「勾玉から考察」シリーズをまだ書き終えていないにも関わらず、別稿を上げるという斜め上っぷりが何ともワシらしい(´・ω・`)…

 ということで、今回は箸休め回としまして、今まで何度もクドく書いて来た「忌部氏系図」を使った大麻比古命の同神考察を更にクドく説明して参ろうかと思います

 決して「勾玉から考察」がなかなか纏まらないからといって引き延ばしている訳では御座いませんヨ(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ

 ただチョット思っていたよりボリューミィになりそうですので、更に数回に分けようかなと現時点では考えております。

 一応ですが、「勾玉から考察」シリーズの続きに繋がるヒントや小ネタもチョコット入れておきますネ。ホンマゴメンナー((人´Д`;

 

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 阿波国一宮である大麻比古神社おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市大麻町板東)

 

 通称として「大麻さん」とも呼ばれ、阿波国・淡路国両国の総鎮守として、現在は徳島県の総鎮守として信仰を集める。

 

 主祭神は、阿波忌部氏の祖とされてている天日鷲命の子の大麻比古神で、配祀神に猿田彦大神をお祀りしています。

 

 早速ですが『阿波忌部氏参考系図』で示すところのココ下矢印ですな

 

 

 当社のご祭神については、実はきっちりとは定まっていなかったようで、ぐーたら気延日記「阿波國一之宮 大麻比古神社(追記)大麻比古神とは」によりますと、明治41年の大麻比古神社宮司「山口定實」氏著「国幣中社大麻比古神社御祭神考證」「大日本國一宮記」には、

 

 社記には全て御祭神は猿田彦神であるが、野口年長著の「阿波國式社略考論」等の説を踏まえますと、

 


 

 麻を納めたのは阿波忌部の祖の天日鷲命ではないかの説や、

 

 安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図にある別名の津咋見命の説、中でも忌部氏の太祖である天太玉命の説が正しいのではないかとしております。

 一言でいえば議論の余地があるということですが、この辺の考察につきましては色々と長くなりますので詳しくは「wikipedia 大麻比古神社」をご参照下さいませ。

 

 お次に、阿波国式内社 麻能等比古神社の論社である大麻比古神社おおひこじんじゃ:徳島市明神町6-2)

 

 当社社名の読みは「おおひこ」で、江戸時代には「彌吉(やきち)明神」と称し、明治3年(1870年)に現在の社名に改称され村社に列したとあります。

 

 鳴門大麻比古神社の御祭神?と同じく当社ご祭神も猿田彦命

 

 猿田彦命は『記紀』を知っていればお分かりと存じますが、天孫降臨の際、道案内をした「導きの神」であり、天狗のようなお姿で描かれる異形の神のことですな。

 

 ●社殿の猿田彦大神と天宇受売命の面(それぞれ高いお鼻と口ばしが特徴的ですな)

 

 御由緒は、寛永2年(1625年)に伊予から来た河野忠左衛門の息子の彌吉郎が、承応2年(1653年)に市内一宮山の岩間で御神体を見つけ、神託によって河野家の鎮守として当地に祀ったのを始まりとし、その後寛文元年(1661年)若宮神社と称し、宝暦8年(1758年)に京都・吉田神社より大麻彦大明神の神号を許されたとのこと。

 俗伝では、富田浦町に住んでいた貧乏人の正直者彌吉が、猿田彦の像を転売したが何度売っても手元に戻ってくるので、感ずるところがあって付近の社に合わせ祀ったのが始まりといわれておるようです。

 

 延喜式式内社の論社としては、永く廃絶していた?とあって創建(再建?)などの謂れとしては甚だ後付け感が否めませんが、ここで申し上げたいのは「大麻比古」なる神名を冠する社名の御祭神がやはり「猿田彦命」であるということ。

 『阿府志』には、式内社麻能等比古神社の所在を「富田浦にあり俗に大麻比古大明神」としているようですが、創建の由緒等からはチョット眉唾モンですな。

 

 では、式内社 麻能等比古神社のもう一つの論社である、徳島県徳島市入田町天ノ原に御鎮座する天神社(てんじんじゃ)。

 現在は当社に合祀されてあるそうです。

 

 wikipediaによりますと、御祭神は、天目一箇神、菅公、天児屋根命、武甕槌命、武経津主命、麻能等比古神

 『阿波誌』には「麻能等(まのと)」は「水門(みなと)」也とし、水門の神である速秋津比古命とする。

 

