この記事は 2018/08/03 の記事を加筆修正したものです。



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こんにちは、しゅんすけです。



今日は 愛しき我が子 というお話です。








大いなる我からすれば

個人の意識というのは、愛しの我が子です。




あなたが思う「自分」とは 

大いなる我から愛されています。




大いなる我は

あなたの心臓を動かして、血液を巡らせます。

あなたの肉体に必要な食物を、届けます。




大いなる我は

あなたが眠るとき

あなたと一つとなって脳や体や心を癒します。




そして

あなたに相応しい死を与えてくれます。




愛しい我が子を

生まれてから死ぬまで見届けるのです。




声を使わないから…

聴こえないから…

愛されている?なんて信じられないかもしれない。




それでも

「あなたが、今、生きている」という事実が

「あなたが、今、愛されている」という証明です。




聴こえない、とか

信じられない、とか

そういう今があることも

愛されている証なのです。








人間の親が、我が子にするような優しさを

大いなる我に求めても、適うとは限りません。




大いなる我には

口もなく、手もないから

優しい言葉をかけてあげたり

優しい温もりを与えてあげたり

できないのです。




ただ、それでも

あなたが、自分の欲しい優しさ以外の優しさに目を向ければ…

「世の中には、私が思う優しさ以外の優しさもあるかもしれない…」

と視野を広げれば

大いなる我が与えてくれる優しさに気づけるかもしれません。





優しさを受け取るのに、耳も、体も必須ではないのです。

必要なのは、限定しない心がけ。




私の欲しい優しさ 以外 もあるかもしれない…

私の理想 以外 にも私を満たすものがあるかもしれない…

という意識です。








大いなる我が、あなたに望むのは何もありません。



あなたが

「いい子」でなくても愛してるし

「いい子」であっても愛してます。



いい子か、悪い子か、など問題ではないのです。



もし、いい子でいよう、悪いのはダメだ

と問題にしているならば

それはあなた自身です。



大いなる我は

いい子でもいいよ、悪い子でもいいよ

とあなたに自由を与えるだけです。








自由は、時に難しいものです。



何をしてもいい

と言えば聞こえはいいかもしれないけれど

その裏には

自分で決めないといけない

自分で責任を負わないといけない

という面もあるからです。






自分で決めなくてもいいし、決めてもいい

自分で責任を負わなくてもいいし、負ってもいい



けれども、この世界では

自分で決めないと辛さが増えていくし

自分で責任を追わないと苦しくなっていくから

半ば強制されている

自由を押し付けられている

とも言えるかもしれません。




「幸せになりたければ自由に生きなさい(自分で決めて責任を負いなさい)」

と言われたら

どんな気分になりますか?




多くの人は、自由が怖かったりするものです。








この世界の多くの情報は、あなたにとって不要なものです。



綺麗な服、とか

美味しそうな食べ物、とか

楽しそうな旅行、とか

充実してそうな日々、とか



そうした不要な情報が溢れているから自由が怖いのです。





だって

自分が本当にしたいことじゃないのに…

自分が幸せになれない情報に溢れているのに…

「自由に生きなさい(自分で決めて責任を負いなさい)」

なんて言われたら

誰だって嫌でしょう?





自由が怖いなら

幸せがわからなくなってるなら

一時的に、情報シャットアウトしてみるのも

いいかもしれません。





それが一日なのか

一週間なのかわかりませんが…

「好き」「〇〇したい」
「嫌い」「〇〇さなくない」

そんな感覚が蘇ってきます。





自分が本当にしたいことが明確で…

自分が幸せになれることが目の前にある時に…

「自由に生きなさい(自分で決めて責任を負いなさい)」

なんて言われたら

誰だって喜びます。








大きなる我は

あなたに喜んでほしい、幸せになってほしい

そして、いつか

喜びや幸せでお腹いっぱいにして

還ってきてほしいのです。






生きる喜びと

自由の素晴らしさと

愛を体験してほしいのです。











今日のお話はここまでにしたいと思います。


読んでいただきありがとうございました。





















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