「 質問と答え」<Q&A-11>
燃えるような試練のただ中における信仰と励まし<1>
(Faith and Encouragement in the midst of Fiery Trials) <抜粋翻訳>
https://ichthys.com/mail-faith%20and%20encouragement.htm
質問#1:
ボブさん、こんにちは。
私の質問はルカ22章32節についてです。イエスがペテロのためにされたように、
私たちは互いの信仰が失われないように祈ることができるのでしょうか。
返信 #1:
この節、ルカ22章32節についてですが、
一方では、私たちは明らかにイエスと同じ段階にいるわけではありません。
他方で、私たちは自分の生活とキリスト者としての歩みにおいて、
キリストに倣うよう命じられています。
(ヨハネ13章15節; 第一コリント11章1節; 第一ペテロ2章21-25節;マタイ16章24節参照。
またリンク参照:ペテロ・シリーズ#17:「キリストに倣うこと(ImitatingChrist)」)
また、イエスは、御霊が彼らの上に下るとき、十二人がさらに「より大いなること」を
行うようになると語られました。(ヨハネ14章12節;同15節以降参照)
しかしながら、例えば世の光であるイエスは、
盲人の視力を回復させた唯一のお方でもあります。
ですから、この点についてあなたが疑問を持つのはもっともだと思います。
さらに、信仰は、あらゆる個人の自由意志にとって非常に基本的なものです――
実際、ある意味では、信仰は自由意志そのものであるとさえ言えるかもしれません。
したがって、もし私たちが主に対して、他の人の自由意志を無効にするよう
求めているのであれば、その祈りは、おそらく「実現する」ことはないでしょう。
それでも、他の人の自由意志を実際に取り去ることに至らない範囲であれば、
祈りの正当な対象となり得ます。
神は、ご自身の子どもたちの人生の中で、(そして、そうなることが定められている人々の
人生の中でも:第一ペテロ1章2節;ガラテヤ1章15節; 第一テサロニケ2章13節参照)
私たちの態度、考え方、言葉、行動、決断などを良い方向へと変えさせる仕方で、
常に介入しておられます。
影響が過度なものでない限り、そのような影響は正当である可能性が高いと思います。
これは、人間として私たちが考えがちなこととは反対に、
神に向かうかどうか、また神と共に歩み続けるかどうかという
基本的な選択の背後にある意志は、私たちが思う以上に、
私たちの本質的なあり方の中に深く据えられているからであると思います。
(ルカ16章31節参照)
このことは、第一ヨハネ5章16節が、「死に至らない罪」にある人のために祈ることと、
「死に至る罪」が関わっている場合とを区別している理由を説明するでしょう。
実際、この場合は、あなたの質問に直接当てはまります。
前者の場合、信者は罪によって霊的な困難に陥っていますが、
まだ信仰を失ってはおらず、十分に回復可能な状態にあります。
そのような場合には、祈りはきわめて適切です。
しかし、すでに信仰が失われている場合があります。
すなわち、その人が罪によって「信仰を死に至らせてしまった」場合です。
そのような場合には、祈りは無意味であり、また勧められるものではありません。
この原則に基づき、そして上の議論に照らして言うなら、はい、
確かに祈ってよいと言えるでしょう。
その人が、かたくなな背教へと陥ってしまっていない限り、
あなたは決して時間や祈りを無駄にすることにはなりません。
イエスは、ペテロが自分の重大な失敗の直後に、
大きな霊的危機を通ることを知っておられました。
しかし、私たちは他の人の信仰の危機について、それが起こる前に知ることはできません。
私たちは、それが進行している時に見るか、あるいは背教した人々の場合には、
その結果として見ることができるだけです。
後者については、できることはほとんどありませんが、
前者については、最も心を込めた祈りをささげるに十分値するものです。
次のリンクも役立つかもしれません:
・戦いの中における勇気
・燃えるような試練のただ中における信仰
・励まし、イザヤ6章11-13節、および悔い改めの希望
・キリスト者の苦しみの中での励まし
・励ましを必要としているとき
・信仰の勝利
・神はなぜ悪いことが起こるのを許されるのか
・絶望し孤独を感じているとき
・キリスト者の苦しみと霊的成熟
・神の時を待つこと:試練の中での忍耐
私たちの忠実な主イエス・キリストにあって。
BobL.