 …と、この説もそれなりに説得力がありますが、阿波歴史のバイブル、ぐーたら気延日記「入田町 麻能等比古神社」より引用させて頂きますと、「入田村史」「麻能等比古神社」の項に、

 

 「麻能等比古神社は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや、下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社の本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。」云々…

 

 …と記されてあり、当社が猿田彦神社の本社であると書かれています。

 

 また、「阿波國続風土記」からは、

 

 「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」とあり、矢野村松熊にて猿田彦命を祀っていたのを現天神社に合祀した可能性が指摘されるでしょう。

 

 場所は天石門別八倉比賣神社のすぐ傍、宮谷古墳の隣ですね。この古墳はどなたの古墳なのかな?超重要な気がしますが。

 

 松熊神社(まつくまじんじゃ:徳島市国府町西矢野)

 

 ぐーたら気延日記「延喜式内社 麻能等比古神社」より<(_ _)>

 

 従ってここでの説は、船戸神麻能等比古神 が猿田彦命ということ。

 

 岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

 別名、久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。

 

 ●概要

 「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。

 道祖神の原型の1つとされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、  「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。

 神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

 『日本書紀』では、黄泉津平坂で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。

 なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した。(wikipedia 岐の神より抜粋)

 

 ふむふむ、そして松熊社の御祭神は手力男命と天宇受女命なんですよね…(´・ω・`)

 まぁ今はあえてスルーしておきましょう。

 

 んで、猿田彦命とは何ぞやということで、

 佐那河内村の大宮八幡神社には猿田比古神社があったことが碑として残っており、

 

 

 こちらも「阿波國続風土記」によりますと、猿田彦大神社そのご祭神は、

 

 

 笑子(えびす)大神と記されてあり、これが『三輪高宮家系図』にある、

 

 

 都美波八重事代主命、又名猿田彦神大物主神のことなんです。

 

 八重事代主命が通称「えびす」と呼ばれているのは皆さんご存知であろうと思います。

 ここまでは以前に記したもののおさらいや、上のぐーたら氏の記事(写真)の引用からも、凡そ異論はないものと思われます(´・ω・`)

 

 またぐーたら氏の調査によると、大麻比古命については、松浦長年の「阿波國古義略考」に、大麻比古神亦ノ名を大水上ノ神亦ノ名は櫛玉命亦ノ名を天ノ活玉ノ命といふ」とあり、

 

 櫛玉命、つまり邇芸速日命(天火明命)の説があるという記事も挙げておられます。ソース右矢印ぐーたら気延日記「阿波國一之宮 大麻比古神社(追記)大麻比古神とは

 

 天火明命は『播磨国風土記』では、大己貴命(大汝命)と弩都比売との子。

 また『日本書紀』の別の一書では、天火明命の父が邇邇芸命ともあります。

 

 コレのことネ下矢印

 

 また同風土記には、伊和大神(大己貴命)の妻が許乃波奈佐久夜比売命とあること。同時に『記紀』ではこの姫が邇邇芸命の妻であることを踏まえますと、

 

 

 仮に大己貴命(この場合邇邇芸命も同じ)を中心として考えて、兄弟の「兄」が自身の「子」の八重事代主命=大麻比古命の構図となり、赤囲い線がこれに該当する箇所であると考えられ、忌部文化研究所の「徳島と日本各地を拓いた阿波忌部」によりますと、

 

 

 「大日本國一宮記」の説と同じく、大麻比古神天太玉命同神としておるようです。

 

 また、天太玉命は天日鷲翔矢命(この場合大己貴命)の妹の天比理乃咩命と結ばれていること等から、邇邇芸命(=大己貴命)の「兄」は、「弟」と「子」としても描かれていることにもなるのです。

 

 そして「粟国造粟飯原家系図」によると、

 

 大国主神(大己貴命)の子の積羽八重言代主神の后神に、粟国魂大宜都比賣神とあり、亦名として、天津羽羽神、天石門別八倉比賣神、天石門別豊玉姫神、稚日女命、天御梶姫命などと書かれてあり、これが天日鷲神の父である天午刀男神の娘であると記します。

 また、「安房国忌部家系図」では、

 

