◆一寸法師

 

 前稿の「応神天皇の痕跡から考察⑦」から引き続き、応神天皇と伊奢沙別/去来紗別から何が見えて来るのかについて考察して参りたいと思います。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 当稿はご先達方の資料をふんだんに使用させて頂いております。<(_ _)>

 

 品陀和氣命(ほむだわけのみこと=応神天皇)と名を交換したとある、「記」伊奢沙和気大神、「紀」去來紗別神の神名にある「いざ」の部分についてですが、辞書検索しますと、

 

 去来(きょらい)

 ① 去ることと来ること。行ったり来たりすること。ゆきき。往来。「心中に去来する思い」

 ② 過去と未来(goo辞書より)

 

 …とあり、辞書の①の意味として、『古事記』大国主命の国造りの段にある「有歸來神」「帰って来る神がいました。」と同様の意味になります。

 また、『古事記』にある「帰来(きらい)」について興味深いことに、同音となる「喜来(きらい)」の地名が東四国(阿讃)に集中して点在しています。

 

 喜来(きらい)は、日本の地名。主に徳島県内に多く存在する

 

 ●地名

 鴨島町喜来 - 徳島県吉野川市の地名。

 中喜来 - 徳島県板野郡松茂町の地名。

 美馬町喜来市 - 徳島県美馬市の地名。

 市場町上喜来 - 徳島県阿波市の地名。

 阿波町下喜来 - 徳島県阿波市の地名。

 阿波町下喜来南 - 徳島県阿波市の地名。(wikipedia 喜来より)

 

 wikipediaにもあるように、徳島県で顕著に見える地名です。

 「喜来地名」というサイト様によれば、「櫛(くし)」のことをアイヌ語ではkiray と言いい、意味としてはそれで「しらみ」が死ぬということのようです。

 阿讃で「喜来」の付く地名は、40~50ヶ所もあるようですネ。

 

 

 その中に香川県大川郡白鳥町にも「帰来」地名があるようですゼ(・∀・)

 

 また『古事記』仲哀天皇・神功皇后記にある

 

 久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯 麻都理許斯美岐叙」

 

 酒の神の、常世の国に居る、石に宿る少名御神(スクナミカミ)の祝福の 踊り狂い 踊り回りして作った酒です。」

 

 これまた同音となる、酒(くし)の神との関連性も指摘されますが、「キライ」につきましては一旦これくらいでおいておきましょう。

 

 「キライ」についての参考資料はこちら

 地名「喜来」の考察平取町立二風谷アイヌ文化博物館

 

 古くは大国主命時代の説話からも、「少彦名命」が帰来したとある場所は、出雲之御大之御前(=出雲の三穗之碕)であり、また後に同地から常世へと旅立っており、後段になる大物主神も、同地に海の向こうから光り輝く神様として現れたように、この場所(伊那佐之小濱=今の那佐湾)は神々が往来する港として描かれております。

 私説とはなりますが、「天孫降臨:阿波海部説」として同地を再度読みますと、

 

 『古事記』ニニギの段に、

 

 此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理。」

 

 この地(和奈佐)の者は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。」

 

 つまり、この地を拠点として、韓国(常世)へと旅立って行けることがきちんと記されていることになります。

 

 この五十狹々小汀での説話の中で、国造りの時に当地で「食事をなさった」のは「大己貴神」であり、また、国譲りの際、出雲の五十田狹之小汀の「三穗之碕」から帰って来たのは「事代主神」ですよね。

 

 『播磨国風土記』によると、阿波国和那散の浜で食事をされたのは去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)こと17代履中天皇。

 これが「仮に」大己貴神に対応すると仮定し摺り合わせした場合、『播磨国風土記』によると、「伊和大神の妻の許乃波奈佐久夜比命」とあり、木花之佐久夜毘売の夫は「記紀」では邇邇芸命なのですから、その「兄」にあたるのは確か海部氏の祖である邇芸速日命(天火明命)になりますよね。

 履中天皇は、当徳島県の海部の地で太姫郎姫と高鶴郎姫を嬪としたことが『日本書紀』に記録されていますが、その兄に当たるのは鷲住王であり、履中天皇からすれば義理の「兄」となります。

 

 また天火明命も『播磨国風土記』によれば、大汝命と弩都比売の子で、あまりにも乱暴な子であったため、大己貴命が船に乗せて 出航した際、立ち寄った場所に置き去りにしようとしたことで天火明命を怒らせ、海が荒れ狂ったため船は難破して、大己貴命は非常な難渋をしたという説話が記録されています。

