まといのば講座6月第2弾お疲れ様でした!!!
ゴーラクシャ・シャタカに関する概論でした。
概論だけあって、最初からいきなり結論に飛んでいきます!
で、キーワードの一つでもあった「喜びに従え」と言ったのは誰だったかとセミナー中に考えあぐねていたのですが、それはジョセフ・キャンベルでした。
正確には
「至上の幸福に従え(Follow your bliss)」
あなたの至福に従えなどとも訳されます。
c.f.伝道者達は、人々を説得によって信仰に導こうとする。むしろ、自分自身の発見の輝きを示すべきだ。 2022年06月05日
c.f.もしあなたが船を造りたいのであれば、木材を集めたり、仕事を割り振ったり、命令したりするのではなく 2018年12月04日
ゴーラクシャセミナーのテーマもまさにこの「Follow your bliss」でした。
まずは最終奥義の伝授(というか解説)から入りました。
ゴーラクシャ・シャタカ【100】絞りたる乳(ドゥグダ)に乳(クシーラ)を注ぎても[乳だけがあり]、火(アグニ)に醍醐(サルビス)[を注ぎても]火(ヴァフニ)だけのあるごとく、ヨーガの知者は、不二・永遠なる至上の境地に赴くべし。
神の定義を旧約の神、特にヨブ記から掘り起こしながら、新約の神、そしてイエスの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、遠藤周作の「沈黙」、マザー・テレサの嘆きを取り上げました。
そして我々は裏T理論の深奥である「神の再定義」に触れつつ、Edgeに生きるということを考えました。
Edgeに生きるとは、クリプキの言うところの「これまでやったことのない計算をすることです」そして、それはこれまでと同じではない可能性があるのです。
そうクワス算ですね。
c.f.規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから 2014年01月17日
(引用開始)
基本的な点は、こうである。通常私は、「68+57」という計算をするときは、単に暗黒の中で正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)をするのでない、と思っている。私は、私が前もって私自身に与えた指示に従うのであり、その指示が、この新しい事例において、私は125と言うべきである、ということを一意的に決定するのである。しからばその指示とは何であるか。仮定により私は、この事例においては「125」と言うべきである、という事を私自身に明示的に語ったことは、決してないのである。そしてまた、私はただ単に「私が常にして来た事と同じ事をなし」さえすればよいのだ、と言う事もーーもしその引用符の中で言われている事が「私がこれまで与えた事例によって示されている規則に従って計算する」という事を意味するのだとすればーー不可能である。(ソール・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』p.18)
(引用終了)
繰り返しますが、「私がこれまで与えた事例によって示されている規則に従って計算する」わけではないのです。
過去は繰り返さず、神ですら一瞬先は闇なのです(量子論によれば)。
だからこそ、それは「暗黒の中で正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)」です。
Leap in the darkって良いですね。
足を怪我しそうですが、暗黒の中で跳躍、、、暗闇の中で踊るエド・シーランを思い出しますねー。
♫Baby, I'm dancing in the dark with you between my arms.♫
c.f.♫ひとりきりではダンスはうまく踊れない、遠い なつかしいあの歌、私 夢色のドレス♫(井上陽水) 2019年03月31日
♫Baby, I'm dancing in the dark with you between my arms
(Baby,僕は闇の中で踊っている、君を腕に抱きながら)
Barefoot on the grass, listening to our favorite song
(草の上ではだしで、僕らのお気に入りの歌を聴きながら)
When you said you looked a mess, I whispered underneath my breath
(「あなたって、めちゃくちゃね」って君がいうと 僕は小さな声でささやく)
But you heard it, darling, you look perfect tonight
(でも君には聞こえるように 「今夜も君はパーフェクトだよ」って)♫
暗闇への跳躍であっても、それが正当化されない跳躍であっても、君といれば大丈夫ということでしょう。
いや本当に。
先程引いたブログ記事にこう書いています。
c.f.伝道者達は、人々を説得によって信仰に導こうとする。むしろ、自分自身の発見の輝きを示すべきだ。 2022年06月05日
(引用開始)
朴念仁のような顔をしているバートランド・ラッセル様もこう言います(って、失礼すぎる)。
恋愛はそれが音楽とか山頂の日の出か満月の下の大海というような最もよき快楽をいっそう大きくしてくれるものであり、それゆえに、高く評価されるべきものである。
自分の愛する女性といっしょにいてこのような美しい事物をいまだかつて一度もたのしんだことのない男、そういう男はこれらの事物が人間に与え得る魔術的な力を、あふるるまで、体験したことのない男である。(ラッセル『幸福論』)
c.f.自分の愛する女性といっしょにいてこのような美しい事物をいまだかつて一度もたのしんだことのない男は 2018年08月04日
(引用終了)
ゴーラクシャ・シャタカ【100】絞りたる乳(ドゥグダ)に乳(クシーラ)を注ぎても[乳だけがあり]、火(アグニ)に醍醐(サルビス)[を注ぎても]火(ヴァフニ)だけのあるごとく、ヨーガの知者は、不二・永遠なる至上の境地に赴くべし。
最終奥義はシンプルです。
不二・永遠なる至上の境地とは悟りであり、涅槃(ニルヴァーナ)であり、空の体感です。
不二とは2つとないということ。富士山とは不二の山でもあります。
余談ながら、ちなみに醍醐とはギーのようなもの、その味を「醍醐味」と言いました。
経穴やツボの源流であるマルマに関しても同様です。、日本では「断末魔」などと言い「末魔(マツマ:マルマ)を断つ」ことがまさに殺すことでした。
今日のセミナーで、とあるヨギーニが「I am that」というマントラを紹介してくれました。
まさにその通りです。
他にI am Siva.でも良く、梵我一如でも良いのです。
All for one, one for all.はちょっと違うかな。
そのどれでも良いので、自分にしっくり来るものを(馴染んでいるものを)アリアドネの糸としてしっかりと手繰り寄せたいのです。
その上で、空の体感と呼ぶべき、「至上の境地」の体感へ突き進みます。
これに関しては(ゴーラクシャ・シャタカに)明確な記述があり、方法論があります。
ラストに一つだけ、
絞りたる乳(ドゥグダ)に乳(クシーラ)を注ぎても[乳だけがあり]
という意味はどのようなるものなのでしょう。
これはシンプルです。
乳に乳を注いでも乳だけがあり、火に油を注いでも火だけが存在する、とは、フォーカスを変えれば当たり前のことです。
たとえば、物理宇宙に存在するものは全て素粒子が最小単位とするならば、素粒子に素粒子を注いでも素粒子だけがあります。それだけのことです。情報宇宙まで含めて、そこに乳ではなく、生命素粒子仮説を観ることも可能です。生命素粒子は至るとこにあります。
まずは深い理解からはじめ、そして体感を得て、自家薬籠中の物にしていきましょう!!
【動画紹介】
セミナーで紹介した動画です!(ブログでは初紹介の動画です)
(ブログでは既出の)セミナーで紹介した動画はこちら(Zoomだと音がよく聞こえないので)