「勾玉から考察②」からの続きとなります。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 本考察もそろそろまとめモードに突入したいと思いますが、今一度今回の主役でもある天之日矛について、少しだけ掘り下げておきたいと思います。

 相変わらずwiki多めよ(説明楽だからね…

 

 天之日矛の祖国である新羅国についてですが、その建国時期は現代においても未だ明確には分かっておりません。

 朝鮮半島に現存する最古の歴史書『三国史記』「新羅本紀」(1143年執筆開始、1145年完成)の記述によると、新羅の建国は前漢孝宣帝の五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年になります。

 

 新羅の前身となった斯蘆国初代国王が、

 

 赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年)は、斯蘆国の初代の王(在位:紀元前57年? - 4年)であり、姓を朴、名を居世とする。

 

 ●出自

 三国史記の朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人であり、これが朴氏初代の朴赫居世ともいわれる。日本側の記録では、『新撰姓氏録』において新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとされている。

 

 ●建国神話

 『三国史記』新羅本紀によれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という6つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部と呼ぶ。

 楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出てきたので、村長たちはこれを育てた。10歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために6村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は13歳であり、前漢の五鳳元年(前57年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって5年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(『三国史記』では右脇)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。

 『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇夫人が、夫がいないのに妊娠したので海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世居西干とその妃閼英夫人を生んだ。

 

 ●名の由来

 赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある。『三国遺事』の指定する訓によれば「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という。

 

 ●姓氏の由来

 『三国遺事』によれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある。また赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるためそのまま「朴」になったとも考えられている。(wikipedia 赫居世居西干より抜粋)

 

 コトバンクの説明では、

 

 赫居世

 朝鮮古代の新羅始祖王名。別名は赫居世居西干、赫居世王、閼智(あつち)。姓の朴氏は後世の付加。赫居世居西干は、光かがやく王の意味で、民間伝承に多く用いられる閼智は穀霊を意味する。赫居世は天から降臨するが、水神の王后閼英(あつえい)をえて、はじめて天候と土地との結合する農耕神話=建国神話が完成する。新羅六村の村長は王都周辺の名山に、赫居世は山麓の蘿井付近に降臨した。これは新羅王権の弱さを示す開国神話といえる。

 

 :[音]カク(漢)[訓]かがやく

 1 赤々と燃えるように輝く。

 2 勢いが盛んなさま。(コトバンクより)

 

 生い立ちについては、『三国遺事』(高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書)巻五「感通第七」条に、

 

 「其始到辰韓也。生聖子為東國始君。蓋赫居閼英二聖之所自也。故稱雞龍雞林白馬等。雞屬西故也。嘗使諸天仙織羅。緋染作朝衣。贈其夫。國人因此始知神驗。〈(娑蘇は)はじめ辰韓にきて、聖子を生み、東国の最初の王となった。たぶん、赫居世と閼英の二聖を生んだことであろう。それで鶏竜・鶏林・白馬(など)の称があるが、(これは)鶏が西がわ(西方)に属するからである。あるとき(娑蘇が)諸天の仙女たちに、羅うすものを織らせ、緋色に染めて朝服を作り、彼女の夫に贈った。国の人がこのことによってはじめてその神験を知った。〉」

 

 …と記されてあり、この赫居世の妃となったのが、

 

 閼英夫人(あつえいふじん)は、中国から辰韓にやって来た、中国の王室の娘娑蘇夫人の子である。新羅の初代王赫居世居西干の王妃となるが、赫居世居西干も同じく娑蘇夫人の子である。『三国遺事』によると、閼英夫人は井戸の傍に現れたの左脇(『三国史記』では右脇)より生まれたとあるが、一然によると、龍とは娑蘇夫人のことである。(wikipedia 閼英夫人より抜粋)

 

 記録では夫婦共に娑蘇の子なんですね。

 従って赫居世「妻」の閼英は同時に同母の「妹」、それが共にの子の体裁となっております。まぁ片方は脇から生まれてますが、説話の内容にはどことな~く既視感がありますなぁ。(´・ω・`)

 

 wikipediaによりますと、この赫居世と同一人物と目されているのが、

 

 瓠公(ここう、生没年不詳)は、新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。また金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。もとは倭人とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。

 初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある。

 また、脱解尼師今が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった。(wikipedia 瓠公より抜粋)

 

 瓠を意味する「バク」を姓とした斯蘆国の初代の王赫居世と、他方は瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡って来たことからその名とした倭人の瓠公。

