sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

「 質問と答え」<Q&A-11> 

 

燃えるような試練のただ中における信仰と励まし<1> 

(Faith and Encouragement in the midst of Fiery Trials) <抜粋翻訳> 

          https://ichthys.com/mail-faith%20and%20encouragement.htm 

           

質問#1: 

ボブさん、こんにちは。 

私の質問はルカ22章32節ついてです。イエスがペテロのためにされたように、

私たちは互いの信仰が失われないように祈ることができるのでしょうか。 

 

返信 #1: 

この節、ルカ22章32節についてですが、

一方では、私たちは明らかにイエスと同じ段階にいるわけではありません。

他方で、私たちは自分の生活とキリスト者としての歩みにおいて、

キリストに倣うよう命じられています。

ヨハネ13章15節第一コリント11章1節第一ペテロ2章21-25節;マタイ16章24節参照。

またリンク参照:ペテロ・シリーズ#17:「キリストに倣うこと(ImitatingChrist)」) 

 

また、イエスは、御霊が彼らの上に下るとき、十二人がさらに「より大いなること」

行うようになると語られました。ヨハネ14章12節;同15節以降参照)

しかしながら、例えば世の光であるイエス

盲人の視力を回復させた唯一のお方でもあります。

ですから、この点についてあなたが疑問を持つのはもっともだと思います。 

 

さらに、信仰は、あらゆる個人の自由意志にとって非常に基本的なものです――

実際、ある意味では、信仰は自由意志そのものであるとさえ言えるかもしれません。

したがって、もし私たちが主に対して、他の人の自由意志を無効にするよう

求めているのであれば、その祈りは、おそらく「実現する」ことはないでしょう。 

 

それでも、他の人の自由意志を実際に取り去ることに至らない範囲であれば、

祈りの正当な対象となり得ます。

神は、ご自身の子どもたちの人生の中で、(そして、そうなることが定められている人々の

人生の中でも:第一ペテロ1章2節;ガラテヤ1章15節第一テサロニケ2章13節参照)

私たちの態度、考え方、言葉、行動、決断などを良い方向へと変えさせる仕方で、

常に介入しておられます。 

 

影響が過度なものでない限り、そのような影響は正当である可能性が高いと思います。

これは、人間として私たちが考えがちなこととは反対に、

神に向かうかどうか、また神と共に歩み続けるかどうかという

基本的な選択の背後にある意志は、私たちが思う以上に、

私たちの本質的なあり方の中に深く据えられているからであると思います。

ルカ16章31節参照) 

 

このことは、第一ヨハネ5章16節が、「死に至らない罪」にある人のために祈ることと、

「死に至る罪」が関わっている場合とを区別している理由を説明するでしょう。

実際、この場合は、あなたの質問に直接当てはまります。

前者の場合、信者は罪によって霊的な困難に陥っていますが、

まだ信仰を失ってはおらず、十分に回復可能な状態にあります。

そのような場合には、祈りはきわめて適切です。 

 

しかし、すでに信仰が失われている場合があります。

すなわち、その人が罪によって「信仰を死に至らせてしまった」場合です。

そのような場合には、祈りは無意味であり、また勧められるものではありません。 

 

この原則に基づき、そして上の議論に照らして言うなら、はい、

確かに祈ってよいと言えるでしょう。

 その人が、かたくなな背教へと陥ってしまっていない限り、

あなたは決して時間や祈りを無駄にすることにはなりません。 

 

イエスは、ペテロが自分の重大な失敗の直後に、

大きな霊的危機を通ることを知っておられました。

しかし、私たちは他の人の信仰の危機について、それが起こる前に知ることはできません。

私たちは、それが進行している時に見るか、あるいは背教した人々の場合には、

その結果として見ることができるだけです。

後者については、できることはほとんどありませんが、

前者については、最も心を込めた祈りをささげるに十分値するものです。 

 

次のリンクも役立つかもしれません: 

・戦いの中における勇気 

・燃えるような試練のただ中における信仰 

・励まし、イザヤ6章11-13節、および悔い改めの希望 

・キリスト者の苦しみの中での励まし 

・励ましを必要としているとき 

・信仰の勝利 

・神はなぜ悪いことが起こるのを許されるのか 

・絶望し孤独を感じているとき 

・キリスト者の苦しみと霊的成熟 

・神の時を待つこと:試練の中での忍耐 

ペテロの手紙:個人的な艱難に対処すること 

 

私たちの忠実な主イエス・キリストにあって。 

BobL. 

