◆吉野川(よしのがわ)

 

 ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭、学名: Phragmites australis)は、イネ科ヨシ属の多年草。河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成する。

 

 ●日本語における原名

 和名ヨシの由来は、もともと本来の呼び名はアシであったが、「悪し」に通じるため、「ヨシ」と言い換えられたものである。日本の在来植物で、『日本書紀』に著れる日本の別名「豊葦原千五百秋瑞穂国」とあるように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである。『更級日記』においても関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている。

 8世紀、日本で律令制が布かれて全国に及び、人名や土地の名前に縁起のよい漢字2字を用いる好字が一般化した。「アシ」についても「悪し」を想起させ縁起が悪いとし、「悪し」の反対の意味の「良し」に変え、葦原が吉原になるなどし、「ヨシ」となった。このような経緯のため「アシ」「ヨシ」の呼び方の違いは地域により変わるのではなく、新旧の違いでしか無い。現在も標準和名としては、ヨシが用いられる。これらの名はよく似た姿のイネ科にも流用され、クサヨシ、アイアシなど和名にも使われている。(wikipedia ヨシより抜粋)

 

 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界に「葦原中国」があり、一般的には、天照大御神の天岩戸事件により須佐之男命が高天原から追放された地であり、また須佐之男命の裔(または息子)である大国主神が、少名毘古那神と協力して天下を経営し、葦原中国の国作りを完成させたといわれています。

 後に、天照大御神の使者達によりその国土を天孫邇邇芸命に譲渡するよう要請され、息子兄弟の事代主神と建御名方神の了承・降伏を受け、宮殿の建築と引き換えに引き渡されたとされる地です。

 従って葦原中国とは、葦葉の茂る未開の土地をパイオニアとして開拓した須佐之男命とその子孫神達の活躍を描く「出雲」の地のことであり、また後に高天原より降臨した天孫邇邇芸命に「国譲り」という体裁で譲り渡された領土のことで、現在では我が国(日本)の国土全体を表す古称へと変化していきました。

 

 さて、以前に少し書きましたが、忌部研究家のH氏の講話の中に、「吉野」と名付く地名のあるところは忌部の入植した痕跡があるとの話を耳にした記憶が御座います。

 wikipediaの「ヨシ」にもあるように、「ヨシ」は元を辿れば「アシ」のことですが、この「吉野」の地名は奈良県南部にある吉野郡を筆頭に、福岡県や大阪府など多くの地域に見られ、徳島県にも板野郡吉野町や那賀郡那賀町吉野、海部郡海陽町吉野、そして徳島市渭北地区(いほくちく)には密集して、吉野本町、中吉野町、上吉野町、東吉野町の地名が点在し今に残っています。

 

 

 今回は、「記紀」などで描かれる「葦原中国」や「吉野」とされる地が一体どこのことであったのかについて、「神武東征」からその痕跡を辿ってみたいと思います。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 

 『古事記』神武条に、

 

 「自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。」

 

 南から回って血沼海に到着してその手の血を洗いました。それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。その地から更に回って、紀伊国の男乃水門に着いて言いました。「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」と雄雄しく振舞いましたが、死んでしまいました。その水門(ミナト=港)を名づけて男乃水門というようになりました。五瀬命の墓は紀伊の国の竈山にあります。」

 

 通説によると、初代天皇である神武(イワレビコ)は東征の際、登美毘古と交戦になり、日に向かって戦う(東に向いて戦う)ことがよくないとして、一旦南へ移動しそこから北上する作戦をとります。

 

 南から回って到着したのが血沼海(ちぬのうみ:茅渟は大阪府和泉地方の古名)であり、更に回って紀伊国の男乃水門(男水門顕彰碑建立地がある水門吹上神社の鎮座地の和歌山県和歌山市小野町)に到着したとあります。

 

 

 また、『古事記』には、当地の「竈山」にイワレビコの兄の五瀬命の陵があるとも記します。因みに五瀬命を祀る竈山神社が座す場所はココ下矢印

 男水門からは、やや東南方向にある小さな山上のようです。

 

 激しい戦闘の中、兄を失ったイワレビコ一行は更に南進し、

 

 「故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時」

 

 「神倭伊波礼毘古命はそこから南に回り、熊野村に到着しました。」

 

 廻って(紀伊とは明確にしていないものの)熊野村へと到達。

 通説では具体的な方角等は特に書かれていないものの、南下しないと和歌山県の熊野へは行けませんのでそのように要約されます。

 

 

