先日の改元の詔により、「平成」から新元号となる「令和(れいわ)」に決定しましたね。

 

 「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す。」

 

 その出典は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた我が国最古の和歌集である万葉集「梅花の歌三十二首并せて序」からで、天平2年(730年)の正月の13日、歌人で武人の大伴旅人(おおとものたびと)の太宰府にある邸宅で開かれた梅花の宴の様子を綴ったものだそうです。

 にわかに注目されるこの万葉集ですが、現代の万葉研究に多大な貢献をした人物がいます。

 

 仙覚(せんがく)は鎌倉時代初期における天台宗の学問僧。権律師。中世万葉集研究に大きな功績を残した。建仁3年(1203年)生れとする説が有力。没年不詳。文永9年(1272年)、70歳の年まで存命したことは確実であるが、その生涯の伝記的事項には不明な部分が多い。

 

 ●万葉研究

 万葉研究における仙覚の功績ははなはだ大きく、彼が生涯をかけて完成させた万葉集校本とそれをもとに注釈を加えた『萬葉集註釈』は、以降明治期にいたるまで万葉集の定本として多くの研究者に利用されている。注釈・加点自体は現在の観点からすれば物足りない部分もあるが、中世歌学を考えるうえでの重要な資料のひとつであり、その価値はやはり高い。仙覚が加えた点を特に新点と称する所以である。 (wikipedia 仙覚より抜粋)

 

 『道は阿波より始まるその二』に、

 万葉集註釈巻一上の中で、仙覚律師が「伊は発語詞也。梵語には阿字以て発語の詞為、和語は伊字を以発語詞と為也。」

 「天竺にては阿字を以て発語とし和語は伊字を以為。」

 …と二度も繰り返し書かれています。

 

 

(空と風:「阿波国と伊倭国4」より拝借 <(_ _)>

 

 のらねこぶるーす氏のブログ「空と風:阿波国と伊倭国4 」でも考察がされておりますが、岩利大閑氏は、「伊(い)」「阿(あ)」は同意で用いているという指摘となります。

 

 …ということで、いきなりですが阿波説始まります(´・ω・`)ノ

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意ください。

 また通常の阿波説よりもかなり穿った見方をしておりますので、重ねてご注意くださいませ。

 

 比良咩神社ひらめじんじゃ)は、徳島県板野郡藍住町に鎮座する神社である。

 

 

 

 

 ●歴史

 創建年は不詳。元々は藍住町東中富に鎮座していた。阿比良比売を祀る神社は少なく、社名に「阿比良比売(伊比良咩)」を掲げる全国で唯一の神社である。

872年(貞観14年)に式外大社として「日本三代実録」に記されたのが最古の記録である。

 神社が所有する「伎楽面」と、緑泥片岩の阿波青石を素材としている鳥居は、1988年(昭和63年)1月10日に藍住町指定有形文化財に指定された。

 

 ◆祭神 比良比咩命 大己貴命 素盞鳴命 (wikipedia 伊比良咩神社より抜粋)

 

 当神社の詳細は今回は割愛しますが、簡単に言うと、神武天皇の妃である阿比良比売をお祀りしております。

 

 吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。

 『日本書紀』によれば、日向国田邑の人である。

 『古事記』によれば、多之小椅君」の妹同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。(wikipedia 吾平津媛より抜粋)

 

 この阿多之小椅君とは天村雲命のことで、日向国に居た時に阿俾良依姫命(あひらよりひめのみこと)を后とし、丹波に居る時に加里姫命(かりひめのみこと)を后としたとあります。(上の説に従えば、加里姫命=加流比売ということにもなるね)

 

 天村雲命=小橋命(小椅命)=阿多の小椅君、またこれまでの考察により「義兄」で描く人物は当代の天皇自身、つまりこの場合は神武天皇のことです。

 

 筑波大学附属図書館に所蔵されている「阿波国続風土記」には、

 

 

 板野郡の謂れに、「此板ノ云根元神宅村板野神社ヨリレルナリ此神飯田姫云本名吾田鹿葦津姫云」

 

 …と記されて在り板野郡は、「紀」にある神吾田鹿葦津姫、「記」神阿多都比売の別名が木花之佐久夜毘売の神名により起ったと書かれています。

 

 つまり阿多(た)が転じて板(た)野になったということ。

 

 この姫の夫には、播磨国一宮の和神社じんじゃ)にてお祀りされている、播磨国神である伊和大神こと葦原志許乎命は、一般的には大国主命とされる大己貴神とも同神で、上に挙げた神々達に比定される人物はみな前稿考察時の「海部氏勘注系図」に該当します。「倭建命を穿って考察 ⑥