 天背男命の后神に八倉比賣命とあり、娘である天比理乃咩命も、一云稚日女命、天太玉命の后神と記され、天津羽〃命も、一云 天御梶比女命、八重事代主神の后神と書かれてあります。

 

 ということは、天背男命の后も八倉比賣命。

 天太玉命の后も稚日女命(=天石門別八倉比賣)。

 そして上にも書いたように、大麻比古命=八重事代主神の后も天石門別八倉比賣神となることから、何と(少なくとも)三世代に渡っての系譜に天石門別八倉比賣神を妻としたことになるのです。

 

 

 先述した麻能等比古神社が合祀されたと伝う天神社の御祭神は、鍛治の神である天目一箇神。

 こちらもwikipedia天目一箇神によれば、

 『古語拾遺』、『日本書紀』、『播磨国風土記』に登場する。別名は天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)、天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)、天之御影神(あめのみかげのかみ)、天之御蔭命(あめのみかげのみこと)、天津麻羅(あまつまら)、天久之比命(あまくしひのみこと)、天戸間見命(あめのとまみのみこと)、天奇目一箇命(あめのくしまひとつのみこと)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)、天目一箇禰命(あめのまひとつねのみこと)、天戸須久根命(あめのとすくねのみこと)、天照眞良建雄命(あまてらすますらたけおのみこと)、明立天御影命(あきたつあめのみかげのみこと)とされる。ひょっとこ(火男)の原型とも伝えられている。

 『古語拾遺』や『諸系譜』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。   『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも見られる。(wikipedia 天太玉命より抜粋)

 

 つまり天背男命(天石門別神)の后神の八倉比賣神は、天背男命の子の代にも別神名の男神と結ばれており、実際は男神の方も世代をスライドして存在しているということになります。

 このことにより、系譜として大麻比古命が天日鷲命の親の代に逆転する系図が存在する理由の一つであると考えられ、また天日鷲命が六人存在する理由にもなっていると考えられるのです。awa-otoko氏ブログより右矢印六人の天日鷲命」より

 

 「三河国青木氏系図」では、由布彦命(天日鷲毘古命)の父は建男命(天日鷲建男命)のようですな。

 この解釈も私説として一応現時点の考え方として「応神天皇の痕跡から考察⑧」に書いておりますのでご参照下さいませ。

 

 白鬚神社しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」

 

 ◆祭神 猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)

 

 国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。

 

 ●創建

 社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。

 後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある。

 一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江国・筑前国には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。

 「白鬚神社が祭られた形体は、湖西街道に沿って南下して繁栄した新羅系渡来人が、道中の安全のために造った祠であろうと思われる。 白鬚(しらが)という社名は新羅(しらぎ)を援用した名称ではなかろうかと思われる。

 また白鬚神社の鎮座する近江南部や同神が多く鎮座する池田郡、猿田彦命を祀る壱志郡の分布から、本来は海神族の流れを汲む和珥氏の祖神を祀ったものとする説もある。

 

 ●概史

 国史では貞観7年(865年)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この「比良」が当社にあたるとされる。ただし『延喜式』神名帳には記載されていないため、当社はいわゆる国史見在社にあたる。

 弘安3年(1280年)の比良庄の絵図では「ヒゲ大明神」と見えるほか(「白鬚」の初出)、『太平記』巻18では「鬚明神」という記載も見える。また、謡曲『白鬚』では当社が舞台とされている。(wikipedia 白鬚神社より抜粋)

 

 比良明神は、岐神の説明にもあるように、これ以上来るなとある塞神であり、wikipedia黄泉比良坂の項にも、「ひら」は「崖」を意味するとされると書かれてあるように、「比良:ひら」アイヌ語で「ピラ」piraは、「崖」という意味で、「國學院大學古事記学センター黄泉国②」にも、ヒラは元来崖状の地形、または傾斜地を指し、とありまた、「大系(記)」「全集」「倉野全注釈」「西郷注釈」「新全集」では「ヒラ」は元来「崖」を意味しているとします。

 

 息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。

 茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社である。

 

 ◆主祭神 久那戸神 (くなどのかみ、岐神)

  社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。

 

 ◆相殿神

  天鳥船命 (あめのとりふねのみこと)『古事記』では、建御雷神の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。

  住吉三神 (すみよしさんしん)上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。

 

