「勾玉から考察③」からの続きとなります。例の如くwiki多めだヨ!!

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 

 我が国の伝承にある「比賣語曾社」のお話についてですが、『古事記』15代応神天皇段では”昔話”との前置き後、新羅国の王子である天之日矛と赤玉から化生した阿加流比売夫婦の説話として、また、『日本書紀』11代垂仁天皇段の、「一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船」「ある書によると、御間城天皇(=崇神天皇)の時代に、額に角のある人が、一艘の舟に乗ってやって来て」…の下りから、意富加羅国の王子である都怒我阿羅斯等と白石の化生した童女の物語として、活目天皇(=垂仁天皇)即位三年に来帰した説話として記録されています。

 

 先の「勾玉から考察②」でご紹介しました、香春神社の御由緒にも、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ…と書かれてあるように、御祭神である辛国息長大姫大目命もまた第10代崇神天皇治世時の伝承であることがお分かり頂けるかと思います。

 

 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。

 『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

 意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

 

 ●記録

 『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

 2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったという。

 なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。

 

 ●後裔氏族

 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

 ・左京諸蕃 大市首 - 出自は任那国人の都怒賀阿羅斯止。

 ・左京諸蕃 清水首 - 出自は任那国人の都怒何阿羅志止

 ・大和国諸蕃 辟田首 - 出自は任那国主の都奴加阿羅志等。

 

 ●考証

 名の「つぬが」については、新羅の最高官位「舒弗邯(ソブルハン、角干の別名)」を訓読みしたことに由来するとする説があり、またこの「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ)」に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている。敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される。ただしその所伝に関しては、説話の時期・内容の類似性から蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)と同一視する説がある。

 また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社(大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国の国前郡の社は比売語曽社(大分県東国東郡姫島村)に比定される。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ、同一の神に関する伝承と見られている。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる。(wikipedia 都怒我阿羅斯等より抜粋)

 

 蘇那曷叱知(そなかしち、蘇那曷叱智)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。任那からの最初の朝貢使とされる。

 

 ●記録

 『日本書紀』によれば、崇神天皇65年7月に任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。また、その帰国に際して天皇から任那王へと赤絹100匹(200段)が贈られたが、途中でこれを新羅に奪われたといい、これが任那と新羅の争いの始まりであるとしている。

 

 ●考証

 蘇那曷叱知に関する『日本書紀』の説話は、加耶からの渡来開始を説明するものであるとともに、加耶と新羅との争いの始まりを伝えるものである。名前の「蘇那曷叱知」とは朝鮮における借音字と考えられており、その訳語としては金仇亥(金官国第十代)の子の金奴宗とする説、于斯岐阿利叱智干岐(都怒我阿羅斯等の別名)とする説、金官国邑君とする説、弁辰の渠帥(貴人)とする説などがある。

 また、垂仁天皇2年の分注には大加羅国(大加耶:加耶諸国の1つ)王子の都怒我阿羅斯等による「任那(みまな)」の語源伝承が載せられているが、この都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知とを同一視する説がある。(wikipedia 蘇那曷叱知より抜粋)

 

 「任那」から最初に朝貢のために渡来したと伝える伝説上の人物。『日本書紀』によると、崇神65年に来日し、垂仁2年に帰国したが、帰国の際に賜った品物を途中で新羅が奪ったために両国の怨が始まったとの説を伝える。意富加羅国つまり任那加羅(金官。韓国金海市)から渡来した王子都怒我阿羅斯等と同一人とみる見解があり、蘇那は金の国、曷は大または加羅、叱知は首長の意なので、鉄(金属)の国を意味する素奈羅の中国風の表記である金官国(任那加羅)の王または王子という点で両者は一致する。『日本書紀』の編纂段階で、「任那」を倭の王権の属国とみる歴史像が形成されるなかで作られた、象徴的人物であろう。<参考文献>三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』上(鈴木靖民)(コトバンク蘇那曷叱知より)

 

 つまり上にある我が国に帰来した人物の伝承は、描かれる時代や物語の内容の類似性等から、天之日矛都怒我阿羅斯等(別名于斯岐阿利叱智干岐)と蘇那曷叱知を同一視する説があります。

 