 

 

質問 #2: 

ボブ兄弟、こんにちは。 

しばらくぶりにお便りします。あなたがお元気であることを願っています。

いつものように、あなたは主が私を導いてくださる質問の行き先となっています。 

 

私には、男性の小グループにいる友人がいます。

彼はキリストを受け入れ、祈り、人々のために良いことをし、教会にも通っています。

彼は失業しており、体重過多で、身体的な痛みも抱えています。 

 

彼は自分の「個人的な関係(神との関係)について不満を感じています。

彼は自分の感情や状況に頼っており、「神はどこにおられるのか」

自分に問いかけているのだと思います。

彼は私たちと共に、聖書を読み始めたばかりです。

私は、私たちがキリストにあって誰であるのか、また誰に属しているのかということに、

基礎的な支えを与える聖句を通して、彼を導こうとしています。

私は、神のことばが聖霊によって明らかにされることによって信仰が生まれ、

そして信仰は必ずしも見えたり感じられたりするものではないと信じています。

これは彼と主との間のことであり、人が作り出した答えは存在しないことも分かっています。 

 

私たちが彼を励ますためにどのようにできるかについて、

主からの霊的な洞察をあなたが持っておられることを願っています。

この人はとても誠実な人なのです! 

あなたに「難しい質問」をお渡しするのが好きです! 

 

返信 #2: 

お便りをいただけてうれしいです。

「難しい」質問をありがとうございます。これは「難しい」質問です。

なぜなら、それはキリスト者の経験、信仰、そしてキリスト者の生き方の核心に

直接触れるものだからです。

遅かれ早かれ、私たちは皆、「なぜ神よ」「なぜ私なのですか、神よ」

「神よ、あなたはどこにおられるのですか」と問いかけたくなる誘惑に直面します。

もしそうならないのであれば、それはおそらく、私たちが霊的に十分な進歩をしておらず、

悪魔とその手下たちが私たちを価値ある標的と見なしていないことを意味しているでしょう。 

 

しかし、聖別と霊的成長において前進し、他の人々も同様に前進するよう助けるために

自分の奉仕を見出し、それを実行しようと決意しているすべての者は、

必ず反対を受け、困難を経験することになります。

もちろん、私たちは皆つまずき、皆誤りを犯します。

そして同様に、私たちの中で父なる神の懲らしめの御手を知らなかった者は一人もいません。

(そして私たちの多くは、長い回復の期間と継続的な懲らしめを

耐え忍ばなければなりませんでした――例えばダビデの14年間を見てください) 

 

そして、私たちがついに本来向かうべきところに近づいているとき、

私たちが経験している厳しい苦難が重大な罪のためではなく、

本当にキリストの苦しみにあずかるものであると確信できるとしても、

それが必ずしも耐えやすくなるとは限りません――本来はそうであるべきですが、

実際には、真に戦い慣れた老兵(戦いの傷を持つ者でもある)になる地点に至るまでには、

時間と経験と祈りと、多くの聖句と多くの聖書研究(そしてそれらを信じること)が必要です。 

 

そして、たとえそこに至ったとしても、聖書には特に困難な試練に屈してしまった

偉大な信者たちの例が数多くあります。

モーセ、エリヤ、ダビデ、ヨブ、パウロ、ペテロ(最も顕著な例のいくつかを挙げれば)

でさえ、悪魔の攻撃に対して過剰に反応したことがあるのですから、

私たちが霊的な力量について思い上がった自信を持つことを、

どんな場合でも避けなければならないことは明らかです。

(たとえ今のところ物事がうまく進んでいるとしても) 

 

とはいえ、もし私たちの苦難が神の懲らしめに由来する、自ら招いたものであったとしても、

悔い改めた後には、私たちが直面していることが依然として大きな経験となり得ることを

覚えておくことが極めて重要です。

それは忍耐を学ぶ助けとなり、神の恵みによる備えと救いを経験する助けともなります。

たとえ私たちの苦難の多くが自分自身の愚かさによるものであったとしてもです。

(例えば、神がどのようにダビデを通し、彼の信仰を明らかにされたかを見てください) 

 

そして、もし私たちが、前進と有効な奉仕のゆえにサタン的な反対を経験しているなら、

この原則はなおさら当てはまります。私たちが信じたいと思うかどうかにかかわらず、

神の恵みは、神が私たちに耐えるよう求めておられるすべてのことに対して、

本当に十分なのです。第二コリント12章9節

神の力は、私たちが最も弱いときにこそ完全に現されます。

なぜなら、私たち自身のあらゆる資源が尽きたときに初めて、

天の幕を引き裂くような明瞭さをもって、神の愛と力を見ることができるからです。 

 