 『海部氏系図』や『先代旧事本紀』によれば、天火明命は、大己貴命の娘である天道日女命を妃として天香語山命を生むともあります。

 

 

 従って、大己貴命(この場合邇邇芸命)の義理の「兄」の邇芸速日命(天火明命=鷲住王)が、大己貴命の「娘」を妻としたことにより、大己貴命の「義理息子」になったということになり、系譜としては、大己貴命の次代に「義兄」が入ることが一つのポイントになります。

 

 さて、これまでの過去の考察等から、須佐之男命の子である五十猛命は天村雲命と同神であるという結論を出しました。

 また、須佐之男命の6世孫或いは7世孫とされる大己貴命(大国主命)も、須佐之男命の娘である須勢理毘売を娶ったことにより、大己貴命は須佐之男命の「義理息子」となりました。(『日本書紀』では素戔嗚尊の御子とも記す)

 

 「本家の元祖考察 オマケ」での考察では、阿波國「続」風土記によると、天村雲命は、大国主命と同神ともいわれている天日鷲命の”御弟神”と記されています。

 

 

 前稿に載せた『古事記』大国主命の段に、小名毘古那神は神產巢日神之御子とあり、また一方で、『日本書紀』では、高御産巣日神の子とも記されてあります。

 

 これを例の如く下に用意した「忌部氏系図」に当て嵌めますと、天背男命の子である天日鷲翔矢命の妹にあたる天比理乃咩命を妻としたことで、天日鷲翔矢命と「義兄弟」となったのは高皇産霊神の子である天太玉命

 

 

 従ってこれが「少彦名命」ということになり、逆算で天背男命は須佐之男命ということになります。

 「記紀」にある須佐之男命の子の五十猛命(=天村雲命)は、この時点では天日鷲翔矢命もしくは天太玉命にあたります。

 

 

 上の阿波國「続」風土記に書かれてあるように、天村雲命の父は天手力雄命とありますから、「天背男命=須佐之男命=天手力雄命」の公算が非常に大きいでしょう。

 因みに天日鷲翔矢命の弟になる櫛明玉命は、

 

 玉祖命(たまのおやのみこと)は、日本神話に登場する神である。玉造部(たまつくりべ)の祖神とされる。『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』にはこの名前の神は登場しないが、同神と見られる神が登場する。

 

 ●概要

 別名に玉屋命(たまのやのみこと)、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、豊玉命とよたまのみこと)などがある。

 高御魂命の孫とする伝承があり、また天背男命の子で天日鷲命の弟とする系図も存在する。(wikipedia 玉祖命より抜粋)

 

 「玄松子の記憶」にも、櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)は、天明玉命(あまのあかるたまのみこ)、天羽明玉命(あめのはあかるたまのみこと)、天豊玉命(あめのとよたまのみこと)、玉祖命/玉屋命(たまのやのみこと)、天櫛明玉命(あめのくしあかるたまのみこと)、羽明玉(はあかるたま)

 

 …とあり、この「豊玉命」が仮に「豊玉彦」であったとした場合、

 

 ワタツミワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神。転じて海・海原そのものを指す場合もある。

 

 ●概要

 『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。(wikipedia ワタツミ・ワダツミより抜粋)

 

 …となり、また

 

 アマツヒコネは、日本神話に伝わる日本神話の神。

 

 ●概要

 『古事記』では天津日子根命(あまつひこねのみこと)、『日本書紀』では天津彦根命(あまつひこねのみこと)、他文献では天都比古禰命とも表記され、波多都美命(はたつみのみこと)の別名を持つ。

 アマテラスとスサノオの誓約の際に天照大御神の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。(wikipedia アマツヒコネより抜粋)

 

 

 上の図からも、須佐之男命と天照大御神との誓約(うけひ)によって化生した「親子」であるというとこがお分かり頂けるかと思います。(つまり推測した系譜が一致する)

 

 ここで、誓約で得た子は「義理」の子ではないのかといった一つの仮説が浮かび上がってきます。

 本稿でいうところの気比(けひ)=かへ➨化へ=”変え”(交換)ですな。

 

 同時に、”天”豊玉命=”海神”豊玉彦ということとなり、天(あま)の意味は、海(あま)と同義ということにもなります。

 

