その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、生きたい、 と叫んでいるのだ(堀田善衛) | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
気功師から見たバレエとヒーリングのコツを公開します。
「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

かつてゴーラクシャ・シャタカとして知られていたハタ・ヨーガの原点経典の1つ(ほかはヨーガ・スートラなど)の最後にこう書いてあります。

 

    

ゴーラクシャ・シャタカ【100】絞りたる乳(ドゥグダ)に乳(クシーラ)を注ぎても[乳だけがあり]、火(アグニ)に醍醐(サルビス)[を注ぎても]火(ヴァフニ)だけのあるごとく、ヨーガの知者は、不二・永遠なる至上の境地に赴くべし。

 

冒頭が分かりやすく、乳に乳を注いでも乳のみしかないのです。

 

ミルクにミルクを注いでも、そこにはミルクしかない、と。

c.f.絞りたる乳に乳を注ぎても[乳だけがあり]、火(アグニ)に醍醐[を注ぎても]火だけのあるがごとく 2023年06月15日

 

これをT理論で解題するならば、生命素粒子に生命素粒子を注いでもそこに生命素粒子しかない、となります。

 

もう一段階下げて、物理抽象度で考えるならば、素粒子に素粒子を注いでも素粒子しかない、となります(ミルクと何ら変わらない)。

もう少し物理学で考えるならば、全てはSuper strings(超弦、超ひも)でしかないよね、となります。真空もまたプランク定数サイズの振動しない弦で覆い尽くされているわけです。

 

しかし、我々はこれだけではなんとも足りない感じがするのです。

隔靴掻痒なわけです。

 

そこで、認知科学では(少なくともT理論においては)情報空間というのを想定します。

超情報場です。

 

それはグラフによって、あっさりとデカルト座標の第一象限で表現されます。

縦軸方向を抽象度の階層性として理解します。

横軸方向は時空の広がりです。時空連続体なので、本来は1つの次元に巻き上げて記述しても良いのです。ただ、わかりやすさのために時空間を2次元的に平面的に描くこともあります。

 

僕らは「絞りたる乳に乳を注ぎても」と同様に、この情報空間という場を部屋の中だと考えます。

床が物理空間、そして高さが抽象度の軸であり、天井は「空」とします。

空はもっとも抽象度の高い場所です。

床下が矛盾です。包摂半順序集合束において、Topは「空」で閉じ、Bottomは「矛盾」で閉じます。後者のみが西洋哲学の結論であり、後者(「空」)は苫米地博士の発見であり、空の数学的証明の根幹を為す議論です。

この包摂半順序集合も「絞りたる乳に乳を注ぎても」と同様に僕らは藁で包まれた水戸納豆を想起します(そしてこれはDr.Tの方法でもあります)。

水戸納豆を縦に置いてみて、上が空、下が矛盾と考えます。

そして納豆はネバネバと糸を引きます。縁起のネットワークがネバネバと糸を引くのです。

 

 

ここで余談ですが、頭が良いということは(IQが高いということは)、抽象度の高い概念操作を高い臨場感でできることを指します(難しい数式の音楽が聞こえるとか)。

 

高い抽象度の概念は無味無臭で見えなかったりします。あまりに臨場感も手触りも無いからです。

 

ですので、ミルク色に染めます(白ですけど?w)。

 

もしくは納豆の匂いに染めます!

 

そのことで一挙に臨場感を回復させるのです。

 

ですので、「超情報場」を小さな自分の部屋に置き換えたり、ハタ・ヨーガの奥義を「絞りたる乳(ドゥグダ)に乳(クシーラ)を注ぎても」に置き換えたり、包摂半順序集合束を水戸納豆に置き換えたりするのは、きわめて大事なことなのです。

そのことで、臨場感を手にし、手触りを手にすることで、概念操作が可能になります。
(ハタ・ヨーガという言葉自体が、そもそも「圧倒的な力」という意味と「太陽と月」という意味の両方です。太陽と月と圧倒的な力は明らかにイダー・ピンガラーからのKandaでの爆発を思わせます。それがクンダリーニを上昇させる力です。また、太陽と月はEclipseの例でも明らかなように両極の存在です。そしてそれが統合されるのが「不二・永遠なる至上の境地」です。名は体を表すのです。見事な圧縮です)

c.f.【募集開始!!】OnLineReCord新章突入!!第4弾は「ラージャ」に迫ります!! 2016年12月20日(ハタ・ヨーガの名称については過去に幾度も書いているので参照してください)

c.f.【本日開催!!!】ホメオスタシスのカラクリに迫る!天使か悪魔か、はたまた、、、 2017年01月26日

 

僕らはどうしても言葉に取り付きたくなります(過去に取り憑きたくなるように)。

c.f.「過去は人に取り憑かない。人が過去に取り憑くのだ」(レミニセンス)〜トランスを深く理解する 2021年10月14日

 

 

そしてその言葉の臨場感がなくとも、お題目のように唱えて、事足れりとしてしまいがちです。

 