このような試練と困難の時には、基本的な事柄――目を閉じていても内容について

選択問題に答えられるほど知っている聖句や原則――を思い出さなければなりません。

しかし、それらを生活や経験に適用することは、困難が激しくなるときには

難しいことがあります。

神は、私たちが耐えられる以上のものを負わせることは決してありません。

たとえ、私たちがこれ以上耐えられないと思うときであってもです。第一コリント10章13節)。

神は、私たちの人生のすべてのことを、私たちの最善の「益」

神ご自身のために働かせておられます。(これらは結局同じことです)

たとえ、取り返しのつかない災いを受けていると私たちが思うときであってもです。

ローマ8章28節)。

神は本当に私たちの祈りを聞き、祈りに答え、私たちと私たちの祈りについて

完全に心を配っておられます。たとえ、天が青銅のように感じられ、

神が応答しておられないように思えるときであってもです。ヨハネ14章13-14節)。 

 

私たちはどのようにしてこれらのことを知るのでしょうか。

どのようにして、それらが真実であると確信するのでしょうか。ただ信仰によってのみです。

私たちの目は、これらのことが確かに真実ではないと告げているからです。

私たちの身体は痛みの中で叫んでいるかもしれません。

私たちの人生はあらゆる種類の逆境に直面しているかもしれません。

友人や家族が私たちに背を向けるかもしれません。

私たちは人々の前から追い出され、「屋根の上の一羽の鳥のように」残されるかもしれません。

詩篇102章7節) 

 

しかし、最も暗い夜においても、最も絶望的な状況においても、

私たちの神は私たちと共におられます。いや、神は私たちの内におられるのです。

そのような時にも、神はこれまでと同じように私たちを愛しておられ、

私たちに起こっているすべてのことをよく知っておられます。

それが益のためでなければ、神はそれを許されません。

私たちが本当に耐えられないものであれば、神はそれを認められません。

そして神は私たちの助けを求める叫びを聞いておられ、必ず答えてくださいます――

しかし、それは神の時において、神の栄光のために、そして私たちの真の益のためにです。

(私たちが望む時や方法や目的に従ってではなく) 

 

私たちは、注射を受けるために医者に行くことが良いことであると

理解できない小さな子どものようなものですが、愛する親はそれを理解しています。

同じように、私たちの愛する神であり父であるお方は、

私たちが理解できなくても理解しておられます。

そのお方は、私たちを深く愛しておられたゆえに、ご自身のただ一人の愛する御子を

この世に遣わされました。

御子は、いかなる人間も経験したことのないほどの痛み、苦しみ、悲しみ、

困難を経験され、(しかも、その多くは私たちがまだ十分には理解していない方法によって)

さらに十字架の上で私たちの代わりに死なれ、世が始まる前から御子を愛しておられた

父に見捨てられ、私たちすべての罪の罰をその身に負われたのです。 

 

信仰だけが、私たちが見ることのできないこれらのことを確信をもって知る道です。

へブル11章1節以下; 第二コリント4章18節;5章7節参照)

しかし、私たちが目に見えるものを否定し、代わりに信仰によって歩むとき、

御使いたちは喜び歌い、私たちは以前よりも強くなります。 

 

私たちの誰も、痛みや苦しみや敗北や喪失などを選びたいとは思いません――

それは当然のことです。

しかし、この世界がエデンの園ではないこと、

そしてイエス・キリストのための生き方を選ぶすべての者が試され、反対されることを、

私たちは受け入れなければなりません。極度の試練に耐えることは難しいことです。

愛する人が同じように苦しむのを見ることも難しく、

完全な救いがすぐに与えられないことも難しいことです。

そして最後に、神が与えてくださる勝利を報告したいと願っていても、

その勝利を長く待っているように思えるときには、それもまた難しいことです。 

 

しかし、圧迫の下で忍耐して耐え続けること、同様に試されている人々を励ますこと、

そして世界が不可能だと考える勝利を待ちながら、目に見える結果ではなく神を誇ること――

これこそが真に神を栄光するものです。

なぜなら、私たちが神を賛美し、私たちの信仰希望が、

物質的で目に見える状況に基づくものではないことを行いによって示すとき、

私たちは人と御使いの世界の前で、私たちの信仰希望が本物であること、

イエスが私たちのいのちでありすべてであることを明らかに示すからです。

たとえイエスに忠実であり続けることが、

私たちのいのちとすべてを失うことを意味したとしてもです。

なぜなら、私たちはこの側にある塵から成るものではなく、

向こう側にあるより良いものを待ち望んでいるからです。 

 

最終的には、私たちの愛を示し、慎み深く注意深く兄弟姉妹に真理を思い起こさせることを

超えて、この戦いは個人ごとに戦われなければならないものです。

私たちは助けることはできますが、誰もが自分自身の決断をしなければなりません。

私たちは皆、自分自身の限界に達する地点に至らなければなりません。

そこが、神に対する最も深い理解が始まる場所だからです。 

 

