からの続きです
セカンドチャンス? -パート3
人に対する裁きと堕天使に対する処罰の違い
質問に対する答えを、皆さんにも分かち合いたいと思います。
参考にしていただければ幸いです。
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すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、
首をたれて息をひきとられた。
(ヨハネ 19章30節)
そういうわけで、陰府からの救出は、
イエス様の十字架のあがないのわざの後となるのです。
ラザロと金持ちの話が新約聖書に記されていますが、
当然ながら、この話をイエス様がされていた時には、
まだ御自身の命によるあがないはなされていませんでした。
だからそこに記されている黄泉(=陰府)における金持ちとラザロ、
およびアブラハムには、主のあがないのわざによる救出は記されていません。
しかし、将来にあがなわれて救い出される可能性は否定されていません。
イエス・キリストにあって、すべては存在し、
またイエス・キリストのために存在しているとあります。
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、
位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。
これらいっさいのものは、御子によって造られ、
御子のために造られたのである。
彼は万物よりも先にあり、
万物は彼にあって成り立っている。
(コロサイ 1章16-17節)
万物は主イエスにあって造られたとありますので、
「黄泉(陰府)」も例外ではありません。
御子のために造られたとあるのは、救い主の御わざがそこでもなされ、
神と御子が称えられるためです。
あとで、「死と黄泉のかぎを持つ方」としてのイエスの権威にも触れますが、
まずここでは、上記の旧約の陰府について学んだことを、
「ラザロと金持ち」のイエスの話にある真理をもとにさらに理解していきたいと思います。
ある金持がいた。
彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、
この金持の玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。
その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。
金持も死んで葬られた。
そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、
アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
そこで(金持ちが)声をあげて言った、
『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。
ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、
わたしの舌を冷やさせてください。
わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
アブラハムが言った、
『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、
ラザロの方は悪いものを受けた。
しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、
こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、
そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
そこで金持が言った、
『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、
彼らに警告していただきたいのです』。
アブラハムは言った、
『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
金持が言った、
『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ
行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは言った、
『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、
死人の中からよみがえってくる者があっても、
彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
(ルカ 16章19-31節)
この話から、人の霊は、死んで消滅してしまうものではないこと、
そしてこの地上での人生は、見えない世界において続いているということ、
また自分の人生を振り返ってみることができるように記憶があること、
そして地上での人生の結果と共に生きること、
そしてお金持ちがラザロを識別できたように、お互いを認識できること、
そして神のそれぞれの地上での生き方に対して公平な報いをされるということ、
ある者には慰めが、ある者には苦しみもだえることになることが備えられていること、
またそうしたそれぞれに対する神の報いから、
啓発と学びが次の世界においても継続していることなど、
地上の世界と黄泉の世界の二つの世界をまたいで、
違った人の人生を立体的に見ることから、多くのことを学ぶことができます。
また一つ大切なことは、
自分のことしか考えていなかった金持ちの心に変化が生じていることです。
彼は初め、自分ののどの渇きや苦しみにだけ、思いの焦点が向けられていましたが、
アブラハムから諭されて、自分の兄弟が「悔い改めること」
「彼らが同じ場所で苦しまなくていいように」お願いすることをしました。
これはこの話にでてくる金持ちにとって大きな変化ではないでしょうか?
この話は、アブラハムの言葉で終わっていますが、
その後はどうなったのかということに興味をそそられます。
金持ちは自分の兄弟たちの「悔い改め」の必要性に気づいたのですが、
金持ち自身も、自分の間違い、罪について悔い改めなければならないことに
遅かれ早かれ気づくことになったことでしょう。
主は滅んでしまうよりも、悔い改めて救われることを望まれます。
よく聞きなさい。
それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、
悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、
天にあるであろう。
(ルカ 15章7節)
...主は…ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、
あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
(第二ペテロ3章9節)
黄泉には、ラザロの行ったアブラハムのふところと呼ばれる、
慰めの場所と、金持ちが行った苦しみもだえる場所、
それから大きな淵があることが、イエス様の上記の話からわかります。
そしてラザロと金持ちが行った先の二つの世界には、
大きな隔たりがあって、お互いの行き来はできないと、言っています。
そしてこの話をイエス様は、アブラハムに言わせていることは興味深いです。
先に述べたように、旧約の時代では、
まだあがないのわざがなされていないため、最高の慰めはアブラハムのふところでした。
しかし、どんなに立派で、慰めにふさわしい生き方を貫くことが出来た人でも、
イエス様を信じて罪赦された者、悔い改めて救われた者の迎えられる場所は、
さらに素晴らしいものです。
なぜなら、それはアブラハムのふところではなく、
イエス様のふところだからです。
バプテスマのヨハネについて、イエス様はこう言われました:
あなたがたによく言っておく。
女の産んだ者の中で、 バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。
しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
(マタイ11章11節)
イエス様からも、大きな人物と言われるほどのヨハネでも、
最も小さな者(救われて天国に入れる)の方がもっと偉大だということは、
イエス様によって救われるということが
人間にとって非常に大きなことであるということです。
まさに天に行けるための鍵、門、入口、ということです。
ひとりでも滅びることを望まない方が
黄泉、そして獄であるタルタルーに行かれた時、
ただ「勝利を宣言」されただけで、救いのチャンスを与えなかったかというと、
私は疑問に思います。
この際に、タルタルーにつながれていた堕天使と、
黄泉の苦悶の中で悔い改めの必要性を実感し始めている者への対処は
異なるだろうと思います。
(勝利の宣言については、後で述べます)。
パート4に続く
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「サタンの反乱」シリーズ パート①から読まれたい方は
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ラザロと金持ちの話は、とても興味深いですね
「死んだらおしまい、だから生きているうちに何をしてもいい」
なんて言えなくなります
私はまだ死んだことないので、それを証明できませんが
聖書が証明していることで、知ることができるのは
神様の愛ですね
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、
救にあずかるわたしたちには、
神の力である。
(第一コリント1:18)
感謝します
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(2019年7月ももちゃん)ももちゃんもイエスさまのふところでおやすみ
今日もありがとう~