 省略しますが、当地にて高倉下(たかくらじ)が手に入れた剣(布都御魂)をイワレビコが譲り受けた後、高木大神の命により高天原から遣わされた八咫烏に導かれた一行は、

 

 「從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時

 

 「教え通りに八咫烏の後をついて行くと、吉野川の川下に着きました。」

 

 かわ‐じり〔かは‐〕【川尻】 の解説

 1 川下。下流。

 2 川口 (かわぐち) 。(goo辞書 川尻(かわじり)より)

 

 イワレビコ一行は、吉野川の下流に到達したのです。

 通説による「神武東征」の大和に至るまでの経路では、いずれも奈良県南部にある「吉野の地(現五條市周辺)」に向かって北へと進路をとります。

 

 

 つまり通説の経路に沿うと、吉野川(紀の川)の上流側に到達した上で、更にそこを突き抜けて北上することになります。

 『古事記』に書かれてある通りですと、このような場所に「吉野河之河尻」があったということなんでしょうかねはてなマーク(´・ω・`)

 またなぜ案内者である八咫烏がこのような険しい山々を通過せざるを得なかったのか、普通の人であればチョット疑問に思いますよね。

 地図で見ると分かりにくいですが、非常に険しい山岳地帯の行軍となります。

 

 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話に登場するカラス(烏)であり導きの神。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。一般的に三本足の姿で知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。

 

 ●概要

 八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としている。(wikipedia 八咫烏より抜粋)

 

 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神

 麻植神(おえのかみ)、忌部神(いんべのかみ)とも。また高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)や天加奈止美命とも。(wikipedia 天日鷲神より抜粋)

 

 ザックリ書くと、紀伊(和歌山)経由で大和(奈良)へ入植したいイワレビコ(鹿児島人)を案内しているのは、阿波(徳島)人である八咫烏(天日鷲神)という構図です(´・ω・`)

 

 しかしながら、そこが吉野川の「河尻」でなければなりませんが、

 

 紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流。河川名は「紀伊国」に由来する。

 奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれるが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川(きのかわ)」が併記される(例:「よしのがわ(きのかわ)」)。地図や橋の銘板には吉野川と記される。(wikipedia 紀の川より抜粋)

 

 この紀の川の延長は136㎞、その水源は熊野の北部にある奈良県大台ヶ原であり、

 

 地形的にも吉野河の「河尻」は、前出した男水門(和歌山市)側となりますので、熊野側は逆の「河上」にあたりますよネ(´・ω・`)...

 従って『古事記』に書かれてある吉野河は、紀の川とは地形的に全く符合しない、ここではないということになります。

 

 この「到吉野河之河尻」で出会ったとあるのが、

 

 「爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖

 

 「天津神の皇子(イワレビコ)が「あなたは誰ですか?」と聞くと「私は国津神です。名前は贄持之子(ニヘモツノコ)といいます」と答えました。ニヘモツノコは阿陀(アダ)の鵜飼の祖先です。」

 

 『日本書紀』での対応箇所では、

 

 「及緣水西行、亦有作梁取魚者。(梁、此云揶奈。)天皇問之、對曰「臣苞苴擔之子(苞苴擔、此云珥倍毛菟。)此則阿太養鸕部始祖也。」

 

 水(かは)に縁(そ)ひて西に行きたまふに及びて、亦梁(やな)を作(う)ちて取魚(すなどり)する者有り、天皇問ひたまふ。対へて曰さく、「臣は是苞苴担(にへもつ)が子なり」とまうす。此れ則ち阿太(あだ)の養鵜部が始祖なり。」

 

 吉野川を沿って「西」へと行くと、阿陀(阿太)の鵜飼部(養鵜部)の(始)祖のニヘモツのコが居たと書かれてあります。

 

 贄持之子(にえもつのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『書紀』では、苞苴担之子(にえもつのこ、にえもつがこ)と表記される。阿太の養鸕部の始祖(『古事記』では、「阿陀(あだ)の鵜養(うかい)の祖(おや)」と記される)。

 

 ●考証

 「贄」は神または天皇に供する貢納物(山野河海の食料品)の一種で、はじめは共同体の首長が神に貢納していたものが、地方首長の天皇への貢納物へと変化していった。天皇はそれらを口にすることで、その領有権を確認していた。「苞苴」とは、わらづと(わらなどを束ね、中に食品を包んだもの)、贈り物、みやげものを指す語であり、「にへもつのこ」で、神や天皇に捧げる食物を持つ者という意味になる。(wikipedia 贄持之子より抜粋)

 

 しかしながらここでも文章の説明通りで解すると、吉野川(紀の川)を西に沿って移動した場合、やはりそこは大和ではなく、再び紀伊の男水門側へと逆戻りしてしまうことになります(´・ω・`)通説だと北に行かんとあかんからね!