質問 #2:
ボブ兄弟、こんにちは。
しばらくぶりにお便りします。あなたがお元気であることを願っています。
いつものように、あなたは主が私を導いてくださる質問の行き先となっています。
私には、男性の小グループにいる友人がいます。
彼はキリストを受け入れ、祈り、人々のために良いことをし、教会にも通っています。
彼は失業しており、体重過多で、身体的な痛みも抱えています。
彼は自分の「個人的な関係(神との関係)」について不満を感じています。
彼は自分の感情や状況に頼っており、「神はどこにおられるのか」と
自分に問いかけているのだと思います。
彼は私たちと共に、聖書を読み始めたばかりです。
私は、私たちがキリストにあって誰であるのか、また誰に属しているのかということに、
基礎的な支えを与える聖句を通して、彼を導こうとしています。
私は、神のことばが聖霊によって明らかにされることによって信仰が生まれ、
そして信仰は必ずしも見えたり感じられたりするものではないと信じています。
これは彼と主との間のことであり、人が作り出した答えは存在しないことも分かっています。
私たちが彼を励ますためにどのようにできるかについて、
主からの霊的な洞察をあなたが持っておられることを願っています。
この人はとても誠実な人なのです!
あなたに「難しい質問」をお渡しするのが好きです!
返信 #2:
お便りをいただけてうれしいです。
「難しい」質問をありがとうございます。これは「難しい」質問です。
なぜなら、それはキリスト者の経験、信仰、そしてキリスト者の生き方の核心に
直接触れるものだからです。
遅かれ早かれ、私たちは皆、「なぜ神よ」「なぜ私なのですか、神よ」
「神よ、あなたはどこにおられるのですか」と問いかけたくなる誘惑に直面します。
もしそうならないのであれば、それはおそらく、私たちが霊的に十分な進歩をしておらず、
悪魔とその手下たちが私たちを価値ある標的と見なしていないことを意味しているでしょう。
しかし、聖別と霊的成長において前進し、他の人々も同様に前進するよう助けるために
自分の奉仕を見出し、それを実行しようと決意しているすべての者は、
必ず反対を受け、困難を経験することになります。
もちろん、私たちは皆つまずき、皆誤りを犯します。
そして同様に、私たちの中で父なる神の懲らしめの御手を知らなかった者は一人もいません。
(そして私たちの多くは、長い回復の期間と継続的な懲らしめを
耐え忍ばなければなりませんでした――例えばダビデの14年間を見てください)
そして、私たちがついに本来向かうべきところに近づいているとき、
私たちが経験している厳しい苦難が重大な罪のためではなく、
本当にキリストの苦しみにあずかるものであると確信できるとしても、
それが必ずしも耐えやすくなるとは限りません――本来はそうであるべきですが、
実際には、真に戦い慣れた老兵(戦いの傷を持つ者でもある)になる地点に至るまでには、
時間と経験と祈りと、多くの聖句と多くの聖書研究(そしてそれらを信じること)が必要です。
そして、たとえそこに至ったとしても、聖書には特に困難な試練に屈してしまった
偉大な信者たちの例が数多くあります。
モーセ、エリヤ、ダビデ、ヨブ、パウロ、ペテロ(最も顕著な例のいくつかを挙げれば)
でさえ、悪魔の攻撃に対して過剰に反応したことがあるのですから、
私たちが霊的な力量について思い上がった自信を持つことを、
どんな場合でも避けなければならないことは明らかです。
(たとえ今のところ物事がうまく進んでいるとしても)
とはいえ、もし私たちの苦難が神の懲らしめに由来する、自ら招いたものであったとしても、
悔い改めた後には、私たちが直面していることが依然として大きな経験となり得ることを
覚えておくことが極めて重要です。
それは忍耐を学ぶ助けとなり、神の恵みによる備えと救いを経験する助けともなります。
たとえ私たちの苦難の多くが自分自身の愚かさによるものであったとしてもです。
(例えば、神がどのようにダビデを通し、彼の信仰を明らかにされたかを見てください)
そして、もし私たちが、前進と有効な奉仕のゆえにサタン的な反対を経験しているなら、
