止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)は、大阪府大阪市住吉区にある神社。
◆祭神 素戔嗚尊・稲田姫尊
◆摂社 霰松原荒神社/天水分豊浦命神社(式内社)
◆祭神 三宝荒神(天水分命、奥津彦命、奥津姫命)、大国主命、事代主命
◆由緒 創建年代は不明。しかし、延喜式にはその名の記載がある。社名のトドロキとは当時の境内にあった橋の名前。承久3年(1221年)後鳥羽天皇が、当社境内松林内に行宮を立てて以降、若松宮あるいは若松神社と言われる。それ以前は、住吉大社の摂社(奥の院)とされていた。(wikipedia 止止呂支比売命神社より抜粋)
「若松神社 止止呂支比賣命神社」のHPによると、
延喜式内の古社にして仝神名帳には止杼侶支比賣命神社とあり、古来真住吉国の氏神として斎き奉る、御創立の年代は不詳である。承久三年に後鳥羽上皇が討幕軍を起こし給はんと熊野詣でに名をかりて、浪華住吉の豪族津守一族の勢力並に大和河内の兵をも集めにならんと墨江の里に行幸される時に当社の松林中に若松御所を造営し行宮として渡御し、上皇は当社に国家安泰御武運の長久を祈らせた。この御所の名称により若松神社と呼ばれる事となったと推測される。
…ということで、「止止呂支比売」とはなんぞやというところから本稿の考察となります。
それでは少しずつ検証して参りましょう。
御朱印にある神紋は、「五瓜に唐花(ごかにからはな)」と「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」
これは2つの神紋がありますので、須佐之男命を祀る八坂神社と同じですなぁ。
掲示板を見て見ますと、
ふむふむ、清らかな清水が湧く轟池にトドロキという橋が架かっていたから名付いたとされ、また若松神社と呼ばれているのは、後鳥羽上皇が行幸のおり、社地に行宮を築いたことから若松宮となったと。(なんで
それが住吉大社の奥の院とされているということですか。
…とまぁ、wikipediaに書かれてある通りですね。
摂社である式内社天水分豊浦命神社 境内説明文
- 昔より、この御神木と共に御神木で見かけられた蛇を熱心に信仰される方々が多く、黒長大神(くろながのおおかみ)として永く信仰され、願いが叶ったり心が癒されたと大変喜んでおられ、氏子地域の方々より根強く信仰されています -
これは黒長なのに白蛇を祀ってますなぁ
はてさて、この社は延喜式に記載がありますので、少なくとも927年には既に存在したはず。
その当時には社の境内には社名となっている”トドロキ”なる「橋」があったということなのでしょうが、「轟く:大きな音が鳴り響く、驚く」の意味からも、何故その名が池や橋に名付いたのかチョットよくわかりません。
実在の痕跡を見つけよう等と現在の人がわざわざ調べたりするはずもないのですが、何故にこの社が住吉大社の奥の院とされ、また素戔嗚尊と稲田姫尊をお祀りしているのでしょうか。
摂津国一宮である住吉大社の御祭神は、『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とある住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)のことで、この3柱を総称して「住吉大神」としています。
また「住吉大神」は、住吉大社に共に祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがあり、wikipediaには、かつての神仏習合の思想ではそれぞれが薬師如来(底筒之男神)、阿弥陀如来(中筒之男神)、大日如来(上筒之男神)を本地とすると考えられた。…とあります。
その誕生は、イザナギが筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った時に、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされています。
つまりは天照大御神ら三貴子と同様、イザナギから産まれた3人の子となります。
ここまではおさらいですが、後鳥羽上皇が御幸される以前に延喜式に記録される当社社名は、”止杼侶支比賣命神社”であり、社名の由来となったとされる橋の名の”止杼侶支”、それに加えて後ろに”比賣命神社”とあります。
素直に考えれば、当社の祭神でもある稲田姫尊=止杼侶支比賣と考えられ、それをお祀りしていると思われますが、「轟」といえば、徳島県海部郡海陽町平井に、瀧で潔斎(みそぎ)を行う神事のある「轟の滝」があり、滝自体がご神体とされる轟神社の御祭神は、水象女命(みずはのめのみこと)です。
詳しくはコチラをご参照くださいませ⇒『片目の魚』
また、他に「轟の滝」で検索をかけて見ますと、