 

 そしてその地が「阿太(陀)」ということのようですが、まず、文中に書かれてある「鵜飼・養鸕・鵜養」部は、読んで字の如く鵜を養う部のことであり、鵜は潜水が得意なことから、我国では鵜を使って漁をする伝統漁法が現在でも有名です。

 

 「鵜(う)」漆黒ボディーのコイツ下矢印

 ペンギン程ではないものの、水中で約1分間も潜水行動ができる、つまり息が長~い「鳥」のことデス鳥

 

 漢字の成り立ちは、会意兼形声文字(弟+鳥)。「ほこ(矛)になめし皮を順序良くらせん形に巻きつけた形」の象形(「順序」、「弟」、「従う」の意味)と「鳥」の象形から人に従う鳥を意味する。

 

 

 また、wikipediaの鳥養部によりますと、谷川健一氏は、天湯河板挙と少彦根命との関連性を挙げ、雷神である饒速日命を祖神とする物部氏は鳥養部を管轄していたのではないか、と見ている…ともあります。

 この「鳥」とは一体何を指すのでしょうかねはてなマーク(意味深)

 

 さてさて、本編考察に戻りまして、

 現在の通説解釈から説明致しますと、江戸時代の国学者である本居宣長は『古事記伝』にて、吉野河之河尻の「河尻」は「川上(現在の川上村)」の書き間違いであるとしています。

 

 

 また現在の五條市には、「アタ」の地名が残ることから、吉野河下流にあったとされる阿田・阿太は当地のことであるとして、「紀」の記述も踏まえて、川上村(つまり紀の川上流)から川を沿って西にある現五條市へ移動したのだとします。

 

 

 当地にある「阿太」はここだと言わんばかりに、阿太峯神社という神社もご鎮座されております。

 

 御祭神は、大国主命 少彦名命 石清水八幡神

 

 そこには神武東征とは全く関係のない、しかも阿太(薩摩国阿多)にも全く関係のない出雲(島根県)の神が祀られてありますが...(´・ω・`)

 当社の創建由緒等に関する資料は見当たらず不明とあり、現在のご祭神は後の時代の祭神差し替えであると思われる…等とされております。

 

 これ程に「神武東征」に縁ある重要な地でありながら、吉野郡の延喜式にはこの阿太峯神社は記載されませんが、お隣の宇智郡(現五條市)には、式内社である阿陀比売神社がご鎮座されております。

 

 

 御祭神は、阿陀比売大神 火須勢理命 火照命 彦火火出見命

 

 ●御由緒

 「当神社創立は祟神天皇15年と伝えられ、又奈良時代神亀5年(728年)藤原武智麿が神戸(神殿)を寄進したとも伝えられる。「延喜式神名帳」にある阿陀比賣神社は本社であり、五條市内式内社十一社の内に挙げられる由緒ある古社である。」云々

 

 こちらは薩摩国阿多郡阿多郷に住んでいたとされる阿陀比売命(木花咲耶比売命)を主祭としてお祀りしている神社ですね。

 

 少数とは思いますが、当地名が往古の「阿多」であったという研究家もおられるようで、仮にそうであった場合、阿太と御所市とは目と鼻の先、また橿原神宮(イワレビコが初代天皇に即位した樫原の地)も、ごく近傍であり、親子三世代に渡って到達した地が、実は一日で歩いて行けちゃう程度の距離範囲が「神武東征」だったということになり、説話自体が酷い茶番であったということになります。

 

 

 当然ですが、当社ご由緒からも「神武東征」とは全くリンクしておりませんが、別説として、イワレビコが、九州から遠く離れた奈良の吉野川のほとりで、同郷(隼人)の人々と再会した痕跡を示す地名であると解する諸氏もおられるようです。

 従って当説であったと仮定しても、御祭神も含め、地名として薩摩の阿多が先であり、自ずと後に移された地名が奈良県の阿太であるということを自ら実証してしまう証拠になってしまいます。

 私的にはご由緒にある、藤原武智麿が当地に寄進してより社が創建されたのだというのが最も有力な説と考えます。

 