 この場合、「わ」は「わ」となりますが、命名順として「伊和」が先なのか「阿波」が先なのかはこの時点ではチョットわかりません。(大阪名菓の岩おこし&粟おこしみたいなもんかな

 

 従って往古の「阿多」は、阿波国旧「板野郡」のことを指していると思われます。

 

 

 ●板野(阿多のおおよその比定地)

 

 出雲国造である阿多命(出雲振根)、神武天皇治世に山背国造となった阿多振命、阿田都久志尼命(鴨主命)、その祖で描かれる大国主六世孫の阿太賀田須命も当地に所縁があると考えて良さそうですね。(根之堅州國も堅州がわかれば謎が解けそうですが…

 

 更には氏祖命(おほしのみこと)、河内國造にもあるように、「凡(おほし)」とは密接な関係が伺えます。

 そう考えますと、天津神の中でも悪神として描かれる星神香香背男(ほしのかがせお)は、海陽町奥浦地域の産土神で「みょうけんさん」として地域住民に親しまれていますが、言い換えれば、(おほし:お星)の神ということかも知れません。

 

 仁神社にじんじゃ)は、岡山県岡山市東区西大寺にある神社。式内社(名神大社)、備前国元一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

 ◆御祭神 五瀬命 配祀 稲氷命 御毛沼命

 天照大神『岡山藩主池田綱政祈願文』
 参議従三位秋篠安仁卿 寸簸乃塵』
 大納言正三位右近衛大将安倍朝臣安人霊『吉備温故秘録』
 地主神『吉備温故秘録』
 阿田賀田須命『吉備温故秘録』
 兄彦命『大日本地名辞書』
 和邇氏『大日本地名辞書』
 五十狭芹彦命(孝霊天皇三皇子の長男)『大日本地名辞書』
 阿知使主『大日本地名辞書』
 未詳『明治三年神社明細帳』
 安仁神『安仁神社誌』

 

 古くは「兄神社」と称していたと伝えられることから、初代天皇の神武天皇の「兄」に当たる五瀬命ほか二神を祭神としたもので、明治時代に定められた(wikipedia 安仁神社より抜粋)

 

 この神武の兄や、飯入根の兄等、「兄」で描かれる人物は、記紀神話等では天皇を末子相続で描く上では「兄(に)」は敵であり、これが昔話では「鬼(に)」として描いていると考えられ、仮に「あ」と「お」も同義で扱う場合があるのならば、昔話の桃太郎のネタは、実は鬼退治ならぬ兄退治ということになります。

 

 横道に逸れましたが、記紀では倭建命は四国を無視していますが、この「板野」には、倭建命が立ち寄ったとされる白鳥神社があるようで、

 

 

(写真はぐーたら氏より <(_ _)>

 

 御由緒末尾に「大川郡松原に飛来の途中この地に立ち寄られたという説があり、ここに白鳥神社を建立して尊を祀っている。」と在り、

 

 

 白鳥神社(しろとりじんじゃ)は、香川県東かがわ市に鎮座する神社である。旧社格は県社。

 

 

 ●歴史

 能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの時に始まるとされている。(wikipedia 白鳥神社 (東かがわ市)より抜粋)

 

 

 これは履中天皇考察時に通ったと推測する大坂峠の先ですね。

 そういや板野の白鳥神社の近くに亀山神社がありましたね。

 

 徳島県の白鳥神社の方も調べて見ますと、

 

 白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、徳島県石井町に鎮座する神社である。

 

 

 創建年は不詳。社伝によると、東国を征定の帰途に毒に触れて亡なった日本武尊が白鳥となって天昇し、この地に舞い降りたとされている。仲哀天皇が建てたとされ、日本武尊命の息子である息長田別王(阿波国造)が崇拝したと云われる。

 「日本三代実録」には、861年(貞観3年)に従五位下、883年(元慶7年)に従五位上を授かったと記されている。また当神社は、香川県東かがわ市の白鳥神社の元宮とされる。

 

 ◆祭神 日本武尊命 (wikipedia 白鳥神社 (石井町)より抜粋)☛白鳥神社

 

 詳しくはこちらをご拝読下さいませ。

 ぐーたら氏の「ぐーたら気延日記(重箱の隅):讃岐 白鳥神社

 awa-otoko氏の「日本武尊の本陵(白鳥神社)

 

 この場合、徳島から東讃へと進出していった形跡とも考えられますが、ここでも倭建命の子である武鼓王や息長田別王の名が見え、この武鼓王には讃岐の悪魚退治伝説が残っており、後に讃岐国に永住し讃留霊王と称されたといいます。

