徳島県の国造の考察
(´・ω・`)ノ お久しぶりです。ワシです。 しばらくブログを書いていませんでしたが一応生きてはおります。むしろ体の方は元気です。ただズボラなだけでs 我が国におけるゴールデンウイークなる神イベントの恩恵に授かり、ブログを書く気がチョットだけチャージできましたので久しぶりに何か書いてみようかなと。 今回も大したことも書けそうには御座いませんが、ワシらしく例の如く斜め上志向の穿った考察でもしてみようかなと思います。 それでは、今回のテーマは「徳島県の国造の考察」について 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 806年~906年までには成立したであろうとされる『先代旧事本紀』、その中の第10巻「国造本紀」によりますと、●粟国造 応神朝の御世に、高皇産霊尊の九世孫の千波足尼(ちはのすくね)を国造に定められた。●長国造 成務朝の御世に、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の九世孫の韓背足尼(からせのすくね)を国造に定められた。 …と記されてあり、仮に記録に間違いがなければ、13代成務天皇の治世に長国造が、15代応神天皇の治世に粟国造が置かれたということになります。 ただし、「国造本紀」の冒頭には、百四十四の国に国造を任命するに至った序文が書かれており、そこには、磐余彦尊(いわれひこのみこと=初代神武天皇)が日向を経て倭国から大倭国へ東征するにあたり、粟の忌部首の祖の天日鷲命(あめのひわしのみこと)を遣わして…云々のくだりが書かれてあります。 つまりこの当時から粟の天日鷲命が初期のヤマト王権側の人物として描かれていること。また、記録から後代に「粟国造」を設置したということが分かります。 また東征に功績のあった(大倭国に案内した)椎根津彦命を後に大倭国造(大和直の祖)に任命し、更に粟の忌部の祖であった天日鷲命も伊勢国造(伊賀・伊勢国造の祖)とした。とも書かれています。 では、粟・長の二国を併合し、後に「阿波国」となった現徳島県の国造についてもう少し掘り下げてみたいと思います。 まず四国において、最も古い時代に国造が設置されたとあるのが、記録上では現在の高知県幡多郡に存在したとされる「波多(はた)国造」で、第10代崇神朝の御世に、天韓襲命(あまのからそのみこと)を神の教えによって国造に定められた。とあります。 また同じく高知県に置かれた都佐国造は、 成務朝の御代に、長阿比古と同祖・三嶋溝杭命の九世孫の小立足尼を国造に定められたとあり、『百家系図』では、天八現津彦命の7世孫・諸手足尼または忌寸宿祢の子の小立宿祢が成務朝に国造に任命されたとあります。 天八現津彦命(あめのやあきつひこのみこと)は、古代日本の人物。 ●概要 観松彦伊侶止命(みまつひこいろとのみこと)、観松彦色止命、観松比古命、御間都比古命とも表記される。 『古事記』、『日本書紀』にはその名が見えないが、『先代旧事本紀』「国造本紀」には観松彦伊呂止命の名で登場し、意岐国造、長国造の祖とある。また「国造本紀」で三島溝杭命の後裔となっている都佐国造も、『諸系譜』ではそれら二国造と同祖となっている。その他に『新撰姓氏録』に「摂津国 神別 我孫 大己貴命孫天八現津彦命之後也」とある。(wikipedia 天八現津彦命より抜粋) 都佐国造(とさのくにのみやつこ・とさこくぞう)は、都佐国(後の令制国の土佐国東部)を支配した国造。 ●概要 土佐氏(とさうじ、姓は凡直)。国造制の後には都佐評の評督を務め、さらに後は土佐郡の郡司を務めた。後裔は本山郡司大夫となって本山氏を称した。 長阿比古氏は事代主神の子・天八現津彦命の後裔を称しており、小立足尼の後裔の都佐国造も事代主神系の豪族とされ、その氏姓は当初は君を称したと見られるが、奈良時代には凡直を称したという。安芸郡少領家として凡直姓の者が見えるため、安芸郡が土佐国の支配下にあったことがわかる。