 ここまではよいとして、ここから次の解釈が非常に難しいのですが、天日鷲翔矢命の子である「大麻比古命(津咋見命)」について、

 

 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町板東にある神社。式内社(名神大社)、阿波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 ◆主祭神 大麻比古神 - 天日鷲命の子で、阿波忌部氏の祖とされる。
 ◆配祀神 猿田彦大神 - 古くから大麻山に祀られており、のちに合祀されたとされる。

 『日本の神々 -神社と聖地-2 山陽・四国』(以下、『日本の神々』)によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。『日本の神々』では、これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども…」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と述べている。

 『日本書紀』の神代巻では阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命(あめのとみのみこと)をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。

 明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。

 同書では、神話において、天孫降臨に五伴緒の一人として随伴した天津神の天太玉命と、その行く手に現れた国津神の猿田彦大神は本来別系統の神であり、本質的には対立する関係の両神が同一社地に祀られている理由は必ずしも明らかではないと述べる一方で、猿田彦大神が祀られた事情を次のように推測している。(wikipedia 大麻比古神社より抜粋)

 

 平たくいえば、大麻比古神は、「天日鷲命or猿田彦大神or天太玉命」のどれかワカンネーベといったところのようです。

 

 付け加えて以前に考察しました、粟国造粟凡直の子孫の系譜となる「粟国造粟飯原家系図」から、

 

 

 月夜見命は須佐之男命の亦名ともあり、仮に津咋見命(つくいみ)=月夜見命/月讀命(つくよみ)であったとすれば、須佐之男命すらもこれに加わるということになります。

 確かに「記紀」では、月讀命は須佐之男命とエピソードが重なることから、通説においても同一神説があります。

 

 awa-otoko様ブログ「児宮祭神 斎主命とは何者なのか?」より

 ●古書「端山郷土史編纂要項:児宮神社本暦」

 

 確かに、大麻比古命 又名 津咋見命と見えますね。

 

 更に付け加えますと、これが亦云 勝速日命(=正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)であったのであれば、皇祖本流系譜を意味することとなり、これがまたしても須佐之男命と天照大御神の誓約御子なのですから、1世代ズレての自身の分身(=別名にしての義理息子)であるということにもなり、同時に大己貴命に比定する天日鷲翔矢命(=邇邇芸命)の父の天背男が須佐之男命であるという仮説も一致を見ます。

 

 つまりこちらも、宇(う)気比(けひ)=かへ➨化へ=”変え”(交換)ですな

 

 また、猿田彦大神につきましては、岐神や積羽八重事代主命とも同神であることも以前に記しました。

 

 ●「三輪氏系図」より

空と風:「日本を建国した大国主命一族という名の阿波忌部」より拝借

 

 従って一番オーソドックスな系譜として置き換えますと下矢印

 

 

 また別に、大麻比古神自体が「須佐之男命 - 大己貴命 - 積羽八重事代主命」の所謂親から孫までの三世代のことを指しているのであれば、実はこれら全てが同神であるという可能性も挙げられますが、少なくとも天日鷲翔矢命(=大己貴命)を中心に、前後の系譜が「須佐之男命」であることになります。

 

 先程考察しました、大己貴命の「義兄」が大己貴命の子(つまり義理息子)であり、これが実は系譜上の「父」で、別名が大麻比古命であるということになります。

 

 また、一般社団法人忌部文化研究所の「徳島と日本各地を拓いた阿波忌部」によれば、

 

 との見解があり、また、wikipediaによると、

 

 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。

 

 ●系譜

 『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲神の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少名毘古那神と天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲神(少名毘古那神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。(wikipedia 天日鷲神より抜粋)

 

 つまり下図の青線囲いの上下は別神名で描いた同系譜であるとの想定ができるのです。

 

 

 よって(この時点で少なくとも)

 大麻比古命は、須佐之男命積羽八重事代主命猿田彦大神大物主神饒速日命天太玉命

 

 この説に沿って説明しますと、

 大己貴命の段の国造り・国譲りを解説しますと、国造りの際に船に乗って海から戻って来た後に義兄弟となったのは少彦名命。

 これが大己貴命(=邇邇芸命)からは「義兄」にあたる饒速日命(天火明命)となります。

 

