*今週末にヒーラー養成スクール13期開催です!!
咒(しゅ)の密教気功と題し、ここ数年間の密教系気功術の集大成となる理論と実践を行います!!
ヒーラーとして知っておきたい神秘の神秘に肉薄します!
2013年2月のアニマとアニムスの結婚からはじまり、2014年4月の陰陽師、2014年冬のアルケミア(錬金術)、そして今夏の「西洋魔術の光と闇」と秘密の教えという意味での密教的な世界をこれまで駆け抜けてきました。
今回はその集大成となるスクールです!
ざっくりとクロニクル風に書くとこんな感じです。
2013年2月 アニマ・アニムス(ユング)
2014年春 陰陽師
2014年夏 陰陽師(再び)
2014年12月 アルケミア(錬金術)
2015年前半 カバラ・セフィロト(ヨガスクール)
2015年夏 西洋魔術~光と闇~
*ヘルマプロディートス
両性具有のシンボルです。陰茎を持つ男性でありながら、豊かな胸を持つ女性であるという両性具有はバフォメットも同じです(バフォメットはその上、黒山羊ともアウフヘーベンしていますが)。
*アニマとアニムスの結婚とは「対立と統合」というユングのテーマでもあります。ユング自身も言及しているようにこれはヘーゲルの弁証法と同じです。
*そのシンボルがヘルメスとアフロディーテの息子であり、サルマキスに強姦され、あまつさえ一体化された悲劇のヘルマプロディートスです(その名はお父さんとお母さんの名前の結合でもあります)。
そして、今後の課題としては、十分に裏の世界をまわったので、そろそろ表の教えに回帰するときかな、と思っています(たとえば寺子屋は表の教えです)。
裏の教えをきちんと踏まえた上で、表の歴史のディープな部分に入って行きたいと思います。
光と闇が混じりあって色彩ができるとゲーテは考えましたが(もちろん科学的には間違いですがw)、抽象的な意味では、比喩としては面白いと言えます。表と裏がウロボロスの二匹のヘビのように混じりあい、光と闇の教えが渾然一体になることで、それぞれの強さが発揮されます。
*陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず
ちなみに光学的には闇とは光が無い状態であり、色彩は白色光を分光することで得られます。光を絞っていけば闇が出てくるのですから、その意味では光と闇は相補的と言えなくもありません。とは言えゲーテは間違っており、ニュートンが正しいのです。ただニュートンはホイヘンスたちの波動性を否定して粒子説に固執しました。とは言え300年は待たないと波動と粒子の二項対立をアウフヘーベンする量子なる概念は生まれませんでした。
*もちろんプリズムによる分光も、雨粒というプリズムによる分光の虹も古来より知られていました。ニュートンが偉大だったのは、分光による色をまたプリズムを通しても分光しないことに気づいた点です。すなわち色は光の原子であると見抜きました(ちなみに虹の七色は錬金術にもとづいて「7」をニュートンが選びます。アリストテレスが五感の「五」を選んだのと同じです)。
先日の連休に密教気功ブート・キャンプとして「アルケミア」「カバラ」「西洋魔術」を開催できたのはかなり良かったと思います(いつもながらの我田引水、自画自賛の謗りは免れませんがw)。かなり高度なレベルまで駆け上がって見直すことができました。カバラはその源流に遡り、その首根っこを捕まえられたように思いますし、西洋魔術は底の浅いクリスチャン・カバラやヘルメティック・カバラではなく、その全貌がよく知られていないユダヤ・カバラなるものの本質も捕まえたかと思います。もちろん壮大な体系のわずかな部分を「群盲象を撫でる」状態ではあるのですが(出来る限りはこのブログでも情報公開していきたいとは思っています。かなり衝撃的かつ面白いとは思います!)。
そして今回のこの数年の集大成として、「咒の密教気功」を開催します。
いわば咒の密教気功大全とも言えるべき企画です!