 常識ですが、『古事記』は「是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。」「従って或は一句の中で訓と音を交えて使い、或は一事の内では全て訓で表した。」と書かれてあり、漢字を用いて音を充て記しておりますので、全く逆の意味である、河「尻」と川「上」を書き間違うことなど有り得ません。

 さすがに上の解釈は、意図的に大和(奈良)へと入植したとするよう辻褄を合わせた感が見え隠れします。

 

 …ということで、そろそろ(私説として)答え合わせをしていきましょう。

 

 まず、イワレビコ一行は、南から回って血沼海に到着」した後、その地から更に回って、紀伊国の男乃水門に着いてとあり、その地に五瀬命の陵の「紀伊の国の竈山があるはずです。

 

 以前にも記しておりますが、徳島県沿岸部と紀伊水道を挟んで和歌山県沿岸部はおおよそ鏡写しの地名地形となっており、また潮岬を境に東側となる熊野方面は、再び徳島県海岸部と類似地形となっております。

 

 南方にある血沼海から男乃水門へ移動しますから、この場合御覧のような点対称的経路となります。

 (本稿では「血沼」の比定考察はまだ書いておりませんがここでは割愛。<(_ _)> この「血沼海」が和泉地方の古名というだけでピンと来る方はいるはず)

 

 血沼/茅渟(チヌ)ということで、いきなり余談ですが、

 魚のクロダイ(和名類聚抄:久呂太比 くろたい)のことを関西では俗に「チヌ」と呼びますが、これは一般的に和歌山県以南の四国・瀬戸内・九州北部と南部の一部での呼称です。

 面白いのは京都丹後ではチヌと呼ぶのに対し、江尻ではチンダイ、石川県では既にカワダイやテンに変化します。

 瀬戸内海でも、九州との境となる山口県ではケンダイ・チンダイと呼ぶのに対し、日本海側では島根県で再びチヌと呼ぶようになるようですね。

 更に面白いことに東京ではチン●ン、鹿児島県ではクロ●ンと呼ぶみt(ryjk

 

 …ゴホゴホ、チョット余談が過ぎましたが、言葉はもって回るものとよく言いますので、これが一体何を意味しているのかはまた後の宿題としておきましょう(ノ∀`)

 

 話を戻しますと、次行程となる、イワレビコ一行が入港した紀伊国男乃水門(おのみなと)についてですが、

 

 以前に「倭建命を穿って考察 ⑦」で詳しく書きましたが、少し抜粋しますと、

 阿波国にある全国唯一社、比良咩神社(ひらめじんじゃ)の御祭神は比良比咩命(ひらひめみこと)。

 この比良比咩命は、神武天皇の妃である吾平津媛(あひらつひめ)のことであり、『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記されます。

 既に当地が神武に所縁があることを示しておりますが、阿波において「伊(い)」は「阿(あ)」と異音同語であり、また、同国式内社である、富門麻比売(おとまひめ)神社や和奈佐富曾(わなさほそ)神社の訓みは何れも「意(い)」を「お」と訓むことから、「あ」も「い」も「お」も同じ扱いであるということがお分かりになろうかと思います。

 更に言えば、魚(を)も(いを)と発音し、解山(いげのやま)=(げのやま)と呼ぶことから、実は母音となる「あ・い・う・え・お」は呼びやすいように全て置き換えが可能という地域特性がある県でもあります。

 

 従って、乃水門(””のみなと)は、吉野川河口域にあった徳島港の古名である津(””のつ(みなと))のこと。右矢印城下町誕生秘話 -幻の渭津(いのつ)-

 

 ●兵学者山縣大弐が記したとされる絵図では徳島を「猪津(いのつ)」と記す

 

 また、イワレビコの兄 五瀬命(いつせ)の陵がある「紀伊の国の竈山」も以乃山(眉山の古名)にある高良峯(こおらみね)のことカメ

 awa-otoko様ブログ右矢印高良(甲羅)峯に行ってきた☆(以の山編 上鮎喰 高良峯)

 

 地図で比較しても、やはり移し鏡のようにピッタリ左右対称となっております。

 「記紀」における紀國並びに紀伊で記された地はどこだったのかも見えて来たのではないでしょうか。

 

 で、そこから巡って「熊野」に到達ということは、再び南へと戻った形になります。

 

 当地が元熊野であったと考えられる考察については右矢印止止呂支比売から考察」「御刀媛から考察 ⑤」「眉山に眠る謎多き摩耶姫から考察

 

 そこから八咫烏(阿波忌部の祖神)の先導のもと、「吉野河之河尻」へと到達。

 

 当然のことながら、徳島県側にあるのは日本三大暴れ川の一つ、四国三郎ことその名も吉野川となります。

 また、阿波版だとキッチリ吉野川の河口(河尻)に到着となりますヨ。(天二上命とは?)

