪いに対抗しているのです。呪いとは、いかなるものか聖書から実例を簡単に挙げたいと思います。

 

 

 

 

 

 

2023年5月31日

私ではなくキリスト 悪魔ルシファーの堕落と性質 ローマ書の学び 

泉パウロ 純福音立川教会

 

 

ある予言者が幻のうちに明確に示されました。その予言によると、死人のような人々がぞろぞろ歩くのを見たそうです。彼らは皆、深い悲しみの中で見えない力によって導かれているように歩き、時々、空から語りかける声があり、彼らはその声に従っていました。
彼らは互いに会話もなく、一人一人の額と手に666という数字が書かれていました。馬に乗った兵士たちがまるで牛を扱うように人々を集めていたそうです。

アメリカ国旗が焼かれ、ずたずたに裂かれ、地面にわびしく置かれました。喜びも、
笑いも、幸せも全くありません。ただ至る所に死んだ者や邪悪な者たちが見えました。
これはやがて世界の終りに起きることについて啓示されたクリスチャンの予言者の幻です。
人々が大きなデパートに次々と入って行きました。彼らは落胆した兵士のように歩調を合わせており、全く同じように、ある型の囚人服を着せられていたそうです。その店はフェンスで囲まれており、見張りがあちこちに配置されていました。
戦闘服を着た兵士たちもどの場所にもいたそうです。これらのゾンビのような人々が店に集まり、そこでやっと生活できるだけの必需品だけ買うことができました。一人一人の買い物が済むと、しっかりと見張りが付いた大きな緑色の軍用トラックに乗せられ、別の場所に移動して行くのが見えたそうです。

また、ある診察所のような所で、これらの人々は伝染病と身体障害の検査を受けていました。一部の人は不合格で、わきへ押しやられました。やがて、検査で不合格になった人々は、別の部屋に連れていかれました。その部屋には、スイッチやボタンや計器類が壁全体に設置されていて、強い印象を与えていました。ドアが開き、技術者たちが入って来ました。そのうちの一人が、部屋にいる人々の名前を呼び始めました。何もじたばたすることなく、彼らは名前を呼ばれると立ち上がり、ある大きな箱の中に進んで行きました。彼らが中に入ると別の技術者がドアを閉め、壁のパネルにあるスイッチを引きました。2、3分たって彼はドアを開け、ほうきと塵取りを取り出し、彼らの残骸を床から一掃しました。それまでは部屋に人々が詰め込まれていたのに、わずかの塵しか残っていませんでした!恐ろしいことです!

 

アメリカのFEMA強制収容所ではこれらの施設がすでにいつでも稼働できるよう準備が整っていると言われています。
医学検査に合格した人々が見えました。身体に障害のない健常者たちは同じトラックに入れられて列車のところまで輸送されましたが、車内では誰も話しをしたり、他の人を見ようと振り向くことさえしなかったそうです。

 

別の建物のところで、一人一人に仕事が割り当てられました。彼らは皆一言も言い争うこともなく仕事につきました。割り当てられた仕事をとても熱心に行ない、そしてその日の終りには、周りに高い塀のあるアパートに連れられて行きました。一人一人は服を脱いで眠り、翌日も同様に熱心に働くことになっていました。そしてある大きな声が夜空に響き渡るのが聞こえました。

幻では一匹の巨大な獣が見え、彼は大きな王座に座りました。人々は皆、その獣すなわち反キリストに従いました。彼の頭から霊的な角がいくつも出ているのが見えました。
それらの角は、地上のあらゆるところに伸びて行き、そこに入ったり出たりしていました。その獣は多くの場所の中に入り込んで行き、多くの人々をだましました。
貧しい人々や権利をはく奪された人々と同じく、金持ちや有名人もだまされました。
小さい者も大きい者も、その獣に敬意を払いました。幻では大きな機械が事務所に運び込まれるのが見えたそうです。獣はそれに自分の刻印を付けると、それから彼の声が出てきました。まさに黙示録にある予言どおりです!

「さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、
つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さき者にも大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」(黙示録13:14−18)

大きな機械が反キリストの声で話をする!最近の、人が話しかけると音声で答える電子頭脳搭載の機械類の進化を考えるとその時は間近です。
さらに家庭や職場の中をのぞき見ることのできる「大兄弟」という機械があったそう
です。
今、アメリカやヨーロッパでは個人の生活を24時間監視カメラで中継しながらテレビで一般視聴する低俗番組が流行していて、その番組名は「ビッグ・ブラザー」。そのままです。

幻では「大兄弟」と呼ばれるこのタイプの機械は一つしかなく、それは獣のものでした。その機械の一部は人々の家に置かれてあり、肉眼では見えませんでしたが、それは人々の一つ一つの行動を獣に伝達できるようになっており、そして実際に伝達していました。
その獣である反キリストは自分の王座をぐるりと回転させて正面に向くと、彼の頭の上には666という数字がありました!
なんと恐ろしいことでしょうか。今立ち上がろうとしている反キリスト、この情報を
よく知っておいて、十分警戒しておく人が賢明な人と言えるでしょう。

幻の中で、事務所にいる男の人が、獣である反キリストに対して激しく怒り出すのが
見えました。彼は「獣と話がしたい」と要求しました。彼は声の限りに叫んでいました。獣が現われて、とても丁寧そうに言いました。
「おいでください、どんな問題でもお助けしましょう。」

獣は、その怒った男の人を広い部屋に案内し、テーブルに座らせる身振りをしました。その部屋とテーブルは、病院の救急室を思わせるものでした。その男の人は麻酔を打たれ、大きな機械の下に運ばれました。
獣はその男の人に電線を付け、機械のスイッチを入れました。その機械の上部には「この知性消滅器は獣666に帰属する」という言葉があったそうです!

その男の人がテーブルから外された時、目は放心したようなまなざしで、彼の動きは、映画に出てくるゾンビを思わせるものでした。彼の頭のてっぺんに、中がカラにされた部分が見え、その時、彼の知性は、獣がコントロールできるように外科手術で変えられてしまったことが分かったそうです。
その獣は言いました。

「今度は気分はいかがかな? 私は、どんな問題でも助けてあげよう、と言わなかったかね? おまえには新しい知性を与えてある。おまえにはもう、心配も問題もない。」
その男の人は話しませんでした。この幻はこれで終わりません。世界の終りに反キリストが統治するとき、どんなに恐ろしい不法がはびこった愛なき時代になることか。
「おまえは私のどんな命令にも従うのだ」と獣は言って、何か小さな物を取り出し、
その男の人のシャツに付けました。彼がもう一度その男の人に話しかけると、男の人は唇を動かさずに答えました。その男の人は、生きた死人のように動きました。
「おまえは働いて、怒ることもいらだつこともなく、泣くことも悲しむこともない。
おまえは死ぬまで私のために働くのだ。おまえのように私がコントロールしている者はたくさんいる。ある者はうそを言い、ある者は殺し、ある者は盗み、ある者は戦争をし、ある者は子どもを産み、ある者は機械を操作し、またある者は別のことをする。そう、私が全部コントロールしているのだ。」

気味の悪い笑い声が彼から聞こえました。その男の人はサインする書類を渡されました。彼は自分の所有物全部を喜んでその獣に与えました。さらに幻の中でその男の人が獣の事務所を去って車に乗り、家に向かうのが見えました。彼が妻に近づいたとき、彼女は彼にキスしようとしましたが、彼は応えようとしませんでした。彼は妻にも他の誰にも、何の感情も持っていませんでした。獣は、彼が何の情緒も感じられないようにしてしまっていたのです。その妻は激しく怒り、夫に向かって悲鳴を上げましたが、無駄でした。

 

最後に彼女は言いました。「いいわ、あの獣を呼ぶわ。彼ならどうしたらいいか知っているわ。」すばやく電話をかけてから、彼女は家を出て、夫が立ち去ったばかりの同じ建物に車を走らせました。

獣は彼女を歓迎して招き入れ、「どんな問題でもお話しください。きっとお役に立てます」と言いました。とてもハンサムな男の人が彼女の腕をとって、前に夫がいた同じテーブルのところに案内しました。同じ手術の後、彼女も人格を抜き取られた獣の奴隷になっていました。
その獣が彼女に尋ねるのが聞こえました。「気分はいかがかな?」彼女が答えないうちに、彼は何か小さな物を彼女のブラウスに付けました。それから彼女は、彼が支配者であり主人であることを認め、彼を礼拝し始めました。「おまえは子を産む者としよう」と彼は言いました。「おまえは完璧な赤ん坊を産むのだ。そして彼らは私を礼拝し、私に仕えることになるのだ。」
その女性はロボットのような声で答えました。「はい、ご主人様、従います。」
ふたたびその女性が見えました。今度は、彼女は別の建物の中にいました。そこには
大勢の妊婦たちがいました。その女性たちはベッドに生気なく横たわっており、単調な歌で獣をたたえていました。みなその額に666という数字がありました。彼女たちの赤ん坊は、生まれると別の建物に移されました。そこでは、知性を変えられた看護婦たちが養育の仕事をしていました。その看護婦たちも額に666という数字がありました。

 

獣の権力は大きくなり、彼の支配は地球全体にまで広がりました。赤ちゃんたちも大きくなり、ある時期に、彼らもまたあの知性消滅機の下を通りました。彼らはあの獣と彼の像とを礼拝しました。けれどもその機械は、神の子どもたちであるクリスチャンには何の効き目もありませんでした。