 この都怒我阿羅斯等と于斯岐阿利叱智の「ツヌガ」=「角(ツノ)が」と、「ウシキ」=「牛岐」が共に「角がある人」と「牛である人」の意味となり、「アラシト(チ)」の部分も本来は同じ意味を指すものであったと考えられています。

 また蘇那曷叱知の名にある、「蘇(so)」は、google先生の翻訳によりますと朝鮮語で「牛」の意味でもあり、

 

 

 「叱知」も「叱智」と同義と解すれば、これまた上に同じ意味となります。

 

 「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)=(牛の様な)角が有る人」
 「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチ)=牛(の様な角)が有る人」
 「蘇那曷叱知(ソナカシチ)=牛の(様な角)が(有る)人」

 

 とにかくこの人物については、「牛」(ウシ)がキーワードであり、同義の別の意味として私的解釈では「おうし」というわけですヨ。ボソ...(´・ω・`)

 

  また、この「蘇」という漢字は、「蘇生」という文字にも使われるように、「よみがえる」や、「いきかえる」等といった意味があり、名のりとしては「いき」とも読みます。

 

 …即ち、蘇那曷叱知(ソナカシチ)は別名の意味で、「蘇(いき)-那曷(なか)-叱知(首長)」と解することもできます。

 

 更に、wikipediaにある都怒我阿羅斯等の後裔氏族である「清水首」を検索してみますと、埼玉苗字辞典に、

 

 シミヅ 志水の佳字なり。志は斯盧国(後の新羅)、水(うず)は渦にて海洋民の意味。新羅の海洋民を志水、清水と称す。紀元前五十七年に即位した新羅初代国王朴赫居世を養育した斯盧国(後の新羅国)の高墟村長の蘇伐都利あり金姓にて、其子に蘇那曷叱智の名見ゆ。村長の意味なり。シラギ条参照。また、日本書紀・崇神天皇六十五年条に「任那国、蘇那曷叱知を遣して朝貢す」。任那の蘇那曷叱知(そなかしち)の蘇は金(そ)、那は国、曷は邑、叱知は首長、邑長の意味で、金国(鉄の産出する国)の邑長を称す。垂仁天皇元年条に「是の歳に、任那人・蘇那曷叱智請さく、『国に帰りなむ』とまをす。蓋し先皇の世に来朝して未だ還らざるか。故、あつく蘇那曷叱智に賞し、仍りて赤絹一百匹をもたせて任那王に賜ふ。然るに、新羅人・道に遮へて奪ふ。其の二国の怨み、始めて是の時に起る。一に云はく、意富加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ」と。都怒我は新羅の最高官位の角干(つぬかん)、干岐は古代朝鮮語の君長の意味。垂仁天皇二年条に「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けしうら。福井県気比神社附近)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰はく、『何れの国の人ぞ』といふ。対へて曰さく、『意富加羅の王の子、名は都怒我阿羅斯等』。赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ。新羅人聞きて、兵を起して至りて、皆其の赤絹を奪ふ」と見ゆ。任那国(みまな)は韓半島南部にあった弁韓の意富加羅(おおから)附近を云う。三国遺事卷二に「大駕洛(おおから)、又称伽耶国」とあり。金海の伽耶(かや)である。姓氏録・左京諸蕃に「清水首、任那国の人・都怒賀阿羅斯止より出づる也」と見ゆ。首は意毘登(おびと)と訓ず。古史伝に「多く部の有るべき諸姓に負へるを思ふに、其の部を統領る首と云ふ義の尸なり」と。成務天皇条に「県邑に首を置く」とあり。任那の渡来人清水族の首長を清水首と称し、清水族の渡来地を清水郷と唱える。」

 

 金官国、もしくは駕洛国・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衡王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた)。金仇亥の曾孫に金庾信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官国の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。ただし、『三国史記』『金庾信列伝』によれば、金庾信は首露王を祖先とする12世孫であり、金庾信碑には、その祖先は黄帝の子の少昊金天氏の後裔であり、そのため金氏を名乗っていたとする。(wikipedia 伽耶より抜粋)

 

 云々...と記されてあり、蘇は金(そ)、つまり金国(鉄の産出する国)を意味し、後裔氏族が金姓を名乗る蘇伐都利・蘇那曷叱智親子も、韓半島南部にあった弁韓の意富加羅附近の金海の伽耶(かや)、日本側の記録ではこれを任那国の国人であったとします。

