規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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*12月28日の記事を再掲します。本日の寺子屋のポイントはここです。
知のジャングルで迷わないように、強力な方位磁針を持ちましょう。


クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」のパラドックス自体は非常にシンプルです。

ちなみに「まといのば」の寺子屋では原典とかテクストをきわめて重視します。
ニュートン力学ですら、プリンキピアを原典で(いや邦訳ですが)読みました。ニュートン力学はプリンキピアなどスルーして、F=maと微分積分だけでOKという風潮は理解しますし、僕もそう考えてきました。しかし、それではニュートン力学は理解できても、その先への発展性が無い可能性があるのです。たとえば原典を読めば、ニュートンは絶対空間、絶対時間を公理には入れていないことが分かります。そして重力について、数学の理論でしかなく、その遠隔力については理由が分からない(もしくはGod knows、もしくは神の恩寵)と語っているのも分かります。
そして、なぜ原典にこだわるかと言えば、原典こそが最もシンプルで簡潔で明解であることが少なくないからです。マックスウエルの魔の理解は、マックスウエル本人の手紙を読んだほうがはるかに明解であり、現代物理学(たとえばブラックホールのエントロピー)に通じるものがあります。マックスウエルの魔は、歴史的な熱力学の小さなエピソードでは無いのです。

しばしば経験的にも周りの解説を聞くより、本人に事情を聞いたほうがスッキリと分かるということはよくあります(もちろんその反対もありますが)。

というわけで寺子屋は2014年も原典にこだわって、点と点をつないでいきたいと思います。


クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」はきわめてシンプルです。
これは後期ウィトゲンシュタインの「探求」からの引用であり、これはクリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」の冒頭になります。

(引用開始)
 『探求』の第二〇一節において、ウィトゲンシュタインは次のように言っている、「我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』(クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」p.Ⅱ)
(引用終了)

パラドックスとは「規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。」というきわめてシンプルなものです。

平たく言えば、赤信号を渡ってはいけないという規則は、信号の渡り方という行為の仕方を決定できない、なぜなら、どのように信号を渡ったとしても、その交通規則と一致させられ得るから、という感じです。

いまは解釈は一切無視して、そのパラドックス自体を味わうようにしましょう。
脳のお喋りが多すぎで、考えるスペースがなさすぎるのが我々の大きな問題点です。
脳内お喋りをやめさせて、演算をスタートさせましょう。

さて、このパラドックスの例として、クワス算があります。

(引用開始)
例えば、「68+57」は、私がかつて全く行ったことのない計算である、としよう。(略)
さて私はこの計算をし、そして勿論、「125」という答えを得る。(略)
ここで私は、突飛な懐疑論者に出会った、と仮定しよう。(略)彼の示唆するところによると、おそらく私が過去において「プラス」というタームを用いたとき、「68+57」に対して私が意図したであろう答えは「5」であったに違いない!のである。(略)
私が考えた事例の全ては、57より小さな数の間の加法なのである。それゆえたぶん、私は過去において「プラス」と「+」を、私が「クワス(quus)」と呼び、「◯」によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたのかもしれないのである。その関数は、
もし、x,y<57 ならば、 x◯y=x+y
そうでなければ        x◯y=5
によって定義される。誰が一体、これは私が以前に「+」によって意味していた関数ではない、と言うのだろう。(pp.13-14)

(引用終了)
*ちなみにこのクワス算の記号は◯の中に+が書いてあります!その記号が出せなかったので、◯で代わりとさせてもらっています。ご了承ください。


この議論はきわめて明解なのですが、クリプキらしくLSDだの何だの脱線があるために、逆に難解になっています。

ポイントはある加法を考えるときに、かつてその計算をしたことが無いとするという点です。
我々は有限の存在であり、そして有限回しか計算をしたことがないので、やったことのない計算というのは無限に存在します。その1つを選んで、計算しようとします。それが68+57であったということです。そしてその有限回の計算はすげて57より小さい数の間の加法だったとするということです。
そこでもう一人の登場人物が出てきます。彼の名は「突飛な懐疑論者」です。名前ではないのかもしれませんが、名前としておきましょう。
その「突飛な懐疑論者」くんが言うには、68+57は『私が過去において「プラス」というタームを用いたとき、「68+57」に対して私が意図したであろう答えは「5」であったに違いない!』そうです。
これは奇想天外な意見です。
しかし、「突飛な懐疑論者」くんはこの事実を「私」に説得しようとします。