【対処策】

その時、イエス・キリストはこう言われたそうです。
「あの獣と彼の像とを礼拝する者たちは滅びます。多くの者がだまされ、倒されます。しかし私は、私の子どもたちをあの獣から救います。これらは、終りの時代に起きることです。あの獣の刻印を付けてはいけません。手遅れになる前に、今悔い改めなさい。

 

あの獣は自分を「平和の子」と呼ぶでしょう。そして彼は、非常に混乱した時代の中で、多くの国々に平和をもたらします。彼は世界に安価な品物を多く供給できるようになり、一人一人に十分な賃金を保証します。彼は多くの国々と同盟を結び、世界の重要人物たちは、まちがった安全感覚の中で彼につき従っていくようになります。これらの時代の前に、私は、真理と義のために立ち上がる信者たちの軍隊を起こします。予言者ヨエルが語ったあの力強い軍隊は、日の上る所からその沈む所まで、私の声に聞き従います。夜中であっても、彼らは私の声に聞き従い、私に応答します。彼らは私のために働き、戦争の勇敢な男たちのように走ります。彼らは私のために偉大なわざを行ないます。私が彼らとともにいるからです。」

 

 

 

ハム

 

 創世記九章二十節以降ではノアは洪水の審判後、神様の再び洪水を起こさないという契約のしるしの虹を見て信じ、洪水を警戒することなく信仰で農夫となり葡萄畑を作りました。ところが彼が大洪水の緊張から解かれ油断したある日、自然発酵した葡萄酒を飲んで酔ってしまい、天幕の中で裸になっていたところを、父ノアの失態の第一発見者ハムがこれを面白がり、他の二人の兄弟に告げたのです。

 

しかし、セムとヤペテは着物を取り、ノアの裸を見ることなくこれを覆い隠しました。酔いが醒め、一部始終を知ったノアは、末の息子ハムの罪悪を知り、ハムを呪い、他の兄弟たちには祝福を宣言しました。ノアが五百歳になったときに生まれた彼ら三人は(創五:三二)運命は全く異なりました。

 

まずここで祝福されたセムへの御言葉とは「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。」ですが、セムには特に礼拝用語の「ほめたたえよ。」や「セムの神、主を」等すべて霊的、宗教的な使命が預言されました。今日セムは黄色人種の祖先と言われますが、確かに東洋には数多くの大きな宗教があり、中でも中東はキリストが来られた発祥の地として世界的な注目を浴びています。東洋人は霊的に祭司長のような使命が与えられたのです。

 

また、祝福を受けたヤペテへの御言葉とは「神がヤぺテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」ですが、ヤペテには特に「広さ」や「天幕」に象徴する物質的な祝福の使命が預言されました。今日ヤペテは白色人種の祖先と言われますが、確かに西洋は一般的に東洋より広く立派な家を持つ先進諸国が多く、物質的に祝されたその財力を背景に宣教師が世界に多く送り出されたのです。そして文字通り神様に広げられたヤペテは広い国土の他、人間自体も背が高く広げられており、セムの天幕に住むという祝福通り、歴史的に多くの資源を東洋諸国から安く輸入して栄えてきました。

 

一方、呪いを受けてしまったハムへの御言葉とは「呪われよ、カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」ですが、ここでノアが罪を犯したハム本人ではなく、その子のカナンを呪ったのには象徴的な意味があります。呪いとは父から子へと代々降りて行くものだからです。事実その後のハムの歴史を見るとやがて時代が流れ、力ある猟師として名をあげた最初の権力者ニムロデが、この呪われたハムの子孫から立ち上がりシヌアルの平地に、バベルの王国を築きました。

 

しかし、この王国は洪水を警戒する高い塔として築かれ、契約の虹を無視したものとして、主の御言葉に真っ向から挑戦し、加えて全地の表に産み、増え、広がるものではない、一つ所に集まる背信の王国でした。それゆえ、不信仰と傲慢の象徴とも言うべきバベルの塔は、主に打たれ呪われたものとして言葉は分裂し、彼らの反逆は失敗して地の全面に強制的に散らされたのです。その後も呪われたハムの子孫、カナン人は集まり王国を築きました。(創一〇・一九)。それはソドムとゴモラの町、男色と罪悪に満ちた町として主に忌み嫌われ、滅ぼされてしまいました。その滅亡は、雷を伴った地震により、吹き出した天然ガスに火がつき、硫黄、瀝青、噴出した石油にまで引火し巨大な火の海となったというすさまじい審判の様子が今日の考古学者による遺跡発掘調査で判明されています。聖書ではこの災害を「硫黄の火を天の主のところから降らせた。」(創一九・二四)。と言います。

 

今日ノアの三人の息子たちは白人・黄色人種・黒人であり、末の子ハムは黒人の祖先だったと言います。黒人の歴史は確かに奴隷として強いられ兄弟白人や、黄色人種のしもべらのしもべとなったことが多くありました。これは絶対、神様が呪われた奴隷制度を協賛したものでも認めたものでもなく、人間の罪悪の結果として引き起こされた呪いが、代々伝わった悲劇だったのです。しかしこれを悟り戦う時、イエス様の血潮が全ての呪いを断ち切り、今日の黒人教会やアフリカのような偉大なリバイバルの祝福を実現できるのです。

 

 

ユダヤ人

 

 民族に対する呪いとして、他にユダヤ人があげられます。彼らはイエス様を拒み十字架にかけた時、一つになって不信仰告白しました。

「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ二七・二五)。メシアを殺した罪に加え、確認の印を押すように自らの口でその責任を告白して、その告白通り、子どもたちである子孫の上に呪いが降りかかりました。

 

その後AD七十年ローマ軍に、包囲されたユダヤ人の国エルサレムは滅亡しましたが、その時攻め寄せていたローマ軍の軍旗は、「主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。」(申二八・四九)と主に呪われたならばどのようになるかという警告預言の御言葉通り、わしのマークを旗印に襲われたのであり、わずかに生き延びたユダヤ人も歴史中、呪いを代々受け継いで来たかのように国家なき民族としていつも嫌われ、迫害、虐殺、追放の歴史をたどり、A・ヒトラ―のナチス・ドイツの時代にも大虐殺が行われたのです。

 

今日もクリスチャンが最も少ない国家の一つとして問題多く、中東紛争とテロリストに苦しんでいます。確かに彼らの告白通り、その子どもたちにも呪いが降りかかったのです。しかし黙示録七章四から八節やローマ人への手紙十一章二十五、二十六節ではこのようなユダヤ人にもやがて偉大なリバイバルが起きて本当のイスラエル十二部族が立ち上がり、終末の全世界を祝福すると預言しています。   

 

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2023年5月28日

自殺について 泉パウロ 純福音立川教会

 

2023年5月31日

私ではなくキリスト 悪魔ルシファーの堕落と性質 ローマ書の学び 

泉パウロ 純福音立川教会

尖閣諸島国有化に至る犠牲

 


尖閣諸島国有化に至る一連プロセスには画策された陰謀も働いていました。
アメリカの闇の権力主導による松下忠洋郵政民営化・金融担当大臣暗殺です。事実は、報道されたような自殺ではないでしょう。

前回は、小泉メーソンの郵政民営化による郵貯350兆円をアメリカに献上する動きに反対し、郵政民営化の是非が争点となった平成17年衆議院選挙で落選させられましたが、その後は、尖閣諸島周辺3島を購入、国有化する動きに反対して、ついにメーソンの堪忍袋の緒が切れたように即日粛清されたようです。

松下大臣は大事な9月11日の尖閣諸島国有化の閣議決定を前日に控えて自殺と報道されていますが、もし11日の内閣で一人でも現役大臣が反対すれば、閣議決定は成立しなかったのです!

尖閣諸島国有化は、2012年9月11日に私有地であった尖閣諸島を日本国政府が20億5000万円で購入し国有化した事に関する一連の出来事です。


尖閣諸島国有化に対する反対派と言われている松下大臣が、こうもタイミングよく前日に逝去するとは、あまりにもでき過ぎと思いませんか。
松下大臣は、8月24日に閣議決定された「自殺総合対策大綱」に署名をしていて、
9月10日から始まる「自殺予防週間」にも署名をしていました。

自殺猛反対の大臣が「自殺予防週間」開始当日に自殺、そして愛人問題疑惑まで死後にかぶせられて報道される始末です。

 

アメリカの闇の勢力が彼を始末したかった理由は、日本の尖閣諸島確保により日本を富ませる親心ではありません。むしろ逆であって、中国にとられるよりは日本所有が実効支配しやすく、海底油田から近い将来生じるであろう莫大な利益をアメリカが一手に摂取するためです。また沖縄同様、この海域は重要な軍事拠点でもあり、ここを中国に支配されれば、アジア一帯へのアメリカ軍事侵攻が海上封鎖されてしまうからです。


かつて石原慎太郎さんが尖閣購入を語り、米国で尖閣購入宣言をした背後にはメーソンのヘリテージ財団がいます。
松下大臣は非常に厳しい立場に立たされていました。外国人が「ワンワールド・バンカー」と呼ぶ「国際金融資本」=「フリーメーソン」にとって、郵政民営化に反対していた松下大臣の粛清で有利になることは、郵政民営化の推進によってグローバルに
郵貯を自由に盗ることができることです!