きわめて不可思議な咒(しゅ)の技法を次々と実践してもらいながら、西洋魔術を超える圧倒的な力を認識してもらいます。そしてその理論にも肉薄します。
咒(しゅ)とは古い言葉で、今風に書けば呪です。
(シュとジュは無声音、有声音ペアですね)
呪(じゅ)は呪(のろ)い、でも呪(まじな)いでも同じように「呪い」と書きます。
もちろん、「咒(のろ)い」、「咒(まじな)い」も同じです。
学問としてきちんと呪術を定義したのは、スコットランド人の社会人類学者であるフレーザーです。というか、むしろ彼が社会学も人類学もそして呪術や他の文化を科学や学問として研究することを始めた人です。
*フレーザーと言えば「金枝篇」です。
1889年11月。とある出版社がケンブリッジ、トリニティ・カレッジと記された手紙を受け取ります。
そこには「原始宗教の歴史に関する研究がまもなく完成しますので、出版していただけないでしょうか」「口絵にはターナーの書いた『金枝』を銅版画にしたものか複写印刷したもの」「表紙にはヤドリギすなわち金枝の絵を金色で印刷して欲しい」とありました。この異例の申し出はすぐさま採用され、それから50年近くに渡り「まもなく完成」するはずであった原稿が書き続けれられます(初版は1890年)。
蒐集家でなくともこの装丁で欲しくなります。
よく知られているように、フレーザーは呪術を2つに分類しました。ひとつは「類感呪術」もうひとつは「感染呪術」です。
(引用開始)
呪術はどのようなものの考え方に根ざしたものなのか、その原理を分析すれば、次の二点に帰着するようだ。すなわち一つは、似たものは似たものを生み出す、いい換えれば、結果はその原因に似るということだ。もう一つは、かつて互いに接触していたものは、その後、物理的な接触がなくなったのちも、引き続きある距離をおきながら互いに作用しあうということだ。(略)
要するに、呪術というのは人を導いて惑わす行為である同時に、自然の法則の体系に見せかけたものなのであある。未熟な技術であり、まやかしの科学なのだ。(略)
原始的な呪術師は、実際に呪術を行うときに、その基礎となる相手の心の働きを分析することなどまったくないし、自分が行う呪術のもつ抽象的な本質について深く考えてみることもない。(略)
呪術というのはいついかなるときも技術であって、けっして科学ではないのだ。その未熟な頭脳には科学という観念そのものが欠落しているのである。(略)
いずれの呪術の原理も、実際にはきわめて単純で初歩的である。
(引用終了)(フレーザー「金枝篇」第三章「共感呪術」pp.60-62)
これだけ盛大に批判されるとむしろ爽快感すらあります!
「呪術の一つも使えないでアームチェアの上からくせに偉そうに言うな」と思うより先に、まさに当たっていると思わざるを得ません(笑)
ヒーラーも他の職業と同じく同業者を盛大に批判するものですが、その批判とそっくりです。
「呪術というのは人を導いて惑わす行為である同時に、自然の法則の体系に見せかけたものなのであある。未熟な技術であり、まやかしの科学」
「原始的な呪術師は、実際に呪術を行うときに、(略)自分が行う呪術のもつ抽象的な本質について深く考えてみることもない。」
「その未熟な頭脳には科学という観念そのものが欠落している」
という批判は呪術を気功と置き換えて、同業者に投げつけたい衝動にかられます。もちろん自分に対してもw
丁寧に読めば分かるようにこれは呪術の本質的な欠陥としてではなく、「原始的な」という制約条件のある呪術師に向けられたものです。
われわれとしては原始的ではない、現代的な呪術師を目指したいものです。
ただ今回、「咒の密教気功」においては理論はもちろん深めていきますが、西洋魔術の限界を指し示すことと、そして咒の恐ろしさ、すさまじさを明確に感じてもらいたいと思っています。
西洋魔術はどうしても科学の制約がチラチラと感じます。そもそも西洋魔術から科学は産み落とされたのであり、その嫡子である以上はその制約を免れません。キリスト教がユダヤ教の嫡子であり、イスラム教がアブラハムの啓示の嫡子であるのと同じです(アブラハムはユダヤ教とキリスト教とイスラム教とアラブ人の親です。そもそもアブラムとは父という意味です)。
*アブラハムの啓典宗教