(wikipedia 都佐国造より抜粋) 旧土佐郡にある土佐国一宮の都佐坐神社(とさにますじんじゃ)◆祭神 味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) 一言主神(ひとことぬしのかみ) 710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文に、 土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ。— 『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文(wikipedia 都佐坐神社より抜粋) ふむふむ、当社の社名が、都佐「坐」神社であり、そこな御祭神が大己貴命(=大国主命)の子である味鉏高彦根の尊で、都佐国造となっている後裔氏族が凡直を称していたと(´・ω・`) ではもう一方の、 波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)は、後の令制国の土佐国西部、現在の高知県西部を支配した国造。 ●概要 祖先:天韓襲命を事代主神の子(または孫)の観松彦色止命の9世孫で、長国造・都佐国造の祖である韓背足尼と同人とする説がある。 ●氏族 波多氏(はたうじ、姓は君)。三輪氏同族とする説と、尾張氏同族とする説がある。後裔の系図は不明であるが、尾張氏族の系図には土佐波多公の祖として波勢比古命がいる。(wikipedia 波多国造より抜粋) で、旧幡多郡にある式内社が、 高知坐神社(たかちにますじんじゃ/たかちにいますじんじゃ、高知座神社)は、高知県宿毛市平田町戸内にある神社。式内社で、旧社格は郷社。 写真はたんぽぽろぐさまより拝借<(_ _)> ◆祭神 主祭神:都味歯八重事代主神 右相殿:大国主尊 左相殿:素盞嗚尊 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「高知坐神社(高知に鎮座する神の社)」とのみ記され、祭神を明らかとしない。この「高知(たかち)」は、現在の高知市域の地名(江戸時代に河中→高智→高知と変遷して成立)とは関係の無い古代名で、文献上では「高地」・「高持」とも見える。その由来は詳らかでないが、『土佐国式社考』では「高知」と「高市」の音通を指摘する(大和国高市郡には鴨事代主神社が鎮座)。 なお『土佐国式社考』では、主祭神の神体を青黒玉石とし、相殿左神の神体を青石、相殿右神の神体を木像とする。(wikipedia 高知坐神社より抜粋) wikipediaに書かれてあることから確認できるものだけでも、高知県も徳島県の長国造と同族が、長国造を置いたのと同時期に都佐国造も置かれた旨が確認できます。 い‐ま・す【在す・坐す】 ①「在る」「居る」の尊敬語。いらっしゃる。おられる。 ② 所有をあらわす「有る」の尊敬語。おありになる。 ③「来る」「行く」の尊敬語。おこしになる。おでかけになる。(広辞苑より) 社名にある”坐”の意味は、別のところから移動して来て、今ここに座すことから、「います」=つまり「いらっしゃった、おこしになった」という意味となります。 従って、都佐「坐」神社並びに高知「坐」神社の二社は、共に「坐」の文字がありますから、元あった「都佐」や「高知」から後に現在の神社のある場所に移って来たという根拠となります。 この高知坐神社の主祭神である、都味歯八重事代主神につきましても、皆知るところの須佐之男命の義理息子である大己貴命(大国主命)と神屋楯比売命との間に生まれた子(通称エビス)として知られており、延喜式式内社である事代主命神社が阿波国に2社(厳密には粟国&長国に1社ずつ)のみに存在することからも、阿波から当地に移っていったと考えることができます。 これまでを少し纏めますと、高知県にあった都佐国造・波多国造は、徳島県の長国造と同祖である。 これについては、先人様のブログで既に詳細に書いておられますので、深くお知りになりたい方は下のリンク先よりご確認下さいませ<(_ _)> ➨ぐーたら気延日記:「倭の神坐す地」シリーズ …ということで、(なにが?)