また、人権侵害救済法案によって脱税が容易になることです!さらには外国人参政権により、日本への内政干渉が容易になります。加えて、インサイダー取締まり強化は、松下大臣がいなくなったので実行されず、相変わらず官民癒着体質で脱税し放題になります。そして2012年9月11日の尖閣諸島国有化閣議決定が究極です!もっともこの国有化は、通常の日本人なら誰もが喜ぶ決定に思えるのですが、アメリカにとっては日本人を喜ばせるためではなく、この2012年版911により、アメリカのアジア広域支配に対する軍事的地境が確保されたわけです。

事前の計画通りにこの時期にオスプレイ飛行機は沖縄配備され、中国を目先500キロメートルの尖閣諸島から睨みをきかせられる好条件を整えたのです。
このように、歴代大臣や高官で重要な決定権を持ちながら粛清された者は数多く、
いつも表向き首つり自殺と報道されています。
これがメーソン暗殺の常套手段であり、彼らは拳銃を突きつけて遺書を強制的に書かせてから手をかけます。もし遺書を拒めば、遺書くらい現代の技術では簡単に文字合成加工で本人筆跡の模造ができます。

以下は歴代の高位な人たちの不審死の数々ですべて首つり自殺の列挙です。

> 1997年6月29日 第一勧業銀行 宮崎邦次元会長
> 1998年1月28日 大蔵省銀行局 大月洋一金融取引管理官
> 1998年3月12日 大蔵省銀行局 杉山吉雄課長補佐
> 1998年5月2日 日本銀行 鴨志田孝之理事
> 1999年5月6日 日本長期信用銀行 上原隆元副頭取
> 1999年5月17日 日本長期信用銀行 福田一憲大阪支店長
> 2000年2月6日 住友信託銀 井出野下秀守元役員
> 2000年9月20日 日本債券信用銀行 本間忠世社長
> 2006年 12月 3日 竹中省吾 大阪高裁民事7部総括判事 
> 2007年5月28日 松岡利勝 農林水産大臣

暗殺リストを真剣に調査して少々気分が悪くなったけれど、分かったことは、1997年からその人数が急増しているのです。
これはアメリカメーソンの「年次改革要望書」が効力を発揮し出した時期と重なり、
翌年1998年も国内の年間自殺者3万3千人と初めて3万人突破の急増!

メーソンと戦う愛国者ばかり暗殺されています。

 

 

呪いをもたらす苦い水

 

 民数記五章では律法で不貞を疑われた妻に対する定めがありました。祭司は容疑がかけられた女を近寄らせ、主の前に立たせて聖い水を土の器に取り、幕屋の床にある塵をその水に入れます。そしてこれを「呪いをもたらす苦い水」と呼び、誓って女に飲ませたのです。その時もし、女が夫の元にありながら隠れて姦淫の罪を犯していたのであれば、女はこれを飲んだ後、害を受け、水は女の中で苦く腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせ、みにくい体型となり、その女は民の間で呪いとなったのです。

 

しかし、もし女が身を汚しておらず聖ければ、水を飲んでも害を受けずに、むしろ女は子供を宿すようになったのです。イスラエルでは子を宿すとは祝福の象徴でもあります。実にイエス様はこの呪いをもたらす苦い水を飲まれたお方なのです。ゲッセマネの園でイエス様は十字架に向けて必死に祈られました。

 

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ一四・三六)

 

  イエス様は祈りこんで勝利され、この杯を私たちの身代わりに飲むことを決心されたのです。それは全人類の過去・現在・未来の全ての罪と病と死の毒が満ちていた「十字架の死」という呪いをもたらす苦い水の杯だったのです。イエス様は父なる神様の御心に服従して、これを耐えて飲み干されました。罪なきイエス様が罪ある人類を代表して、身代わりとして飲み干されたのです。

 

そのため、その水はイエス様の中で苦くなり、苦しみとなり、毒となって彼は十字架上、ユダヤ人の間で公然と死にゆく呪われた者になったのです。その死のさまはちょうど罪を犯して呪われた女のように、みにくく裁かれた姿としてはっきり現われたのです。十字架に手足をつるされた重みにより骨の外れるような痛みとともに全体重が腹やももにかかり、これを圧迫し、最後はうなだれて死に絶えた後、御体のわき腹に鋭い槍が一突きです。そのため御体は腫れ上がり、腹はふくれ、ももはやせ衰えるみにくいものとなったのです。

 

このようにして、イエス様は十字架の木で血潮を流して、私たちの呪いを身代わりに受け、民の間で呪いそのものとなって裁かれたのです。その時、イエス様の御前には二つの杯の選択余地がありました。一つは呪いをもたらす苦い水の杯であり、もう一つの杯はこれです。

「彼らはイエスに、苦みを混ぜた葡萄酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。」(マタイ二七・三四)

 

もしも、イエス様が苦みを混ぜた葡萄酒というもう一つの杯を飲まれたならば、これは麻酔薬であり、十字架の苦痛を和らげることもできたのですが、イエス様の固い決心はこれを拒み、一時的な現実逃避もせずに、むしろ私たちの呪いを選んで、その苦しみ全てを飲み干されたのです。そのため私たちは今、完全に呪いから解放され、祝福されているのです。  

 

呪いとは申命記二十八章のリストでは霊的なもの、環境による精神的なもの、肉体的なものの三つに分けられますが、これはあくまで一つの法則のようなものであり、呪い自体を恐れる必要はありません。イエス様が体を張って呪いと戦い、復活により勝利されたのですから、イエス様という道を犠牲に踏み台として上よりの祝福に入れるのです。ただ事ごとに感謝して祝福の豊かさの中に入りましょう。

 

 今もし、ゴム風船を膨らませて口を閉じ、手を離すと万有引力に引かれ、下へ落ちます。自然の法則です。しかしこれに、ヘリウムガスや水素等を入れると反対に空中に浮きます。一つの法則には必ずそれに対抗する反作用があります。ちょうど罪と死の原理に対抗して戦う反作用がいのちの御霊の原理であり、このようなものです。

呪われたいばらの生け垣のような人生の後、死んで黄泉に落ちるべく肉の人が、聖霊様を受け新しい霊となり、豊かな実りある幸福な人生を過ごし、最後は祝福された御国、天国へ昇るのです。その原動力がイエス様の血潮なのです。

 

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2023年5月28日

自殺について 泉パウロ 純福音立川教会

 

日本はメタンハイドレート、シェールガス、島嶼部の海底油田などを持つ、世界有数のエネルギー大国です。
ロスチャイルドが、清子様御成婚の際、今上陛下を訪ね、今までの非礼を詫び、現代の藤原氏となるべく皇室に擦り寄っているとの情報もあります。それは天皇家の海外に所有する莫大な預貯金と国内の埋蔵金に加えて日本が強大な資源大国であり、その掘削技術を持ち合わせているからです!

尖閣諸島沖だけではありません。関西の東南海トラフに眠る燃える氷メタンハイドレートも莫大資源です。日本政府は500億円をかけて南海トラフのメタンハイドレート採掘実験を行ない、現状は採算ベースに合わず失敗ですが、あと一息です。
尖閣油田と東南海メタンを合わせるだけで日本は世界最大の資源大国です!

無論、メーソン・ロスチャイルドの南アフリカ鉱山で取れる高額ウランを燃料として密約延長の中で買わせ続けられる原発施設なんかは不要です。


日本は火山資源まである地熱発電世界第8位の国です。温泉資源が豊富で地熱発電も
今後バイナリー発電と呼ばれる、水より低い沸点の液体と水を混ぜて発電する新技術導入で地熱発電世界第3位にのぼれます。
これだけ資源枯渇の時代に日本列島こそ資源のデパートではなく、未来型資源大国と
して有望株です。純然たる国民の預貯金、海外に日本企業が持つ資産、アメリカの紙屑国債、最大は賢く真面目に働く国民性!最高の無形財産で、日本こそ世界最大の富裕国なのです。
 

だからこそアメリカの闇組織が妬んで日本をほしがるのです。しかしどんなに震災で
国土を震わせて日本企業の株価を外資が底値で買いたたいて実効支配しても、彼ら侵略者たちに日本人の心は盗めません。私たちが遺伝的に合わせ持つYAP遺伝子が生きて働くからです。それこそ勤勉な民族性と忍耐心、親切で真面目な性格、優れた情緒と感性の文化、究極への研究心と向学心、空気を読みながらうまく行動できる謙遜さと配慮など、どうしても彼ら諸外国の侵略者には真似できない領域の優れた才能が備わっているのです。
無論、人間は基本、神様に造られた平等ですべてが価値ある優れた存在ですが、受けた教育や文化、民族性の影響などは結局、色濃く生き方ににじみ出て表れます。

 

日本人はもっと自信を持って強く、雄々しく勇敢に立ち振る舞い、民族的な誇りを持って堂々と行動すべきです。この大和民族は戦後も今も荒廃から復帰することのできる優れた復興力が十二分ある人たちだからです。

 

 

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2023年5月28日

自殺について 泉パウロ 純福音立川教会

 

イエスは!!  宣言する祈りをしましょう。

キリスト  マタイ27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」
人の子    マルコ13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
生木   ルカ23:31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう
ユダヤ人の王

ルカ23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。    

正しい方  ルカ23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
ことば  ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
   すべての人を照らすまことの光  ヨハネ1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
神の小羊  ヨハネ1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
先生 神の子 

イスラエルの王

ヨハネ1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

いのちのパン 

ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、

天から下って来た生けるパン

ヨハネ6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

よみがえり  いのち 

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

主であり師

ヨハネ13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、

道 真理 命

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

羊の門

ヨハネ10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。

 

 ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つ けます。

良い牧者 

 ヨハネ10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 

まことのぶどうの木 

ヨハネ15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

つまずきの石さまたげの岩

 ローマ9:33  見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。

 

リベカ

  