 また、国譲りの際では、三穗之碕から戻って来たのは「子」で描く積羽八重事代主命(=岐神=猿田彦大神)で、その実は、父の須佐之男命になるということ。

 従って必然的に「義理息子」であるということになります。

 

 ※因みに少彦名命は大己貴命と「兄弟」になって云々との記述は見られるものの、それが兄か弟かは詳しくは書かれていません。これは八重事代主命の兄弟である建御名方神も同様です。

 

 この仮説を証明すべく、次代の由布津主命を調べてみますと、

 

 またしてもawa-otoko様ブログ

 安房国忌部系図からみる由布津主命 又名 阿八別彦命(アワワケヒコ)」より

 忌部高山家に伝承されていた忌部家系を表した写本『安房国忌部系図』によると、

 

 大麻比古命と磯根御氣比賣命との間の子に、千鹿江比賣命と由布津主命のニ柱が誕生します。

 由布津主命は又名を阿八和気毘古命(アワワケヒコ)と記されています。

 

 この阿八和気毘古命(阿八別彦命)ですが、

 

 同系図では、由布津主命を天止美命(天富命)と定め、更に由布津主命は青和幣、白和幣を使用して荒妙を調達し、これは阿波国から麻、木綿、和幣の織物を用意させたものであると記録しています。(種々の木を持って行脚する様はまるで須佐之男命と五十猛命ですな)

 要するに由布津主命と天止美命(天富命)は同神であると書かれています。

 

 

 ということは、やはり青線囲いの上下は共に同系譜であるということになります。

 

 

 お次は『出雲国風土記』大草郷の条に、

 「須佐乎命の御子、青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)坐す。故、大草といふ」

 とあり、式内社 八重垣神社(旧称 佐久佐神社(さくさじんじゃ))では、素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ)も配祀しています。

 この一風変わった神名の出雲の神ですが、「記紀」には一切記されていない神であり、同風土記にはこのような神が数多く登場します。

 

 少し例を挙げますと、「三輪高宮家系図」では、

 

 (ぐーたら気延日記様よりお写真を拝借しております<(_ _)>)

 

 建速素戔嗚命の又名に、八束水臣津野神の名が見えますが、この神は、『出雲国風土記』によれば、「出雲の礎を築いた神」というニュアンスで冒頭に登場する神であり、新羅(朝鮮半島)の一部を出雲に引き寄せ、島根半島を造成したという「国引き」を行った神として描かれています。参考【出雲国風土記】国引き神話

 

 また八束水臣津野神(淤美豆奴神)は、岡山県の北居都神社のご由緒には、須佐之男命の御子神であるとされ、また『古事記』では、大己貴命の父の天之冬衣神の父として神名が見えます。

 何度もいいますが、大国主神は須勢理毘売を娶ることで(義理の)父となったのは須佐之男命、また天之冬衣神も父とあり、更にその父も父(チョット何を言っているのかわからない)となり、結局のところ、ここでも系譜的には3世代に渡って、「須佐之男命 - 須佐之男命 - 須佐之男命」になっています。

 

 

 鋤持神:さい(ひ)もちのかみ 佐比持神

 【名】(「さい」は刀剣の意) 刀剣を持っている神 (コトバンクより)

 

 ということは、この須佐之男命の御子である青幡佐久佐日古命も、訓みを変えれば、「青幡佐久:あはさく 佐日(日)古命:さ(ひ)ひこのみこと」となり、字義として、「阿波を割いた刀剣の男」の意味となり、由布津主命の別名である阿八和気毘古命(あわわけ - ひこ:阿波を別けた男)と同様の意味となります。

 

 文字音が重なることでいわゆるリエゾン的な日本語となりますが、仙覚律師のいう「伊は発語詞也。梵語には阿字以て発語の詞為、和語は伊字を以発語詞と為也。」「天竺にては阿字を以て発語とし和語は伊字を以為。」を踏まえ、阿八和気毘古命(アワワケヒコ)の「ア」も「イ」も発語は同じと解せば、これが「イワワケヒコ」となり、『ホツマツタヱ』にあるカンヤマト(美称)+イハワレヒコ(神武天皇)と同じ意味となります。

 これがリエゾン仕様で『日本書紀』では神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)ということになります。

 従って「裂く」「別け」「割れ」と同義の文字を充てた同神名とも考えられます。

 

 wikipediaスクナビコナに、少彦名命は、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神(=いわの神)など多様な性質を持つ。とある意味もこれでお分かり頂けるのではないのでしょうか。

