「勾玉から考察①」からの続きとなります。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 まずは天之日矛とその妻の阿加流比売ですが、wikipediaによれば、

 

 アメノヒボコは、記紀等に伝わる新羅の王子。父は新羅第4代国王脱解王(脱解尼師今)とされる。

 『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。

 『日本神話』・『古事記』等では帰化人、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。アメノヒボコ曰く、父の国を探しに日本に訪れたとされる。なお、父親に当たる脱解尼師今は、『三国史記』によれば多婆那国の王妃の子とされ新羅へ渡来し新羅王となった。多婆那国は但馬・丹波地方とする説が有力であり、アメノヒボコも同地域に上陸している。

 

 ●記録

 『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅王子という天之日矛が渡来したとし、その渡来の理由を次のように記す。

 新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

 天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾の社の阿加流比売神であるという。

 天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾の娘の前津見を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える。(wikipedia アメノヒボコより抜粋)

 

 阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する女神。

 

 ●概要

 『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。 

 『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。

 神名の「阿加流」は「明る」で「比売」への美称と解し、名義は「色美しくつやのある女性」と考えられる。また日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とする説もある。

 

 ●赤瑪瑙丸玉 ふむふむ太陽のイメージね(´・ω・`)

 

 ●神話の記述

 『古事記』では応神天皇記に記述がある。

 昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

 天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

 

 ●『摂津国風土記』逸文

 『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。

 応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。

 

 ●解説

 『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が東アジアに多く伝わっている。例えば扶余族の高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、倭より渡った新羅王族昔氏の伝承、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうである。

 『古事記』に記述された「難波の比売碁曾社」に相当する神社として大阪市東成区東小橋の比売許曽神社があるが、現在、この神社の主祭神は大国主の娘の下照比売命とされている。

 「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社である。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとある。

他に同名の姫社(ひめこそ)神社は岡山県総社市福谷にあり、阿加流比売(神社伝承による)が祀られている。

 

 ●系譜

 太陽神と新羅の賤女の子で、新羅王子の天之日矛の妻となる。なお比売許曽命は天津彦根命の娘と伝える系図があり、太陽神の子とする伝承と一致する。(wikipedia 阿加流比売神より抜粋)

 

 まず、この「阿具沼」について少し触れておきますが、國學院大學古事記学センターの解釈では、

 

 「名義について、「アグ」は小児を意味する朝鮮語の「アギ」に由来すると捉え、「御子沼」の意味であると解釈する説がある。「アグ」を天の香久山の「カグ」のように「輝く」という意味をもつ語ではないかと推測する説もある。また、「奴摩」を「沼」としたのは日本語音による誤解であり、新羅の官名「奈麻」の訛伝であると解釈し、本来は「阿具奈麻」という人名であったのではないかとする説もある。
 伝承地は未詳とされ、「阿具奴摩」と一字一音で表記したのは異国らしさを示すためで、現実に新羅国に存在した特定の沼に当てはめるべきではないとする指摘があり、神話上・伝承上の存在であると解釈されることが多い。」(國學院大學阿具奴摩より)

 …との考察があり、新羅国に阿具奴摩(阿具沼)という沼が実際に存在したのかは未詳であるため、観念性が問われています。

 

 また、同説話上に登場する「赤玉」についてですが、

 応神記、天之日矛の説話中によれば、この阿具沼の辺に居た女性の陰部に虹の光が差し込んだことにより孕んだ玉であり、この玉の正体が、後に天之日矛の妻となった阿加流比売であると記します。

 後段では夫婦喧嘩がきっかけで天之日矛のもとを去り、それを天之日矛が追いかける内容として描かれております。

 

 さて、『古事記』によりますと、イザナギによって海を治めよと命じられたスサノオは、命令に従わず母の居る根の国へ行きたいと懇願したため、父イザナギの怒りを買い、未詳の場所から追放されます。