呪いは民族だけでなく個人にも降りかかることがあります。母リベカは愛する我が子ヤコブのために、兄エサウの長子の権利をだまし取るよう計画した時、迷うヤコブを勇気づけて告白しました。「我が子よ。あなたの呪いは私が受けます。」そう告白したリベカは、後に本当に呪いを受けました。創世記二十七章四十六節では、その後の同じリベカの口が夫イサクに告白しています。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。」リベカは人間関係により苦しめられ、死にたいほどの呪いを体験したのです。更に愛する我が子ヤコブとは二十年間も離ればなれの生活となり、生涯息子に再会することなく、その間にリベカは死にました。

 

  箴言十八章二十一節にある通り、「死と生は舌に支配される」のであり、うっかり誤った口の告白や行ないにより呪いを受けないように注意が必要です。他にエレミヤ書十七章五節では「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者は呪われよ。」と記されており、ゼカリヤ書五章三節には全地の面に出ていく呪いの巻物があり、盗人と主の御名により、偽る者の家に入り、その家の真ん中から梁と石と共に滅ぼすとあります。律法の呪いが現実にあるのです。新約の第一テモテ人への手紙一章九節では、更にこれについてこうあります。

 

「律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、嘘をつく者、偽証する者などのため、またそのほか健全な教えに背く事のためにあるのです。」使徒パウロはこう宣言しました。「主イエスを愛さない者は誰でも呪われよ。」(Ⅰコリント一六・二二)。

 

 このように考えると、やはり呪いは全人類に降りかかっていたものといえます。しかし、今やイエス様の血潮によりこれがすでに祝福へ移されていることも事実です。ヨシュア将軍により環境を通して誓われた呪いもあります。罪悪に満ちたエリコの町が聖絶された時、彼は言いました。「この町エリコの再建を企てる者は、主の前に呪われよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」(ヨシュア六・二六)。それから約五百年後、神様の御言葉を信じないベテル人ヒエルがエリコを再建した時、この御言葉通りの呪いを受け、彼はその礎を据える時、長子アビラムを失い、門を建てる時、末の子セグブを失ったのです。(Ⅰ列一六・三四)。

 

家系に働く呪い

 

  モーセの十戒にも偶像崇拝者には呪いが下り、三代・四代に及ぶとあります。(出エ二〇・五)。呪いは三代・四代・十代・それ以上現実に働き、これを悟りイエス様の血潮で取り除かない限り続くものなのです。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ一・一八、一九)。

 

「先祖から伝わったむなしい生き方」という名の家系に働く呪いがあるのです。こんな話を聞いたことがありませんか。あの家系は代々不慮の事故だ、代々親と同じ病だ、代々親と同じ失敗をしている、等です。

 

 私の知り合いのある女性はこう言いました。「私の主人はむかし自殺しましたが、実はその主人の父親もむかし自殺した人なんです。今、死んだ主人の息子が大学生になりましたけどとても心配です。先生、この子の為に祈ってください。」

 聖書では、アブラムが妻サライのことを妹と偽り、後に見つかって大きな問題になったことが記されていますが(創一二・一八)、その息子のイサクも父親と全く同じ失敗をしています。(創二六・九)。

 

 ダビデ王は外交的には成功した王ですが内向的な家庭内の子供の養育には失敗した王です。原因はウリヤの妻バテ・シェバを呼び寄せてこれに対して姦淫の罪を犯してしまい、その夫ウリヤを激戦地で計画的に殺害したためそのひどい罪悪が家系全体に呪いを招き、子供たちにもひどい姦淫の霊と剣の害が及ぶこととなりました。預言者ナタンがダビデ王に預言したとおり「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。」(第一サム十二・一〇)。

 

この種の呪いをダビデ王は体験したのです。バテ・シェバがダビデ王に産んだ最初の子は病気で死に、その後ダビデ王の王子アムノンは処女の美しい妹タマルを恋い慕って強引にこれと寝る近親相姦の罪を犯し、王子アブシャロムもダビデ王のそばめたちと天幕で寝る姦淫の罪を犯しました。これらの王子たちは後に剣にかかって死にました。中でも凄いのバテ・シェバから産まれたダビデ王の後継者ソロモン王にいたっては七百人の王妃としての妻たちと、三百人のそばめたちがいたほどであり、その妻たちが晩年ソロモンの心を他の神々へと向けてしまった大変な滅びの罠となったのでした。父ダビデが蒔いた姦淫と殺害の悪い種が家系全体に働く呪いとなって子孫に降りかかり、子供たちが災いを刈り取ったのです。

 

エレミヤ記31:29ではイエス様の十字架以降の日について「その日には彼らはもう「父がすいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく」とはいわない。」と宣言されており、お父さんが誤ってすっぱいぶどうを食べて失敗したのに、父の行ないに関係ないその子どもの歯がういて青白くすっぱい顔で口をとんがらせているという不合理で奇怪な呪い現象はなくなると約束されています。

 

一般的に罪を悔い改める告白の祈りはよく知られているけれど、呪いを断ち切る宣言の祈りや積極的に命じる戦いの祈りについては神学的な解釈上の違いを理由に意外とされていないクリスチャンが多くいます。現実に私たちの家系に代々働きかけ滅ぼそうとする暗黒のベールのような呪いを悟り、イエス様の血潮ではっきり呪いのきずなを断ち切る宣言の祈りを大胆にしましょう。

 

「私はイエス様の血潮の力で先祖代々伝わって来た父方の呪い、母方の呪いをすべて断ち切る。イエス様の血潮で私は自由です。祝福された我が家と我はイエス様を愛し神様に仕えます。アーメン。」

 

出エジプト記二十章六節には、私たちに約束されています。「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。」

 

私たちがもっとイエス様を深く愛し、その命令を守って生き千代の祝福に恵まれますよう十字架の血潮の注ぎかけが絶対必要です。

2023年5月31日

私ではなくキリスト 悪魔ルシファーの堕落と性質 ローマ書の学び 

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YOUTUBEでは合計三回、動画が削除されてバンされると、そのアカウント自体が停止されます。今回、一か月間に連続して三回バンされて、二つのチャンネルが同時に停止になりました。一年も前に配信された動画9本が3回に分けて突然削除バンされました。理由はすべて医療の誤報と書かれていますが、単に狙われただけのことです。一度に9個の動画を削除せずに、ひと月の間に三回に話かけて削除することでアカウント停止に持ち込んだようです。YOUTUBEは利用しますが、敵の側にあるメディアであって思いのまま彼らの都合に応じて操作されます。

実際に削除された動画はコロナワクチンとは無関係な動画もいくつか含んでいるデタラメな違法削除でした。詳細は以下のメッセージでも語りましたが、敵はいよいよ言論統制を強化しています。

 

そこで、今回新しいアカウントでチャンネルを開設になりました。

以下がそのチャンネルですが、新規にチャンネル登録を宜しくお願いいたします。

いつまたバンされるか分からないからです。

よくアカウント停止されるサイトの管理者はチャンネルを10個くらい持っているようですが、今後の流れ次第では、私もそのような対応が必要になるかもしれません。

ご理解、ご協力、宜しくお願いいたします。 

 

ここが新しいサイト

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2023年5月28日

自殺について 泉パウロ 純福音立川教会

 

2023年5月31日

私ではなくキリスト 悪魔ルシファーの堕落と性質 ローマ書の学び 

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ある父親が仕事に没頭するために、子供に1時間は静かにしてもらいたいと思い、近にあった真っ白な紙をビリビリ破いて与え、こう言いました。
「さあ。パズルだよ!このバラバラのパーツを組み合わせて元の状態に直してごらん。」
父親はこれで1時間は子供がパズル遊びに集中して静かになるだろうと思いました。
ところがほんの5分ほどで「お父さん出来たよ!」と言われ、父親は驚いて言いました。
「どうしてそんなに早くパズルが完成できたの?」
すると子供は無邪気に笑って答えました。
「だってパズルの裏を見たらカレンダーの絵が描いてるよ。この絵を見ながら合わせ
たらすぐにできちゃったよ!」
全ての物事には視点をシフトすると難題も簡単に謎解きできる両面性があるようです。時に私たちはメディア操作によって物事の一面だけしか公開されませんが、裏事情を知れば点と線が結ばれ、正確に短時間で事の真相を把握できるものもあります。

 

 

金のしゃく

 

アハシュエロス王の前に出張したエステルは神様から遣わされた自覚の元、その使命を命がけで忠実に果たしました。出張に忠実な者、不忠実な者、主はすべてを知られます。大切なことは私たちは神様から使わされた重要な使命ある特別な存在という自覚です。

 

 エステル記に登場するアハシュエロス王はここで父なる神様を象徴します。後に王の右に座る位を受けたユダヤ人を救う解放者となったモルデカイはイエス様を象徴します。モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語りました。そして、同胞のユダヤ人のために命をかけて戦った勇気ある王妃エステルは私たちクリスチャンのあるべき姿を象徴し、ユダヤ人へのひどく悪質な迫害者だったハマンはサタンを象徴しています。

 

ハマンは自分に頭をさげず、真理と信仰に堅く立つユダヤ人モルデカイを非常にねたんで憎しみ、モルデカイだけでなくユダヤ人全体をも迫害して殺害しようと策略を練った悪者です。しかし、最後は自らが設けたわなに捕らえられサタンの運命同様滅ぼされています。

 