- 轟の滝 (高知県)(とどろのたき) - 高知県香美市香北町にある滝。日本の滝百選。高知県指定の名勝。
- 轟九十九滝(とどろきくじゅうくたき) - 徳島県海部郡海陽町にある滝。日本の滝百選。
- 轟の滝 (佐賀県)(とどろきのたき) - 佐賀県嬉野市にある滝。
- 栴檀轟の滝(せんだんとどろのたき) - 熊本県八代市にある滝。日本の滝百選。
- 梅の木轟の滝(うめのきとどろのたき) - 熊本県八代市にある滝。
- 轟の滝 (沖縄県)(とどろきのたき) - 沖縄県名護市にある滝。沖縄県指定の名勝。
…当滝を含め6つの滝がヒットし、そのうち神社があるのは徳島県とそのお隣の高知県で確認ができます。
相互の位置関係は剣山から共に南方に位置しており且つ意外と近いです
◆轟の滝(とどろのたき)高知県香美市香北町猪野々柚ノ木
こちらは”とどろき”ではなく”とどろ”の滝なんですねぇ。
ほんにふつくしい滝ですなぁ(´ω`)ウットリ...
…で、物部川支流の日比原川流域にある高知県の轟の滝ですが、この滝に纏わる面白い伝説があり、町史民俗編より抜粋しますと、
むかし柚ノ木の里に伊和三太夫という侍が住み、奥方との間に美しい一人娘があった。
ある日の夕方、娘は川向こうの松久保という所へ機織り道具を返しに行った。
柚ノ木川には轟の滝があり、その滝つぼは深い淵になっていて蛇(じゃ)が住むといわれ、淵の上には橋が架かっていた。娘はこの橋を渡った。
夜遅くなっても娘が帰って来ないので、三太夫は心配して迎えの人を出したが、松久保からはすぐ引き返したとのことであった。三太夫は「娘はもしかしたら淵の主にとられたかも知れない。行って見てくる」といって家内の止めるのも聞かず、家伝の名刀を持って出て行った。
滝つぼに身をおどらせた三太夫は、しばらく行くと不思議にも水がなくなり、向うに立派な御殿があって、中から機を織る音が聞こえて来た。不審に思って近寄ってみると、それは確かに娘であった。
「お前はどうしてこんな所へ来た。みんなが心配している。さあ早く一緒に帰ろう」と言うと娘は「お父さんが迎えに来てくれたのはうれしいが、私はもう帰れない体になりました。どうか私のことはあきらめて下さい」と言った。
三太夫が無理につれて帰ろうとすると「それでは私の夫の寝姿をお目にかけましょう」と言って奥の一間に案内した。一足入ると、さすが豪胆な三太夫も「おお」と言って退いた。八畳の間には大蛇が座敷いっぱいになって、雷のようないびきをかいて寝ていた。娘が「私の父が来たから起きて下さい」と言うと、大蛇は立派な若者となり裃(かみしも)姿で出て来た。そして、辺りには金色の御光が差していた。
若者は丁寧な挨拶をして
「せっかく来て下さったから、ゆっくりしていて下さい」と言って奥の間へ帰った。
とかくするうちに、三日の日が経った。いつまでも留まっていることはできないので、三太夫は娘に別れを告げた。すると娘は絹を三巻取り出して「これを持ち帰って下さい。これさえあれば生活に困ることはありますまい。もう二度とここへ来てはなりません」と言って三太夫に渡した。
娘と別れて、水面ま上って来ると、白米がばらばらと降って来た。家に帰ってみると、三太夫は死んだものと思って、親戚一同が集まり三年の祭りをしていた。三太夫は三日と思っていたが、実は三年の月日が経っていたのである。
アレとアレを足して更にアレもにおわせる内容となっているところが実に興味深いですなぁ。
また「轟の滝玉織姫伝説の立て看板」には、
「平家一門、平良種は伊和三太夫と名を改め、源氏の追捕を逃れ、諸国流転の余生を柚ノ木の山里で過ごしていました。…(中略)…その後伊和家と柚ノ木の山里には、平和な日々が訪れ次第に繁栄していきました。いつの頃からか滝壺の近くに繁栄と幸福の女神として、玉織姫を祀る社「轟神社」が建てられています。」
…とあり、この昔話の設定されている時代は意外と新しく、轟神社で玉織姫が祀られているとあります。
平家の落人伝説は徳島県の山地にある祖谷(いや)栗枝渡(くりしと)で安徳天皇が隠れ住み崩御された話なども有名ですね。
また余談ですが、熊野も(いや)と読みますねぇ。ボソ…
町史にて神社ご祭神を確認してみますと、
当社ご祭神は、海津見命(別称轟ノ権現)やないかいっ
あくまでも建依別の国である土佐国は、大蛇である立派な若者男性側の視点ということのようですが、75社ある当町の神社の中でも、猪野々のみ水波女命を2社お祀りしているようです。
徳島県と高知県の轟の滝、共通するのは同名の滝やお祀りされている祭神だけでなく、地名となっている「日比原」も両町の地域にあり、日比原川は共に北から南へと本流の川へ流れています。
◆徳島県海陽町宍喰日比原川
◆高知県香美市香北町日比原川
さて、「止止呂支」の「比売」が誰なのか、おおよそ想像できた上で、今度はこちらをご覧頂きましょう。