 つまり、加耶(任那)から渡来した子の蘇那曷叱智と、新羅国の建国に関わったその父の蘇伐都利(ソボルトリ)は、鉄の産出する国の邑長であり、元を辿れば金官国の王族であったということ。

 また、この金官伽耶国の祖は、上のwikipedia金官国にも書かれている、

 

 金海金氏(キメキムシ、きんかいきんし、김해김씨)は、朝鮮半島の氏族の一つ。本貫を金海とする。現在の韓国最大の氏族集団である。

 

 ●始祖

 始祖は駕洛国(金官伽倻)の王・首露王とされる。このため駕洛金氏ともいう。一族では新羅建国の功臣・金庾信が知られる。また、金海許氏(首露王の王妃許黄玉の姓を名乗った二人の息子が祖)と仁川李氏も始祖を首露王としており、同本貫として扱われた。金海許氏は金海首露王の王妃で、ルーツはインドのアショカ王の家系に繋がり、インドから漂流して金海にたどり着いてその後、首露王に見初められ王妃となった。 王妃の王陵にはその家系にまつわるインドの家系の写真や系図などがあり、本家の家系を引き継ぐ者のみ閲覧などが出来る。

 2004年に、許黄玉の「インド渡来説」を立証する科学的証拠が示された。ソウル大学医学部の徐廷ソン教授と翰林大学医学部のキム・ジョンイル教授は、韓国遺伝体学会で、「許黄玉の子孫と推定される金海にある古墳の遺骨を分析した結果、韓民族のルーツであるモンゴル北方系とは異なり、インド南方系だった」と報告した。ミトコンドリアはDNAを保持しており、遺骨からミトコンドリアDNAを抽出して全体の塩基配列を分析した。許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、48年に伽耶に渡来した。許黄玉は10人の息子を産んだが、そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源である。「インド渡来説」が事実なら、子孫は母方の許氏のDNA形態を受け継いでインドなど南方系のミトコンドリアDNAを持っている。これについて「4つの遺骨のうち、1つからこのような結果を得た」とし「『インド渡来説』の立証を確固たるものにするには、もう少し綿密な研究を要する」と説明した。

 『三国史記』『金庾信列伝』によれば、金庾信は首露王を祖先とする12世孫であり、金庾信碑には、その祖先は黄帝の子の少昊金天氏の後裔であり、そのため金氏を名乗っていたとする。(wikipdia 金海金氏より抜粋)

 

 金海許氏(朝鮮語: 김해허씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は慶尚南道金海市である。2015年調査では、1340688人である。

 始祖は金官加羅国の初代王首露王の妃のサータヴァーハナ朝の王女許黄玉の35代子孫の許琰である。

 許琰は高麗の文宗時代に三重大匡を務め、駕洛君に封じられた。(wikipedia 金海許氏より)

 

 …となっており、首露王は、鉄の王キム・スロ(金 首露)のことですネ(´・ω・`)

 

 首露王(しゅろおう、수로왕)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。妃はサータヴァーハナ朝の王女と伝わる許黄玉。ただし、首露王についての記述は金官加羅国滅亡の500年ほど後に書かれた駕洛国記が本となっているため史実か判断が難しい。伝説ではクジボン(クジの岳)に降臨したと言う。金官加羅国には須恵器に影響を与えた土器が発掘されている。

 

 ●出生神話

 『三国遺事』に抄録された『駕洛国記』(『駕洛国記』自体は逸書)によれば、亀旨峰(クジの岳)の6個の金の卵から、42年3月3日に首露王が生まれたとされる。また、このとき1人ではなく5人の王子とともに6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられたとされているこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したと見なしている。金官国伽倻は『魏志倭人伝』には狗邪韓国(くやかんこく)と伝えられる国である。

 首露王は金の卵から生まれたという伝説により金姓を名乗る。朝鮮の始祖もしくは神話上の王とされている人々は、高句麗の東明聖王、新羅の赫居世居西干や脱解尼師今など、卵から生まれたとする卵生説話を持つものが多い。これは、卵が神聖なものであったというものからきている。

 『新増東国輿地勝覧』には加耶山の女神である正見母主と天神『夷毗訶之』(イビガジ)から(悩窒朱日・内珍朱智)が生まれ、その内珍朱智が首露王だと記録されている。首露王の兄が大加耶を建国したというの内容を通じて、大伽耶が六加耶連合の盟主だった時に作られた神話と見る説もある。