、少しずつ本題に戻っていきますが、以前に私が書きました「讃留霊王(さるれお)から考察」というのがあり、ザックリ内容を抜粋しますと、13代成務天皇と兄弟である「日本武尊」もしくはその子が四国の南海に現れたとされる悪魚を退治するお話があります。 時代背景としては、「国造本紀」にある、伊余国造・都佐国造・長国造が成立する僅かに前の時代ということになりますね。 これらを踏まえた上で、徳島県の沿岸部にあったとされる長国造となった「韓背足尼」について、もう少し核心に迫ってみたいと思います。 韓背足尼は、上のwikipediaの「波多国造」の項にも記載があるように、天韓襲命を事代主神の子(または孫)の観松彦色止命の9世孫で、長国造・都佐国造の祖である韓背足尼と同人とする説があるようです。 記録されている時代は異なりますが、共に同祖である大己貴命の子孫であることや相似する名前等から連想し、同人説が上がっているのでしょう。 韓背足尼と同時代を生きた成務天皇や日本武尊の父の第12代景行天皇紀に、 「二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姫一云、稻日稚郎姫。(郎姫、此云異羅菟咩)爲皇后。后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。是小碓尊、亦名日本童男(童男、此云烏具奈)」 「景行天皇即位2年春3月3日。播磨稻日大郎姫 ある伝によると稻日稚郎姫といいます。郎姫は異羅菟咩(イラツメ)と読みます。は皇后になりました。皇后は二人の男の子を産みました。第一子は大碓皇子といいます。第二子は小碓尊といいます。ある書によると、皇后は三人の男の子を産みました。その第三子は稚倭根子皇子といいます。その大碓皇子と小碓尊は同じ日に同じ胞(エ=胎盤)に包まれて生まれた双子です。天皇は喜んで、臼に叫びました。それでその二人の男の子に大碓(オオウス)と小碓(オウス)と名付けました。この小碓尊は又の名を日本童男(ヤマトオグナ)といいます。童男は烏具奈(オグナ)といいます。」 日本武尊の出生エピソードなのですが、双子であったことを喜んだ景行天皇が、臼(うす)に叫んだことから大碓(おおうす)と小碓(おうす)と名付けた、そして小碓尊の別名を日本童男(ヤマトオグナ)で、訓みを烏具奈(オグナ)といいます。と注釈しております。 小碓の文字にある「碓」は、漢字ペディアによると、 碓(たい)、唐臼(からうす)、踏み臼(ふみうす)は、中国で発達したつき臼の一種で、てこの原理などを利用して足で踏んで杵を動かすことによって精米や製粉、餅つきを行う足踏み式の臼。有史以前に日本にも伝来し、近年まで使われていた。東南アジア等にも広く普及し使われている。(wikipedia 臼より抜粋) 「からうす」という意味から、童男(おぐな)の読み宛て文字を烏具奈としたと考えられます。 カラス(烏、鴉、鵶、雅)は、鳥類カラス科の1グループ。カラス属Corvusまたは近縁な数属を含む。 鳥類の中では頭が非常に良く、黒い鳥として代表的な存在である。そのため、諺では白い鷺などと対比される場合がある。 ●神話・伝承 太陽の使いや神の使いという神話や伝承が世界各地にある。元は違う色だったカラスの羽毛が、何らかの原因で真っ黒になってしまった、という伝承が世界各地にある。視力が高い、見分ける知能もあるということから「炯眼」「慧眼」とされ、神話や伝承において斥候や走駆や密偵や偵察の役目を持つ位置付けで描かれることが多い。(wikipedia 烏より抜粋) 「カラス」の文字のなりたち(出典『角川新字源 改訂新版』)は、からすの形にかたどる象形で、カラスは、体が黒く、目がどこにあるかわからないので、「鳥」の字の目にあたる部分の一画を省いたとあります。 烏 音:ウ・オ 訓:からす・くろい・いずくんぞ・なんぞ ①からす。カラス科の鳥の総称。「烏喙(ウカイ)」「烏合」「烏集」 ②黒い。 ③ああ。感嘆・嘆息の声。