でも本来は逆方向に行くべきです。

 

すなわち、

 

ヨーガの知者は、不二・永遠なる至上の境地に赴くべし

 

ではなく、

 

絞りたる乳(ドゥグダ)に乳(クシーラ)を注ぎても」に注目すべきなのです。

 

そしてこれを横展開していくと、容易に「素粒子に素粒子を注いでも」となり、それでは真空を包摂できないとなれば、「あ、じゃあ、超弦理論だったら、真空を包摂するよね」と気付き、「超弦に超弦を注ぎても、そこには超弦しかなく」と理解できるわけです。

 

c.f.「私は深い恋に落ちてしまった。女性に恋をするのは...」 2013年09月24日

 

そして、そのべったりとした情報空間の床面(物理空間)を包摂できたら、「情報に情報を注ぎても、情報だけがあり」となり、それを生命素粒子理論で考えるならば「生命素粒子に生命素粒子を注ぎても、生命素粒子だけがあり」となるのです。

 

これが「不二・永遠なる至上の境地」です。

 

伊藤武先生がおっしゃっていたことで印象的だったのは、生と死の区別もまた迷いであり、輪廻からの解脱もまた迷いかもしれないということでした。

すなわち、生と死もまた「ミルクにミルクを注ぎても」、なのです。輪廻することも解脱することも同じです。

解脱したいという欲望もまた「迷い」であるとするならば、仏教ヨーガ(というか後期密教ヨーガ)であるハタ・ヨーガの根本のゴールが否定された形になります。論理を徹底することの面白さがここにあります。

 

それを「宇宙と自我は表裏一体」とT理論では言います。

 

まあ、そんな感じのイントロダクションを踏まえて、アーユルベーダ・ドーシャスクール・ファースト・シーズン最終回の講義をしました。

 

“宇宙と自我は表裏一体”、、、本家主宰のこんな話しからスタートしたAyurvedaドーシャスクール(*´艸`*)

 

ハタ・ヨーガの真実から死者の書はもちろん、様々な世界線を旅して、行き着いたのが『〇〇〇〇のFascia』でしたキラキラ

 

 

 

今夏から開催されるであろうセカンドシーズンもお楽しみに!!

 

ちなみに、スパイスは香りです。

そして、「中有」を「食香」と呼びます。香りを食べるから食香です。

中有とは「死者の書」のキーワードであり、肉体の死の後の段階です。

 

中有の異名は「意成」と「求生」と「食香」と「中有」と「形成有」であると『倶舎論』は説明する(ゲルグ派版チベット死者の書)

 

 

セカンドシーズンでは、ファースト・シーズンを踏まえた上でアーユルベーダの秘密の1つであるマルマに踏み込みます。

 

マルマとは殺法のためのいわば秘孔ですが、殺法は活法となるように、マルマを知れば、癒やし方も知ることができます(と、アーユルベーダでは考えます)。


ファースト・シーズンの内容(空海や「死者の書」)を踏まえた「マルマ」です!(当たり前ですが)

c.f.頭の毛が寂しくなってきたらココナッツ油でトウガラシを煮て、それを塗っておけばまたふさふさしてくる 2021年11月30日(検索してみると、マルマについて初めて言及したのはこちらのブログ記事。そしてこの記事で紹介したのが後の「脳アロマ」の源流)

c.f.【スクール募集開始】オイルを身体に染み込ませながら、数千年受け継がれてきた古代の叡智に触れる。 2022年01月16日(マルマについてのスクールの告知)
 

「死者の書」も「まずは知ることから始めよう!」と言います!(そうなのか?そうなんです)。

 

だからこそ、ヒルベルトの力強い言葉からレジュメはスタートしています(あ、違う)。

 

我々は知らねばならない、我々は知るであろう(ヒルベルト)

 

これは、エミール・デュ・ボア=レーモンの言葉を受けての言葉です。

 

「我々は知らない、知ることはないだろう」Ignoramus et ignorabimus(エミール・デュ・ボア=レーモン:ベルリン大学教授生理学者)

 

僕自身も長く不可知論の立場でしたが、最近はちょっと意見を変えています。

知らねばならない、我々は知るであろう」を幼い頃は傲慢な立場だと思っていたのですが、今は不可知論こそが、実無限と似て、超越的な視点の傲慢さを感じます。

 

不可知論の眠りを完全に覚まさせてくれた気がしたのは、伊藤武先生がご著書に引かれていた堀田善衛さんの言葉でした。

 

その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、生きたい、

と叫んでいるのだ。西欧は、死にたくない、死にたくない、と云っている。

ーーーーー堀田善衛著『インドで考えたこと』(岩波新書、一九五七)

 

この似て非なる二項対立が見えたときに、肩の荷が降りる思いをしました。

 

 

年間企画であったドーシャスクールが無事に終わり、ホッとしています。

 

これから5月開催の解剖直観速習スクール(MATLASスクール)と10月開催のハワイ大学医学部解剖実習の募集を開始します!(開始というか、告知します!お待たせして、本当にすみません!)