 共に「新羅本紀」に記されてある伝承であることやその特徴的な来歴・謂れなどからも、同一人物を別視点から記していると考えられます(´・ω・`)てかふつーこんな特異な謂れがこの時代の新羅にだけ集中せんやろ。

 

 また、同時に中国の王室の娘である龍(娑蘇夫人)の脇から生まれたと記されるのが、赫居世と閼英の同母きょうだい夫婦で、二人の間にできた長男が第2代国王の南解次次雄です。

 この南解次次雄と雲帝夫人(もしくは阿婁夫人)の娘の阿孝と結ばれたのが、

 

 脱解尼師今(だっかい にしきん、タルヘ イサコミ)は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)で、姓は昔(ソク)、名は脱解(タルヘ)。吐解尼師今(とかい にしきん、토해 이사금、トヘ・イサコム)とも記される。第2代の南解次次雄の娘の阿孝(アヒョ)夫人の婿。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖

 

 ●出自

 脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡、周防国佐波郡などに比定する説があり、上垣外憲一は、神話である以上、他系統の伝承が混ざっているだろうと述べた上で、脱解は丹波国で玉作りをしていた王で、交易ルートを経て新羅にたどり着いたというのが脱解神話の骨子であるとし、神話の詳細な虚実は措くとしても、昔氏は倭国と交易していた氏族だと推測できるとした。

 新羅の王子であるアメノヒボコは子とされる。アメノヒボコは多婆那国の推定地とされる丹波国、但馬国に上陸しており、若狭湾にある新羅神社には、アメノヒボコが父の母国を探し日本に渡ったとされる伝承も残されている。

 

 ●即位まで(誕生説話)

 『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。

 倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。(wikipedia 脱解尼師今より抜粋)

 

 ここでも再び登場する倭人。

 wikipediaによれば、天之日矛の父親に当たるとされる第4代新羅国王脱解尼師今は、『三国史記』によると、倭の東北一千里にある多婆那国生まれであるとされ、「其國王娶女國王女爲妻」「その国王が女国の王女を妻に娶って」できた子(卵)と記します。

 ここまでの話を擦り合わせますと、脱解は斯蘆国の王となった倭人瓠公の系譜を受け継いだ直系の系統の娘を娶ったことになり、結果的に倭人同士の婚姻を意味することになります。

 一応断っておきますが、あくまでもこれは日本人が意図して記録した歴史書の記録ではなく、高麗17代仁宗の命を受けた高麗の官僚の金富軾が編纂した『三国史記』の記述ですヨ。

 

 ●新羅国王系譜

 

 しかし脱解尼師今は子に恵まれなかったため、金閼智という養子を貰います。

 

 金閼智(きん あっち、65年? - ?)は、新羅の金氏王統の始祖とされる人物。第4代王脱解尼師今のときに神話的出生とともに見出された。7世孫に第13代王味鄒尼師今が出て新羅王として即位し、以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。

 

 ●出生伝説

 『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀に拠れば、脱解尼師今の9年(65年)3月、首都金城(慶州市)の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって倭人である瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育て、国号を鶏林(シラキ)と改めた。後世、この号を新羅と定める。

 『三国遺事』金閼智脱解王代条に拠れば、永平3年庚申(60年)8月4日、倭人瓠公(瓢公)が夜に月城の西の里を歩いていたところ、始林の中に大きな光を見たという。紫色の雲が垂れこめており、雲の中から金色の小箱が降ってきて木の枝に引っかかった。箱から光が差しており、またその木の根元では白い鶏が鳴いていた。瓠公はこのことを脱解尼師今に報告したところ、尼師今は始林に出向かった。小箱を開くと中には小さな男の子がいて、立ち上がった。新羅始祖の赫居世の故事とよく似ていたので、小さな子を表す「閼智」を名前とした。尼師今はこの子を抱いて王宮へと帰ったが、鳥や獣がついてきて、喜び踊っていた。吉日を選んでこの子を太子に封じたが、後に婆娑(5代王婆娑尼師今)に譲って、王位にはつかなかった。(wikipedia 金閼智より抜粋)

 

 ●(金氏始祖)金閼智の系譜

 

 『三国遺事』によれば、脱解尼師今の義理息子である閼智は、新羅の王位には就かなかったと記されています。

 

 この「新羅本紀」等に書かれてある、倭人による王朝建国説話は、甚だ奇想天外な物語の内容となっており、当地に時折流れ着く箱や卵などから生まれたとする摩訶不思議な王の出生譚は常識的には信じ難いものです。