徳島県の轟の滝から海部川本流域に下りますと、海陽町若松という地域があり、川が大きく曲がった(水曲:みわ)となる場所の向かい側に、地元の方のいうもう一つの「轟さん」が存在します。
原谷轟神社、通称 原谷大明神。
◆祭神 水波目命
途中まで車で行けるようになっていて、鳥居らしき場所から少し歩くと程無くして社が見えてきます。
こちらは川を跨いで渡らないと本殿に行けないので「橋」があります。現在はコンクリ製ですが
清らかな清水が湧く、マイナスイオンがたっぷりな場所ですなぁ(´ω`)
それでは、後鳥羽上皇の熊野御幸の話も併せて少し検証してみましょう。
後鳥羽天皇(ごとばてんのう、1180年8月6日(治承4年7月14日)-1239年3月28日(延応元年2月22日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:1183年9月8日(寿永2年8月20日)-1198年2月18日(建久9年1月11日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。(wikipedia 後鳥羽天皇より抜粋)
後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに28回。往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペースで行っています。
28回の後鳥羽上皇の熊野御幸のうち、史料的に和歌会が催されたことが確認できるのは、3回目の正治2年(1200年)の御幸と4回目の建仁元年(1201年)の御幸の2回のみ。
そのうち、建仁元年の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』(国指定重要文化財)に記していて、それによると、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智の9ケ所で和歌の会が催されています。
承久の乱が起こる3ヶ月前に、後鳥羽上皇は28回めの熊野御幸を行っており、熊野で鎌倉幕府打倒の密談が行われた可能性も指摘されますが、そもそも熊野御幸(くまのごこう)は、上皇・法皇・女院の外出のことであり、天皇の外出は別に行幸(ぎょうこう)といいます。
907年の宇多法皇から始まり、1281年の亀山上皇までの374年の間で、およそ100度の上皇による熊野御幸が行われていますが、「天皇」が熊野を「行幸」参詣したことは実は一度もありません。
また、なぜ御幸先が「熊野」だったのか。京都からわざわざこのような辺鄙なところまで来たのか。その理由は現在でもハッキリとはわかっていません。
後鳥羽上皇がとった「熊野御幸」の行程は、現在の熊野古道でいうところの、紀伊路から中辺路です。
『後鳥羽院熊野御幸記』について詳しく書かれてあるサイトが御座いますので、興味のある方はご覧下さい。⇒『藤原定家熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』
さて、若松の北にある原谷轟神社、川を上ると「三筒」の地名があります。
三筒とは即ち住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)のことですよね。
更に川を遡れば、神野(こうの)で、式内社 和奈佐意富曾神社の元社との噂がある御崎神社(祭神:猿田彦命、奥津彦命、奥津姫命、大幡主命)、更に遡上すれば、小川、平井となり、轟九十九の滝に至ります。
御幸された和歌山県熊野地域を俯瞰してみますと…
河口域新宮市にある熊野速玉大社は、当地に新しく宮を造営したことから命名された地名。
「熊野権現御垂迹縁起」(1164年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したと記されています。
また、新宮川(熊野川)は北西へ向かって伸びていることがわかります。
更に南に位置する熊野那智大社は、
『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば5代孝昭天皇(みまつひこかえしねのみこと)の頃に、インドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。
また、祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命(事解之男神)とする説がある。その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。(wikipedia 熊野那智大社より抜粋)
等々いろいろ面白いことが書いてありますね 三巻はミマキかな
ボソ...