 その際、姉のアマテラスに挨拶するために高天原へと向かいましたが、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えていたため、スサノオは自身の疑いを晴らすために宇気比(誓約)をすることになりました。

 アマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、宗像三女神が生まれ、一方のスサノオは、「乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而」アマテラスの持っている「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、五柱の男神が生まれました。

 スサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」といい、スサノオの勝利。

 従ってスサノオとアマテラスは、宇気比でそれぞれが持つ神器を交換し、娘を得たスサノオを勝利者として描いています。

 つまりここでスサノオが、八尺の勾玉=赤玉の娘を得たということです。

 

 「粟国造粟飯原氏系図」によると、

 

 月夜見命=健速須佐之男命=勝速日命(天之忍穂耳命)とあり、「宇気比」によって剣と玉を交換したことにより、自身の分身が次世代へとスライド。

 

 剣から化生した神であるアマツヒコネはwikipediaによると、

 『日本書紀』では、アマテラスの玉から生まれたので、アマテラスの子になるとする。子に天目一箇神と比売許曽命がいる

 …と書かれてあり、

 

 ●「下照比売と赤留比売」鈴木真年『百家系図』より

 

 『諸系図』の御上祝の系図からは、天津彦根命(波多都美命=私説においては=玉祖命)の子として、天目一箇命と共に、天日矛命の妃神として比売許曽命(息長大姫刀自命)の名が見えます。

 

 一方、天之日矛の説話では、小舟で難波へと逃げてしまった妻を追いかけたものの、途中で嵐に遭遇しやむを得ず引き返したとある但馬国に留まり、そこで多遅摩之俣尾の娘の前津見を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖を儲け、その多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后)に至る系譜を伝えます。

 同説話の内容からは、妻の比売許曽命(=阿加流比売)とは離別したままであるかのような記述となっています。

 

 …しかしながら、天之日矛の血を引く末裔の神功皇后(=息長帯比売命)も、天津彦根命(波多都美命)の子である比売許曽命(阿加流比売)(=息長大姫刀自命)も、共に製鉄や海人と密接な関係が指摘される「息長氏」であったことがお分かり頂けるかと思います。

 

 更に付け加えるとすれば、天皇系譜の父系すらも息長氏ですな。

 

 次に、波多都美命とは別のもう一つの”ワダツミ”となる、海神綿津見神の娘の豊玉姫について調べてみますと、

 

 豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)は祭神を豊玉姫としその名を冠した神社。トヨタマヒメは安産の神として全国の各所に鎮座している。

  • 鹿児島県南九州市知覧町:豊玉姫神社 (南九州市):水車からくりで有名
  • 鹿児島県指宿市:豊玉姫神社 (指宿市):1980年ごろ白い蛇が目撃された。
  • 佐賀県嬉野市:豊玉姫神社 (嬉野市):祭神は豊玉姫大神・住吉大神・春日大神。
  • 香川県豊島:豊玉姫神社
  • 香川県男木島:豊玉姫神社
  • 徳島県徳島市:天石門別豊玉比賣神社 (延喜式内社)(春日神社 (徳島市)境内)
  • 徳島県徳島市不動西町:和多都美豊玉比賣神社(雨降神社)(延喜式内社)
  • 千葉県香取市:豊玉姫神社(wikipedia 豊玉姫神社より)

 

 …とあるように、式内社としての豊玉比賣神社は「阿波国」のみであり、ぐーたら気延日記(重箱の隅)「二つの豊玉比賣神社(下)」によりますと、この天石門別豊玉比賣神社の考察において、出口延経「神名帳考証」の説明では、

 

 この神は、「玉作部遠祖豊玉者造玉と記されてあり、また、鈴鹿連胤「神社覈録(じんじゃかくろく)」の説明では、

 

 ぐーたら気延日記(重箱の隅)「二つの豊玉比賣神社(下)」より画像拝借<(_ _)>

 