 

 次に「紀」では、更に吉野河を西に沿って行ったところに「阿陀:阿太(あだ)」の養鵜部の始祖である贄持之子が居たと書かれてあります。

 

 当地は和名類聚抄に見る阿波国板野郡(いたのぐん)であり、

 

 筑波大学附属図書館に所蔵されている「阿波国続風土記」によると、板野郡の謂れには、

 

 「此板ノト云根元ハ神宅村板野神社ヨリ起レル名ナリ此神飯田姫ノ命ト云本名ハ吾田鹿葦津姫ト云」

 …とも記され、当地板野郡は、「紀」にある神吾田鹿葦津姫、「記」神阿多都比売(別名 木花之佐久夜毘売)の神名により起ったとあります。

 

 先の発音の件と合わせますと、太(た)乃が転じて現在のた)野になったということ。

 神武天皇の后をお祀りする伊比良咩神社が御鎮座するのも現在の板野郡藍住町ですネ。

 

 そして、そこに居たとある贄持之子についてですが、神武記の五瀬命のエピソードに、

 

 「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」

 

 「私は日の神の皇子なのに日に向かって戦ってしまった。これは良くなかった。だから、卑しい奴に痛手を負わされた。これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう。」

 

 …との誓いのもと熊野回りを行うことになるのですが、この「日の神の皇子なのに日(太陽)に向かって戦ったことがよくなかった」という意味を、通説では太陽は東から昇るので東へ向かって戦ったことを不吉としたために、迂回して更に東側に回り込むことによって西に向いて戦うことを選んだという意味で捉えられております。

 実はここでのポイントは、「日(太陽)に向かって戦った=東へ攻めたこと」という意味合いのものではなく、「太陽に向かうのが不吉であるから太陽を背にすること」を選択したということ。

 

 ではこの「日を背にして戦うこと」とは一体何を示しているのでしょうかはてなマーク

 

 虹(にじ)とは、大気中に浮遊する水滴の中を光が通過する際に、分散することで特徴的な模様が見られる大気光学現象である。

 

 ●名称

 「虹」を意味する漢語表現に、虹霓(こうげい)、虹桟(こうざん)などがある。また、虹、蜺、蝃、蝀などのように、虹を意味する漢字は虫偏のものが多く存在する。これに見るように中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多い。

 

 ●虹の形状

 虹が描く弧は、観察者を基点として、太陽とは正反対の方向、対日点が中心となる。対日点は、観察者から見れば地平線の下にあるので、虹は半円に見える。

 

 ●伝承

 中国には虹を龍の姿とする言い伝えがある。明確に龍虹と呼ぶ地域(広東省増城市)や、「広東鍋の取っ手の龍」を意味する鑊耳龍(広東省台山市)と呼ぶ地域もある。(wikipedia 虹より抜粋)

 

 虹の見えるメカニズムを図にするとこんな感じ下矢印

 

 虹の漢字の成り立ちは、蛇を表す虫偏の虫(ヘビ・龍)+ 工(貫く)であり、虹は、龍になる大蛇が天空を貫く「天と地を繋ぐ」時に空に作られるものと想像されていたことから、「工」の字と合わせて「虹」という漢字ができたとされています。

 

 

 古代中国では、大蛇が天に昇って龍になると考えられておりました。

 龍は雨を齎す恵みの予兆だという古代の伝承がある一方で、沖縄では、虹は雨呑み者を意味する(アミヌミヤー)と呼ばれ、天の泉の水を飲んでしまうため、下界に雨が降らなくなると言い伝えられており、虹は不吉なものであるとされてきました。

 

 また中国では虹は、虹霓(こうげい)と呼ばれる雌雄の龍であるとされ(虹が雄で、霓が雌)、雨によって天地が結ばれ、竜が水を飲みに来る時に虹ができるといわれています。

 虹が出ると戦乱が起きるなどの凶兆ともされましたが、一方で竜(虹)に感じて聖王を孕むといった吉兆を示すこともあり、吉凶両方の言い伝えが残っています。

 こういった考えのもと、古代日本では凡そ「不吉」の象徴とされてきました。

 

 天武天皇紀には、

 「度西。丙寅、造法令殿內、有大。壬申、有物、形如灌頂幡而火色、浮空流北。毎國皆見、或曰入越海。是日、白氣起於東山、其大四圍。癸酉大地動、戊寅亦地震動。是日平旦、有、當于天中央、以向日。