三社の位置はココ
この位置関係はやはり…
こちらは北西に伸びるのが海部川、そして熊野本宮→速玉社の造営の経緯と同様に、和奈佐意富曾神社も神野→鞆浦大宮へと移動した謂れが御座います。
熊野本宮大社付近の地形も、
やはり海陽町神野周辺とよく似ていますねぇ。
そもそも和歌山県と徳島県は類似地名が多いことで知られています。(紀淡海峡交流研究会より)
他にも共通する点として、「忌部」の存在があります。
天太玉命を始祖とする忌部は穢れを忌む集団という意味で、天日鷲命を祖神とする阿波忌部、彦狭知命を祖神とする紀伊忌部など、日本古代におけるヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族です。
また徳島県海陽町には日本三祇園で名高い宍喰八坂神社(祭神:武速須佐之男命、稲田比売命、玉依姫命)、社の神職であった現佐藤氏は海部郡史によれば、先祖が室町期には現海陽町若松に居たとのことで、調べて見ますと確かに若松に八坂神社がありますね。ということはこちらが元なのかな。
時代は下り大戦の際、現佐藤氏の祖父の代で現八坂神社のある久保に転居して来たといい、自身の祖父の代で神職を離れたため、現在の八坂神社の祭祀は多田氏が司っています。
やはりこの点からも若松に辿り着きますなぁ。
この海部川沿いの神野~若松周辺はまだまだ掘り起こせば面白いネタが出てくるかも知れませんね。
紀伊熊野で祀られている祭神、そして類似する神社の位置や移遷の経緯、地名・地形、また轟の比売などから、考えて見れば見る程、「元熊野」がやはり徳島県の海部川沿いにあったのではないかと想像が膨らんでしまいますね。
「紀」天孫邇邇芸命降臨の段にある、膂宍の空国(そししのむなくに=肥沃でない土地)、また14代仲哀紀8年9月条で、熊襲(くまそ)討伐を考える際、神は神功皇后に神懸かりして言う。「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや」。
即ち、痩せて荒れ果てた征服する価値のない国、熊襲よりも宝の国新羅を討つべしと言うのだ。とここにある「熊襲」の地は、「膂宍の空国」とされています。
まぁ揶揄される所以は、地図からも一目瞭然ですが
81代安徳天皇 - 82代後鳥羽天皇 - 83代土御門天皇と続くこの時期は何かと「阿波」と所縁がありますなぁ。
一体これはただの偶然なのか、必然なのか
…といったところで、
実は、元の熊野が徳島県南にある海部川上流域の地名であったならば…
また、万が一、後鳥羽天皇の時代においても、当地が熊野と呼ばれていたと仮定すれば…
…とんでもなく恐ろしいことになりますね。(まぁ、後者は遠慮しときます)
今回の考察はここまでということで
う~ん、高知県の方も調べたくなってきたヨ(´・ω・`)ノ