 比保古云、天明玉命也、櫛明玉天明玉豊玉比賣神者、同神異名而作玉神也」云々…「一書に、玉作部遠祖豊玉者造レ玉云々

 …と記されてあり、恐らく社名自体が「豊玉比賣」とあることから、「祭神明か也」としながらも、「比保古(天日矛)云う。天明玉命なり。」云々…の異名同神との説を唱えておられており、若干の混同が見られるようです。

 しかしながら、天之日矛の説話の内容や、「神名帳考証」を見て頂くとお分かり頂けるかと思いますが、あくまでもこの社の御祭神は、豊玉者(櫛明玉命=玉祖命)の方ではなく、豊玉者の作った「玉」の方をお祀りしているのです。

 

 つまり、「忌部氏系図」にある、天日鷲翔矢命の弟神である櫛明玉命=玉祖命は、赤玉=阿加流比売の「親」であるから、玉祖命(たまのおや)の神名でもあるんですね。

 

 従って、阿加流比売は、天日矛命=波多都美命=海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘である豊玉毘売のこと。

 

 香春神社(かわらじんじゃ)は福岡県田川郡香春町にある神社。式内小社、旧社格は県社。

 

 ●概要

 延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。

 

 ◆祭神

  • 辛国息長大姫大目命
  • 忍骨命
  • 豊比売命

 日本三代実録は、豊比売命辛国息長大姫大目命と同一している。なお比売許曽神社の祭神阿加流比売神の別名が息長大姫刀自命とされる。  

 社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」と書かれている。(wikipedia 香春神社より抜粋)

 

 唐土たう-ど もろ-こし:【名詞】 「中国」の古名。中国南方の越(えつ)の諸国の意の「諸越(しよえつ)」の訓読からともいう。「唐土(たうど)」とも。(学研全訳古語辞典)

 

 「香春神社神幸祭」によれば、辛国息長大姫大目命(大自命)と記されており、「香春神社」も、「香春(かわら)神社は、香春岳の一、二、三ノ岳に祀られていた辛國息長大姫大自命(からくにおきながおおひめおおじのみこと)」云々とあり、福岡県ではおおよそ「おおじ」の方が多いですな。

 

 因みに息長大姫刀自命の「刀自」は、

 

 刀自:とじ:《「戸主 (とぬし) 」の意で、「刀自」は当て字》年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ称。名前の下に付けて敬称としても用いる。(goo辞書 刀自(とじ)の意味)

 

 ●葬儀などで使われる神道の謚

 ・  3歳迄 → [男性]嬰児(みどりご)     [女性]嬰児(みどりご)
 ・  6歳迄 → [男性]稚児(ちご、わかいらつこ)[女性]稚児(ちご、わかいらつめ)
 ・15歳迄 → [男性]童男(わらべ)      [女性]童女(わらめ)
 ・19歳迄 → [男性]彦、郎子彦(ひこ)    [女性]姫(ひめ)
 ・40歳迄 → [男性]郎男(いらつお)     [女性]郎女(いらつめ)
 ・70歳迄 → [男性]大人(うし)       [女性]刀自(とじ)
 ・70歳超 → [男性]翁(おきな)       [女性]媼(おうな)

 

 …で、おおよそ想定される年齢的イメージが浮かんできます(´・ω・`)

 

 社前には「息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比」とあり、神代がいつの頃を指すのか分かりませんが、中国の経営のためにこの姫が海を渡り、崇神朝に帰座したとありますね。

 

 ではお次に、豊比売命を調べてみますと、

 豊比咩神社(とよひめじんじゃ:福岡県久留米市御井町御井)式内社(名神大)。旧県社。現在は摂社として本殿に合祀。祭神:豊比咩大神(豊玉姫命)
 