 

 「8月5日。造法令殿内でがありました。8月11日。ある物がありました。形は灌頂(=頭頂に聖なる水を注ぐ儀式)で使う幡のようで火の色でした。空を浮かんで北に流れました。国々でみんなが見ました。ある人は「越国の海に入った」と言いました。この日に白い気が東の山に発生しました。その大きさは4囲(イダキ)でした。8月12日。大きな地震がありました。8月17日。また地震がありました。この日の午前4時に虹があり、天の中央に当たって、日に向かっていました。

 

 午前4時に虹は出んよね(´・ω・`)...

 中国の伝奇物語集の『捜神後記』(そうじんこうき:222年-589年内に成立)によれば、
 「昔、陳斉という男が役人になって任地に赴いた。その妻が1人で留守をしていると、いつの頃からともなく、赤碧の光り輝く衣をまとった凛々しい男が尋ねてくるようになった。女は気付かなかったようだが、その男の周りにはいつも虹がたなびいていたという。女はやがて身ごもり赤ん坊を産んだ。間もなく、夫が屋敷に帰ってきた。女は子供を隠して育てていた。子供が大きくなったある日、空がにわかに暗くなり大変な風雨になった。それが止んだかと思うと、美しい虹が屋敷の庭に降りてきた。虹はたちまち男の姿になると、屋敷の中から子供を抱えて出てきた。再び、風雨が巻き起こり、しばらくして空が晴れ渡ったかと思うと、2つの虹が屋敷から空に上っていったという。」

 

 また中国の短編小説集の『述異記』(じゅついき:祖沖之撰 429年-500年)には、

 

 「晋の時代に虹が薛願の家に入って来て、釜の中の水を飲み始めた。やがて水がなくなったので、薛願は、「目出度い事じゃ、お祝いをしよう。」 と酒を釜の中に注いでやると、虹は喜んで飲んで居たが、すっかり飲んでしまうと、釜の中へ一杯黄金を吐出して去った。お蔭で薛願は急に大金持ちになったのであった。」

 

 二つの説話とよく似た伝承が我国にもありますなぁ。

 

 では他に『記紀』において「虹」の文字が見られる記事を探してみますと、上の天武紀以外に2ヵ所あり、それぞれ抜粋致しますと、

 

 ●「応神天皇記:天之日矛」

 「又昔、有新羅國主之子名謂天之日矛、是人參渡來也。所以參渡來者新羅國有一沼、名謂阿具奴摩。自阿下四字以音 之邊、一賤女晝寢、於是日耀如、指其陰上。亦有一賤夫、思異其狀、恒伺其女人之行。故是女人、自其晝寢時、妊身、生赤玉。爾其所伺賤夫、乞取其玉、恒裹著腰。」

 

 「又昔、新羅(しらき)の国主の子有り、名は天之日矛と謂ふ、是の人参渡来也。 参渡来し所以者、新羅の国にある沼有り、名は阿具奴摩(あぐぬま)と謂ふ 。 此の沼の辺に、ある賤(いやしき)女昼寝して、ここに日(ひ)耀くこと(にじ)の如きて、其の陰(ほと)の上を指しき。 またある賤夫有りて、其の状異(け)に思ひて、恒に其の女人の行を伺ひて、かれ、是の女人、其の昼寝せし時より妊身(はら)みて、赤玉を生みき。ここに其の所伺賤き夫、乞ひねがひて其の玉を取りて恒に裹(つつ)みて腰に著けり。」

 

 昼寝をしていた卑しき女のア●コが虹の如く輝いていたという不思議な光景を目にした夫、その後すぐに妊娠し赤玉を生んだという例の説話です。

 この赤玉は後の新羅國主の天之日矛の妻となる阿加流比売です。

 

 ●「雄略天皇紀」

 「三年夏四月、阿閉臣国見更名磯特牛、譖栲幡皇女與湯人廬城部連武彦曰「武彦、姧皇女而使任身。」(湯人、此云臾衞。)武彦之父枳莒喩、聞此流言、恐禍及身、誘率武彦於廬城河、偽使鸕鷀沒水捕魚、因其不意而打殺之。天皇聞、遣使者案問皇女、皇女對言「妾不識也。」俄而皇女、齎持神鏡、詣於五十鈴河上、伺人不行、埋鏡經死。天皇、疑皇女不在、恆使闇夜東西求覓、乃於河上見如蛇四五丈者、掘虹起處而獲神鏡。移行未遠、得皇女屍、割而觀之、腹中有物、如水、水中有石。」