「烏乎(アア)」嗚(オ) ④いずくんぞ。なんぞ。「烏有」 ⑤日。太陽。「烏兎(ウト)」(漢字ペディアより) 古代中国では、太陽の中に黄金色の三本足の烏鴉(からす)が住んでいると信じられており、金烏や赤烏を太陽の別称として使用していました。唐朝の韓愈の詩には、”金烏海底初飛来”と、白居易の詩には、”白兎赤烏相趁走”(月(白兎)と太陽(赤烏)が相互に追いかけている。)とあります。 これを俗にいう「金烏玉兎」(太陽と月のこと。または、歳月や時間)のことです。 金烏(きんう)は、「日に鳥がいる」という伝承に見られる想像上のカラス。 中国や日本においてこのように呼ばれるほか、陽烏(ようう)、黒烏(こくう)、赤烏(せきう)とも称される。太陽の異名としても古くから用いられており、対となる存在(月にいるとされる)には蟾蜍(せんじょ)、玉兎(ぎょくと)などがある。 ●概要 太陽にいる鳥がカラス(烏)であるとする解説は古代から中国にあり、『楚辞』天問の王逸注にも「日中の烏」という語がみられる。また、『山海経』(大荒東経)などではカラスが太陽を載せて空を移動してゆくとも記されている。日の出と日の入りの時間帯に移動をするカラスの動き、あるいは太陽の黒点を象徴化したものと考えられており、カラスであると語られる点もその羽色から来ているとみられる。金という語は太陽本体の光りかがやく様子を示している。 足が三本あるという特徴もしばしば語られ(三足烏を参照)、描かれるときの最も目立つ特徴として挙げることが出来る。道教や陰陽道などに基づいた古典的解説では、数字の三が陽数、カラスが陽鳥であるからと語られることが多い。三本足であることを強く押し出した金烏の説は、漢の時代に大きく広まったようである。 日と月が描かれる際、日に烏、月に兎(または蟾蜍)が描き込まれることは中国を中心に古くから行われており、壁画や祭具、幡(はた)などに残されている。日本でも鎌倉・室町時代に仏教絵画として描かれた『十二天像』では日天・月天の持物としての日・月の中に烏と兎が描き込まれている作例がみられるなど、美術作品で太陽を示す題材として広く用いられている。江戸時代まで、天皇即位の際に用いられていた冕冠(べんかん)や袞衣(こんえ)、日像幢にも用いられている。「金烏」という名称が用いられているが、描かれるカラスのすがたは通常のカラスのように黒く描かれ、背後に描かれる太陽あるいはそれを示す円が朱や金で彩色されることがほとんどである。 日本神話では、神武天皇を案内したと記述されている八咫烏(やたがらす)に「天照大神がつかわした」という点から金烏と共通する「太陽とカラス」の結びつきが見られ、平安時代以後にそのすがたが金烏のような三本足のすがたとして説明されるようになっている。(wikipedia 金烏より抜粋) 日本神話にも三本足の烏である八咫烏が登場しますが、そもそもは中国の伝承から取り入れたと考えられ、金烏(つまり金のカラス)は、太陽にいる烏のことであり、八咫烏はこれに起因するものと考えられます。 余談ですが、『古事記』にある「稻羽之素菟」のお話もこれで何とな~くイメージができるかも?(日の男は烏で月の女は兎と考えると…?) さて、徳島県の長国(旧那賀郡)にあたる阿南市には、延喜式神名帳にみえる阿波国那賀郡建比賣神社に比定されている、 古烏神社(こがらすじんじゃ)が御鎮座します。場所は徳島県阿南市宝田町。 ●歴史 702年(大宝2年)に創建と伝わる。1897年(明治30年)に火災で焼失し、1898年(明治31年)に再建。古くは「建比売神社」と称し、また江戸時代は「小烏明神」と称していた。式内社である建比賣神社の論社とされる。 祭神である建比売命は諸説あるが、大国主命の娘の建比売命下照、もしくは豊葦建姫命とされている。 ●祭神 建比売命 (wikipedia 古烏神社より) wikipediaにもあるように、ご祭神の建比売命については諸説あり、『阿波國式内社考』では、高比売命(=大国主命の娘の下光比売命)や埴安比賣(=建島女祖神)他豊葦建姫命(=豊玉毘売命)があります。 