ちなみに先日の「はじめての気功、アルケミア」でも話題になりましたが、神との契約の証にアブラムおじいさんは、子音のhを神様からいただいて、アブラムからアブラハムになります(創世記17:5)(ちなみに奥さんは「イ」を取られて、サライからサラになります。創世記17:15)
あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。(創世記17:5)
多くの国民の父と言ってもすでに御年99歳です。
神様も耄碌(もうろく)したのではとアブラムあらためアブラハムおじいちゃんは思います。
実際に神様から「これからお前に子を授ける」と言われて、吹き出してしまいます。奥さんも90歳になるのに、どうして子供が生まれるのだ、と。
神様からのありがたい言葉に反論して、あざ笑ってしまうというアブラハムおじいちゃんに我々は深く共感します。この神さまとの距離感の近さが創世記の魅力です。
モーゼと神とのやりとりもいわば夫婦漫才の域に達しています。
(引用開始)
神様:「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
アブラハム:アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。(引用終了)(創世記17:16-17)
とは言え、神様が正しく星の数ほどの子孫という言葉に違わず、イスラエルの民、そしてキリスト教の民、そしてアラブの民がアブラハムの子孫としていまだに栄えています。
*そうして生れた大切なイサクを神の命令とは言え、アブラハムは燔祭の生け贄として捧げます。
話がずれましたが、西洋魔術もしくはアルケミアの伝統から近代科学というのは生まれてきます。
ジョン・メイナード・ケインズはニュートンを最後の魔術師と呼びました。
*ケインズは近代経済学の父です。僕がアダムスファミリーと呼んでしまうアダム・スミス、マルクス、ケインズという三大巨頭の一角です。ケインズはバレエ・リュスのバレリーナであの天才ニジンスキーのパートナーもとつめたリディアを射止めます。バレエ・リュスは稀代のインプレサリオであるディアギレフのロシアバレエ団のことであり、現代バレエはここから始まったと言っても過言ではありません。たしかにロシアもフランスもイタリアも歴史を誇りますが、しかし廃れていたのも事実です(ボリショイ・バレエのボリショイバビロンも観ましたが、もしボリショイが長年評価されるべき位置にいるならば、ニジンスキーもヌレエフもミーシャも西洋社会に出てきていないはずでしょう)。
ケインズのニュートンへの「魔術師」という評価は当然ながら、非難しているのではなく、最大限の評価です。
近代の理性の時代の最初の人という称号よりはるかに偉大なるものとして「最後の魔術師」と呼んだのです。
こちらのケインズのニュートン評も幾度と無く引用していますが、何度も読んでも味わい深いものです。
(引用開始)
十八世紀およびそれ以後において、ニュートンは近代に属する科学者の最初にして最大の者であり、合理主義者で、また冷ややかで混じり気のない理性に従って思考することを教えた者と見られるにいたった。
わたくしは彼をこのようには見ていない。一六九六年に彼が最後にケムブリッジを去ったときに荷造りをした、そうして一部散佚したけれどもわれわれに伝わっているあの箱の内容をよく検討したことのあるものならだれも、そういう見方ができるとはおもわない。ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたスーメル人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。アイザック・ニュートンは、一六四二年のクリスマスに生れた父親のない遺児であって、博士(マギ)が心からのしかもふさわしい尊敬を捧げることのできる最後の神童であった。(ケインズ「人物評伝」p.316)
ニュートンの評価と言えば、ニュートン力学によって近代科学をスタートさせた人であり、近代科学、近代啓蒙主義、理性主義のスターでした。アインシュタインによって乗り越えられるまで科学と言えばニュートン力学であり、そしてそれは完成されたと思われていました。
ニュートンの墓碑銘にはこうあります。
Nature and Nature's laws lay hid in night:
God said, "Let Newton be!" and all was light.