 

 「三年の夏四月、阿閉臣国見(くにみ)栲幡皇女と湯人の廬城部連武彦を譖(そし) りて曰く、「武彦、皇女を姦(たは)けて任身(はらま)しめき。」といひき。」湯人此れを(ゆえ)と云う。武彦之父たりし枳莒喩(きこゆ)此の流言を聞く。禍ひ身に及ばむことを恐れて武彦を廬城河に誘率(いざな)ひき。鸕鶿(う)を水没(かづ)けて魚(いを)を捕らへしむと偽りて、其の不意(おもはざりしこと)に因りて襲って打ち殺しき。天皇、聞きて使者を遣し皇女を案(かむが)へ問はしむに、皇女対へて言はく、妾(われ)は識らずと。俄にし而、皇女神鏡を齎(と)り持ちて五十鈴河の上(ほとり)に詣りぬ。人の往行くことなきを伺(たしかめ)て鏡を埋め、経(わな)きて死せり。天皇、皇女の不在を疑みて恒に闇夜に東西(=あちこちと歩き回り)し求め覓ぐこと使む。乃(すなはち)於河上(河のほとりに)見(あらは)る。蛇の四五丈なる者の如し。虹の起ちし処を掘り而神鏡を獲たり。移り行くに未だ遠からずして皇女の屍を得たり。割きて之れを観れば腹中に物の有ること水の如く、水中に石有りき。」

 

 こちらは天武紀と被る記録が見られ、何故か闇夜に虹が現れます。

 この皇女は雄略天皇と葛城円(かずらき の つぶら)大臣の娘 葛城韓媛(韓比売/訶良比売)との子 栲幡皇女(稚足姫皇女)です。

 

 雄略紀では、雄略の娘の栲幡皇女と武彦とのレイプ妊娠の疑いの真偽を確かめるべく、なんと皇女の遺体の腹を割いて調べたとあり、腹の中には水のようなモノと石があった。…という何とも奇妙な話を記録しています。

 結局のところ妊娠はしておらず嫌疑は晴れたものの、皇女は亡き者になってしまったという哀しい説話になっております。

 既に亡くなっていたとはいえ、阿閉臣国見の流言の真相を確かめるのに、皇女の腹を割いてまで武彦の子を身籠っていたのかチェックする必要が果たしてあったのでしょうかねはてなマーク(そっちの方が大事なのかYO!

 

 このエピソードにあるキーワードは、皇女の腹の中にあったモノが「水(のようなもの)」と「石」であるということ。

 (-ω- )o< フムフム...なるほど!よーわからん...

 

 …ということで神武記に戻りまして、阿陀の贄持之子の居たお話の続きですが、

 

 「從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。

 

 「そこより幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」

 

 井氷鹿(いひか)は、日本神話に登場する神。『古事記』では井氷鹿、『日本書紀』では井光と表記されており、『新撰姓氏録』では、水光姫(みひかひめ)と呼ばれ、女神とされている(wikipedia 井氷鹿より抜粋)

 

 『古事記』では、井氷鹿は「生尾人」=尾の生えている人とあり、続きまして、

 

 「卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。

 

 「即ちその山に入りたまへば、また尾生ひたる人に遇ひたまひき。この人、巌を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ。今、天つ神の御子幸行すと聞きし故、参向へつるのみ」と答へ白しき。こは吉野の国巣の祖なり。」

 

 石押分之子(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では、磐排別が子と表記される。吉野の国巣の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。

 ●備考

 国栖の記述として、大和国吉野とは別に、『常陸国風土記』茨城郡の条にも先住民としての国栖の説明がある。それによれば、「国栖(くず)とは俗(くにひと)の語(ことば)で都知久母(つちぐも)」とあり、『風土記 日本古典文学大系』(岩波書店、第14刷1971年、p.46)の脚注4によれば、「土蜘蛛とは土神であり、土着神(国津神)」とする。(wikipedia 石押分之子より抜粋)

 

 次に現れる石押分之子も井氷鹿と同様に「生尾人」であると記します。

 これを『日本書紀』では、「光而有尾」「亦有尾而披磐石而出者」と「人」を削除して同じ意味となる「有尾:尾が有る」と書き換えております。

 

 こっ、これなのか!?