この原則はなおさら当てはまります。私たちが信じたいと思うかどうかにかかわらず、
神の恵みは、神が私たちに耐えるよう求めておられるすべてのことに対して、
本当に十分なのです。(第二コリント12章9節)
神の力は、私たちが最も弱いときにこそ完全に現されます。
なぜなら、私たち自身のあらゆる資源が尽きたときに初めて、
天の幕を引き裂くような明瞭さをもって、神の愛と力を見ることができるからです。
このような試練と困難の時には、基本的な事柄――目を閉じていても内容について
選択問題に答えられるほど知っている聖句や原則――を思い出さなければなりません。
しかし、それらを生活や経験に適用することは、困難が激しくなるときには
難しいことがあります。
神は、私たちが耐えられる以上のものを負わせることは決してありません。
たとえ、私たちがこれ以上耐えられないと思うときであってもです。(第一コリント10章13節)。
神は、私たちの人生のすべてのことを、私たちの最善の「益」と
神ご自身のために働かせておられます。(これらは結局同じことです)
たとえ、取り返しのつかない災いを受けていると私たちが思うときであってもです。
(ローマ8章28節)。
神は本当に私たちの祈りを聞き、祈りに答え、私たちと私たちの祈りについて
完全に心を配っておられます。たとえ、天が青銅のように感じられ、
神が応答しておられないように思えるときであってもです。(ヨハネ14章13-14節)。
私たちはどのようにしてこれらのことを知るのでしょうか。
どのようにして、それらが真実であると確信するのでしょうか。ただ信仰によってのみです。
私たちの目は、これらのことが確かに真実ではないと告げているからです。
私たちの身体は痛みの中で叫んでいるかもしれません。
私たちの人生はあらゆる種類の逆境に直面しているかもしれません。
友人や家族が私たちに背を向けるかもしれません。
私たちは人々の前から追い出され、「屋根の上の一羽の鳥のように」残されるかもしれません。
(詩篇102章7節)
しかし、最も暗い夜においても、最も絶望的な状況においても、
私たちの神は私たちと共におられます。いや、神は私たちの内におられるのです。
そのような時にも、神はこれまでと同じように私たちを愛しておられ、
私たちに起こっているすべてのことをよく知っておられます。
それが益のためでなければ、神はそれを許されません。
私たちが本当に耐えられないものであれば、神はそれを認められません。
そして神は私たちの助けを求める叫びを聞いておられ、必ず答えてくださいます――
しかし、それは神の時において、神の栄光のために、そして私たちの真の益のためにです。
(私たちが望む時や方法や目的に従ってではなく)
私たちは、注射を受けるために医者に行くことが良いことであると
理解できない小さな子どものようなものですが、愛する親はそれを理解しています。
同じように、私たちの愛する神であり父であるお方は、
私たちが理解できなくても理解しておられます。
そのお方は、私たちを深く愛しておられたゆえに、ご自身のただ一人の愛する御子を
この世に遣わされました。
御子は、いかなる人間も経験したことのないほどの痛み、苦しみ、悲しみ、
困難を経験され、(しかも、その多くは私たちがまだ十分には理解していない方法によって)
さらに十字架の上で私たちの代わりに死なれ、世が始まる前から御子を愛しておられた
父に見捨てられ、私たちすべての罪の罰をその身に負われたのです。
信仰だけが、私たちが見ることのできないこれらのことを確信をもって知る道です。
(へブル11章1節以下; 第二コリント4章18節;5章7節参照)
しかし、私たちが目に見えるものを否定し、代わりに信仰によって歩むとき、
御使いたちは喜び歌い、私たちは以前よりも強くなります。
私たちの誰も、痛みや苦しみや敗北や喪失などを選びたいとは思いません――
それは当然のことです。
しかし、この世界がエデンの園ではないこと、
そしてイエス・キリストのための生き方を選ぶすべての者が試され、反対されることを、
私たちは受け入れなければなりません。極度の試練に耐えることは難しいことです。