このことが起こるためには、最初にある程度の霊的成長が必要です。

そして危機が現実となったとき、私たちは、聖書から、聖書研究から、

そしてその真理を信じ適用することから得てきた一つ一つの真理に対して、

深く感謝するようになるでしょう。 

 

しかし、この過程が、自分自身にとっても、また他の人々にとっても、

痛みを伴うものであるとしても、それが神に栄光を帰し、

同時に私たちを神にとって有用な者とするような霊的成長を達成するために、

絶対に必要であることを、私たちは神から知らされています。

それは成長の事柄であり、栄光の事柄であり、そして時を超えて残る報いの事柄です。 

 

 兄弟たちよ。さまざまな試練に会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

 あなたがたの信仰が試されることによって、忍耐が生じることを、

 あなたがたは知っているからである。

 その忍耐を完全に働かせなさい。

 そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、完全で成熟した者となる。

(ヤコブ1章2-4節) 

 

この答えが、あなたと、私たちの兄弟にとって助けとなることを願っています。

いつもあなたの親切で支えとなる言葉に感謝しています。 

 

私たちの内におられ、決して私たちを見捨てられないイエスにあって。 

Bob L. 

 

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ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

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   なお、あなたがたは時を知っているのだから、

   特に、この事を励まねばならない。
   すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。
   なぜなら今は、わたしたちの救が、

初め信じた時よりも、
   もっと近づいているからである。

 (ローマ13:11)

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

庭のシランも咲き始めました

 

 

 

*:..。o○☆゚・:,。*

 

 

昨日、新潟の兄から筍が届きました音符 雨の中をお疲れ様でした雨

美味しくいただきます割り箸

ありがとう~飛び出すハート

 

今日から5月

雨の始まりとなりました☔

今月もよろしくお願いします

 

 

きくらげも、たけのこみたいにゃ

今日もありがとう~ラブラブ                         

 

からの続きです

 

質問と答え<Q&A-10> ~終末論に関する諸問題

 

 https://ichthys.com/e-mails.htm 

からの抜粋訳 [2026年4月25日掲載] 

 

質問 #1: 

それでは、イザヤ59章19節(口語訳)について、洪水のように来るのは主の霊ではなく

「敵」であるとあなたは考えておられるのですよね。

確認したかっただけです。

自分でもインターネットで調べてみましたが、大多数はそれとは別の解釈

「サタンよ、退け」といった理解)を支持しているようです。

あなたの働きに感謝します。 

 

返信 #1: 

はじめまして。励ましのお言葉をいただき、誠にありがとうございます。 

 

  敵が洪水のように押し寄せるとき、主の霊が彼に対して旗を掲げられる。

(イザヤ59章19節後半/KJV訳) 

 

イザヤ59章19節の後半のヘブル語はכִּי־יָבוֹא כַנָּהָר צָר רוּחַ יְהוָה נֹסְסָה בוֹ

(キー・ヤーヴォー カンナーハール ツァールルーアハ ヤハウェ ノセサー ヴォー)

とあります。ここで鍵となる語は tsar(צָר)(ツァール)<敵>です。

 

KJV訳<欽定訳>はこの語(ツァール)を名詞、すなわち文の主語と見ており、

「川」の修飾詞ではないと解釈しており、この点で正しいと考えられます。

この語(ツァール)「川」の修飾詞として理解することも不可能ではありませんが、

それはかなり無理のある読み方です。

なぜなら、そのような用法はヘブル語の他の箇所に同様の用法が見られず、

またこの節の自然な読み方(すなわちKJV訳の読み方)にも反しているからです。

そしてこの自然な読み方は、直前でメシア「敵に怒りをもって報い、仇に報復される」

イザヤ59章18節と描かれているという文脈にもよく適合しています。

また「洪水のように押し寄せる」という描写は、

ハルマゲドンにおける敵軍の行動として他の箇所にも見られます.

イザヤ8章6–8節;ダニエル9章26節,ダニエル11章22節〔ヘブル語〕)

したがって私の訳は次のとおりです。 

 

 (すなわち反キリストが大河のように(すなわちナイルまたはユーフラテス川のように

ダニエル11章22節11章26節参照)攻め寄せて来ても、主の霊を退けられる。

(イザヤ59章19節後半) 

 

イエス・キリストにあって 

BobL. 