阿波志にも建比賣祠の項に「小烏祠」とあります。 社地に古木が鬱蒼と茂り、カラスが多く棲息したことから、いつの頃からか古烏神社(古烏大神宮、小烏明神)と呼ばれるようになったといいますが、まぁこれは後世の付会でしょう。 「讃岐の白鳥・阿波の黒鳥」という俗伝承も聞きますね。 御神紋は、太陽の中の烏です(´・ω・`) 阿南市と同じく「橘」の地名がある海部郡牟岐町には、小碓命(こがらす=おうす)を祀る牟岐津神社が御鎮座し、 また牟岐町の沖にある大島には、大嶋神社が御鎮座され、 この社の御祭神が豊葦建姫命と同神である豊玉日女売命なんですな。 阿波志によれば、「姥祠あり大島に在り土人曰く牟岐津神の妃也」 …とあり、豊玉日女売命の夫が小碓命つまり日本武尊であるといっている訳なんです。 これらのことから、建比賣神社(小烏明神)は、小碓命の后をお祀りしていると考えます。(あくまで私説ですヨ) 同時に、時代を古い方に合わせますと、火遠理命(彦火火出見尊)とその妻の豊玉毘賣ということになります。 お次のポイントは、 13代成務天皇のお妃名が、弟財郎女(おとたからのいらつめ)であり、また成務天皇の実母の八坂入媛命の出身地が美濃とあります。 当社が御鎮座する宝田町の南に位置する見能林町は、古くは見能(潟)方と呼ばれていました。 また『古事記』では、成務天皇のもう一人の后のお名前が吉備郎姫(きびのいらつめ)です。 この阿南市周辺が往古の「吉備」であったと岩利大閑氏著の「道は阿波より始まる」に書かれてあり、その痕跡を探ってみても現在では見つからないのが残念なのですが、推測するに恐らくは、 吉備町(きびちょう)は、和歌山県の中央部、有田郡のほぼ中心に位置していた町である。(wikipedia 吉備町(和歌山県)) ●「和名類聚抄」紀伊國在田郡吉備 徳島県と和歌山県の地名は写し鏡の位置に御座いますので、 答え合わせをしますと、 岩利氏の記述通り阿南市周辺地域であったと考えられます。 そして弟財郎女の父である、 建忍山垂根(たけおしやまたりね)は、『古事記』等に伝わる古代日本の人物。穂積臣(穂積氏)の祖とされる。 ●系譜 系譜に関して『日本書紀』『古事記』に記載はない。娘に弟財郎女がおり、成務天皇の后となったという。 ●記録 『古事記』成務条において、成務天皇の妃である弟財郎女の父として登場する。また『古事記』、『日本書紀』、『常陸国風土記』に記される、倭建命の妃である大橘比売命・弟橘比売命姉妹の父でもある。穂積神社、忍山神社の祭神。(wikipedia 建忍山垂根より) この名前にある「垂根(たりね)」の解釈は、”たりね”と書いて「足尼(すくね)」と同じと考えられ、また、『記紀』の神名によく見られる「忍(おし)」は、言葉が話せない者を意味する唖(おし)に通じ、これの起こりは、 おし【唖】《「おうし」の音変化》口がきけないこと。→聾唖(ろうあ) →聴唖(ちょうあ)(weblio辞書デジタル大辞泉より) …で、都佐国造が称した凡直、そして悪魚退治は四国を南から東へとぐるりと回った、 讃岐氏(さぬきし、さぬきうじ)は、日本の古代氏族。 神櫛皇子を始祖とする皇別氏族。讃岐国を本拠地とし、皇子3世が讃岐国造を賜ったことによってに始まり、同国で繁栄した氏族。 ●概要 神櫛皇子は12代景行天皇と五十河媛との間に生まれ、讃岐国に下る。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、応神天皇期、皇子の3世孫の須賣保禮命が国造に定められたとされる。 その子孫は一時期を除き代々これを世襲し、この地域を治めた。敏達天皇期に「紗抜大押直」(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜り、さらに庚午年籍で「大押」を改め「凡直」(おおしのあたい)となる。奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となるが、後に凡直千継(おおしのちつぐ)の時、延暦10年(791年)「讃岐公」へ改賜された。