ひと粒の麦

ひと粒の麦

家庭集会で語られているイエス様からのメッセージを皆さんにお伝えします。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
~ヨハネによる福音書12章24節~

エレミヤ書11章4節
この契約は、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄のかまどの中から導き出した時に、彼らに命じたところのものである。すなわち、その時わたしは彼らに言った、わたしの声を聞き、あなたがたに命じるすべてのことを行うならば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。


イスラエルの歴史は聖書そのものであり、イスラエルは神と共に歩んできたと言っても過言ではありません。聖書には事細かく国についての歴史が書かれています。日本の始まりが書いてある書物は古事記や日本書紀と言われていますが、これは神話です。日本書紀には人間はいつの間にか出来ていて、日本と言う国も神が天地をぐるぐるかき混ぜ回転して形が定まってきたと書かれています。その表現はあまりにも曖昧です。歴史的な国の始まりは3~4世紀頃大和政権からと言われていますが、国が出来ていくのも人々の戦い(争い)や力によって国ができました。そこには神の存在はありません。韓国も新羅から国が始まっていますが、それも争いの中で生まれてできた国です。民たちも力によって治められてきました。

しかし、私たちが信じる聖書の神である真の神は、愛によって私たちを治めて来られた方です。そして今も生きておられる神です。今日の御言葉の、私の声を聞き、あなたがたに命じる全てのことを行うならば―。と私たちの自由意志を尊重されます。決して一方的に押し付ける方ではありません。私たちが主の命令に聞き従うなら、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。と約束してくださっています。いつでも決めるのは私たちなのです。

民主主義という制度が始まったのは古代ギリシャのアテネだと考えられていますが、ギリシャよりも早く民主主義という考え方を表明したのは、イスラエルの旧約聖書だと思います。創世記1章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」と書いてあります。身分や性別に関係なく、皆が神のかたちなのです。民主主義の源流はやはり聖書から来ています。

共産主義はマルクスによって19世紀に生まれました。共産主義とは財産や生産手段をみんなで共有し、平等な社会を目指す思想・制度とあります。理想では国家も政府も不要になる究極の平等社会を目指していると言われていますが、上に立つ政治家たちは権力を握りそれを手放さず、国民たちは頑張っても頑張らなくても受け取るものは同じなので怠惰になるという現実があります。

共産主義下にある国民についての話があります。農夫が収穫したジャガイモを牛車に乗せて運んでいます。舗装されていない道を進むと、道がデコボコなので荷車からじゃがいもが次々落ちます。もし、道に落ちたじゃがいもを拾ったらどうしますか?農夫に返す?荷車に投げ入れる?しめたと思って拾って自分のポケットに入れてしまう人もいるかもしれません。私たちはそう考えますが、共産主義の下で暮らしている国民は落ちたじゃがいもを拾う事はしません。なぜなら、拾っても拾わなくてもじゃがいもは貰えるからです。やってもやらなくても同じだと言う思考になってしまうのです。また、どんなに一生懸命努力しても無駄と考えてしまいます。意欲、意志が無くなってしまう。そんな人間になってしまいます。

神は私たちをロボットの様には作られませんでした。私たちには自由意志があり、その自由意志を無視される方ではありません。そして、私たちの神は私たちと契約を結んで下さる秩序正しいお方です。私たち人間の方から神を探して会うお方ではなく、神の方から私たちに近づいて来て下さるのです。神に会うために何か大変な努力や修行が必要でもなく、私たちが決めて心を開いて神をお迎えすれば良いだけです。そうすれば、私たちは神の民となり、私たちの神となって下さり導いて下さいます。

創世記17章7節
わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。


神は私たちと契約を結ばれたなら、決して一方的に取消したり、破棄されません。契約を結んだならば永遠に守るお方です。しかし、残念な事に契約を破るのいつも人間の方です。自ら神の手を振り払って神の守りから外れて歩む者には神は守りたくても守れないのです。

エレミヤ書7章23節
ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたがたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』と。


神は私たちに戒めをを守り歩むことで幸せな道を歩んで欲しいと願っています。人間にとって最善の道を備えてくださるのに神から受けた恵みをすぐに忘れてしまい、また元の愚かな姿、強情な心に戻ってしまう弱さがあります。主の恵みを忘れず、また元の愚かな自分に戻らない為にも私たちは常に御言葉に立ち返る事であり、その為に毎週礼拝や集会で語られるメッセージがあるのです。神からのメッセージを熱心に聞き忘れないように心に刻むことです。どの様に刻むのかも大切です。砂浜に刻むなら、簡単に波にさらわれて跡形もなくなってしまいます。しかし、岩に刻むならしっかりと残ります。私たちは決して消えないように心の岩の上に御言葉を刻みましょう。

ヨハネの黙示録21章7節
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。


新約聖書にも旧約聖書と同じような御言葉が語られていますが、黙示録では、私は彼の神となり、彼は私の“子”となる。と書いてあります。私たちを民ではなく、“子”と呼んで下さっています!民とは王の支配下にある者です。王の権威を継承する事は出来ません。しかし、イエス様がこの世に来て下さり、私たちの罪の為に死んでくださり、天に上られて私たちに助け主聖霊を送って下さいました。主イエスキリストを信じて心に迎えるなら、神は私たちを民と呼ばず、神の国を受け継ぐ子と呼んで下さるのです。これはどれだけ素晴らしい神の恵みでしょうか!!神の全ての権威と富とを受け継ぐ権威を持っているのです!!

ヨハネの黙示録3章20節
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。


神はいつも私たち人間の心をノックして下さっています。私たちが心の戸を開くなら私たちと神は食事をしてくださるのです。ここで言う食事をするとは親密な関係を築くことが出来ると言う意味です。この御言葉を表している一枚の絵があります。



この絵は19~20世紀に活躍したイギリスの画家。ウィリアム・ホルマン・ハントが描いた「世の光(The Light of the world)」と言う絵です。真っ暗な所にイエス様が明かりを持って訪ねて来られます。しかし、この戸をよく見てみるとドアの外側には取っ手がありません。内側から開けなければ戸は開かないのです。イエス様が来られた時に内側にいる私たちが戸を開けなければ、イエス様とは会えないのです。

大切なのは、決して神の招きを拒ばんではならないことです。自分の心がどんな状態、状況であっても神の前に心を開く事です。私たちの信じる神は一度心を開いて神を受け入れたなら、決して私たちから離れないお方です。そして、私たちが神の言葉を守り行って祝福を得て、幸せな道を歩んで欲しいと願っておられます。その神の計り知れない大きな愛を受け取る者となりましょう!決して神の手を自ら離すような愚かな者にならないように心から願います。

※聖書の御言葉は口語訳聖書より引用してます。