 しかし、これらの文意の趣旨から、これを渡来して来た倭人のことであると考えると、脱解の子が天之日矛と仮定すれば、新羅国の後継を断ったとある養子の閼智(あっち)が当人となり、理屈に合う話として一致します。

 

 記録に拠れば、斯蘆国の初代の王赫居世居西干(瓠公)の生年が紀元前69年頃とされ、また孫世代の脱解尼師今の在位年が西暦57年、そして倭人の瓠公が発見した金色の小箱の中に入っていた閼智の生年(箱パッカーン)が西暦65年、『三国遺事』では西暦60年となっています。

 (´・ω・`)4世代の説話に絡む瓠公はめっちゃ長生きですな!

 

 これら『三国史記』や『三国遺事』等の趣旨についてですが、時系列順から鑑みますと、我が国の『記紀』(712年・720年完成)と類似点も多く見られることから、もしかすると伝奇のモデルとして自国(新羅)の歴史に組み込んだ可能性が考えられます。

 少なくとも双方の書共、中国の新唐書(1060年成立)等を資料として利用していることが既に証明されているため、恐らくは様々な周辺諸国の歴史史料を搔き集めて自国版として完成させた可能性も指摘できるでしょう。

 ただし、これらの伝承を仮に史実とみると、倭人の系譜が実は新羅を建国したということになってしまいますから、歴史的認識の相違から現在の韓国古代史研究において凡そ受け入れ難い内容となります。

 

 では歴史書として信憑性の高い中国史から新羅国の建国時期に迫ってみますと、

 

 ●『三国志』東夷伝 韓(辰韓)

 

 「有巳柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離弥凍國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁楽奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戸路國 州鮮國 馬延國 弁辰狗邪國 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國 弁辰瀆盧國 斯盧國 優由國 弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸 其十二國属辰王 辰王常用馬韓人作之世世相繼 辰王不得自立為王

 

 「巳柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍(国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁楽奴国、軍弥国、弁軍弥国、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、戸路国、州鮮国、馬延国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国、馬延国、弁辰瀆盧国、斯盧国、優由国がある。弁辰と辰韓、あわせて二十四国。大国は四、五千家。小国は六、七百家。すべてで四、五万戸。その(辰韓の)十二国は辰王に属する。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り、代々、受け継いでいる。辰王は自立して王になることはできない。」

 

 魏志が記すところによると、辰韓の中の小国に新羅の前身となる「斯盧国」が記されてあります。

 魏志韓伝について書くと長くなってしまいますので今回は割愛致しますが、辰韓のお隣の馬韓との関係もあり、この頃の辰韓には王がいなかったようです。

 

 「國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡」

 

 国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」

 

 また、当地は鉄の一大産地であり、倭からも取りに来ていた旨も書かれています。

 

 さて、『三国史記』「新羅本紀」に記される内容からは、新羅国の建国は前漢孝宣帝の五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年に国家が成立し、503年に「新羅」を正式な国号としたとあります。

 これらの建国神話については、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王(在位: 356年 - 402年)以後と考えられており、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされています。

 

 一応、史実性が高いとされる奈勿尼師今の姓は金氏であり、従って金閼智の系統であることなります。(´・ω・`)ノ

 

 wikipedia新羅 -起源と神話- によると、

 『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。 

 まず、『漢書』等の記録によれば紀元前108年に、漢の武帝が朝鮮半島に漢四郡を設置し、昭帝が紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した。その後最初におとずれる甲子の年(六十干支の最初の年)が紀元前57年となる。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった。

 

 これらは、末松保和らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされているようですが、

 

 「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、有効な学説の一つとなっている。20世紀後半以降、この新羅の伝承は紀年の修正はされているものの事実が反映されたものであるとし、建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される。(wikipedia 新羅より抜粋)

 

 「好太王碑文」には、

 

 「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」

 

 「そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。」

 

 …とあり、少なくとも391年には「新羅」と呼ばれていたことが分かっています。

 また、近年の2011年に発見された『梁職貢図』(526年~539年頃作成)には、

 

 「斯羅國、本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅、宋時曰斯羅、其實一也。或屬韓或屬倭、國王不能自通使聘。普通二年、其王名募秦、始使隨百濟奉表献方物。其國有城、號曰健年。其俗與高麗相類。無文字、刻木為範、言語待百濟而後通焉。」

 

 「斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。」

 