 『三国史記』の金庾信列伝によると、新羅の武将・金庾信は金官加羅国の王家の子孫であるという。(wikipedia 首露王より抜粋)

 

 こちらの金氏は金の卵から生まれたことから金姓を名乗るとします(´・ω・`)

 

 「大加羅」については、

 金官国もまた大加羅(大駕洛)と称されていたように、大加羅の表現そのものは固有名詞ではなく、加羅諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡)が、一般的には大加羅を指すものと考えられている。『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神『夷毗訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉』(悩窒朱日ㆍ内珍朱智)が大加羅の始祖、弟『悩窒青裔』(首露王)が金官国の始祖であるとしており、新興の大加羅がそれまでの盟主であった金官国を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。(wikipedia 伽耶より抜粋)

 

 ということは、

 

 『三国史記』の蘇伐公(『三国遺事』では蘇伐都利)は、新羅の建国の祖の六村のうちの高墟村の長であり、瓠(ひさご)の形をした卵から生まれた赫居世(wikipediaによれば、三国史記の朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人であり、これが朴氏初代の朴赫居世ともいわれる=閼智のこと)を養子に迎えてやがて新羅の建国に至ります。

 時代を経て、第4代新羅国王となった倭人の脱解尼師今の養子になったとあるのが、後の新羅の金氏王統の始祖となる金閼智で、この金閼智も、初代王の赫居世の出自とクリソツであったことから、その故事に因んで「閼智」(『三国史記』では長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)『三国遺事』では「小さな子」の意)と名付けられたとする説話が記録され、この金閼智が入っていた金の箱を見つけたのが、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから「瓠公」と称される倭人であったことからも、「赫居世=瓠公」と金閼智が実際は同一人物ではないか、との推測ができます。

 従って金閼智は、「4代目新羅国王(元倭人)の養子」ですが、巡り巡って実は「倭人」であるという考えですな。

 

 高墟村長の 蘇伐都利と初代新羅国王(養子)の朴赫居世(=閼智=瓠公倭人】)

 第4代新羅国王の父 脱解尼師今倭人)と王子(養子)の金閼智

 

 この推論を踏まえた上で、別考察してみますと、意富加羅国「王子」の都怒我阿羅斯等(=蘇那曷叱知)は、上の「清水首」の項にもあるように、金官伽耶の始祖首露王の系譜である「金海金氏」であり、自身の「父」が蘇伐都利であることから、蘇伐都利は意富加羅国の「王」であったということになります。

 

 先の埼玉苗字辞典の「中(ナカ)」の項には、

 

 中 ナカ 新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)は前漢の孝宣帝五鳳元年甲子(紀元前五七年)に即位した。朴赫居世を養育した蘇伐都利―蘇那曷叱智―蘇弥居―金閼智の子孫金氏が朴姓の王位を継ぐ。また、日本書紀・崇神天皇六十五年条に「任那国は、蘇那曷叱知を遣して朝貢らしむ。任那は鶏林(しらぎ)の西南に在り」。垂仁天皇二年条に「任那人蘇那曷叱智・請ひて、国に帰らんと欲ふと。蓋し先皇の世に来朝して未だ還らざる歟。故に敦く蘇那曷叱智を賞め、仍りて赤絹一百疋を賚して任那王に賜ふ。然るに新羅人・之を道に遮りて奪ふ焉。其れ二国の怨み始めて是の時に起る也」と見ゆ。当時の朝鮮語では、蘇は金、那は国、曷は邑、叱智は地域の首長の意味で、金国君長とか、金(くろがね)の産出する国の邑長と解される。那曷(なか)は奈良と同じで、新羅や任那では国・村を称した。中、長は那曷の佳字にて中村は渡来人集落を称す。二字の制度により中井、長井、中江、長江、中尾、長尾、中野、長野等を称す。武蔵国那賀郡は北武蔵にあり、中央の中郡では無い。中央は多摩郡府中付近なり。また、延喜式神名帳に入間郡中氷川神社を載せ、三ヶ島村(所沢市)長宮明神社条に「相伝ふ、当社は神明帳に載たる中氷川神社なりとぞ。中氷川の神号を用ひずして長宮とは号するや別にゆへあるか、又中宮と云べきを誤り伝へてかく唱ふや」と。また、山口郷氷川村(所沢市)の中氷川神社も神名帳の中氷川神社なりと云う。この社名は足立郡大宮氷川神社と奥多摩氷川神社との中央にあるたるに中氷川神社と呼んだと伝へるが附会にて渡来人集落なり。また、足立郡中川村(大宮市)の中氷川神社も、大宮氷川神社と三室村氷川神社の中央にあるため中氷川神社と称すと伝へるが附会なり。入間郡福岡村長宮氷川社、埼玉郡上清久村長宮明神社も中宮の転訛なり。中、仲氏は武蔵国入間郡に多く存す。○群馬県多野郡鬼石町八戸。○島根県浜田市十四戸あり。仲、中村条参照。