 この讃留霊王伝説によれば、景行天皇23年に讃留霊王が勅命を受け、瀬戸内の悪魚退治のために讃岐入りし、その後その地に留り薨去したとされています。

 この讃留霊王については、東讃では神櫛王、西讃では武卵王のこととされておりますが、実は悪魚を退治した説話は父の倭建命にも御座います。(うーんややこしいネ
 
 悪樓(あくる)は、日本神話に伝わる悪神。
 
 ●浦川公佐画『金毘羅参詣名所圖会』より「日本武尊悪魚を退治す」
 

 ●概要

 吉備国(岡山県)の穴海に住んでいた巨大魚。その大きさは、近づく船をひと飲みにするほど。『日本書紀』景行紀廿七年に表れる「惡神」「吉備穴濟神」、『古事記』景行天皇条に表れる「穴戸神」のことであるとする説がある。

 

 ●伝承

 日本武尊が熊襲討伐後の帰り道にこの悪樓に遭ったが、暴れ狂う悪樓の背にまたがるや、自慢の剣で退治した。また、素戔嗚尊も悪樓と戦ったことがあるとする説もあるが、真偽は不明。水木しげるは日本書紀や古事記に現れる悪神としているが、そういった記述は悪樓という名前も含めて原典には見当たらず、悪樓の意味も確かではない。江戸時代に書かれた『金毘羅参詣名所圖会』にある日本武尊が退治した悪魚と呼ばれるものとの関連性の指摘があり、藤沢衛彦がそれは大魚悪楼のことであり、悪楼とは東夷や王族を意味するとしている。(wikipedia 悪樓より抜粋)

 

 この「あくる」に関しての説話は東国である上総半島にもあり、恐らくは安房忌部が持ち込んだ説話であると考えられますが、内容を一部抜粋致しますと、

 

 「その昔、鹿野山に棲む阿久留(あくる)王と呼ばれる悪鬼が、上総一帯を支配していた。阿久留王は東征で上総に進軍した日本武尊と戦う。鹿野山山麓の鬼泪(きなだ)山で両軍は激しく争い、敗れた阿久留王は六手(むこ)の地で捕らえられ、殺される。日本武尊は阿久留が蘇るのを恐れ、その体を八つ裂きして別々の場所に葬った。王の血で三日三晩にわたって赤く染まった川は血染川(現・染川)と呼ばれ、それが腐って海に注いだ地は血臭浦(ちぐさうら=現・千種海岸)と呼ばれるようになった。」阿久留王VSヤマトタケル

 

 うーん、これまた牟岐町の牛鬼伝説にクリソツですなぁ。

 また阿久留王は、善政を敷いていたとされ、当地の住民からは慕われていたともされています。

 こちらの話は「大幡主命から考察 ②」でご紹介しました阿彦の乱(富山県の古代史)にある阿彦VS大彦命の伝承とも酷似します。

 これらの説話は、ヤマト王権の進出について書かれてあるということですね。

 

 さて、7代孝霊天皇皇子である稚武彦命をお祀りしていた宅宮神社ですが、延喜式神名帳にある阿波国名方郡「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されています。

 

 「意富(おほ)」は「大(おお)」を意味し、「門麻(とま)」は「泊(とまり)= 港」を意味しているともいわれ、当地は往古大きな港があったともされています。

 

 また大戸惑女神(おおとまとひめのかみ)は、『古事記』では、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神であり、別名に「安房斎部系図」の天日鷲翔矢命の注釈にある、后神 足濱目門比売命はまとひめのみこと)の名で見えます。

 

 この神は、式内社 秘羽目神足浜目門比売神社(ひわめがみはまとひめじんじゃ)論社である中内神社(徳島県吉野川市鴨島町西麻植)祭神に見えます。

 

 またしても「あ」と「意」は同じ扱いとなり、更には「お」までもが…

 

 

 祭神は、秘羽目神、足濱目門比賣神で、神名である「秘羽目」の目を横にして秘羽四(ひわし)であるとも考察されていますね。

 

 私的には「め」は女性を意味する言葉でもありますから、恐らくは比婆(崩すと比波女:ひわめ)山に葬られたとされる伊邪那美神(杼(ひ)をはめた神)のことと推測し、これが天日鷲翔矢命(須佐之男命)の妻であったということになります。

 

 ということは、意富門麻比売の名の解は、「おふとまひめ」や「いほとまひめ」ということにもなりますかな。

 

 また、awa-otoko様のブログ「六人の天日鷲命」や、

 

 ●「阿波国早雲家 忌部系図」

 