 延喜式に「三井郡豊比咩神社 名神大」とあるは当社の事也、其創建は、民部省図帳残篇に「筑後國豊比咩明神、神貢68束、淳和天皇天長4年伊勢邦より御遷宮」とあり(此に従ふ時は豊比咩神は豊受姫神なるべけれど神功皇后の御妹豊比咩命あり社名にも合すれば、或は誤伝にてもあるべきか、又豊玉姫命を祭神とせし事も、別に拠所も見ず、社名に従ひて豊比咩神を祭神とせんこと或いは正しからむ)仁明天皇嘉祥3年12月從五位下を授けられ(天慶7年の解文)文徳天皇天安元年10月、封戸並に位田を允てられ、翌2年5月殊に封十七戸を授けられ、從五位上に進み、清和天皇貞観元年7月官社に列し、同6年從四位上となり、同11年3月正四位下となり、寛平9年正四位上に陞叙し給へるなど、朝廷の崇敬り特に厚かりし名社なるが、其実蹟詳ならす、或は御井郡上津荒木村に乙姫社といふ小祠あり、是なりともいひ、又同郡塚島村に大石にて築ける大塚ありて、里民昔より豊姫ノ宮といふ是かともいひ、又同郡大城村の蛭尾に大石二ッあり、里人是をも豊比咩神といふも、(筑後志に拠る)何れも確証あるにあらす。
 抑も當社の鎮座地はもと高良山中なりし事は、天安2年玉垂命神社及比咩神等の正殿火災ありて、位記皆焼損すと古文書に見え、又現存する神位記も一紙に記されたるにても知られ、長保5年の十講念縁起文に、両宮権現九王子とある両宮は、即ち玉垂命と当社とを指し、足利家の判物に当社姫神とあるもおなじ御事にて、其頃までは疑はしき事もなかりしものと見えたりとの説ありて、今此社の社傅に元禄年中古社の湮滅を嘆き小殿を営みたりしを、明治2年此処に遷座せりといへば、素より旧跡地にはあらねど、地高良山の中腹に位するなど、其古へに近き心地せられて尊し、明治6年3月縣社に列す。
 社殿は本殿、拝殿、神門、廻廊を備へ、境内2098坪(官有地第一種)久留米市街を俯瞰し、風致良好なり。(明治神社誌料)

 

 社伝が誤伝かとの考察もなされているようですが、お次も同県に御鎮座される、

 

 高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)、高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。

 

 ◆祭神

  • 正殿:高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) - 神紋は「横木瓜」、神使は「烏」
  • 左殿:八幡大神(はちまんおおかみ) - 神紋は「右三巴」、神使は「鳩」
  • 右殿:住吉大神(すみよしおおかみ) - 神紋は「五七桐」、神使は「鶴」

 この他、本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されている。高良玉垂命とは夫婦との説もある。

 

 ●歴史

 高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。(wikipedia 高良大社より抜粋)

 

 ふむふむ、なかなかに面白い伝承ですなぁ(*´ω`)

 

 また、『古事記』:海幸彦と山幸彦 の豊玉毘賣の歌を見てみますと、

 (原文)(読み下し文)(現代語訳)

 

 阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理」

 

 赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」

 

 赤くかがやく玉は、紐まで赤く光るくらいきれいですが、白玉のようなあなた様のお姿こそ、より気高く貴いものです」

 

 …と、自身を「赤玉」になぞって歌を詠んでおり、山幸彦の返しの歌では、

 

 「意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇」

 

 「沖つ鳥 鴨著(ど)く島に 我が率寝(いね)し 妹(いも)は忘れじ 世のことごとに」

 

 「鴨の飛んで来る島で、私が共寝をした愛しいのことは、決して忘れないだろう、生きている限り」

 

 こちらは「妻」である豊玉毘賣のことを「妹」として歌を詠んでいます。

 

 これを一般的解釈では、「妹」は血縁上の妹を指すというよりも、この場合は愛しい女性をあらわす言葉として使われている。

 …としています(´・ω・`)まぁこのようなくだりは記紀ではよくありますよね。

 