 

 一 物部族 此氏は人名に中、長を用いる。秋田県協和町唐松神社物部氏系図に「物部守屋―物部那加世(唐松神社初代神主)―那加良―那加養―那加男―那加足―那加矢―那加斐―那加坂―那加息―那加宅―那加波良―那加武―石―富―民(以下省略)、現宮司六十三代物部長仁」なり。トミ条参照。

 

 …とあり、物部守屋以降の子孫名は「那加」から「長」へと変化しており、また同辞典の、

 

 長本 ナガモト 古代朝鮮語で那は国、曷(か、が)は村、下(もと)は浦の意味で、韓国(辛国)の海洋民集落を中本・長本・永本と称す。国造本紀に「長国造。成務朝の御宇、韓背足尼を国造に定め賜ふ」。長国は後の阿波国那賀郡なり。日本書紀・允恭天皇十四年九月十二日条に「一海人(あま)あり、男狭磯と曰ふ。是れ阿波国長邑の海人也」と。長邑は那賀郡附近を称す。平城宮出土木簡に「阿波国那賀郡原郷戸主百済牧夫(徳島県那賀川町原)」。正倉院天平勝宝二年四月に「阿波国長郡大野郷戸主漢人根万呂」。天平宝字五年二月に「漢人大万呂は阿波国那我郡太郷戸主漢人比呂戸口(阿南市大野町)」と。延喜式に「阿波国那賀潜女十人所作」と、海産物を貢納している。長(那賀)郡は韓半島南部の安耶国の海洋民漢人(あやひと)の渡来地なり。安耶(あや)は安羅(あら)とも称し後に百済国となる。

 

 …とも記されております。

 

 ヌシ(主)は、古代日本の神名や人名につけられる称号。地方の首長や国津神系の神名や人名を表す称号として用いられた。天津神系の神名や人名を表すヒ(日)と対立する称号である。

 

 ●語源・語義

 ヌシはウシ(大人)が語源でノウシ(助詞ノ+大人)の短縮形である。斎主(いわいぬし)を日本書紀は「斎之大人(いわいのうし)」とも伝えている。8世紀に成立した継体天皇紀は主人王をヌシ(主)を用いて記しているが、推古朝の7世紀に成立したと考えられる上宮記では同一人物を汙斯王(ウシキミ)とウシを用いて記している。つまりヌシ(主)はウシ(大人)から派生し、7世紀前後に成立した比較的新しい用語である。ヌシの語義は「ある領域の主(あるじ)として占めている」の意である。(wikipedia ヌシより抜粋)

 

 つまり、我が国と半島南部とを往来していた物部一族の首長(つまり、主:うし)のことを、「大物主大神」と呼称していたと考えられ、上の記述などから鑑みると、これらの活動拠点の中心地が阿波國ではないかとの指摘が当然なされるべきでしょう。

 

 この意富加羅国「王子」都怒我阿羅斯等も、比賣語曾社の説話等の一致から、天之日矛と同神の説があり、wikipediaによると、”父の国を探しに日本に訪れたとされる(若狭湾新羅神社御由緒による)”と見え、この天之日矛の「父親」に当たるのが、倭国の東北一千里にある多婆那国、もしくは『三国遺事』では龍城国出身の脱解尼師今なのですから、従ってこの2例の親子の関係は、

 

 新羅国王の 脱解尼師今倭人)と王子(養子)の金閼智(=天之日矛)

 意富加羅国王の 蘇伐都利倭人)と王子の都怒我阿羅斯等(=蘇那曷叱知)