 

 従って父の大麻比古命=須佐之男命の仮説もこれまたアタリであるということになります。

 また『出雲国風土記』には、別の須佐之男命の子に、都留支日古命(つるぎひこのみこと)の記録もありますから、恐らくこれ等はみな同神であると考えられます。

 

 この由布津主命ですが、wikipediaでは、

 

 「剣の神」と書かれている『日本書紀』にのみに出現する経津主神ふつぬしのかみ)別名イワイヌシ(イハヒヌシ)のことで、斎主神または伊波比主神とも表記されます。

 「忌部氏系図」では妻となった飯長媛命も斎主ですよね。

 

 従って先代の須佐之男命から孫の代に自身が移動し、再び須佐之男命の子へと系譜がループしていくのです。

 

 

 ここで抑えておきたい点として、先述した由布津主命と天富命は同神であることから、天富命、つまり自身の子の飯長媛命が妻となっているということ。

 これを系譜で説明しますと、

 

 

 須佐之男命(天背男命)の娘である天比理乃咩命と結ばれた少彦名命(天太玉命)は、次代において須佐之男命(大麻比古命)の「義理娘」となる飯長媛命と結ばれた由布津主命(=少彦名命と同神)の構図となり、

 

 

 実は須佐之男命の子神は娘を含め全て「義理の子」であることが判明し、また系譜的には再度須佐之男命が孫の代で出現することによって次代へとループするようになっています。

 更に言えば、己貴命から彦名命へ、「大」から「少」へと本流系譜が推移し、その両方の系統が実は皇祖本流へと繋がっていることを示しています。

 同時に誓約御子のトリックは、このようにして結局のところ「義理の子」で成り立っていると考えられるのです。

 

 次に讃岐国大麻神社に、

 「天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。」飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂本神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。なお、氏子にはその末裔の高木氏がいる。

 …とあり、脚咋とされる徳島県海部郡海陽町宍喰には、日本三祇園である宍喰八坂神社がご鎮座され、当社祭神の素戔嗚尊も元は鷲住王をお祀りされておりました。

 

 ●「宍喰町誌」

 

 また『先代旧事本紀』「国造本紀」にある「粟国造 応神朝の御代、高皇産霊尊9世の孫・千波足尼(チハノスクネ)を国造に定む」とあり、9世遡ればこの訶多々主命(堅田主命)に行き着きます。

 従って再び高皇産霊尊(須佐之男命=この場合天富命の孫は訶多々主命)から再度系譜が続くことになるのです。

 

 

 これを宇気比(うけい:誓約)という一種のまじないとして、気比大神(去来紗別)の説話にある、「けひ➨かへ➨変えた」という義理の親子で結ぶ系譜トリックで、「去来(きょらい=いざ)」のもう一つの意味でもある「過去と未来」がイコールで結ばれているという意味ではないでしょうか。

 

 さて、時を経て、これが鷲住王が17代履中天皇の「義兄」であるということが一体誰を意味するのかを証明しなければなりません。

 

 このトリックを補足する証拠となるものを以下に並べてみますと、

 

 沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は、滋賀県近江八幡市安土町常楽寺にある神社。式内社で、旧社格は県社。

 少彦名命を主祭神として計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。

 

 

 ◆本殿祭神 佐佐木大明神

  • 一座・彦名命 - 祖神・産土神
  • 二座・彦命(大毘古神) - 古代沙沙貴山君の祖神・四道将軍
  • 三座・仁徳天皇(大鷦鷯尊) - 沙沙貴にゆかりある祭神
  • 四座・宇多天皇・敦実親王 - 宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神(wikipedia 沙沙貴神社より抜粋)

 

 奈良県の大神神社(祭神:大物主大神=倭大物主櫛甕玉命)は酒造り(神酒:ミワ)の神様としてまた三輪氏の祖伸としてお祀りされています。

 祭神の一致やその神徳からもこれは少彦名命=事代主命ですよね。(この辺はあまり異論はないはず)これを踏まえまして、

 

 沙沙貴神社のご祭神にある8代孝元天皇と欝色謎命(開化天皇の母)との子に、大彦命がおり、兄弟には少彦男心命(日本書紀一書、少名日子建猪心命)がおります。

 また、伊香色謎命との間の子には彦太忍信命(比古布都押之信命)がおり、この皇子と山下影日売との間に生まれたのが当稿の名の交換説話に登場する建内宿禰となります。(スクネの系統ね)