一方、モルデカイは迫害されれば、されるほどいよいよ高められ、究極的には二度も王の前から町に出てきて、王服をまといながらユダヤ人の群衆の前で国王とユダヤ人の栄誉を受け、大いなるかっさいを受けました。一度目は王の馬に乗って、その足を地面に着けることなくユダヤ人の前に登場し(エス六・十一)、二度目は地面に足を着けて歩きながら金の冠をかぶっての登場です。会衆前でのモルデカイの栄光満ちた登場とは、すなわちユダヤ人の命を迫害者の策略から救った解放宣言のためでした。(エス八・十五)。「ユダヤ人にとって、それ(モルデカイの登場)は光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった。」(エス八・十六)。

 

このことはちょうどサタンの迫害を受けながらも十字架の血潮で勝利され昇天されたイエス様が、王なる御父のおられる天国から出て来られる一度目の足を地面に着けない空中再臨と二度目の足をオリーブ山の地面に着ける地上再臨のとき私たちから必ず大かっさいをあびる解放者イエス様を現わしています。イエス様はその日、私たちの光と、喜びと、楽しみと、栄誉になります。

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の…感嘆の的となられます。」(第二テサ一・十)

 

モルデカイの大勝利とユダヤ人の自由解放の背後には命をかけた王妃エステルの献身的信仰があります。

エステルはユダヤ人の一人として同胞の同国人を本当に愛し、ユダヤ人であることを恥とはせず、王の前でも隠すことなく堂々と身元を告白し、その救いのために立ち上がった勇士です。

 

もしエステルが立ち上がらなかったならばモルデカイが語ったとおり他から救いが現われましたが、エステルはユダヤ人の救いこそ自らの使命と確信し、命をかけて断食祈祷と信仰を持ってアハシュエロス王の所へ行き、ユダヤ人の救いを嘆願したのです。王にはユダヤ人を生かすも殺すも、すべての権威が与えられています。エステルにとって王妃としてできるすべてのことはハマンの巧妙に立てられたユダヤ人殺害計画を打ち壊すように王に助けを求めることです。

 

しかし、通常いかなる人であっても王の前に出て行くことは王から直接召されない限り禁じられており、この法令に背く者は誰でも死刑に処せられたのです。その厳戒態勢は歴史家ヨセフスの文献によると召し出されていないのに玉座に近づく者を罰するためにおのを持った男たちが玉座の周囲に立てられていた程です。しかし、ここにたった一つの王の前に出て行ける例外的な救いの手段がありました。王の好意を受けて、王の手に持つ金のしゃくが差し伸べられたその時、そのしゃくに触れば王室にて王との親しい面談が許可されたのです。まさにエステルにとってこれは命がけの大冒険でしたが、エステルは信仰と勇気を持って行動に移し、王の好意をみごとに得て、金のしゃくが差し伸べられ、あとはすべての嘆願の内にその願いは聞き届けられユダヤ人を救ったのです。

 

 エステルは今日の私たちクリスチャンのあるべき姿の象徴です。今、父なる神様は勇気あるエステルのように命をかけて断食と祈りを持って同胞の同国人への救霊愛に燃えている人を探しておられます。父なる神様は金のしゃくをそんな勇士に差し伸べたいのです。確かに私たち、罪ある人間は元々どうしても王なる神様のみもとに自ら進み行くことはできません。罪人が御父の御前に立ち、御顔を拝するならばちりに等しい私たちはたちまちに死んでしまいます。

 

しかし、ここにたった一つの救いの手段がすでに準備されていたのです。そうです。御父のみもとから今差し伸べられている金のしゃくに触ればよいのです。金のしゃくとはギリシャ語でスケープトロイであり、金の棒という意味もありますが、私たちにとって純金の棒以上に尊い棒とはイエス様の十字架の木です。王なる神様の御手の中にいつもある十字架という栄光輝く金のしゃくをとおして御前に進み行けば、例えどんなに罪深い者であったとしても無条件に王なる神様の好意を得て、親しい面談が許可され、愛されて受け入れられるのです。この金のしゃくはエステルのように信仰を持って御前に進み行く人にのみ差し出されています。

 

イエス様が私の為に十字架で血潮を流して死なれ、葬られ、三日目によみがえられた、この真理を本当に信じる人だけがつかむことのできる金のしゃくなのです。ですから、エステルのように勇士となって切に断食祈祷を捧げて命がけの救霊愛を持ってこの地の救いの為に立ち上がりましょう。十字架の血潮にすがりついて王なる神様に祈って嘆願しましょう。その本気の信仰を見て王であり父である神様は必ず答えて下さいます。

「王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」(エス五・三)

 

これを読むあなたが破れを繕うもの、サタンの霊的迫害と策略を打ち破るリバイバリスト・エステルになって下さい。王なる神様があなたの勇気ある信仰と救霊への情熱を感動されて、語られたならばその御言葉は誰も取り消すことも閉じることもできないリバイバルの扉を開きます。

「…この日に王の命令とその法令が実施された。この日に、ユダヤ人(クリスチャン)の敵(サタン)がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(エス九・一)

 

「諸州の首長、太守、総督、王の役人もみな、ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイ(イエス様)を恐れたからである。というのは、モルデカイは王宮で勢力があり、その名声はすべての州に広がっており、モルデカイはますます勢力を伸ばす人物だったからである。」(エス九・三、四)

 

エステルが立ち上がるとユダヤ人全体も背後でエステルを動かし、動機付けていた本当の重要人物、ユダヤ人の救いモルデカイを知るようになりました。私たちのモルデカイなる救い主イエス・キリストを世界が知るようになるのも今の私たちの信仰の決断と献身的勇気ある信仰の行動にかかっております。なぜ、私たちは多くの人々の中から選ばれて救われたのでしょうか。なぜ、私たちの国籍は何もしていないのにすでに王宮のような天国に置かれているのでしょうか。理由があります。振り返ってモルデカイのエステルへの助言の言葉に耳を傾けてみましょう。

 

「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エス四・十三、十四)

 

さあ、イエス様の招きに答えて勇士エステルのように献身的に立ち上がりましょう。あなたの力が今、この国を救うのです。

「王の諸州にいるほかのユダヤ人も団結して、自分たちのいのちを守り、彼らの敵を除いて休みを得た。…その十四日には彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。」(エス九・十六、十七)

 

あなたは主にとって決して小さくありません。あなたが主の勇士であることを自覚して目覚めて立ち上がる時、リバイバルは全地に広がり、教会は団結して自らの霊的いのちを守り、敵なるサタンを除き去り全面勝利できるのです。まもなく、すべての敵が消え去る全き安息の日、小羊イエスの大いなる祝宴と喜びの日である再臨が訪れます。その前に終末最後のリバイバルも訪れます。すべての民が目覚める偉大なリバイバルの発火点であり鍵である金のしゃく、イエス様の十字架の血潮にまみれた木を勇気と献身的いのちをかけた本物の信仰でつかんで、すべての支配権ある王なる御父に熱く嘆願して祈りましょう。

 

リキラン牧師が聖霊のバプテスマを受けた時、イエス様の十字架を見たそうです。その証しによるとリキラン牧師は始め、聖霊様を求めて一人部屋にこもり、正座しながら壁に向かって真剣に祈りました。すると程なく目の前に開かれた幻が見えてきました。細く険しく曲がりくねった危険な道に歩く自分自身とそこに数頭のほえたける大きなライオンが現われ、繰り返し幻の自分に襲いかかろうとジャンプしながら接近し、おびやかしてきました。やがてライオンたちは前後にリキラン牧師を包囲し、もうこれ以上進むことも戻ることもできなくなった恐怖の只中、突然神様の御声が天からはっきりと聞こえて来ました。

 

「わが子よ。恐れてはいけません。そのライオンをよく観察しなさい。その口を見なさい。すべての牙はすでに抜かれているではありませんか。その足を見なさい。すべてのつめもすでに抜かれているではありませんか。」

 

リキラン牧師が見ると確かに危害を加えることのできるあらゆる鋭いものはすべて除かれており、ただジャンプとほえたける大声でおどかしているだけであることに気付かされました。そこで思いきって前進するとその瞬間ライオンは一匹残らずその場から消え去り、かわりに道行く前方に十字架にかけられたイエス様が現われてきました。リキラン牧師の心に衝撃が走りました。

 

今までイエス様の十字架について目にしたどんな美しい聖絵とも異なり、幻で直視した実際のイエス様は全身ひどく血潮にまみれたひどい悲惨な状態だったからです。

いばらの冠を受けた頭から大量の血が長い髪の毛をぬらしながらしたたり落ち、イエス様ご自身目を開けられないほど御顔を赤く染めていました。リキラン牧師はその時にイエス様の血潮を受けて聖霊のバプテスマを体験し救われました。

 

すると場面は一変して美しく輝く天国の情景が現われました。そこには黄金の都と大いなる空が無限に広がり、この世で見たこともない美しい花々がすばらしい香りを放ちながら咲き乱れ、聖なる讃美が天国中に鳴り響き、表現できないレベルの幸福感が心を支配し満たしていました。

 

ところが、幸福もつかのま足元のはるかに低くなった外側の別世界を眺めると正反対の色彩を放つ暗闇の地獄が実在するではありませんか。幻を見つめているうちに人々の大群衆が列を成して行進するのが見えてきました。人々は互いに楽しそうな日常会話に夢中になって一体自分が今何処に居るのか何処に向かって行進しているのかも分からずにただひたすら目先の会話に夢中になって恐ろしい絶壁をもつ崖に向かって勢い良く行進しているのです。

 

「これは大変だ!。誰かがこの滅びに突き進む大行進を止めなければいけない!。」

と思いつつ、涙で力の限り大声で叫んで彼らに警告しました。しかし、人々は一向に会話に夢中になって歩き続けていました。崖の下には既に滅びた多くの魂が恐ろしい骸骨となって積み重なっては焼かれていたそうです。