 

 この文字について、研究家諸氏らの字訓は、「イクオビト」並びに「セイビジン」等と訓んでおられますが、恐らくこれらの訓みは「記紀」共に同字で韻が重なる、「生尾/有尾(ゐを/うを=魚)」のことでしょう。

 

 贄持之子は、鵜を使い杭をうって取魚(すなどり=漁:いさり)をする者であり、後出の二人は男女とも「魚」の人を意味しております。

 これが吉野川の河口の阿陀近辺からその周辺に居た人物であろうことを指しており、ザックリ纏めますと、

 

 ・「川」にいた贄持之子 阿陀之鵜飼之祖

 ・「井」にいた井氷鹿(女性)(生尾人) 吉野首等祖

 ・「岩」を押し分けて出てきた石押分之子(生尾人) 吉野國巢之祖

 

 そして同文の締めに、

 「自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。」

 

 「その地より踏み穿ち越えて、宇陀(うだ)に幸(い)でましき故宇陀の穿(うがち)と曰ふ。」

 

 「井(池)」は穴を穿つ=掘らないといけませんが、雄略紀の栲幡皇女の説話にあるのも「掘虹起處而獲神鏡。」「虹の起ちし処を掘り而神鏡を獲たり。」や、腹の中にあった「水のようなモノ」「石」のセットです。

 従ってこれらが腹を割いて出て来たことからも、栲幡皇女の「子」であることの暗示ではないでしょうかねはてなマーク

 

 この宇陀(うだ)についてですが、旧板野郡域に「鵜の田尾峠」という場所があり、

 

 wikipedia鵜の田尾峠の伝承によると、

 昔、鵜を使って魚をとるのが上手な漁師がいた。漁師が峠で休憩していたら一人の旅僧がやってきて「漁師さん、あなたは長い間殺生をしてきたがもうやめなさい。年老いてから生物怨念に悩まされますよ」と説いた。漁師は「ごもっともですが、生業なので」といって持っていた団子を僧にすすめた。僧は「ありがとう」と言って団子を口にほうりこんだが、一口もかまずにグッとのみこむんだ。漁師はその異様な食べかたにゾッとするのを覚えたので、いそいで立ち上がり漁に向かう支度をはじめた。ところがふとみると僧がどこにもいなく、漁師は不思議に思ったが、そのままある池で漁をはじめた。ところが、鵜が突然、怪魚に襲われた。漁師は、格闘の末、怪魚をとらえ、持ち帰り腹をさくと、峠で僧に与えた団子が出てきた。峠の僧は、怪魚の化身だった。その後、漁師は、一切魚をとらなかったと言われている。この後、この峠が「鵜の峠(たわ)」と呼ばれるようになった。

 

 …と記されています。

 阿波の説話の内容もそうですが、鵜の峠も宇陀の訛りであるとも指摘できます。

 

 また、「石押分」の意味も、1000m級の阿讃の山脈(巖)を一直線に分断(押し分け)して流れる吉野川の形容なのではないでしょうかはてなマーク

 (情報量が多過ぎて俄に纏めきれませんが

 

 吉野町(よしのちょう)は、徳島県板野郡にあった町である。2005年4月1日、市場町・阿波町・土成町と合併して阿波市になった。

 かつての町域は阿波市吉野町柿原・吉野町西条・吉野町五条となっている。(wikipedia 吉野町 (徳島県)より抜粋)

 

 徳島県の吉野町にも奈良県と同様に五条の地名がありますが、吉野の河を西へ沿って移動すると板野(阿陀)➨吉野➨土成の御所(御諸)の方になります。

 

 しかもこの土成町樫原には、創建が奈良県の橿原神宮よりも古い樫原神社(祭神:神倭伊波礼比古命)がご鎮座されておりますヨ。

 

 

 さて最後に、イマイチチョット分かり難かった贄持之子(ニヘモツのコ)についてなのですが、こちらも漢字の読みを変えますと、”ニジのコ”と読むことができ、これまでの考察からも、「蛇/(龍)」を表す虫偏の虹の別字にあたる「蜺」、つまり=虫(ヘビ)の兒(子)の意味であり、阿波においては、虫に至る子と書いて=蛭子(ヒルコ/エビス)のことを指します。

 

 従って、贄持(にじ)=「えびす」こと事代主命であり、更にその「子」なのですから、そのお方が誰であるのか、既にお分かりの方もおられるのではないでしょうかはてなマーク

 

 今回も長々と書きましたが、吉野からそこに纏わる地が本当はどこであったのか、また、関連する様々なキーワードが出て来たように思いますが、今回の考察はここまでということで(´・ω・`)ノ