 

質問 #2: 

Bob先生、こんにちは。 

主にあってすべてが順調でありますようお祈りしています。

 

私は先日、「来たる艱難期第三部A:艱難期の始まり」をもう一度読んでいて、

先生が説明しておられた

「艱難期において、前の三つの聖句に見られるサタンの影響に対して

不信者がより影響を受けやすくなることを、将来神が許容されること」

という主題について、いくつか確認させていただきたいと思いました。

その前の三つとは第二テサロニケ2章7節;第一ヨハネ4章6節,第一ヨハネ4章3節です。 

 

それで、第二テサロニケ2章11節にある、この惑わす力を送られる神の働きは、

不信者に臨むとのことですが、他の箇所で先生は、

来るべき大背教について教えておられる際、戦う地上の教会の信者の三分の一が堕落し、

残りの三分の二を裏切るだけでなく、反キリストにも従うようになると説明しておられます。

すると、本当の信者も、不信者と同じように、

この『惑わす力』を許される神の働きの影響を受けることになるのでしょうか。 

 

返信 #2: 

私は、この惑わす力は、たとえ以前は「信者」であったとしても、

現在不信者となった者たちには影響を及ぼすのだと考えます。

反キリストに従う者、獣の刻印を受ける者はだれであっても、

その定義上すでに背教に陥っており、もはや信者ではなく、

不信者の状態に戻ってしまっているからです。 

 

  (8) その時、不法の者(すなわち反キリストが現れる。

 その者を主イエスは御口の息によって滅ぼし、

 その栄光の来臨によって打ち滅ぼされる。

 (9) この不法の者の出現はサタンの働きによるものであり、

 あらゆる偽りの奇跡と、しるしと、不思議を伴い、

(10) また滅びに向かう者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴う。

 彼らが滅びるのは、救われるために真理への愛を受け入れなかったからである。

(11) それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、誤りの力を彼らの上に送られる。

(12) それは、真理を信じず、不義を喜んだすべての者がさばかれるためである。

第二テサロニケ2章8–12節) 

 

当然ながら、上で強調した部分を読むと、私たちはそれを未信者のことだと理解し、

かつて信者であった者がその時点で不信者の状態に戻ってしまっているということまでは、

すぐには思い至らないかもしれません。

しかし、そのような者たちも当然そこに含まれると考えられます。

なぜなら、彼らもその時点では未信者だからです。

もしこれをさらに明確にしようとすれば、

パウロは脚注でも付けなければならなかったでしょう。

しかし、その必要はありません。

背教した信者は、主から特別な配慮を受けることはありません。

むしろその逆なのです。 

 

(20)もし私たちの主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって、

 この世の汚れから逃れた後で、再びそれらに巻き込まれて打ち負かされるなら、

 その人たちの終わりの状態は、初めよりも悪くなる。

(21)彼らにとっては、義の道を知ってしまった後で、

 自分たちに委ねられた聖なる戒めから背を向けるよりは、

 最初からそれを知らなかった方がよかったのである

(22)彼らの場合、「犬は自分の吐いた物に戻り、洗われた豚は泥の中に転がる」

 ということわざが当てはまるのである。

第二ペテロ2章20–22節) 

 

もし私があなたのご質問の要点を取り違えているようでしたら、

どうぞ遠慮なく再度お書きください。 

 

イエス・キリストにあって 

BobL

 

質問 #4: 

ご返信ありがとうございます。とてもすばらしいものでした。 

もう一つ質問があります。

数年前に「Release YourUnlimited Creativity」というウェブサイトを見つけました。

その中にエデンの園についての記事があり、長文でありお忙しいことは承知しておりますが、

先生のご意見をお聞きできればと思いました。 

 

多くのエリートたちは、

サタンは私たちをマトリックスから解放する助けとなる解放者であると信じているようです。 

こちらがその記事です: 

https://www.ryuc.info/common/recreating_oneself/revisit_garden_of_eden.htm 

 

もしお時間がありましたら、ご見解をお聞かせいただければ幸いです。 

お時間と励ましをありがとうございます。 

 

 

返信 #4: 

ありがとうございます。 

私は、他の人々の長いインターネット記事(OPW:other people's work〔他人の著作物〕)

を読んで内容を整理する時間的余裕がありません。 

 

もし特定の引用文について具体的な質問があるのであれば、

たとえばその箇所を挙げていただければ、喜んでお答えします。 

悪魔が何らかの助けになると考える人は、非常に恐ろしい思い違いに陥っています。 

 

「あなたがたはあなたがたの父である悪魔から出た者であり、

 あなたがたは自分の父の欲望を行おうとしている。

 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいない。

 彼のうちには真理がないからである。

 彼が偽りを語るときは、自分の本性から語っているのである。

 彼は偽り者であり、偽りの父だからである。」

ヨハネ8章44節/NIV) 

 

悪魔はただ偽りを語るだけです。

彼はただ私たちに害と滅びをもたらそうとするだけです。

彼は絶えず信者を訴える者であり、決して私たちの益を求めているのではありません。

リンク参照)

このようなグノーシス的またはサタン的な事柄に関わることは、

信仰の崩壊へと非常に速く至る道であり、最終的には火の池に至ることになります。

(救われるのは信者だけだからです) 

 

したがって、このような人々や思想からは、できるだけ遠く離れているよう、

強くお勧めします。 

 

イエス・キリストにあって 

BobL. 