愛する人が同じように苦しむのを見ることも難しく、
完全な救いがすぐに与えられないことも難しいことです。
そして最後に、神が与えてくださる勝利を報告したいと願っていても、
その勝利を長く待っているように思えるときには、それもまた難しいことです。
しかし、圧迫の下で忍耐して耐え続けること、同様に試されている人々を励ますこと、
そして世界が不可能だと考える勝利を待ちながら、目に見える結果ではなく神を誇ること――
これこそが真に神を栄光するものです。
なぜなら、私たちが神を賛美し、私たちの信仰、希望、愛が、
物質的で目に見える状況に基づくものではないことを行いによって示すとき、
私たちは人と御使いの世界の前で、私たちの信仰、希望、愛が本物であること、
イエスが私たちのいのちでありすべてであることを明らかに示すからです。
たとえイエスに忠実であり続けることが、
私たちのいのちとすべてを失うことを意味したとしてもです。
なぜなら、私たちはこの側にある塵から成るものではなく、
向こう側にあるより良いものを待ち望んでいるからです。
最終的には、私たちの愛を示し、慎み深く注意深く兄弟姉妹に真理を思い起こさせることを
超えて、この戦いは個人ごとに戦われなければならないものです。
私たちは助けることはできますが、誰もが自分自身の決断をしなければなりません。
私たちは皆、自分自身の限界に達する地点に至らなければなりません。
そこが、神に対する最も深い理解が始まる場所だからです。
このことが起こるためには、最初にある程度の霊的成長が必要です。
そして危機が現実となったとき、私たちは、聖書から、聖書研究から、
そしてその真理を信じ適用することから得てきた一つ一つの真理に対して、
深く感謝するようになるでしょう。
しかし、この過程が、自分自身にとっても、また他の人々にとっても、
痛みを伴うものであるとしても、それが神に栄光を帰し、
同時に私たちを神にとって有用な者とするような霊的成長を達成するために、
絶対に必要であることを、私たちは神から知らされています。
それは成長の事柄であり、栄光の事柄であり、そして時を超えて残る報いの事柄です。
兄弟たちよ。さまざまな試練に会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
あなたがたの信仰が試されることによって、忍耐が生じることを、
あなたがたは知っているからである。
その忍耐を完全に働かせなさい。
そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、完全で成熟した者となる。
(ヤコブ1章2-4節)
この答えが、あなたと、私たちの兄弟にとって助けとなることを願っています。
いつもあなたの親切で支えとなる言葉に感謝しています。
私たちの内におられ、決して私たちを見捨てられないイエスにあって。
Bob L.
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shizuku365@proton.meまでご連絡ください。
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なお、あなたがたは時を知っているのだから、
特に、この事を励まねばならない。
すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。
なぜなら今は、わたしたちの救が、
初め信じた時よりも、
もっと近づいているからである。
(ローマ13:11)
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庭のシランも咲き始めました
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昨日、新潟の兄から筍が届きました
雨の中をお疲れ様でした![]()
美味しくいただきます![]()
ありがとう~![]()
今日から5月
雨の始まりとなりました☔
今月もよろしくお願いします
きくらげも、たけのこみたいにゃ
今日もありがとう~












