”(ひとしずく・セカンドチャンス?-パート4)~イエス様によるしか救いはない~” | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

(抜粋)

からの続きです 

 

セカンドチャンス?-パート4 

 

人に対する裁きと堕天使に対する処罰の違い

 

質問に対する答えを、皆さんにも分かち合いたいと思います。

 参考にしていただければ幸いです。

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 「いったん、死んだら救われるチャンスはないのか?」

ということについては、イエスともノーとも、地上の人が言えるものではないと

私は、思っています。

しかし、もちろん嘆願はできます、神様がそれに対して応えて下さるかどうかは

神様次第です。

 

 しかし、信仰による義は、こう言っている、

 「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。

 それは、キリストを引き降ろすことである。

  また、

 「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。

 それは、キリストを死人の中から引き上げることである。

  では、なんと言っているか。

 「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。

 この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。

 

  すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、

 自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、

 あなたは救われる。

  なぜなら、人は心に信じて義とされ、

 口で告白して救われるからである。

  聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

                               (ローマ10章6-11節)

 

 私達は、その人の救いのために嘆願できますが、

それは、その人がイエス様を信じるかどうかにかかっていて、

それは主とその人によります。

よく「福音を一度も聞かず、イエス様を信じることをしないで、

死んでしまった人は救われるのか?」と尋ねられることがありますが、

イエス様によるしか救いはないと聖書にはあります。

 

コロサイ1:16の聖句にあるように、すべてのもの、すべての人は

「みな御子にあって造られたからである。

 これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られた」

のですから、御子イエスは、福音を聞かずに死んでしまった人の魂を

気遣わないことがあるだろうか? と思うのです。

 

 アブラハムは、金持ちとラザロの間のを行き来させる権威は持っていませんでしたが、

イエス様は、あがないのすべての御計画を終えた後、すべての権威を持たれたのす。

(イエス様は息を引き取られた時、「すべては終った」と言われました)

(ヨハネ19章23節)

 

 イエスは彼らに近づいてきて言われた、

 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

                                (マタイ28章18節) 

 

 恐れることはない。

 わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である。

 わたしは死んだことはあるが

 見よ、世々限りなく生きている者である。

 そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

                      (黙示録1章17、18節)

 

 イエス様があがないのわざを終えた後

「死んだことはある」と言っておられることに留意)、

イエス様は黄泉を持つことになりました。

 

 鍵を持つということは、その門を開いたり、閉じたりできるということです。

死に対しても、誰が死の世界に留まり、

誰が命にあずかるか、それを決める権威を持っているということです。

 

 規則や律法が優先ではなく、聖書も律法も、モーセも、

イエス様のことを言っているのです。

 

 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、

 この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

                           (ヨハネ 5章39節)

 

 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。

 モーセは、わたしについて書いたのである。

                      (ヨハネ5章46節)

 

 私は、この世でイエス様を信じなくても大丈夫と言っているわけではありません。

イエス様を知らないでこの世の霊に従って生きることは、

神様から見たら、死んでいるような状態です。(ルカ15章11節~、エペソ2章1,5節 参照)

 

 しかし、福音を聞かず、あるいは正しい形で福音を教えてもらえず、

イエス様を知る機会を持たないで死んだ人には、

希望がないかというと、違うと思います。

そんなことは、誰も言えないのです。(上記ローマ10章6節~参照)

 

 生と死の鍵、また死とハデスのを持つ方(愛の神)が、

ご自分の造られたひとりひとりの魂を優しく扱われるに違いないと私は信じます。

 

 宗教権威は、自分達の権威を保持するために、

地獄での苦しみを使って人を脅したり、教会に来させようとしてきました。

そして、それが伝統となり、教義となって、神の言葉の真意から外れても、

それを唱えたり、思い込みが強いことがよくあります。

歴史からもわかります。

 

 主は言われた、

 「この民は口をもってわたしに近づき、

 くちびるをもってわたしを敬うけれども、

 その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、

 そらで覚えた人の戒めによるのである。

                    (イザヤ29章13節)

 

 『この民は、口さきではわたしを敬うが、

 その心はわたしから遠く離れている。

  人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。 

 

 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、

 「聞いて悟るがよい。

             (マタイ 15章8-10節)

 

 

他の宗教同様に、権力闘争に教会もしっかりと使われてきました。

これにはまってしまっているのに気づかない人達は、

しっかりと洗脳されてしまっているので、なかなか解毒されないのです。

恐れと束縛の呪文から、真理によって解放される必要があります。(ヨハネ8章32節参照)

(※すべての教会に対してではないことをご了承願います)

 

 人は確かに、神のさばきをそれぞれの行いにしたがって受けることになりますが、

堕落天使と人の対処、また真理に対して心を頑なにしている人と、

知らないで罪を犯していた人では、まったく違います。

 