 

滅びに至る道は広く多くの人々が歩みます。しかし、どうしても強い決断を持ってこの世と調子を合わせることなく勇気と信仰を持って進み行かねばならない唯一真の細く険しい道こそイエス様のおられる十字架の道、血潮の道、天国の道なのです。

 

 

 

 

 

 

369不動さんはTwitterを使っています: 「ユダヤ金融資本家 ロックフェラー 財団だ 作った 日本の 医学教科書 で 自然免疫 や 薬草の 効能 など 一切無い 石油 由来 の 中毒性の 強い 薬で有る https://t.co/jN4piLWsG0」 / Twitter

 

ユダヤ金融資本家ロックフェラー財団が作った日本の医学教科書で自然免疫や薬草の 効能など一切無い石油由来の中毒性の強い薬で有る

 

元警察官で警察学校の教官の証し

 

元警察官で警察学校の教官だった方が、ある日、同僚と飲みに行った帰りに酔っぱらって通り掛かった女性に抱きついた。その場で暴行罪で現行犯逮捕。警察官だった自分が留置場、拘置所に。数か月後、執行猶予で釈放され帰宅すると全てを失っていた。

「父が心労のために亡くなって、警察官の仕事を失い、地位と名誉を失い、新築一戸建ての家を失い、新車を失い、友を失い、二人の息子たちをはじめ、家族を失いました。何もやる気のない日々でした
そんなある日、留置所で聖書を差し入れてくれた牧師を思い出し、思い切って教会に行った。

「驚きの連続でした。イエス・キリストを知りました。一時は、『人生はもう終わった、死んだ方がましだ』と思いました。世間の人からは『邪魔で汚い存在だ』と嫌われてるために、私は消えなければならない人間だと思いましたが、イエス様と出会って変わりました!福音が私に迫って来たんです!」イエス様「子よ。あなたの罪は赦されました」を信じて洗礼を受けた。

「罪赦された喜びを、私は永遠に忘れないでしょう。主にあって、私は生き返ったのです!」

この方は今、牧師目指して神学校で学んでいます。

 

 

老人のそばめ

   

 士師記二十章には驚くような現実の人間の罪悪の歴史が記録されています。始め私がこの聖書箇所を読んだときは正直気持ちが悪いと思いましたが、よく祈ってから十字架の血潮を照らし合わせて霊的に解釈してみるとここも大切な真理を啓示する神様の生きた御言葉であることが解りました。そのメッセージはこれです。

 

一人の親切な老人がいました。ある晩、老人はベニヤミン族の住むギブアの町の広場で野宿しようとしている旅人を憐れみ、特別に自分の家に泊めてあげることにしました。その理由は町の広場には堕落した民が満ちあふれ、男色の風習さえある大変危険な所だったからです。老人は旅人を喜んで迎え入れ、ロバに馬草を与え、足を洗って、食べたり飲んだりしながら共に楽しんでいました。ところが夜もふけかけたころ、突然家じゅうを揺さぶるような破壊的なこぶしでドアを激しく叩き続ける音が鳴り響いてきました。「ダン。ダン。ダン。」

 

実にその町の男色の風習あるよこしまな男たちが情欲に満ちて老人の家を取り囲んで叫んでいたのです。「あなたの家に来たあの男を引き出せ、あの男が知りたい!」

執拗に迫り来る町の堕落した男たちに老人は必死に抵抗して叫びました。

「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。…」

 

しかし、老人の説得にも男たちが一向に応じることなく、今や家のドアも力ずくで打ち破らんばかりになったため老人は旅人を守るため残された最後の手段として大きな犠牲のともなう決断を下しました。なんと旅人の身代わりに自分の大切なそばめをつかんで外の男たちの所へそのまま出したのです。情欲と汚れに満ちた男たちはいっせいに野獣となってそのそばめに襲いかかり夜通し朝まで暴行を加え、夜が明ける頃やっと彼女を放したのです。

 

翌朝、老人が外に出ると自分のそばめが家の入り口に倒れたまま死んでいるのを確認しました。そこで老人は自分の家に帰ると当時の風習によって刀を取りだし、驚くことに自分のそばめの死体を十二の部分に切り分けて、それぞれの部分をイスラエルの部族ごとに輸送したのです。小包を受け取った族長たちは開いてびっくり仰天です。

 

開いた口が閉まらない族長たちは事の重大さに目が覚めて、大至急イスラエル中の十一部族を招集して大会議場である「ミツパの主のところ」に大集合させました。イスラエルの全部族、民全体の頭たち、四十万の剣を使う戦士が神の民の集いに総動員されました。目的はただ一つ、男色の風習に身を委ね、全く悔い改めようとも恥ようともしない鉄面皮のようなギブアの町に住むベニヤミン族に対して、イスラエルの十一部族は本気で立ち上がりました。聖なる怒りです。

 

主の御心を求めて後、皆が一致団結して重い腰をあげて立ち上がり、イスラエルから悪を除き去るための聖戦をついに開戦したのです。今まで眠りについていた十一部族が始めて目覚めて自発的に立ち上がったのです。まさに罪悪と戦うリバイバルの始まりです。彼らは必死に主にすがり、断食礼拝で身を聖め、戦士たちは剣を手に手に聖戦を繰り広げ、最後に十一部族はこの戦争に歴史的大勝利を輝かせイスラエルから堕落しきった一部族を聖絶して彼らの町ギブアを焼き払うこととなりました。

 

人間の罪はこのように恐ろしい燃える火のようで一つの罪悪が多くの災いを呼び起こすものです。罪と汚れはことごとく聖絶して焼き尽くすしかありません。しかしながら世の終わりが近づいている今の時代、いまだ多くの力ある神のイスラエルは霊的に眠っている状態です。日々、展開されるべき聖戦である罪悪や肉欲との戦いに気づかないでのんびり妥協したまま参戦できない本当は目覚めたら凄く力ある勇士たちがあまりにもたくさん寝ています。眠れる神様の民を目覚めさせ勇士にならせる唯一の切り札があります。この国の教会を目覚めさせ、教団教派を超越した一致をもたらし、全クリスチャンを聖戦へと立ち上がらせるリバイバルの鍵が本当にまだあります。

 

もともと罪悪に対する戦いの認識が甘かったイスラエル十一部族でさえ本気で立ち上がらせる動機付けを与えた起爆剤とは一体なんだったでしょうか。それは堕落したギブアの町の罪悪とは一切関係なく、ただ犠牲となりただ身代わりとなり殺された無実な老人のそばめ、その人でした。皮肉にも元気に生きている時のそばめではなく死んだ後の悲惨な状態のそばめです。そばめの死体を残酷無惨にも十二部分にバラされてイスラエルの国中へ送りつけたそのことが引き金となってイスラエル十一部族の開眼となりリバイバルの原動力となったのです。この血にまみれた目も背けたくなるほど醜い死体の一部を実際に受け取って直接見たイスラエル十一部族が始めて事の重大性を悟り、本気に目覚めてミツパの町、主の所に集まり罪悪に対する聖戦を開戦し勝利したのです。

 

今、私達もまた絶対受け取り、見つめなければならない残酷無惨な姿がここにあります。そうです。カルバリ山の十字架の上で手足を釘打たれ血潮を流し、肉体をむちでズタズタにひき裂かれた救い主イエス・キリストです。このお方を直視しこのお方を語らなければ誰でも霊の深い睡眠状態から目覚めることはできません。罪なき神様の御子が罪ある世界のために犠牲の死を遂げたのです。こんな偉大な神様の御子の十字架の血潮にまみれたその姿こそ私達を霊の眠りから目覚めさせ、罪悪の本質を悟らせ、罪を憎み、罪を敵として聖戦を始める聖なる勇士へと変化させるのです。

 

十字架のイエス、その血潮にまみれた姿を恐れないで真剣に見つめましょう。開かれた小包を自ら手にとってしっかり見つめる族長たちのように、ふるえながら、感動的な心をもってイエス様の十字架の血潮と肉体を自分のものとして受け取ることです。必ず目覚めて、奮い立つ新鮮な命の力が流れてきます。

 

今まで隠れていた罪悪が浮き彫りにされ、これと戦い聖絶する勇気と信仰と行動力が流れてきます。そしてイエス様の血潮は私達を義認から聖化、栄化させ、やがては世界の罪悪を滅ぼす大きな神様の軍隊へと成長させるのです。イエス様の十字架を直視しましょう。私たちの心と体が弱い時、世を歩んで疲れ倒れる時、神様の愛が見えなくなった時、ただひとり十字架を見上げることです。私たちの愛するお方の傷ついた血潮にまみれた御姿を。どんなに深く大いなる犠牲愛でしょうか。罪を敵として罪に妥協することなく命をかけて戦いぬかれた勝利の主です。イエス様の十字架の血潮を見続ければ、力ある主の勇士と変えられてどんな罪の誘惑にも打ち勝てます。イエス様の血潮は私たちの聖めです。積極的に聖戦にかりたたせる救いの力です。

 

今の終末の時代こそ神様の民は皆、教団、教派を越えてイエス様の十字架を仰いで立ち上がり「ミツパの主のところ」へ、神様のイスラエル軍として集合するべきその時です。一致団結して霊の戦いに奮い立つその時が今です。あなたが目覚めて立ち上がれば、この地を救うことができます。主は今もミツパで目覚めたあなたを待っておられます。ミツパの町の名前の意味は「見張る場所」「物見やぐら」です。主は今、罪悪との戦いに昼も夜も本当に目覚めた霊的に戦う教会や戦う個人の所におられます。共に十字架で血潮にまみれたイエス様の御姿を私たちの唯一の誇りとして信仰の目でしっかり直視して聖なる感化を受けて信仰が大きく覚醒されましょう。