 さて、例の如く系譜上の理論考察としては、

 スサノオが化身して次代へとスライドしたことは、アマテラスの化身でもある宗像三女神も同様で、赤玉=豊玉毘賣=宗像三女神(アマテラスの化身)=玉祖命の娘。

 宗像三女神のうち多紀理毘売命と多岐都比売命の二神の夫が大己貴命、この場合は山幸彦(彦火火出見)です。

 妻の豊玉毘賣には玉依比賣という妹がいますが、こちらは更に次の世代の鵜草葺不合命と結ばれています。

 これが宗像三女神の最後の一人の市寸島比売命であり、『播磨国風土記』にある大汝命(大己貴命)と弩都比売の子の天火明命と結ばれるのです。

 

 ●火明命の出生順(見事にバラバラですな)

 

 ニギハヤヒ:邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)は、日本神話に登場する神。
 
 ●概要
 『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。他の別名として、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)、櫛玉命(くしたまのみこと)、櫛玉神饒速日命(くしたまのかみにぎはやひのみこと)がある。
 
 『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」といい天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。また物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝える。(wikipedia ニギハヤヒより抜粋)
 
 こちらは男のアマテラスの方ですな(´・ω・`)

 

 この海部氏の始祖、天火明命が邇邇芸命(=大己貴命)の兄なのですから、実際市寸島比売命は親(世代)の櫛玉命と結婚したことになります。

 

 「忌部氏系図」(男系スサノオパターン)で説明しますと、

 

 仮に天背男命を基準「自分」として、その「子」となるのは天日鷲翔矢命。

 その弟に櫛明玉命で描くことで「兄・弟」を、そして妹となる天比理乃咩命と結ばれることで「親」が次代へとスライドしての「夫として描くその実は全てが自身(の分身)であるというトリックです。

 

 さてさて、スサノオと共に新羅に赴いたのは子の五十猛命ですが、以前この五十猛命が天村雲命と同神であるとの考察を致しました。右矢印天村雲命から考察

 

 その天村雲命は、「阿波國続風土記」によると、櫛明玉命(玉祖命)と同じ天日鷲命の弟とあります。

 

 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)は、日本神話に登場する神。

 

 ●概要

 別名を天押雲命、天村雲命(あめのむらくものみこと)、天二上命(あめのふたかみのみこと)、後小橋命(のちおばせのみこと)と伝える。

 

 ●系譜

 は天児屋命で、は豊甕玉命の娘・天美豆玉照比売命、または栲幡千々姫命とされる。

 阿俾良依姫命または国主稲積命の娘・迦賀和加比売命で、子は天種子命(天多禰伎命:中臣の遠祖)とされる。(wikipedia 天押雲根命より抜粋)

 

 吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。

 

 ●系譜

 『古事記』によれば、「阿多之小椅君」の。同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。

 夫 神武天皇 (wikipedia 吾平津媛より抜粋)

 

 阿多之小椅君の妹とは、即ち天村雲命の妹ということね。

 

 このイワレヒコ(神武天皇)も、山幸彦と同じく諱は「彦火火出見」であり、その妃の吾平津媛との間にも、東征する以前の日向にいた時に既に子をもうけておりましたが、後に事代主命の娘の富登多多良伊須須岐比売を皇后としたことで正妻から退いた経緯があり、この辺りはやはり山幸彦と豊玉毘賣、果ては天之日矛と阿加流比売の説話とも酷似しております。

 

 仮に『古事記』:海幸彦と山幸彦で描かれる内容をそのまま神武天皇に当てはめた場合、

 

 山幸彦の豊玉比売神武天皇(彦火火出見)の阿比良比売(天村雲命

 

 そして同時に本稿版で記するならばこれが、

 

 天村雲命の阿俾良依姫命天日矛玉祖命)のの阿加流比売(赤玉)

 

 …となりますね。(もうこれでいいよね?)