 

質問 #5: 

Robert先生、ありがとうございます。お時間を割いてご返信くださり感謝しています。

インターネット上でこのような事柄について語っている方々の中で、

先生が最も優れた方だと思っています。 

 

実は、私は敵対者から非常に強い攻撃を受けています。

目に見えない悪霊のことを言っているのではありません。

イルミナティの黒魔術師たちのことです。彼らの力は信じられないほどです。 

 

たとえば、私は「Antica Farmicita」という香水を買いました。

この二つの言葉の中に「ant farm(アリの巣)が見えるでしょう。

ある朝目が覚めると、カーペット敷きの寝室の床の隅々までアリで覆われていました。

バスルームの硬い床に来たアリはすべて退治しましたが、

仕事に遅れそうだったのでシャワーを浴びなければなりませんでした。

シャワーから出ると、バスルームの床に残っていた死んだアリ以外、

すべてのアリが消えていました。 

 

また別の夜、眠れず、「turn around(振り向け)という歌詞が頭の中に浮かんでいました。

ベッドの中で寝返りを打つと、小さな冷蔵庫が180度回転していました。

その日は一日中誰も部屋に入っておらず、寝たときには普通の向きだったのです。 

 

彼らは私の思考を読み、私の考えを他の人に伝えています。

そのため、嫌がらせを受けているのでソーシャルメディアをやめざるを得ませんでした。

誰かが投稿した写真について心の中で思ったことを、言葉でも書き込みでも

一切伝えていないのに、翌日その人が私のページに不審なコメントを

書いてきたことがあります。

その人はそれまで一度も私とやり取りしたことがありませんでした。 

このような例は他にもたくさんあります。 

なぜ神が、ある人が他人の思考を読むことを許されるのか、理解できません。 

私は決して気が狂っているわけではありません。 

 

返信 #5: 

「インターネット上で最も優れた人」というお言葉についてですが、ありがとうございます。

ただ、それは「できの悪いグループの中でいちばん賢い子」と呼ばれるようなものですが。 

 

はっきり申し上げますが、誰もあなたの思考を読むことはできません。

しかし、人はあなたがしていることを見たり、

話していることを聞いたりすることができます。

そして、もしあなたの言動を観察したり聞いたりできるなら、

あなたがどのような状態にあるか、何を考えているかを推測するのに

特別な才能は必要ありません。

したがって、悪霊たちはあなたや私たちについて情報を集めることに困難はありません。

(実際、彼らは常にそうしています。それは彼らの主人が主の前で私たちを訴えるためです

黙示録12章10節;参照. ヨブ記1章6–11節,2章1–5節参照) 

 

私の助言はいつも同じです。

霊的な問題から抜け出す唯一の道は、罪の告白悔い改め

(私たちは皆、日々それを必要としており、それゆえ主の祈りの中にも含まれているのです)

に続いて、継続的な霊的成長を行うことです。

それこそが「悪魔に立ち向かう」唯一の道です。

そして、もし私たちが御霊と神のことばの真理に耳を傾けるようになるなら、

悪魔は「私たちから逃げ去る」ことになるでしょう。 

 

 だから神に従いなさい。

 そして悪魔に立ち向かいなさい。

 そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去る。

ヤコブ4章7節/NKJV) 

 

そして覚えておいてください。悪霊悪魔も被造物です。

彼らは強力ではありますが、それは相対的なものに過ぎません。

彼らは神ではありません――まったく神には及びません。

もしあなたがイエス・キリストを信じる信者であるなら、

聖霊があなたの内に住んでおられます。ローマ8章9節

そして聖霊です。

神の力に匹敵するものは何一つありません。 

 

 子たちよ、あなたがたは神から出た者であり、彼らに打ち勝ったのである。

 あなたがたの内におられる方は、この世にいる者よりも大いなる方だからである。

第一ヨハネ4章4節/NKJV) 

 

イエス・キリストにあって 

BobL. 