 この建内宿禰の子である平群木菟宿禰もまた仁徳天皇と名を交換しています。

 傍流で描いた伊香色謎命は次代の開化天皇が娶ることにより崇神天皇が誕生、即ち皇祖本流へ入れ替わるのです。

 つまり皇祖本流と傍流で描く物語は実は表裏一体のお話であり、少彦名命(鷦鷯(=娑娑岐:ササキ)の羽で出来た服を着て登場)を祖神とする沙沙貴神社では、佐佐木源氏も大彦命(沙沙貴山君の祖神)も同祖であり、また仁徳天皇(大鷦鷯尊)も沙沙貴にゆかりある祭神としてお祀りしているのです。

 

 wikipediaで少彦名命を調べてみますと、

 

 少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、日本神話に登場する神。

 

 ●系譜 『百家系図』巻三十七所載の「三嶋」系図には天湯川田命の子とあるが、天湯川田命は神魂命の後裔とされる。また『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連美努宿祢の祖とされている。これらのことからスクナビコナと天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天湯川田命(天背男命)ー少彦名命(天日鷲命)ー建日穂命(天羽槌雄命)ー波留伎別命」となる。

 

 ●後裔 『先代旧事本紀』では鳥取氏の祖神とされている他、三島県主の祖神ともされる。(wikipedia スクナビコナより抜粋)

 

 wikipedia天日鷲神の時にも同様の旨が記されておりましたが、つまり天背男命の後裔に鳥取連/部・美努連/宿祢(少彦名命が祖神)がおり、また天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖であることから、その系譜上の間に居る天日鷲命が少彦名命と同神であるということ。

 

 そして、以前「堅石王から考察」で考察した上祖である「意富比垝:オホヒコ」。

 鉄剣に銘文として刻まれた文字は、

 

 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原」

 

 ワカタケル(若しくはワクカタシロ(稚事代))大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

 

 自説として随分と答えに近付いて来たように思いますので、一応(現時点で)の答えを書いておきましょう。

 本稿での履中天皇と鷲住王の関係を整理しますと、

 

 五十狹々小汀での説話の中で、国造りの時に当地で「食事をなさった」のは「大己貴神」であり、また、国譲りの際、出雲の五十田狹之小汀の「三穗之碕」から帰って来たのは「事代主神」。

 

 『播磨国風土記』によると、「伊和大神の妻の許乃波奈佐久夜比命」とあり、木花之佐久夜毘売の夫は「記紀」では邇邇芸命ですから、その「兄」にあたるのは海部氏の祖である邇芸速日命(天火明命)。

 

 大己貴命の「義兄」が大己貴命の子(つまり義理息子天火明命)であり、これが実は系譜上の「父」である。

 

 履中天皇は、鷲住王の妹である太姫郎姫と高鶴郎姫を嬪としたことで鷲住王が履中天皇の義理の「兄」となった。

 

 従って、「忌部氏系図」に置き換えますと、

 

 

 履中天皇の「義兄」は、次代の「義理息子」であり、実は「義父」鷲住王(=クローンの仁徳天皇)となります。

 本流として置き換えますと、次代に当たるのは、雄略天皇、傍流とすれば市辺押磐皇子となるんでしょう。(市辺押磐皇子のエピソードも、わざわざ押歯(八重歯)であると、八重事代主命を暗示していますしね)

 

 因みに雄略天皇の陵は、大阪府羽曳野市にある、丹比高原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)

 

 伊勢に豊受大神を移せといったのは誰でしょうか。

 またそれを移した人物は誰でしょうか。

 そして初代伊勢国造となったのはどなたでしょうか。

 

 まぁ、これが現在の「伊勢」なのかは検証する必要がありそうですがね。

 

 少なくとも、応神天皇の子である例の大阪府の巨大な古墳の被葬者は、歴代の役職名とも考えられる 「沙沙貴にゆかりある」天日鷲命(=事代主命)の一人であり、コレ即ち”天皇”であると置き換えることも可能なんじゃねはてなマークってことで。(少彦名命スゲーな)

 

 応神天皇の痕跡からこのようなお話になりましたが、「記紀」の意味示す具体的な内容につきましては更に吟味を重ねる必要がありそうですね。

 

 一応何度も申し上げておきますが、あくまでも私説考察ということで(´・ω・`)ノ