 

 このような考え方は人によっては、妹を妻とする、子と結婚する等という考え方よりも、妻が(義理の)妹になったや、(義理の)息子と結ばれたことで(義理)の娘になったと考えた方がしっくりくるのかも知れませんね。

 

 さて、wikipediaによれば、難波の比売碁曾社の主祭神は大国主の娘の下照比売命のようで、

 

 比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)は、大阪市東成区にある神社である。旧社格は村社。式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一社である(もう一社は高津宮摂社・比売古曽神社)。

 

 ◆祭神

 下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。

 『古事記』には、新羅から来た阿加流比売神が難波の比売碁曽の社に坐すと記されており、『日本書紀』にも同様の記述がある。ただし、『延喜式神名帳』では下照比売社が比売許曽神社であると記し、阿加流比売命を祀る赤留比売神社は住吉郡に記している。

 なお三上氏の系図には天津彦根命の娘に比売許曽命(息長大姫刀自命)がおり、天日矛命の妻と伝えている。

 

 ●歴史

 垂仁天皇2年7月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まると伝えられる。顕宗天皇の時代に社殿が造営された。延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されている。当社の境外末社・産湯稲荷神社がある地が旧鎮座地と推定されている。

 天正年間、織田信長の石山本願寺攻めの兵火に遭って社殿を焼失した。社伝では、神体は焼失を免れ、摂社であった現在地の牛頭天王社内に遷座したと伝えているが、事実かどうかは不詳である。

 天正以後は荒廃し、所在が不明となっていたが、天明8年(1788年)、ある者が比売許曽神社の旧記神宝を発見したと唱え、それに基づいて比売許曽神社の縁起が編纂され、牛頭天王社を式内・比売許曽神社に当て、下照比売命を祀ってこれを主祭神とした。『大阪府神社史資料』では、その縁起は「信ずべきものにあらず」と記している。

 明治5年に村社に列した。(wikipedia 比売許曽神社より抜粋)

 

 …と何とも怪しい御由緒ではありますが、

 旧鎮座地(推定)となる産湯稲荷神社(大阪府大阪市天王寺区小橋町3−1)を調べてみますと、

 

 

 創建年代不詳

 そもそもこの地には名神大社「比売許曽神社」が鎮座しており、産湯稲荷はその摂社であったとする。後年、産湯稲荷神社が旧鎮座地に再建された。

 

 ◆祭神 宇迦之御魂神下照比売命、大小橋命の三柱を祀る。

 

 ●玉之井

 

 ◆由緒

 この井戸は、下照比売命の兄で、迦毛大御神(かものおおみかみ)とも言われる賀茂氏の祖神「味耜高彦根命」が味耜山あじすきやま(小橋山おばせやま、愛具目山あぐめやま)に降臨して掘り当てた井戸と伝わり、日高清水あるいは日高真名井とも称される。

 社記によると当地の開拓神である大小橋命は天児屋根命の十三世の後胤、ここ味原郷に誕生、境内の玉井を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。

 隣接する「味原池」は、天探女が天の磐船に乗って天降られた霊地とされている。

 『摂津名所図会』には、「下照比売、亦の名稚国玉媛或いは天探女とも号す。」…とある。

 

 ●奥のお不動さんと湧き水

 

 『和漢三才図会』には、

 「高津社は生玉社の北にある。祭神は比売古曽神。大国主命の女が始めて天磐船に乗って地上に降りられた摂洲東生郡高津がこれである。その船の祠を磐船大明神と号する。又、磐船社は東生郡にあるとするが今はない。」

 また『摂津名所絵図』には、
 「シタテルヒメを祀る磐船社と称する地は、高津宮の内に営み給ふ社の古蹟なり。」…とある。

 