 愛の神は私達の心を見ておられます。

その涙の叫びに心をとめられます。

主は悔い改めて呼び求める者の声を、また愛の嘆願を軽んじられません。

 

 ユダヤ人とギリシヤ人との(人種の)差別はない。

 同一の主が万民の主であって、

 彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 

 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」

 とあるからである。

                     (ローマ 10章12-13節)

 

 

 イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。

 イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、

 「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 

 

 イエスは手を伸ばして彼にさわり、

 「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。

 すると、らい病がただちに去ってしまった。

                     (ルカ5章12-13節)

 

 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。 

 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、

 「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。

  娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいますと言って叫びつづけた。

 

  しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。

 そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、

 「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。

 

 するとイエスは答えて言われた、

 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。

  しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、

 「主よ、わたしをお助けください」。

  イエスは答えて言われた、

 「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

  すると女は言った、

 「主よ、お言葉どおりです。

 でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 

 そこでイエスは答えて言われた、

 「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。

  あなたの願いどおりになるように」。

 その時に、娘はいやされた。

                (マタイ15章21-28節)

 

 

スロ・フェニキアの女性は、異邦人でした。

イエス様はまずイスラエルの民に最初に福音を伝えることになっていましたが、

異邦人のこの女性が嘆願したため、その信仰にイエス様は応えて下さいました。

彼女の娘は、その母親の信仰による嘆願によって、

イエス様から癒しを頂いたのです。

 

 

イエス様の勝利宣言:

 

 ところで、イエス様が、なぜタルタルーにまでわざわざ行って、

ただ勝利の宣言をされたのか? 

「ほら、見なさい。私が勝者だ! ところであなたには救いはないよ!

 私は父の隣の御座に座ることになっている。ではバイバイ!」

という意地悪な勝利宣言を言うためだったのか??

という疑問が残りますが、

このイエス様の勝利宣言は、すべて、終わりの時において、

私達がイエス様と同じく霊の戦いにおいて勝利するために必要だったという解釈のほうに、

私は傾き始めています。

 

 これらの堕落天使らは、獄につながれていても影響力があります。

悪霊どものボスです。

サタンでさえもこの縛られていた堕落天使(アポリオン)

その手下どもが解放される際に、自分の全ての権威を授けることをします。

黙示録9章1-11節, 黙示録13章2節参照)

今もその最後の招集のために、悪霊どもと悪霊の乗り物役をしている人間たちは、

世界の支配と主イエスの再臨前の最終戦争に備えて忙しく働いています。

(次から始まる「来たる艱難期:未来の歴史 黙示録」シリーズで詳細)。

 

 その力は黄泉の淵タルタルソ)から来る影響力です。

私達は、イエス様の勝利の宣言を信じて、それらの霊どもとその影響力を縛る、

つなぐ必要があるのです。

イエス様は、すでに勝利され、私達はそのイエス様の権威をもって

黄泉の力を封じることができるのです。

 

 よく言っておく。

 あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、

 あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。

 また、よく言っておく。

 もしあなたがたのうちのふたりが、

 どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、

 天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。

 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、

 わたしもその中にいるのである」。 

                 (マタイ 19章18-19節)

 

 

 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。

 そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、

 あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

                           (マタイ16章19節)

 

 イエス様はどうして死と黄泉の鍵を持っているのでしょう?

死も黄泉も消滅してしまう時がきます。

至福千年の後、火の池に投げ込まれることになります。

とすると、(私達が信じているように)主の再臨が間近であれば、

この死とハデスの鍵はわずか千年そこそこの間しか使わないでしょう。

なぜなら、死はなくなり、黄泉(ハデス)にいた人達はそこから全部出されて、

死もハデスも火の池(ゲヘナ)に投げ入れられるからです。

 

これは私の意見ですが、

 至福千年の最中においても、ハデスに行った死人が、

 イエス様の身代わりの死による赦しを信じ受け入れて、

 そこから救われる人がいるようになるのではないかと思っています。>

 

(抜粋おわり)

 

※私もそう思います!Amen

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過去記事の「ひとしずく」も、どうぞお役立てくださることをおすすめします

 

右差しはじめての方へ | 休息と癒し (kyusokutoiyashi.jp)

 

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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方、

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夕べ寝る前に空を見上げたら、朧月夜が綺麗でしたキラキラ

今日は満月ですね満月

 

    今朝は曇り空だけど、黄色の花からは元気をもらえますね黄色い花

    

 

 

アスファルトじゃない道を見つけると、ちょっと嬉しくなる音符

 

 

 

 

 

 

       

        ピンク薔薇*:..。o○☆゚・:,。*赤薔薇

 

 

 

                   お、ロジャー君しっぽフリフリ

                   

 

 

真っすぐ向かって来てくれて、こんなにお顔をだしてくれたの?

(^_-)-☆ありがとう飛び出すハート      また来るねバイバイ

今日もありがとう~ラブラブ