 「三河国青木氏系図」にも、

 

 天日鷲命 - 大麻彦命(天日鷲命)- 阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)- 天日鷲翔怒矢命 - 建男命(天日鷲建男命)- 由布彦命(天日鷲毘古命)

 

 …として6人の天日鷲が見えますが、これらは全て須佐之男命の分身であると推測ができ、仮にこの6代を記紀内で置き換え比定をすれば、

 

 須佐之男命 - 天忍穂耳尊 - 瓊瓊杵尊 - 火折尊 - 鸕鶿草葺不合尊 - 神武天皇

 

 …ということになり、神から初代天皇へと移り変わります。

 

 まぁ神武以降の天皇においても引き続き系譜の引き延ばしが見られるのはこれまでの考察で検証済ですが…(´・ω・`)あくまで系譜上ということですがね

 

 阿波国海部郡海陽町にある式内社 和奈佐意富曾神社

 

 

 

 

 「玄松子の記憶」では諸説あって未確認と書かれてはおりますが、その諸説あるご祭神は、


 『大日本史』大麻比古神
 『特撰神名牒』大麻神
 『式社略考』和奈はワナであり鳥獣を取ることに長けた人々
 『名神序頌』日本武尊の子、息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)=大碓命=日本武尊の兄
 『阿波志』和奈佐居父祖として日本武尊
 『下灘郷土讀本』和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
 『海部郡誌』息長足姫命

 

 宍喰八坂神社の元斎宮家であった佐藤家の倉庫にあった資料からは、

 

 

 祭神 一座 日本武尊 

 

 …と書かれて在り、やはり「丹後国風土記:奈具社」にある和奈佐老夫婦の和奈佐毘古命は日本武尊(=須佐之男命)、和奈佐毘賣命は天照大御神で、8人の中から残された天女は次代の天照である豊受大神(=櫛名田比賣=台与)と推測ができます。

 

 この老夫婦の説話には、天女に対し、「おまえはやはり我が子ではない」と追放する箇所があり、これも記紀と内容を同じくします。(例の我が子でないループ

 

 また別伝ではこの和奈佐老人が比治の里のサンネモ(三右衛門)という猟師になっており、天女はサンネモの嫁になり、三人の娘が生まれた話になります。

 詳細は割愛しますが、内容は七夕の話とよく似ていますね。

 

 このサンネモの子孫が現存しているみたいですが、呼名から讃留霊王とも繋がるかもしれません。

 

 天女とサンネモの娘のうちのひとり、豊受大神を祀るのが、磯砂山(いさなごさん)の麓にある乙女神社(京都府京丹後市峰山町)。

 

 

 

 祭神は、豊受大神と神(やまととものかみ)です。

 

 前に和奈佐意富曾神社がご鎮座していた場所は海部郡海陽町鞆浦那佐

 

 このシリーズで散々と書いてきましたが、須佐之男命=倭建命

 前項ではこれが具那王(狗奴国王)であると比定しました。

 

 この須佐之男命を祀る日本三祇園の一社である宍喰八坂神社、往古の祭神は当地の産土神でもある鷲住王であったとされます。

 

 この、須佐之男命=鷲住王についてもこれまでに書いてきました。

 

 では延々と続く無限スサノオループの中に鮎喰から板野にかけて広がる春日の地名とその痕跡。

 往古春日庄があったとされる当地より移されたと考えられる河内国一宮枚岡神社の祭神は天児屋根命・比売神。

 また二宮の恩智神社の祭神は大御食津彦大神(天児屋根命の後裔)・大御食津姫大神(豊受大神)。

 両社共に「元春日」と位置づけていますが、関連する天児屋根命を調べて見ますと、

 

 天児屋命(あめのこやねのみこと)は、日本神話に登場する神。

 

 ●概要

 『古事記』では天児屋命、『日本書紀』は天児屋根命と表記される。春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ぶ。

 居々登魂命の子で、妻は天美津玉照比売命天押雲命の父

 古事記には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。

 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」、または「言綾根(ことあやね)」の意味で、託宣の神の居所、または祝詞を美しく奏上することと考えられる。

 

 ●信仰

 中臣連の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された他、藤原氏の繁栄にあやかって現在では出世の神としても信仰されている。 (wikipedia 天児屋命より抜粋)

 

 …では天児屋命の子とされる天押雲命を見ますと、

 

 天忍雲根神(あめのおしくもねのかみ)

 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)
 天押雲命(あめのおしくものみこと)
 天忍熊根命(あめのおしくまねのみこと)

 