(wikipedia 讃岐氏より抜粋) …と、いずれも凡直の姓を名乗った氏族が随所に見られます。 従って、悪魚退治の範囲となった四国(讃岐・都佐・粟、そして伊予)にみられる大己貴命後裔氏族からなる「凡(おおし)直」姓の一族が、いずれも国造となり統べている地域であるということになります。 「さぬきの歴史」さんのブログにある図を抜粋させてもらいまして、 凡直の分布はおおよそ上図の様ですが、これと同時に一考する件としては、 佐伯部(さえきべ)は古代日本における品部の1つであるが、ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を平定する際、捕虜となった現地人(ヤマト王権側からは「蝦夷・毛人」と呼ばれていた)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。 ●概要 『日本書紀』によれば、日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三諸山(三輪山)の山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人を脅かすので、「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えており…云々(wikipedia 佐伯部より抜粋) …と書かれており、また同時に、日本武尊とその子の時代の治めていた地域を少し抜粋しますと、 ●12代景行天皇の子の治めた国 ・神櫛皇子は讃岐公(讃岐国造) ・大碓命が身毛津君等祖(牟宜都国造 牟岐町) ・稲背入彦皇子が播磨直祖(播磨国造) ●日本武尊の子が治めた国 ・息長田別王(阿波君ら祖) ・建貝児王(讃岐綾君の祖) ・十城別王(伊予別君の祖) …となり、佐伯部と同じくして当時の皇族が治めた場所が丸被りしていることも特筆すべきで件であると考えます。 これ等を踏まえて考えますと、四国には景行天皇の子孫がたくさん居ながらも、子の日本武尊の「定説における」征伐ルートは、支族の居る四国以外となっていることも面白いのではないでしょうか。 これらの関係については考察がより長くなるので詳しくはここでは書きませんが(書かんのかい)既に長くなってきているので先に進めていきます笑 話を戻しまして、 『記紀』には日本武尊が死後白鳥となって舞い降りたとの伝承がありますが、妻の名である弟橘比売命と同名の阿南市橘町には、「はくちょう(白鳥)」の異名である鵠(くぐい)の地名もあります。 これらの日本武尊存命時~成務天皇治世時の痕跡は、この徳島県沿岸部にある阿南市周辺に密集して点在しています。 さて、初代波多国造となった天韓襲命、同神説もある韓背足尼ですが、支族を調べますと、 波多氏(古代) 波多氏(はたうじ)は、「波多」を氏の名とする氏族。●皇別氏族(武内宿禰裔) 武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。姓は臣のち朝臣。 八多(八多朝臣)、八太(八太臣)、羽田(羽田臣・羽田朝臣)とも表記される。大和国高市郡波多郷の地名に由来し、高市郡にあった延喜式内社の波多神社を氏神とした。 ほうほう、先の高知坐神社の記述などからも皇別氏族の波多氏と深く関係しているのは間違いないでしょうな(´・ω・`)●皇別氏族(息長氏族) 応神天皇の孫である意富富杼王を祖とする。姓は君のち真人。八多(八多真人)、羽田(羽田公・羽田真人)とも表記される。●皇別氏族(日本武尊裔) 日本武尊の子である武養輦命を祖とする。姓は君。 そうです、武養輦命(建貝児王)もそうですが、もう一人の日本武尊の子の息長田別王(阿波君らの祖)もですヨ。上の氏族と被るんちゃうのかな(´・ω・`)●地祇系氏族(波多国造)(姓は君) 崇神天皇の代に波多国造となった天韓襲命の後裔。天韓襲命は事代主神の子(または孫)の観松彦色止命の後裔で、長国造・都佐国造の祖である韓背と同人とされる。 