 

「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル一二・四)。十字架で血潮を流すまで私達の罪と戦われたイエス・キリストを模範として見つめて目覚め、勇士となって罪を敵視して憎み、強く雄々しく聖戦に立ち上がって御言葉の剣を高く振りかざしましょう。ただイエス・キリストの血潮が正義の原動力です。

 

 

 

 

【ソマチッドを探せ!血液観察していただきました】

栄養士&健康研究家 鮎田奈央海 - YouTube

 

【知識】驚異の薬効植物「スギナ」若返り、体質改善、

【ケイ素やソマチッドなど】 - YouTube

 

おなじみの雑草、スギナには可能性の元素であるケイ素が多く含まれています。そのケイ素はアンチエイジングはもちろん、健康に重要に関わっています。医療先進国ドイツでは当たり前みたいですね。 脳の脳下垂体、第3の目と呼ばれ、オカルティックな分野で古代から現在まで注目されている【松果体】、共存生物である【ミトコンドリア】、そして不死の生命体【ソマチッド】

 

水浴した者

 

 ある日の夕食の間のことです。弟子たちと食事を共にされたイエス様は席から立ち上がって上着を脱がれ、手ぬぐいをとって腰にまとわれてから、たらいに水をいっぱい入れて一人一人弟子たちの足をきれいに洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められました。

 これは通常、主人が外から帰宅した時にその家で給仕するしもべがなすべき仕事です。ところがあの、主であり、師であるイエス様ご自身が、畏れ多くも弟子たち一人一人の汚れに満ちた汚い足に御手をつけるとは、弟子たちはイエス様がなぜそうなさるのか全く理解出来ず、ただただ顔を見合わせながら当惑するばかりでした。そこでペテロの順が来た時、ペテロは思いきって質問しました。

「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。」イエス様はこれに答えて「わたしがしていることは今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

 するとペテロは「決して私の足をお洗いにならないで下さい。」イエス様は言われました。「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません。」

 するとペテロは「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」イエス様はこの時、大切な教えを言われました。

「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ一三・六~一〇)

 

 イエス様はここで弟子たちが互いに人を自分よりもまさった存在と考えて尊重し、赦し合い、仕え合うことの大切さを教訓され、加えてもう一つ大切な霊的教訓も宣言されました。水浴した者はすでに聖いということです。一度イエス様を信じて救われたクリスチャンは、すでに全身水浴した者のようにその霊魂はすでに聖い状態です。ただ、汚れた足だけ洗う必要があるというのです。中東社会は当時砂ぼこりの多い所をサンダルで歩きまわったため、その足は毎日汚れ、帰宅後玄関にある水を張ったたらいで洗う必要があったのです。足というのは日常生活での行動の基本です。それゆえ「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。」とイエス様が教訓されたこの意味は、すでに救われたクリスチャンにとって日常生活の行動上、自然と足についてしまったような汚い罪のほこり、これだけを日々洗い聖めれば良いことを教えられたのです。外から帰宅したら、まずイエス様の血潮を賛美して罪の汚れを洗い聖めることです。クリスチャンが救われて後、日常生活の中で一度罪を犯して失敗した行動があったとしても、それは行動上の足だけが汚れたのであって、聖まるために初めからもう一度水のバプテスマを受け直して一からやり直す必要はないということです。それはペテロが「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」とイエス様に頼み、拒まれたのと同じことです。ただ汚れた部分の罪だけを告白して悔い改め、イエス様の血潮で日毎に洗われれば、すでにその人は全身聖くなっている救われた神様の子供です。一度救いを体験したクリスチャンはすでに全身聖い人です。たとえどんなに大きな失敗をしても、転んでも倒れても聖い神様の子供であることは不変の真理です。倒れたら起きあがり、つまづいたら、もう一度立ち上がればいいように罪を犯したら悔い改めて、イエス様の血潮で汚れから聖まればそれで良いのです。イエス様がへりくだって私達の罪の汚れを洗って下さるからです。玄関にある水の入ったたらいのように、天国では金のバケツがあって、その中のイエス様の血潮がすでに神様の子供とされた私達の罪の汚れを永遠に至るまで洗い聖めて下さります。肉体の汚れは水で洗えば聖まります。心の罪の汚れはイエス様の血潮で洗えば完全に聖まります。イエス様の血潮を日々、繰り返し賛美しましょう。たとえばこの様にです。(聖歌四四七番)「♪ つみのけがれを、あらいきよむるは、イエス・キリストのちしおのほかなし。イエスのちしお、ほむべきかな、われをあらい、ゆきのごとくせり ♪」アーメン。

 

コロサイ1:15でイエス様について「御子は、見えない神のかたち(イメージ)である。」と書かれたとおりイエス様は目に見えない父なる神様の本質の完全な現われとして目に見える形で世に来られ、その肉体の命なる血潮は父なる神様の聖さをそのまま直接受け継いだ他にはない特別な血統だったということを理解するために一つのたとえ話をしたいと思います。最近バイオテクノロジーの分野で特に日本が盛んに研究実践している遺伝子組替えによるクローン牛というものがあります。高品質の霜降り牛を安定的に大量供給出来る日を夢見て実験されているものですが、その生産方法は通常の交尾による牛の受胎法とは根本的に異なるものです。まず優秀な血統を持つ、霜降りの高級オス牛の耳や背中のような皮膚からDNA細胞を取り出します。次にメス牛から卵細胞を取り出し、これを弱い電気刺激の力で電子顕微鏡で見ながら卵細胞の中に直接オス牛のDNA細胞を入れて受精させます。これが成功すると卵細胞は核分裂を始めます。そしてこのような状態になった卵細胞をメス牛の胎内に再び戻すと、そのまま身ごもり出産出来るのです。しかもこの場合、生まれた子牛には父親のオス牛のDNA遺伝子による血統だけが受け継がれ、母親のメス牛の性質は一切受け継がない、父牛の全く同じコピーのような子牛だけが誕生出来るのです。こうして父牛が優れていればそのまま血統ある父牛どうりの優れた高級牛だけが大量生産可能となるのです。日本ではこの分野で特に優れた技術を持っており、すでに世界トップレベルで数頭をすでに出産成功しております。現在、このこころみは動物実験に限られ、人体実験においては国連で全世界的に禁止しておりますが、実に理論的には全く同じことが人間にも成り立つそうです。すなわち人間の受胎法にも二通りありうるのです。一つは通常どおり、結婚した男女間の結合により種を受けた女性が身ごもるものであり、この場合、生まれる子供は父親と母親の両者の性質を掛け合わせ持つことになります。しかし、もう一つの受胎法は男女の結合なきマリヤのような処女でも可能なものであり、それは男性のDNA細胞を皮膚から取ったものを女性から直接取り出した卵細胞に弱い電気刺激の力で直接入れてから核分裂させて、これを再び女性の胎内に戻す方法です。もし、この受胎に成功すれば、理論的には母親の性質は全く持たない、父親のDNA細胞どおりのコピーのような完全な現れとして、全く父親と同じ性質を持つ子供を出産出来るのです。

 

 イエス・キリストの生誕は、たとえてみると、これに少し似た面を持っており、母親マリヤの胎内の子宮内には一つの生命が宿る過程で人間の種以外の何らかの神様よりの神秘的な直接の働きかけがあったことは確かです。

「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。」(詩七一・六、七)。

 その奇蹟とは旧約聖書中、繰り返し預言されていた救い主キリストの生誕についてのロゴスの御言葉がある日、突然、天の御使いにより、レイマの直接の父なる神様よりの御言葉となってマリヤに受胎告知された時、

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ一・二八)。

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。・・・」

(ルカ一・三一)。このレイマの御言葉が、父なる神様よりのDNA細胞のごとく生きた種となってマリヤに入り、その瞬間、処女マリヤの胎内に働きかけた弱い電気刺激のような働きかけが聖霊様の感動、感化だったのです。それゆえ、マリヤは処女にもかかわらず身ごもることができ、やがて時満ちて生まれ出たお方、キリストは生まれつき人間の罪の種を全く受けずに、父なる神様より直接レイマの御言葉の種だけを受けた「神の言葉」として父なる神様と同一の御性質を合わせ持ち、ヨセフの種もマリヤの性質も一切受け継ぐことなく、ただ父なる神様のコピーのように同一のイメージと栄光の完全な現れとして御父と全く一つになって世に産まれて来ることが出来た、まさに神様がそのまま人間となった救い主なのです。そのためその命である主イエス・キリストの血潮こそ正統的に純粋な父なる神様よりの血統であり、人間の罪が全く交わらなかった聖なる命の源流であり、このような尊い血潮が十字架上注がれたのです。

 

ある国の皇太子が、クルージングを楽しんでいました。やがて霧が出て来て前方をさえぎりました。

すると灯りが見えます。このままでは衝突してしまいます。相手にメッセージを送りました。
「そちらの進路を変更されたし!」
すると相手から返事が返って来ました。
「そちらこそ進路を変えてください」
皇太子は頭に来て、改めてメッセージを送りました。
「そっちが変更しろ!こっちは皇太子である」
すると再び相手から返事がありました。
「進路を変えるのはそちらです。こちらは灯台です」
もし、あなたが皇太子ならどうしますか?
まさにイエス様は世の光で灯台なるお方です。進路を変えなければからないのは、私たちの側です。

伝道者の書7:14「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」

失敗した時、プライドを砕かれますが、へりくだって反省をする良い時でもあります。挫折しないで、信仰を新たにして、立ち上がれば失敗も益になる。

 