自然と自然の法則は闇に隠れていた
神がニュートンあれと言うとすべては明るくなった
(Epitaph intended for Sir Isaac Newton.)英国詩人 アレグザンダー・ポープ
これはもちろん創世記のオマージュです。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。(創世記1:1-4)
またまた脱線しますが、神はきわめてエフィカシーが高いので自分の創造物を見てはいちいち「良しとされ」ます。しかし、唯一、「良しとされ」なかったのが2日目です。
そして2日目は2つに分けることをされました。
(引用開始)
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。(創世記1:6-8)(引用終了)
すなわち、「良し」とされなかったのです。ゾハールというトーラーの釈義の一つによれば、これが悪の始まりだそうです(ここらへんは面白いのでまた後述します)(ゾハールはカバラの最初期の書物ですが、僕はこれは偽書であるという立場です。ここらへんはスクールでも言及しましたが、偽物でしかなく、きちんと取り上げる価値はないかと考えます。ただリガルディたち秘密結社集団は当然ながらゾハールを評価しています。そしてセフィロトのパスの順番はゾハールとリガルディは一致します。現在の英語版Wikipediaのカバラ図はゾハールとは一致しません、という余談でした)。
まあ、それはさておき「光あれ」と同じく、神が「ニュートンあれ」と言い、世界に啓蒙の光が差し込んだのです(ちなみにニュートンの名前のアイザックは、アブラハムが神の宣言に苦笑したあとに本当に生まれた100歳過ぎの子供であるイサクにちなんでいます)。
そうして中世の闇もスコラ哲学の闇も払拭し(ニュートンが教えていたころはまだアリストテレスに端を発するスコラ哲学が課題でした)、近代科学が生れたと考えられています。
しかしそれは表の歴史です。
裏の歴史はよく知られているとおり、ニュートンは偉大な錬金術師であり、三位一体(トリニティ)を否定する信仰者であり、神の存在証明として「自然哲学の数学的諸原理(ニュートン力学の教科書である「プリンキピア」)」を書きました。
そしてそれは最後の無知蒙昧な呪術師ではなく、偉大な人類の系譜の最後の巨人であるという意味でケインズは紹介しています。
それを踏まえてケインズの引用を読むと、しみじみとします。
彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたスーメル人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。アイザック・ニュートンは、一六四二年のクリスマスに生れた父親のない遺児であって、博士(マギ)が心からのしかもふさわしい尊敬を捧げることのできる最後の神童であった。
マギとはもちろん東方の三博士(賢者)です。占星術師のことです(本当にどうでもいいですが、このときの贈り物が「乳香、没薬、黄金」で、これはクレオパトラのカエサルに対する贈り物の没薬と同じくアロマ検定では必ず出る問題であったように記憶しています。うろ覚えで書いているので、違ったらスミマセン。時間があったらチェックします)。
スメール人とはもちろんシュメール人です。今回のブート・キャンプでもギルガメッシュを取り上げました(カバラの中心命題である「生命の樹」の神話の祖を探ると、フレーザーを介してギルガメッシュが見えてきます。もちろん直接的には旧約聖書創世記ですが、旧約聖書よりギリシャ神話よりも、古いのがギルガメッシュです。物語の祖にもまたその祖がいるというわけです)。
話を戻しますと、西洋魔術は深く科学にとらわれているのは、西洋魔術が科学を産み、そしてその生んだ科学に規定されるからです。
それにくらべると空海たちの密教ははるかに自由と言えます。咒(しゅ)とはもっと自由でもっと本質的です。もちろんフレーザーの批判する原始的な呪術は否定されるべきですが、現代的な咒(しゅ)はより広く面白いものです。
科学の枠組みが西洋魔術な枠組みを純化したものでしかないとすれば(西洋魔術はもちろんアブラハムの啓典
、そしてモーゼのトーラーとその後のミシュナーと呼ばれる一連の釈義の伝統に縛られます)、そこにどうしても限界が生じます。
その限界を見抜きつつ、もっと自由に咒(しゅ)の密教気功を楽しもうというのが今回の趣旨です。
前置きが長すぎて、本題に入れませんが、面白そう!と思う人は是非受講してください!!
ここ数年間開催してきた密教気功シリーズ最終回にふさわしい内容かと思います!!
お楽しみに!!!!!
【咒(しゅ)の密教気功 13期ヒーラー養成スクール】
【日時】 10月17日(土)13:00~18:00
10月18日(日)13:00~18:00
【場所】 四ツ谷のセミナールーム
【受講料】 230,000円
【受講資格】 「まといのば」セミナー受講生
【持ち物】 筆記用具と動きやすい服装
【お申し込み】お申し込みはこちらから。
*壁を突破しましょう!!