こんにちは、しゅんすけです。
今日は 自由のアレコレ というお話です。
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大学生~社会人のはじめ頃の話です。
毎日を過ごしながら、自分は自己満足で生きているし、自由に生きていると思っていました。
その自由があまりにも心地よかったから、他の人にも伝えたくなりました。
自由って楽だよ
自由は楽しいよ
って、伝えたくなりました。
だから、まず、自分の生き様で魅せよう、言葉ではなく生き方で魅せよう、そんな感覚でいました。
誰といても、僕は自由に振る舞う。
そんな日々でした。
そんな日々を過ごしていたら、周りの不自由そうに生きてる人にイライラを感じるようになりました。
人が殻に閉じこもっているように感じて、それを外から叩き割ってやりたくなりました。
なんで、僕が日々、自由は楽だと魅せてるのに、そんなに不自由にしてるんだ!
君も自由に生きなよ!
という感じでした。
いわば、自由の押しつけ、強要をしていました。
自分は自由に生きていて、人にもソレを強要していたから、人の不自由にイライラしていました。
僕も、みんなも、自由に生きれれば、もっと日々は楽しくなるのに… なんでだ… !
みたいな、ひどく傲慢でした。
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今にして思えば、当時の自分は、自由に束縛されていました。
自由以外を許せない。
自分に対しても、他者に対しても。
そんな狭い自由に生きていたのです。
【自由でいいんだよ】という耳障りのいい言葉でも、それを強要されたら苦しいです。
だから、人間関係は、少しずつギクシャクしていきました。
自由であってもいいし、不自由であってもいい、それが本当の自由なのに、そんな境地にはなっていませんでした。
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人にはそれぞれ自由があります。
苦しんでいる人を目の前にして、癒した方を知っていれば伝えたくなるかもしれません。
ですが、相手が求めていないのに、癒し方を押し付けても迷惑です。
頭痛の人が、なんとかしたいと思っている時に、頭痛薬を出せば歓迎されるかも知れませんが
頭痛の人が、ほっといて欲しいと思ってるのに、頭痛薬を出しても歓迎されないし
ましてや
頭痛じゃない人に、頭痛薬を出しても、いらないと言われるのは当たり前の話です。
頭痛であっても
なんとかしたいという人もいれば
ほっといて欲しい人もいる。
人には、それぞれ自由があるのです。
こんな当たり前を自覚するようになってからは、確認をするようになりました。
頭痛の人がいたら、頭痛薬あるけどいる?とか
苦しんでいる人がいたら、癒し方知ってるけど、興味ある?とか
相手の気持ちを確認するようになりました。
相手の応えが、いるとか、興味あるとか返事だったら、あげるし、伝えます。
相手の応えが、いらないとか、ほっといてほしい、だったら、それを尊重します。
受け取るも自由、受け取らないも自由です。
こんな当たり前を実践できるようなってきて、ようやく、本当の自由を生きれるようになっていきました。
ネットワークビジネスをやっていた頃は、相手に入会して欲しい、という気持ちが強すぎて、強要していました。
それで人間関係が疎遠になったことも、よい学びになりました。
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人間しゅんすけさんは、今も自由に生きてます。
そして、可能であれば、みんなも自由で生きていけたらいいなと思っています。
自分は自由にしてるよ〜
よかったら、あなたも自由にしてね〜
みたいな感じです。
ほんの数年前までは
そんな自分勝手に生きるんじゃない!
わがまま過ぎるだろ!
と言ってくるかも何人かいました。
そんな時は、じっくり、話を聞きました。
どこが自分勝手だと思ったのか?
どこがワガママに感じたのか?
ちゃんと話を聞いてみると、一人ひとり、思っていることが違いましたし、言いたいことも違いました。
相手がなんで物申してきたのか?
語気や、言葉に物怖じせず、ちゃんと、正確に、言いたいことを確認する。
その上で、自分の意見も言う、必要があれば謝る、次から改める…
そんなことを繰り返していたら、相手の仲良くなっていきました。
物申してくる人ほど、仲良くなりました。
だから、感情をあらわにして、強く物言ってくる人に対しても、臆せず、冷静にコミュニケーションができるようになりました。
自分が自由にしていて、何か不満を感じている人がいたら、それは本人の課題です。
不満だと表現する、伝えるという課題。
不満だと表現して、伝えてきてくれたら、その時は、ちゃんと話を聞く。
コミュニケーションする。
そんなスタンスになっていきました。
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話が逸れたかもしれません。
自由に戻します。
自由は、自ら由し(みずからよし)、と書きます。
平たく言えば、自分で自分にOKを出せる、みたいなことです。
人から自分勝手と思われてもOK。
何か物申されてもOK。
どんな自分もOK。
自由だと感じることもOK。
不自由だと感じることもOK。
人が、そんな境地になれば、その本人も、周りの人も、自由に生きやすい場になっていくのではないかなと思います。