 …とも記されてあり、魏志韓伝の内容からも、魏使が訪れた当時はまだ新羅の前身である「斯盧」であったが、後に「新羅」と呼ばれるようになる丁度過渡期であったと推測ができます。

 因みに魏が成立したのは220年、後に晋に禅譲されたのが265年、新羅の文字の初見が碑文の記す391年、時を隔てて正式に国号としたのが503年となります。

 

 『古事記』にある「又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。」や、『日本書紀』の「素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處」も丁度この頃(220年以降~265年)に新羅に国名が変った魏の時代の辺りの話であるとも考えられるでしょう。

 

 また金富軾が盛った時代を調整した場合、脱解尼師今が阿孝を娶った年、「至南解王五年、聞其賢以其女妻之」(西暦8年)を干支換算すると戊辰の年となり、これを上の新羅成立想定期内に比定しますと、西暦248年となります。

 魏志倭人伝によると、この年は丁度倭王卑弥呼が亡くなった年になります。

 

 

 さて、話を我国に戻しますと、

 応神記では、天之日矛は新羅国の王子とあり、また垂仁紀では天日槍は日本に聖皇がいると聞いて、国を弟の知古(チコ)に譲って神宝を天皇に献上して帰化申請する説話があります。

 この時の天之日矛が持ち込んだとされる神宝リストを見てみますと、

 

 

 『古事記』と『日本書紀』ではやや伝承の誤差があるものの、(熊神籬はまぁいいとして)珠二つ(羽太(葉細)玉・足高玉)、各種比礼、各種剣(小刀や大刀、桙や槍)、後漢鏡(奥津鏡と邊津鏡)それと、鵜鹿鹿赤石玉です。 

 

 まず名にある「鹿鹿」についてですが、『古事記』ではイザナギとイザナミの子カグツチの別名を火之毘古神(ひのかがびこのかみ=火の明るく輝く神)ともいい、また天津甕星の別名の天香香背男の神名にもあるように、「カガ」は「輝く」の意味です。

 

 (xuàn)

 訓読み:ひかる(weblio漢字辞典より)

 (光線・色彩が)目にまばゆい、まぶしい。(weblio中国語辞典より)

 

 つまり鵜鹿鹿赤石玉は、「眩く光り輝く赤い石」という意味です。

 

 

 魏志倭人伝によりますと、魏は景初二年(238年12月)に、

 

 「今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬」

 

 「今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。」

 

 「汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利」

 

 「汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。」

 

 卑弥呼に対し、倭王であることを示す金印を、また、魏まで遠路はるばる使いとしてやって来た難升米と牛利の二人の苦労を労いそれぞれに銀印を拝受しています。

 天之日矛の献上品には他にもそれらに該当すると思しき品々も含まれておりますね。

 

 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩」

 

 正始元年(240年)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。」

 

 これらの物は240年に、帯方郡太守の弓遵が建中校尉の梯儁等を派遣して、倭国へ行き倭王に授けたとされます。

 

 『古事記』によると、天之日矛の神宝の中に奥津鏡と邊津鏡があり、

 

 これは共に後漢代の鏡ですから、中国製の代物ですが、これらを所蔵しているのが、ニギハヤヒ(天火明命)を始祖とする、丹後国一宮 籠神社(別名 匏宮よさのみや)の社家である海部氏です。

 

 :意味 ひさご。ふくべ。ひょうたん。「匏瓜(ホウカ)」(漢字ペディアより)

 多婆那国(丹波国)のひょうたんですゾ(´・ω・`)

 

 さて、「勾玉から考察①」での考察から、天之矛は『古事記』では天矛と書きますが、これと同様に、新羅国の阿具も「瓊」の言い換えとなる「(ひ)」に置き換えたとすればどうなるでしょうかはてなマーク

 

 ●淡路島を境に対称となる吉野川と淀川(宇治川)

 

 比売語曽社の伝承地である産湯稲荷神社(大阪府大阪市天王寺区)と淡路島を挟んで対になるのは阿波国。
 

 答えは、阿具(あく(読みとしては「ヰ(ゐ)」かな。) 鮎喰です。

 

 仮に、天之日矛が渡来した説話をwikipeia天之日矛説話の文章にて置き換えてみますと、

 

 阿具沼(鮎喰)のそのほとりで卑しい女(※➊卑弥呼=天照大御神)が1人昼寝をしていた※❷そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男(スサノオ)は、その赤玉(金印)をもらい受ける。」