 

 …の構図となり、最終的には、

 

 ●新羅国(金氏)

 蘇伐都利倭人- 赫居世養子:=閼智=瓠公倭人))- 南解次次雄  脱解尼師今倭人天之日矛(=都怒我阿羅斯等蘇那曷叱知金閼智養子

 

 ●意富加羅国(金氏)

 蘇伐都利倭人- 蘇那曷叱知(子)- 蘇弥居 - 金閼智

 

 自身が「孫」の代に現れるどっかの系譜に似ておりますが、つまり意富加羅国の王でもあった蘇伐都利は、元をただせば多婆那国からやって来た龍城国出身の倭人であり、その養子(子)もまた倭人であったということになります。

 

 よって、意富加羅国及び新羅両国の王族姓である「金氏」も、共に父系が共通するということになります。

 ちなみに若狭ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれていますね。

 

 私説の解釈で記すれば、倭人が朝鮮半島や大陸側と行う貿易の一大重要拠点として確保していたエリアが、韓半島南部の金官加羅国(三国時代の狗邪韓国)あるいは、都怒我阿羅斯等が帰国の際に御間城天皇(=崇神天皇)の名前を取って国名とせよとの命に由来してこの国名を「彌摩那(みまな)=任那(みまな)」というとあり、これが後の任那日本府ということになります。

 

 『日本書紀』では、赤織の絹を阿羅斯等に与えて本土に返したとの記述があり、また『古事記』崇神天皇条に、

 

 「誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖。

 

 「娘(活玉依毘賣)に言いました。「赤土を床にまき、糸巻きに巻いた長い麻糸を針に通して、男の着物のスソに刺しなさい」娘は言うとおりにして、翌朝見てみると、麻糸は戸の鍵穴を通り、糸巻きに残っていた麻糸はたった三巻き(=三輪)だけでした。それで鍵穴から男が出て行ったことを知り、糸を辿っていくと、三輪山の神社に辿り着きました。それでその男は神の子(=オオモノヌシ)と知ったのです。この麻糸が三巻(=三輪)残っていたことから、その土地を「美和」と呼ぶようになりました。意富多々泥古命は神君(ミワノキミ)・鴨君(カモノキミ)の祖先です。」

 

 …と記されてあり、

 同条では、赤土(はに)の閇蘇紡麻(へそ)のエピソードとして、また倭迹迹日百襲姫命姫のエピソードでは小さな黒蛇の姿で、勢夜陀多良比売とのエピソードでは赤い丹塗り矢に姿を変え、そして崇神天皇治世では、祟り神として夢に現れ、意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむと告げ、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたエピソードを記します。

 これが神代の大己貴命の段にある「海の向こうから光り輝く神様」として登場する、

 大神神社にある「大物主=(光る玉)」下矢印

 

 イケメンの立派な男でその末裔が鳥の姓である「鴨君」の祖先の大物主大神なのです。

 

 ちなみに、現在の朝鮮学会では任那の存在自体を認めていない説も未だにあるようですが、広開土王碑文(414年建立)の永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料としての初見として、

 

 また中国史料の『宋書』(502年成立)や『梁書』(629年成立)でも「任那、加羅」と併記で記されてあり、660年に成立した『翰苑』の新羅条にも「任那」の文字が見え、その註に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」とも記されており、往古には任那が実際に存在していたことが確実視されております。

 

 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 式内社倭大國魂神社(徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3)

 

 

 

 

 ◆祭神 大国魂命・大己貴命

 

 言わずと知れた倭の国に存在する産土神である倭の大國魂(玉)。

 即ち当地が旧国の倭の根本たる動かぬ痕跡。

 『日本書紀』の崇神天皇6年の条に、宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。

 

 ここでは倭=大和と解されておりますが、ただし『日本書紀』の原文を読むと、

 「六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。」

 

 「即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳を持って治めることは難しいほどでした。そこで眠らず朝まで神祇にお願いをしたのです。これより先に、天照大神・倭大國魂の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。そこで天照大神を豐鍬入姬命を付けて、倭の笠縫邑に祀りました。そして磯堅城に神籬を立てました。」

 