 藤原氏系図では「天児屋根尊-天押雲命」とあり、天児屋根尊の御子神。

 邇邇芸命に従って天降った。

 皇孫の御膳に使う水を、国土の水に天上の水を加えて奉れという神漏岐神漏美命(かむろき・かむろみ)の委託により、父神・天児屋根尊の命を受けて、神漏岐神漏美命の元に遣わされ、天水を天二上よりもち下った。
 天牟羅雲命にも同様の話があり、同神か。(天忍雲根神:玄松子の祭神記 )

 

 …結局のところ、度會神主等の祖である、

 

 天牟羅雲命(あまのむらくものみこと)

 天村雲命(あまのむらくものみこと)
 天二上命(あめのふたのぼりのみこと/あめのふたかみのみこと)
 後小橋命(のちのおばしのみこと) (天牟羅雲命:玄松子の祭神記 )

 

 ここからは仮説となりますが、天村雲命の別名となる天二上命の意味も、

 

 海を治めよと県南宍喰に下った須佐之男命は、母に会うという口実で姉の天照大御神の元に行った後、大宜都比賣を殺し、八岐大蛇も退治した場所、つまり鮎喰川流域に上りました。

 

 次に天孫邇邇芸命に随伴(天村雲命)して再度県南部に国譲りとして降臨。

 天津側では建御雷之男&經津主神として、国津側としては大国主命&事代主命として登場し伊奈佐、名方にて国譲りを成功させました。(ここで1回実は鮎喰に戻っている)

 

 世代を交代させつつ、最終的には神武天皇(崇神天皇:共に始馭天下之天皇=御肇國天皇:はつくにしらすすめらみこと)として、饒速日尊(武埴安彦命)との戦いに勝利し再び板野へと上ったということではないのでしょうかはてなマーク

 

 実話に落とし込めば、邪馬臺国の南にあった狗奴国の男王である卑弥弓呼が卑弥呼を殺す話の無限ループとも云えるでしょう。

 

 これまでの考察により、確実に言えることは、須佐之男命=鷲住王。

 須佐之男命の息子の五十猛命は倭健命(いたける=日本武尊)もまた須佐之男命の分身。

 つまり、鷲住王の子の野根命と天押雲命の父天児屋命の関係は、

 

 (海部:あまの)(子)- 野根(のねみこと)で同神ということ。

 

 山側県北部では天児屋命、海側県南部では野根命になるのではないでしょうか。

 

 ある日突然の如く阿波海部の鷲住王の末裔が藤原氏を名乗った(名乗ることができた)のは何故かとよく聞かれますが、根本的な直系子孫だからなのでしょう。

 倭建命説話と同時に海部郡での昔話は何故か土佐の野根からやってくる話になるのもこのためではないでしょうか。

 

 「南海治乱記」にある野根殿と云われた惟宗国長。

 

 惟宗国長は、安芸郡野根城主。惟宗氏は安田氏とも称した。

 1575年、盆踊り見物に出た隙を狙われ、長宗我部元親に攻められ甲浦城に逃れた。 

 甲浦城が長宗我部勢に囲まれると阿波国に逃れた。

 また、惟宗出羽守は土佐甲浦城主。安芸家臣。惟宗国長と共に没落した。

 

 …とあり、wikipediaによれば、惟宗氏は秦氏の子孫とされ、中でもよく知られるのが惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣で、彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)でしたね。

 

 さて、話を冒頭に戻しますと、

 仙覚の記した「萬葉集註釋 仙覚抄」には、現存が確認できない「阿波国風土記」の逸文の五節が記載されています。

 その中で、

 

 奈佐浦(萬葉集註釋 卷第三)
  「阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。

 

 後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に委奴國の王に送ったとされる「漢委奴國王印」。

 

 「あ」は「い」に同じ。

 加えて、海部(あま)は、「波」のこと「奈(な)」という。

 

 つまり諸国郡郷名著好字令により、阿波國となったのは、往古の委奈(奴)國であった痕跡ではないですかはてなマーク

 

 「ぐーたら気延日記(重箱の隅) :阿波国は本当に粟国なんですか? 」にも記されておりますが、

 

 「阿波」の名称と由来

 古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていた。のち、律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された。(wikipedia 阿波国より抜粋)

 

 粟がよく取れたなどという釈然としない理由、これは例の如く隠蔽のためのこじ付け命名に過ぎません。一時的には「粟國」とされたのかも知れませんが。

 

 変遷的には恐らく、委奈國 ⇒ 伊(倭)和國 ⇒ 阿波国の順になったと考えます。

 

 委奴国(いなこく)が字義同義となる阿波国(あわこく)となったのです。