 

質問 #6: 

彼らが私の思考を読み、それを他の人々に伝えているのは事実です。

私はそれを神とどう結びつけて理解すべきかを考えています。

私の元配偶者は世界でも有数の富豪の一人です。

__は私たちとしばらく一緒に住んでいました。

イルミナティが実在し、彼らが非常に強力な黒魔術師を持っていることは事実だと

確信しています。 

 

これは、神がアダムとエバに

「知識の木から取って食べてはならない、そうすれば神のようになる」

と言われた意味だと私は思っています。 

 

イエスは、隠されているものは何一つ隠されたままではいないと教えられました。 

繰り返しますが、私はこの事実を神とどう結びつけて理解すればよいのか分からないのです。 

私は医師の診断も受けており、統合失調症でもそれに近い状態でもありません。

誰も私を信じようとしませんが、これは起きていないのだと信じるように

私の考えを変えることはできません。 

 

お時間を割いてこの問題に向き合ってくださり感謝します。

私は先生の言葉と知識を高く評価しています。 

 

返信 #6: 

「イエスは、隠されているものは何一つ隠されたままではいないと教えられました」

という点についてですが、

「隠されているものが明らかになる」というのは、

やがて私たちの生涯がすべて明るみに出される来世における主のさばきを指しています。 

もちろん、主に対して隠されているものは何一つありません。

主は神だからであります。

しかし、悪霊は私たちの思考を読むことはできません。

 

私たちはしばしば他人にとって「開かれた本」のような存在であり、

また悪霊と関わりのある者たちが、私たちの言ったことやしていることについて

知らされることがあるとしても、私たちの魂の中に入り込める窓は、主以外には存在しません。イエス・キリストを信じる信者にとってはなおさらです。

私たちの内には聖霊がおられます。

そして聖霊悪霊と関わりを持つことは決してありません。 

 

主にとって不可能なことは何一つありません。

しかし結局のところ、どれほど強力であっても、悪魔はあくまでも被造物にすぎません。 

 

イエスは私たちをご自分の従う者として平和へと招いておられます。

そして私たちは心を尽くしてその平和を受け入れるよう努めるべきです。 

 

 わたしはあなたがたに平安を残していく。

 わたしの平安をあなたがたに与える。

 それは世が与えるものとは異なる。

 あなたがたは心を騒がせてはならない。

 また恐れてはならない。

(ヨハネ14章27節) 

 

イエス・キリストにあって 

BobL. 

 

<Q&A-11>に続く下差し

 

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 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、

あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。

もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、

その人はキリストのものではない。
 

 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、

からだはのゆえに死んでいても、

霊はのゆえに生きているのである。

(ローマ8:9~10)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

もっともっとあなたの愛に触れ

あなたを知ることが出来ますように

御霊を通して、霊の目が開かれ

あなたの光で溢れますようにキラキラ

 

お祈りしますお願い

 

 

 

 

 

 

釣鐘水仙(ツリガネスイセン)

 

 

 

*:..。o○☆゚・:,。*

今日で4月も終わりますね

ようやく、リビング生活から二階の自分の部屋に戻ろうと思います

長かったような、時間が止まっていたような…

特別の時間を過ごせたことに感謝します飛び出すハート

 

 

きくらげ 目を開いて見てるのねキラキラ

今日もありがとう~ラブラブ

 

からの続きです

 

質問と答え<Q&A-> ~重ねられる祈り ~

 

            https://ichthys.com/mail-cumulative%20prayer.htm 

            ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋引用 

 

質問: 

こんにちは、ボブ。 

複数の人が一人のために祈る場合、それはどのように影響するのでしょうか。

言い換えると、主はそれをどのように見ておられるのでしょうか。

私はこれまで他の人のために祈ってきましたが、

それが主の御前でどのようにその人の益となるのか、よく分かりませんでした。 

 

返信: 

これは非常に良い質問であり、私自身もかなり考えてきたことです。

祈りは、私が現在資料を集めている主題の一つでもあります。

(いずれ「聖書の基礎」シリーズで扱う予定です)

 

私はこう信じています。

キリスト者の口から出る義なる祈りはすべて聞かれており、

何らかの形で必ず答えられているのです。

しかし、多くのことと同様に、その詳細については私たちには分かりません。

私たちの周囲で渦巻いている目に見えない霊的戦いを見ることができないのと同じように、

私たちが天に向かって放つ一つ一つの「ミサイル(祈り)」が

どのような具体的影響を与えているのかを知ることもできません。

 

しかし、確かに影響はあるのです。

黙示録8章3–5節にある「聖徒たちの祈り」

大切に蓄えられており、その時に一斉に答えられます。

そこでは確かに艱難期のさばきに関する特定の祈りが扱われていますが、

この箇所は、すべての信者の祈りが考慮されていることを示唆しています。

 

またもちろん、祈りが答えられることについての多くの約束もあります。

(例:ルカ11章5–13節

ある人々は神の御前で特に大きな影響力を持っており、

その祈りは特別な重みを持ちます。

ダニエル9章23節; ヤコブ5章16–18節

そして、多くの人が同時に祈ることについては、

使徒行伝12章1–17節でペテロが牢から解放されたのが、

ちょうど教会が彼のために共に祈っていた時であったことが記されています。

またパウロも、特に積み重なる祈り(累積的な祈り)を通して

互いに支え合うことの重要性を強調しています。

第二コリント1章11節;同9章12–14節参照) 