 …とあり、あくまで原文では「やまと」は「大和(おおやまと)」ではなく、キッチリと「倭(やまと)」と記されてありますヨはてなマーク

 wikipediaにもあたかも奈良大和を思わせるかのように書かれてはおりますが、やまと=大和と勘違いすると大きな勘違いを生みますので重々ご注意下さいませ。

 補足として『記紀』成立期にはまだ”大和国”は存在しておらず、当然のことながら崇神朝御宇にはありません。

 

 論社である医家(いげ)神社(徳島県三好市池田町マチ2286)

 

 ◆祭神 大己貴命・少彦名命

 

 創祀年代不明

 社名の読みは式内社調査報告には「医家は『イケ』と訓み、祭神が薬神であるためこのように称されたといふ」とあります。

 また阿府志は医家は池のことであり、池田町の名の起こりとの説を挙げ、『平成祭データ』では「いげ」と記されています。

 『徳島県神社誌』によれば、池田町シンヤマの磐坂神社に「往古には磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付奉りし御名なりと。後、祭神山を下り給う。此の宮今の医家神社なりという」という口伝がある。

 これによれば磐坂神社が当社の旧社地にあたることになります。

 

 この辺りネ下矢印

 

 磐坂日子神

 須佐之男命の子。事蹟不詳。

 『出雲国風土記』秋鹿郡恵曇(えとも)郷の由来に、 須作能乎の命の御子である磐坂日子の命が、国内をご巡行になった時に、 ここにお着きになっておっしゃったことには、 「ここは、地域が若々しく端正な美しさがある。土地の外見が絵鞆(えとも)のようだな。わたしの宮は、この所に造り、祭り仕えよ」 と仰せられたとある。(玄松子の祭神記:磐坂日子命より)

 

 さて、脱解尼師今の養子となった金閼智(=天之日矛)は、『三国遺事』脱解王代条に拠れば、「新羅始祖の赫居世の故事とよく似ていたので、小さな子を表す「閼智」を名前とした。」…とあります。

 当然のことながら、人は年月を経て成長すると大人になりますから、金閼智は故事に因んだ別名として「小さな子」という異名を得たことになります。

 

 この「小さな子」の異名を持つ金閼智、つまり我が国では少彦名命、即ち本稿でいうところの大物主大神のことなのですが、ぐーたら気延日記(重箱の隅)「倭の神坐す地(3)」に(またか)平田篤胤「古史傳」に、「荒魂大國魂神は、殊に外ツ國の事に預かり給ふ、と云傳のありて詠る事と聞こえたり」とあり、要するに「倭大国魂神は外国に行って治めていた事がある神なので遣唐使の船の舳先に祀られているんですよ」と記されてあり、

 

 よって、「外国に行って治めていた事がある神」が、海から帰って来た神の「倭大国魂神」=「大物主神」であると考察しておられます。

 

 ではその父である倭人の脱解尼師今は、この場合、御祭神からは、磐坂日子神の父、即ち須佐之男命のこととなり、これが『日本書紀』にみえる、

 

 「一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」」

 

 「是の時に、素戔嗚尊、其の子(みこ)五十猛神を帥(い)て、新羅國に降り到り、曾尸茂梨の處に居す。 乃ち興言(ことあげ)して曰く、「此の地は、吾れ居すを欲せず」。」

 

 …といって、我が国の、

 「到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。」

 「出雲國の簸(ひ)の川上に在る、鳥上之峯に到る。」

 

 …とある父須佐之男命と息子の五十猛命(天之日矛)親子のことなのでしょう。

 

 磯部氏(いそべうじ)は磯部を管掌した氏族。その出自には複数の系統がある。

 

 ●丹波国

 丹波国造族の後裔で度会氏の祖系。雄略朝に丹波国真井原の豊受大神を伊勢に遷座して奉斎した。

 ●上野国

 八綱田命の子である夏花命に始まる物部君の後裔で上毛野氏同族。君姓の磯部氏は新治郡の鴨大神御子神主玉神社の社家や、頸城郡の水嶋礒部神社の社家・綿貫氏となる。

 ●伊勢国

 『新撰姓氏録』大和国神別において久斯比賀多命の後裔として石辺公が挙げられる。この一族が猿田彦神社社家の宇治土公や狛人野氏であり、久斯比賀多命の三世孫であり久斯気主命を祖とすると「児島系図」に見える。(wikipedia 磯部氏より抜粋)