私たち人類の最大の失敗、神の子イエスを拒んで十字架にかけて殺したが、神様は罪なきイエスの3日目の復活を信じて悔い改める者に永遠命を与える特権の祝福に変えた。

 

BPAは低用量でも内臓疾患やホルモン異常、がんを引き起こすといわれている。

また、この物質は胎児の発育に悪影響を及ぼすため、妊婦を危険にさらすものだという。呼吸や皮膚から体内に入るBPAの量は少量だが蓄積され、徐々に体内で増えていく。BPAフリーって何?プラスチック容器から溶け出す有害物質のリスク

ビスフェノールA(BPA)とは、一部の食品用の容器等(エポキシ樹脂やポリカーボネートと呼ばれるプラスチック製のもの、容器内コーティングを含む)の原料に使用されている化学物質です。

BPAとは、ビスフェノールAという化学物質のことで、主にポリカーボネート、エポキシ樹脂と呼ばれるプラスチックの原料として使用されています。

 

厚生労働省によると、

“ポリカーボネートは、主に電気機器、OA機器、自動車・機械部品等の用途に用いられています。また、これらの用途に比べると使用量は少ないですが、一部の食器・容器等にも使用されています。エポキシ樹脂は、主に金属の防蝕塗装、電気・電子部品、土木・接着材などの用途に用いられています。”としており、私たちの身近にBPAが存在していることが分かります。

 

BPAが人体に取り込まれる最大の経路は、食事を通しての摂取です。

BPAが含まれる食器や容器を使ったり、缶詰食品や飲料缶の内面部分にほどこされたコーティングが、知らず知らずのうちに水分や油分と一緒に溶け出したりすることで、食べ物に付着したBPAが私たちの体内に入ってきます。

食器や容器は、ペットボトルをはじめとするプラスチック製品、缶詰食品や飲料缶、レトルト食品、タッパーなどの保存容器やラップ、お弁当箱など、私たちの生活の一部ともいえる日用品を指します。さらに、子どものオムツやおもちゃ、女性の生理用品にも含まれていることもあります。

BPAに対する海外の反応は?

対して、海外ではどのような対策をしているのでしょうか。
 

フランス

BPAを含み、食品との直接接触が意図されているあらゆる梱包、コンテナ又は調理器具の製造、輸入、輸出、販売を禁止しています。
 

アメリカ(カリフォルニア州)

BPAを含む商品を提供する場合は、「明確かつ合理的な警告」を表示しなければならないとしています。参考:国税庁

 

上記の他にも、カナダ政府が「ポリカーボネート製の哺乳びんを使う場合には、熱湯を使うとビスフェノールAがより速く移行するため、熱湯を注ぎ込まないこと」と公表しています。対象製品にはほとんど「BPAフリー」と表記されています。なるべくBPAフリーの製品を使うようにしましょう。

 

 

 

1.裂いて渡されたパン

 

 ルカ二十四章三十節によると、エマオ途上にいた弟子たち二人は、復活されたイエス様御自身に道で出会い、共に歩み、聖書の話しを聞き、心が熱く燃やされ、夕食の席までも共にしたのに、不思議なことに彼がイエス様御自身であることがわからなかったと書かれてあります。世界最高水準の旧約聖書講解メッセージを直接イエス様からお聞きする光栄に預かれたのに霊的に鈍い二人はイエス様が悟れなかったのです。しかしこのような二人の閉ざされた霊の目が開かれ、そこにおられるお方がなんと主イエス御自身であることを本当に悟れたきっかけとなった出来事はイエス様がパンを裂いて彼らに与えられたまさにその瞬間のことでした。

 今の時代も繰り返し聖書の話しを聞き、心熱くされますが、私たちの霊の目が開かれ救い主イエス様を本当に知ることができる神様との劇的出会いの体験は十字架の言葉であり、イエス様の肉が十字架上パンを裂くように裂かれて血潮を流されたという神様の御子の身代わりの犠牲愛、この真理をイエス様より直接受け取るその時です。現実に十字架についたイエス様の血潮を見上げない限り、本当の信仰は生じません。

 私は一度、夢でピラトの庭でムチ打たれた直後のイエス様を見たことがあります。私は彼がイエス様御自身であることがなぜか分からないけれど霊のうちですぐわかりました。イエス様はムチ打たれた後、体をひきずるようにして私のそばに来てそこで倒れました。そのイエス様の御体は驚くほど深い無数のムチ打ちの傷跡がついたまま真っ赤な血まみれ状態でした。そこで私は早く救急車を呼ばないと、このまま放っておけば出血多量のまま死んでしまうと思い、心が震えながら近づいてみました。よく近くで見るとイエス様は当時の私のイメージとは少し違い、黒っぽい髪をしたユダヤ人の好青年という感じでした。私のイメージではもっと年配で金髪のイエス様でしたが、まだ若い三十三歳の普通の若者でした。イエス様のひとみには驚かされました。多くの人を惹きつけるような本当に清らかで聖なる美しい目でした。しかし、その表情はむち打ちと暴力により、激しい苦痛に満ちたものであり、白い歯を食いしばりながら、ひたすら耐え忍ばれているようでした。私はイエス様の苦しみもがく御姿を見つめるうちに感情を制することができなくなって、そこで大声をあげて泣き出して「イエス様!。」と叫びながら彼に抱きつきました。するとその瞬間、イエス様の全身驚くほど血まみれだったその赤い大量の血潮が私の両手にも移ってしまい私も血まみれで真っ赤になったのです。ところがなんの不快感もなくむしろイエス様の血潮は人を聖める力がありました。不思議なことにイエス様の血潮を受けるや否や、私の唇からは次々と私自身の罪の告白が何の抵抗もなくスムーズに出てきたのです。普段ならば一時間位祈らないとすぐには心底出来ない悔い改めもイエス様の血潮を受けると速やかにしかも自発的にどんどん出てきたのです。私だけでなくイエス様の血潮に触れられた人ならば誰でも心からすぐに悔い改めたくなるものだと思います。悔い改めが自然に楽しくなるのです。そこで私は目覚めました。目覚めた後も心は熱く、目には涙でした。

 イエス様が十字架につけられ血潮にまみれて激痛を受けられたのは、私たちを罪の世から救って本当に神様に仕える御自身の聖なる民として聖別するためでした。イエス様の犠牲を思う時、ただ感謝せずにはおられません。何を持ってしてこの純粋な聖い愛に答えてお返し出来ましょうか。十字架で身体が裂かれた命のパンなるイエス様に触れれば、閉ざされた霊の目が開いて救いと聖めが受けられます。

 

2.いちじく桑の木

 

 取税人の頭ザアカイは、頭としての権力も地位も財産も十分ありましたが、これら環境的要因では心が依然満たされず、環境によらない普遍の愛と全き救いに対する飢え乾きが強くありました。そこでエリコに来られた愛の救い主イエス様を一目見ようと群衆に紛れ込みましたが、背が低かったので群衆が壁となり、どんなに背伸びしてもみても人々の背中しか見ることが出来ません。嫌われ者のザアカイを前方に出してくれる親切な人もありません。この事実は象徴的に元来、ザアカイのように汚れた罪人が聖い神様に出会うことは、罪の呪いや不信仰が隔ての壁となり、どんなに背伸びをしてみても見ることさえ不可能であることを暗示しています。しかし、ここに希望の福音があります。誰であれ、真理を求める熱心さえあれば、主との出会いの奇蹟を可能にする一つの救いも準備されていました。ザアカイの登ったいちじく桑の木です。

 この木は幹が短く枝は四方に伸びているため、子供でもたやすく登れる木であり、小柄なザアカイでも登ることが出来ました。ごくありふれた木ですが、これにより、そこからイエス様を見つめることができ、主との出会いを可能にし、救いの道が開かれたのです。

 私たちにもこの木のような主なる神様との出会いを可能にする登りやすく、ありふれた木だけれど確かに不可能を可能にマイナスをプラスにする大切な木があるのです。それがイエス様のつけられた荒削りの十字架の木です。十字架の言葉は滅びに至るものには愚かであっても、救いを受ける私たちには神様の力であり、登りやすいいちじく桑の木のように、十字架による救いもたやすく全ての人の為に準備されており、子供にも理解出来る簡単な教理であって、ただ信じるだけで、罪赦され、救われるのです。人間の努力や苦行や善行によらず、ただ恵みのゆえに信仰だけで救われてたやすく神様の子供になれるのです。今、声に出して祈祷文を告白し、これを心で本当に信じて下さい。あなたはただで救いを受け取れ、天国にログインされます。

 

祈祷文:

 

「天の父なる神様、感謝いたします。今、信仰を持って御前に進み行きます。私は今まで私を造られ命を下さった創造主の神様から離れて罪人として生きてきました。私は罪を悔い改めます。罪なき神様の一人子イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架にかかり、血潮を流して死んで、三日目に死人の中からよみがえられたことを私は信じます。イエス様の貴い血潮で私を洗い聖め、復活の命で満たして下さい。私は救い主イエス・キリストを心の王座に受け入れます。助け主、聖霊様を私の心に与えて下さり、今から永遠まで主と共に生きていけますようにお導き下さい。全ての罪から私を守り、御言葉の力で成長を与えて下さい。イエス様の血潮により契約が結ばれた今、神様は永遠に私の父となり、私は永遠に神様の子供とされたことを宣言いたします。私は救われました。私は勝利しました。感謝します。主イエス・キリストの御名によって、心からお祈りいたします。  アーメン。」