そして私が過去においてプラスと「+」を、クワスという関数を表すために用いていた可能性があるということを認めさせます。その関数のルールは以下のとおりです。

(引用開始)
その関数は、
もし、x,y<57 ならば、 x◯y=x+y
そうでなければ        x◯y=5
によって定義される
(引用終了)

これまでは57より小さい数の加法しかしていなかったので、その先のことはたまたま知らなかったということです。そしてこれは厳密に整合的です。この主張に問題はありません。

もちろんこのクワス算の関数が正しいとはクリプキは考えていません。

そうではなくポイントは以下のとおりです。


(引用開始)
基本的な点は、こうである。通常私は、「68+57」という計算をするときは、単に暗黒の中で正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)をするのでない、と思っている。私は、私が前もって私自身に与えた指示に従うのであり、その指示が、この新しい事例において、私は125と言うべきである、ということを一意的に決定するのである。しからばその指示とは何であるか。仮定により私は、この事例においては「125」と言うべきである、という事を私自身に明示的に語ったことは、決してないのである。そしてまた、私はただ単に「私が常にして来た事と同じ事をなし」さえすればよいのだ、と言う事もーーもしその引用符の中で言われている事が「私がこれまで与えた事例によって示されている規則に従って計算する」という事を意味するのだとすればーー不可能である。(p.18)

(引用終了)

はじめて行う計算である「68+57」をするときは、我々は暗黒の中で正当化されていない跳躍をするということです。

我々はつい自分が前もって私自身に与えた指示に従う(規則に従う)と考えがちですが、その規則(指示)は一度も68+57=125ということを明示的に示していないということです。もし示さなくてはいけないとしたら、ありとあらゆる数の無限の組み合わせの加法が事前に規則に組み込まれていないといけません。そんなことは不可能です。
すなわちこれほど単純な加法(足し算)ということを取って、厳密に考えても「私がこれまで与えた事例によって示されている規則に従って計算する」ことはできないということです。

68+57であればナンセンスに感じます(ナンセンスではなく、クワス算をきちんと定義すれば成立しますが)。

しかし哲学を哲学だけで理解するのではなく、科学やパラダイムシフトの知見を想定して考えてみましょう。

すると我々がこのクワス算の例で思い出すのは、真空の光速度との兼ね合いです。
物体は真空の光速度である秒速30万kmを超えないということを我々は知っています。
するといわゆる速度の和(加算)が光速度付近ではおかしくなってきます。

たとえば光速度に近い物体の速度の和を考えましょう。
たとえば光速度の9割近いロケットの中で、光速度の9割近い速度でボールを投げたら、ガリレイ変換で言えば、真空の光速度の1.8倍の速度でボールは飛ぶはずです(あくまでも例です)。
しかしこれはもちろん実験的にも(マイケルソン・モーリーの実験)、理論的にも(マックスウエルの電磁方程式)間違っています。どんな情報も真空の光の速度を越せません。

x+y<c

ということです。

しかし、明らかに単純な計算でx+y>cだったとしても、その速度はx+y>cとはなりません。

秒速27万kmで飛ぶロケットの中で、秒速27万kmでボールを投げたら、ガリレイ変換で言えば(我々の一般の感覚で言えば)、27+27=54万kmです。しかし実際は30万kmを超えることはありません。相対論的な効果が働きます。

もっとシンプルな例で言えば、光の速度に何を足しても(加算しても)、その和は一定です。

c+x=c

です。

これはクワス算を思い出させます。

我々人類はこの100年前までは、光速度近くでの加算などはしたことがなく、しかしガリレイ変換によって(もしくはニュートン力学によって)速度の和は単純な加算であるという規則があるとずっと考えてきました。しかし、その規則は行為の仕方を決定できず、我々はこの100年は相対論的効果を計算にいれること、すなわちガリレイ変換ではなくローレンツ変換という加法を採用することをいま受け入れ始めています。

すなわちクワス算の例というのは、そして「ウィトゲンシュタインのパラドックス」が指し示すインスタンスの1つはパラダイムシフトと考えると理解が早いのではないかと(哲学専門の人からは怒られそうですが)考えます。

というわけで、新年最初の寺子屋講座は「クリプキのウィトゲンシュタインのパラドックス」です!
お楽しみに!