 

 度会氏(わたらいうじ)は、日本の氏族。多くは明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官を世襲した。

 

 ●概要

 度会氏の祖は天牟羅雲命(天児屋命の子)であると伝えられ、伊勢国造の後裔であるとされる。しかし彦坐王の後裔・丹波国造の一族の大佐々古直が石部直渡会神主の祖と系図に見えており、後者が実際の系図であったとされる。当初は磯部氏を称していたが、奈良時代に渡会(渡相)神主姓を下賜されたという。古くから伊勢神宮外宮の禰宜を世襲し、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、伊勢皇大神宮(内宮)と争い伊勢神道を唱えた。多くの家に分かれたが、禰宜を務められた家(重代家)は、檜垣家・松木家など6家のみであった。(wikipedia 度会氏より抜粋)

 

 …ということは、脱解尼師今(だっかい にしきん)の別名である、吐解尼師今(とかい にしきん)は「渡会」ということなんでしょうかなはてなマーク

 更には、大加耶建国の祖、伊珍阿豉(イジンアシ)は、ひょっとすると倭人閼智(イジン-アッチ(主:アルジ))という意味かも知れませぬな笑笑

 

 …さてさて、『記紀』によると崇神天皇の命により、日本各地に四道将軍を派遣したというお話があり、

 

 四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命の4人を指す。

 

 ●概要

 『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている。

 『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。

 また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。

 四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。(wikipedia 四道将軍より抜粋)

 

 ●四道将軍が派遣された地域

 

 つまりこの色の塗られた地域は、当時代においてもまだ「ヤマト王権」の支配下ではなかったという旨重々お心置き下さいね。

 この色の着いたエリアの「邪馬台国〇〇説」なるものをよくお見かけ致しますが、この地域は後にヤマト王権の支配下となったエリアです。

 また、「邪馬台国」と「やまと国」が別の王朝であるとお考えになる説を挙げておられる方々はこの類から外れますのでご了承下さいませ。

 

 崇神天皇が派遣したとある四道将軍、中でも本稿で取り扱うのが「丹波」に派遣された丹波道主命。

 現代人の感覚では、この将軍の派遣先は丹波だけなん?的な感じでしょうが、当時代においてそこには大きな意味が存在します。

 本稿では割愛させて頂きますが、息長氏についてや天之日矛について、若狭・敦賀・気比そして丹波・但馬にはその伝承が色濃く残っています。

 

 そして、阿波国においては、

 

 宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社である。

 

 広域図ですとこんな感じ。吉野川河口部の北側ですね。

 

 ◆創建 時期不詳

 

 この一帯は堀江庄は石清水八幡宮の荘園だったため、その中心地である現社地に別宮として八幡宮が勧請されたと考えられています。

 

 ◆祭神 宇志比古尊 応神天皇 仁徳天皇 神功皇后

 

 宇志比古尊とは、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)のことで、別名を丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのきみ)。

 

 

 『古事記』開化天皇段では、父は日子坐王(彦坐王)、母は天之御影神の女息長水依比売(おきながのみずよりひめ)であるという。

 『日本書紀』垂仁天皇条によれば、丹波道主命は第9代開化天皇皇孫である。父は開化天皇皇子の彦坐王(ひこいますのみこ)とするが、開化天皇の別皇子である彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を父とする別伝も掲げている。(wikipedia 丹波道主命より抜粋)

 

 これが前稿で書いた「大麻比古命の謎に迫る」のココ下矢印

 

 崇神天皇に比定される二人の人物の息子と孫娘の「斎主」とが結ばれる1世代ズレている関係。

 

 確か「勾玉から考察②」では、波多都美命の子が天目一箇命(天御影命)と比売許曽命(天日矛命后神の息長大姫刀自命)。

 

 

 そして、次代の天之御影神の女息長水依比売であり、系譜上ではこの姫と彦坐王との間の子が丹波道主命となります。

 

 これが「三河国青木氏系図」にある大麻彦命の子、また阿波忌部でいうところの、天富命(阿波之宇志彦命/天日鷲翔矢命)。

 「安房国忌部家系図」では、由布津主命(阿八和気毘古命)。

 また『日本書紀』にある=経津主神:斎主(いわいのうし)という訳ですな。

 

 (´・ω・`)う~ん、話長過ぎやな…