 

 

 ※補足➊ 卑弥呼には実子はいませんので、つまり宇気比御子(養子)のこと。

 ※補足❷ ホツマツタヱより

 蛭子 (昼子):イザナキ夫婦の第一子。ヒルコは斎名と思われる。
 別名:ワカ姫、ワカヒルメ、シタテル姫、タカテル姫、歳徳神、年の恵みの大御守、御歳神、ニフの守。昼に生まれたのでヒルコ

 

 「しかし、男(スサノオ)が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛(スサノオの義理息子)に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男(スサノオ)は許しを乞うて赤玉(金印)を献上した。天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。」

 

 これがスサノオの娘である金印(王位)を引き継いだ二代目アマテラスとなった、

 

 鵜鹿鹿赤石玉宇迦之御魂豊宇気毘売臺與

 

 …のことではないでしょうかはてなマーク

 

 金印は魏帝より賜った倭王の証。

 先代の卑弥呼の死によって紆余曲折あって十三歳の臺與が我が国の王として後継者となりました。

 つまり倭王の象徴たる金印を受け継いだのが次代の女王となった臺與です。

 言い換えると、「倭の女王」を象ったもの=「金印(赤玉)璽」なのです。

 

 『日本書紀』によると、崇神天皇時、額に角の生えた意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子の都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという伝承があり、都怒我阿羅斯等が黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったとの説話があることから、都怒我阿羅斯等と天之日矛を同一視しています。

 また、都怒我阿羅斯等に下賜した赤絹」を新羅が奪ったことがきっかけで新羅と任那の争いが始まったとあります。

 

 恐らく卑弥呼が亡くなる以前の臺與は、父スサノオと子の五十猛命が往来していた伽耶・斯蘆を含む当時の任那エリアに住んでいたと推測されます。(一応あくまで現時点の私説解釈デスヨ)

 ※4~5世紀半ばの朝鮮半島 左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。

 都怒我阿羅斯等の国である大加耶の歴史考についてはまた後日に別稿で書いてみたいと思います<(_ _)>

 

 卑弥呼の宗女であった臺與(辛國息長大姫大自命:からくにおきながおおひめおおじのみこと、神功皇后の御妹の豊比咩命)は、亡くなった先代の卑弥呼(アマテラス)の後継と成るべく、卑弥呼の弟(スサノオ)に連れられて急遽倭の阿波国へと舞い降りたと考えられます。

 

 ほと は古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。

 現在ではほぼ死語になっているが、転じて女性器の外陰部のような形状、形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形をさすための地名として残っている。(wikipedia ほとより抜粋)

 

 往古鮎喰川河口域は広大な湿地帯でした。

 

 ●Flood Maps(Sea level rise +4m)

 

 気延山と眉山(旧以乃山:いのやま=可愛山:えのやま)を真っ二つに割く鮎喰川(肥河/簸の川)流れる女陰を指す地。

 

 安寧天皇陵である、畝傍西南御陰井上陵(うねびやまひつじさる「みほと」のいのうえのみささぎ)や黒田庵戸宮(くろだいおと=以火陰(地形古代文字※道は阿波より始まるより)」のみや)の地名が残るのも下矢印

 

 当地は矢野遺跡として縄文時代から特に弥生時代にかけて徳島県内の中心的な役割を果たした一大集落地です。

 矢野古墳群は、弥生時代末期から古墳時代終末期における古墳群であり、天石門別八倉比賣神社周辺だけでも数百基以上の古墳が未調査のままとなっております。

 

 また、豊玉比賣関係の式内社が密集するのも全てココ鮎喰川流域下矢印

 

 中でも天石門別八倉比賣神社に関しましては、地形までもが伊勢と酷似。

 

 

 それもそのはず、伊勢神宮外宮にてお祀りされているのが阿波国国神である大宜都比賣と同神の豊受大御神。

 伊勢神道の根本経典として伝わる神道五部書『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)には、

ぐーたら気延日記(重箱の隅)豊受皇太神御鎮座本記より

 

 天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」ときっちり記されてあるのです。

 

 これを本稿版で記するならば、「天村雲命(玉祖命=天之日矛)が伊勢大神(天照大神=この場合外宮ですから豊受大御神)の上祖(みおや)也。」なのです。

 

 では肝心の親魏倭王の金印(赤玉)は一体どこにあるのでしょうかはてなマーク

 

 纏めきれずに結局次稿に持ち越す情けないスタイル(´・ω・`)…