 『摂津国風土記』逸文に、

 「難波高津は、天稚彦天下りし時、天稚彦に属(つき)て下れる神、天の探女、磐舟に乗て爰(ここ)に至る。天磐船の泊(はつ)る故を以て、高津と號す」…とある。

 従って磐船に乗って当地へと降臨したのは、大国主神と多紀理毘売命との間の子、兄の天稚彦(味耜高彦根命)と妹の天の探女(高比売命/下照比売命)ということですね。

 

 大阪府交野市にある磐船神社の御祭神は、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊。

 

 天の磐船に乗って河内国河上のヶ峯(たけるがみね)に降臨された。(”たけり”=多家=埃(たけり=え)とははてなマーク

 

 ●磐船神社の不動明王

 

 そして、もう一つの磐船となる、

 

 大阪府安倍野区阿倍野にあるのは、正一位 磐船稲荷大明神

 

 

 ご祭神は、産湯稲荷神社と同じお稲荷さんこと宇迦之御魂

 

 だいぶ繋がって来ましたなぁ(´∀`)

 

 ”たけり”ついでに次世代婚となる市杵嶋姫命についても補足しますと、

 

 ●神道大系 神社編三十九 安藝、周防、長門國 安藝國三社記

 

 安藝國佐伯郡嚴嶋大明神は祭神市杵嶋姫命也。上古、天照皇太神、素戔嗚尊と誓約の御時、素戔嗚尊の十握劒を索取玉ひ、打折て三段とし、天ノ眞名井に濯すすき嚙然咀嚼吹棄し玉ふ、其第一に生玉ふを田心姫と云、第二に生玉ふを瑞津姫と云、第三則市杵嶋姫也

 本傳は化生に非す。天照神自ら生玉ふの神、則此三女の神なり。此市杵嶋姫命は生なからにして御仁心世に勝れさせ玉へり、故に御名を伊都伎嶋姫命と称する。蓋し仁の字を伊都久志美と訓す。則仁の倭語也。且美と麻と倭訓同し、其後、皇太神三女の神に告て宣く西海の道中に降り、天孫の為に助ヶ祭しとあり。仍て市杵嶋姫は筑前國瀛嶋に祭ル、今に其社地あり。此嶋大洋の中にありて、大嶋を距てて三十里方は乾の位なり。田心姫は同國大嶋に祭る、神の湊を距事三里方は子の位なり。瑞津姫は同田嶋村に祭る。古昔筑前より京師に上るの驛路なれば、上古之を西海の道中といふ。奮書に見えたり。而して後三女の神を又豐前の國菟狭の嶋に祭る。八幡の同地なり。

 仰嚴嶋御鎮座を恭しく考奉るに、人皇の初、神武天皇四十五歳の御時、諸の御兄幷御子達に語て宜く、天祖瓊瓊杵尊降臨ましましてより以来一百七十九萬二千四百七十餘歳。然ルを遼邈の地、猶いまた王澤にうるほはす、遂に邑に君あり。村に長ありて各自からさかひをわけて用て相崚ききしらふ。又東に美地ありと聞、靑山四方に周なり。蓋し國の中心なるへし。何そ行くて都つくらさらんやとて大歳甲寅、其年十一月丁巳朔辛酉ノ日、天皇自ら舟師をひきいて東を征玉ふ。それより西に行、筑紫菟狹に至り玉ひ、同十二月丙辰朔壬午ノ日に安藝國に至り、埃宮に居玉ふ。

 埃宮は今のいつくしまの地なり。天皇此嶋に御船を着玉ひてより、明卯年の春三月まて此所にましまし玉ふ。時しも冬の最中、四方の山頭白々として天明らかに、月くまなく雪を照せし景色、類ひなき事を称玉ひて天皇音上ヶ宣く、可愛たりや可愛たり、月を雪とをとの給ひしより此所を埃宮と云。今宮嶋といふは埃宮の半語なり。即ち上古の宮なり。云々… 只今イメージを頭に映像化中...

 

 情報を一通り列記したところで、そろそろ次稿辺りでまとめに入りたいと思います。(´・ω・`)ノ