 

したがって、どれほど小さく、短く、弱々しい祈りであっても、

それは聞かれ(そして答えられ)ますが、

同時に、祈りを「より効果的」にする要素があることも確かです。

たとえば、 

 

複数の人が祈ることマタイ18章19節) 

粘り強く祈り続けることルカ18章1–6節) 

祈る人の義ヘブル5章7節参照) 

断食ダニエル9章3節参照) 

 

これらすべてには、祈りに「重みが加わる」効果があると言えるでしょう。

こうしたことを聞いて、特定の祈りが答えられるためには

多くの要素が必要なのだと考えて落胆する人もいるかもしれません。

しかし、それは物事を逆に見ていると思います。

祈りが答えられることが、より大切で、より重要で、より困難であるほど、

私たちは待つことを通して信仰が鍛えられ、築き上げられ、

そして答えられたときには、

神に対していっそう深い感謝を抱くようになるのです。 

 

そもそも、私たちがイエスを信じた後もこの世に留められている主な理由の一つは、

信仰を築き上げ、信仰を証明し、信仰を示すためです。

待つことなく、主を信頼する必要がなければ、これは決して起こらないでしょう。

(もしすべての祈りがすぐに、私たちの思った通りに答えられるならば) 

 

イスラエルの民は、神の御手が紅海を分け、

彼らを滅ぼそうとしていた敵を打ち倒すという、

非常に驚くべき出来事を目の当たりにしました。

そして彼らは主を恐れ、主を信じました。

出エジプト14章31節

しかし、そのわずか数日後には疑い、不平を言っていたのです。

出エジプト15章22–26節

この有名な否定的例(パウロも第一コリント10章で祈りに関連して言及しています)

とは対照的に、私たちは、神が決して私たちを見捨てず、

常に私たちの最善を考えておられるという視点を持たなければなりません。

(肉の目にはそう見えなくても) 

 

私は確信しています。

もし私たちが知識においても、信仰においても、

キリスト者としての歩みにおいても完全であったなら、

私たちの祈りはエリヤやダニエルやモーセの祈り、

さらには主ご自身の祈りのように効果的であったでしょう。

なぜなら、その時には神の御心に完全に一致して祈ることになるからです。

もちろん、私たちは完全ではありません。

ですから、私たちの「打率」はダビデやパウロほど高くはありません。

しかし私たちは祈り続けなければなりませんし、

同時に祈りの質を高める努力もし続けるべきです。

そして、他のキリスト者たちも同じように私たちのために祈ってくれていること、

そして一つ一つの祈りがすべて意味を持っていることを覚えておくべきなのです。 

 

これらのリンクもぜひご覧ください: 

 

「主の祈り」 

ゲッセマネにおけるイエスの祈り(聖書の基礎第4部A: イエス・キリストについての研究) 

祈りは天からささげられることがあるのか?<英文> 

霊的成長の要素としての祈り(ペテロ・シリーズ#17の15頁「7.祈り」の項参照) 

共同の祈り:『地上で二人が心を合わせるとき』」 

信仰が弱りつつあるときのための祈り<英文> 

祈りにおいて聖なる手を上げること<英文> 

呪いを求める祈り(インプレカトリー・プレイヤー)<英文> 

イエスの御名によってささげる祈り<英文> 

知恵を求める祈り:ヤコブ1章5節<英文> 

祝福・呪い・祈りと神のみこころ<英文> 

父なる神への祈りの道と、私たちのためのキリストのとりなし<英文> 

 

私たちの祈りを聞き、私たちをいやしてくださるお方、 

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの御名によって 

出エジプト記15章26節)。 

 

Bob L. 

 

<Q&A-10>に続く下差し

 

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 キリストは、その肉の生活の時には、

激しい叫びと涙とをもって、

ご自分を死から救う力のあるかたに、

祈と願いとをささげ、

そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。

(へブル5:7)

 

感謝します

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今朝は曇り空

なんとなく遅く起きたけど

11年前に虹の橋を渡った初めての猫

みゅうちゃんの夢を久しぶりに見た

抱き上げたときの感触まで残っているハート

二度寝したら、今度は子供の頃の愛犬チロも夢に出てきた

本当に可愛かった~💕

 

誰かの祈りが夢の中で癒してくれたように思った

ありがとうハート

 

 

きくらげ、じ~っと何を見つめているのかにゃラブラブ

今日もありがとう~ラブラブ