宝賀寿男は、建田知命の後裔に天韓襲命がいることから、尾張氏族であると主張した。 ほうほう、わざわざ地祇系と区別する必要もないのは上記により歴然ですゼ(´・ω・`)●渡来系氏族(百済族) 百済人である佐布利智使主の子孫。姓は造。●渡来系氏族(坂上氏族) 坂上志拏の三男である阿良を祖とする。姓は忌寸。(wikipedia 波多氏より抜粋) …ということで、皇別氏族における「波多氏」の姓は真人及び君ですから、わかりやすいですね。 因みに、応神朝の御世に、粟国造となったとある千波足尼(ちはのすくね)は、 阿波女神社(大粟神社)宮主祖系では、---------------------------------------------------------------- 若室神 葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ 天磐門主神 健豊神 健忍方神 多久理彦神 八倉主神 宇賀主神 畠多神 千波足尼ナルベシ---------------------------------------------------------------- …だそうですヨ。 ➨ぐーたら気延日記:「まとめ:大宜都比売命の裔(2)」 上記の素材を融合すれば真実(に近づく)が分かるかも知れませんね。 あまり纏めにはなっていませんが、最後に、崇神天皇が、「神の教えによって」国造に定められたとあるのが天韓襲命(あまのからそのみこと)。 崇神『記紀』を読むと内容的におおよその目星がつく訳ですが、これが天(あま)から来た韓襲命(からそ=からす)で、同祖である長国造の韓背足尼(からせ=からす)なんでしょうな。 …ということで、個人的な解釈としまして、少名(すくね)の称号で韓半島に行き来していたと考えられる人物、 初代長国国造の、韓背足尼は、(からすのすくね)の意であり、同時代の烏(碓)の名の付く皇族の二名、大碓皇子or小碓命が居ることからも、成務と同世代の凡姓に繋がる皇族の人物であると考えます。(うん、ちっとも纏まってないな笑) 因みに記録上では、 景行天皇40年7月 大碓皇子を美濃に封じる 景行天皇41年 日本武尊病没 景行天皇60年11月 景行天皇崩御 成務天皇元年1月 志賀高穴穂宮で即位 成務天皇4年2月 国郡に首長を任ずる詔を出す 成務天皇5年9月 前年の詔を実施。国郡・県邑それぞれに国造・稲置を置き、山河をもって国境とする …の流れですから、成務天皇が政治をするまでには既に大碓皇子と小碓命は亡くなっています。(あくまで記紀の内容を素直に信じるとということで) …ということは、成務時代の「足尼」の称号から、 この人ちゃいまっか(´・ω・`) ➨ぐーたら気延日記:「岐神再び(追記)」によると、 観松彦伊侶止命が三島溝咋耳の九世孫(=韓背足尼)であったと仮定すると、開化天皇~崇神天皇代となり、当代に天韓襲命を波多国造に任命したという意味からも、wikipediaにある韓背足尼との同神説はあながち無しとは言えませんね。(比定時代が飛躍するのはもう仕方ない) 仮にこれを息長宿禰王に比定すれば、その娘g… おっと時間が来たようだ… ~・~オマケ~・~ 「国造本紀」には、東征に功績のあった(大倭国に案内した)椎根津彦命を後に大倭国造(大和直の祖)に任命したとありますが、椎根津彦命の別名は、珍彦(宇豆彦命:うずひこ)で、籠宮主祭神天孫彦火明命第四代海部宮司家四代目の祖。 鳴門の渦潮は有名ですが、”うず”は”うす”(碓)と同音ですよね。(まぁわざわざ「珍」と書いて普通は”うず”とは読みませんが笑) 「珍」を「碓」(からす)に置き換えますと?どなたかと同じ名前になりますね。 一応「国造本紀」の序にも、「…椎根津彦は答えて申しあげた。私は、皇祖火々出見尊の孫で、椎根津彦です。」と。 火々出見尊(ホオリ)の孫は誰やねん!という訳で、水先案内人として描かれる人物が大倭国造になったんですから、通説で古代の奈良県で一番偉い方は誰だったのかを考えたらわかりますね。(最後小学生レベル)