 ●創建

 社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える。

 当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた。(wikipedia 息栖神社より抜粋)

 

 こちらはぐーたら気延日記「岐神再び(6)」「鹿島神宮傳記」より、

 

 

 息栖神社御祭神である久那戸神 (くなどのかみ、岐神)は鹽津老翁であると記します。

 恐らく言葉としては、「ヒラ」から転じて「シラ・シラ-ガ」となり、白髪の老人として描かれる塩土老翁のことを指すのでしょう。

 

 さて、天太玉命と同神と目される麻能等比古神社御祭神の天目一箇神の妹には、天之日矛命の妻となる比売許曽命(息長大姫刀自命)がおり、天津彦根命(波多都美命)の系譜はどうやら「息長氏」一族であることがわかりますが、

 

 

 『阿波忌部氏参考系図』では、天太玉命の后神は天比理乃咩命であり、これが一云稚日女命、つまり八倉比賣神ということになります。

 

 『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条によると、道主日女命が父のわからない子を産んだ。父親を知るために占いに使う酒を造り、神々を集め、その子に父と思う神に酒を捧げさせた。子に盟酒(うけいざけ)を注ぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一箇神に注いだことから天目一箇神が子の父であると分かったという説話が残されています。

 天太玉命と同神とされる天目一箇命の后神が道主日女命なのですから、世代としては邇邇芸命の兄の饒速日命のポジションとして描かれており、また同時に邇邇芸命(大己貴命)の子として描く場合は、天火明命の妻天道日女命つまり、市杵嶋姫命として描かれております。

 

 また「日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』の中に、「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」という逸文が記されてあり、逸文の意味からすれば、天富命の父が崇神天皇となります。

 

 

 「安房国忌部家系図」によると、大麻比古命の子である由布津主命の又名を阿八和気毘古命(アワワケヒコ)と記されてあり、

 

 

 由布津主命を天止美命(天富命)と定め云々…とあり、要するに由布津主命と天止美命(天富命)は同神であると書かれています。

 

 

 

 天富命の父の天櫛耳命が崇神天皇であるならば、同時に由布津主命の父である大麻比古命もまた崇神天皇となります。

 

 

 『記紀』によると崇神天皇条の説話では大物主神を祀るお話がありますね。

 同神考察をしていくと、天日鷲翔矢命の子である大麻比古命のイメージが膨大に膨らみ過ぎて、頭がこんがらがって来ますので、今回はとりあえずこの辺で置いておきましょう。

 

 最後に、麻能等比古神社についてですが、その字義を考察してみますと、御祭神である天目一箇命の神名を読み砕くと、天-目-一箇(あめの--ひと-つ)であり、大-麻-比古(おお--ひこ)と似たような構成であり、

 

 「麻能等」の麻(あさ)を(ま)と読むのはまぁわかるとして、

 

 次の能(のう)の漢字の成り立ちや意味は、

 

 ①「あたう(できる)」②「よく、よくする(できる)」③「働き」、「力」、「才能(物事をうまく成し遂げる生まれつきの能力)」(例:有能)④「効き目」(例:効能)⑤「才能に優れている」⑥「才能に優れた人」⑦「三本足の亀」⑧「耐える」、「辛さや苦しさを我慢する」

 

 ●日本のみで用いられる意味
 ⑨「ノウ(能楽の略)
 [日本固有の(日本だけが持つ)演劇(歌舞伎・能・狂言)について]
 ※能楽とは、「能」と「狂言」の総称の事。
 

 音読み:「ノウ」
 常用漢字表外
 「ダイ」、「ドウ」
 訓読み:常用漢字表内はなし
 常用漢字表外「あた(う)」、「た(える)」、「よ(く)」、「はたら(き)」、
「よ(くする)」、「わざ」

 名前(音読み・訓読み以外の読み):
 「きよ」、「たか」、「ちから」、「のぶ」、「のり」、「ひさ」、
 「みち」、「むね」、「やす」、「よき」、「よし」

 

 …とあり、

 

 (のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。

 江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。

 

 ●解説

 「能」という語は元々、特定の芸能を指すものではなく、物真似や滑稽芸でない芸能で、ストーリーのあるもののこと全般を意味していた。猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになると共にほとんど猿楽が能の略称となった。(wikipedia 能より抜粋)

 

 猿楽(さるがく、猿樂)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。

 

 ●歴史

 現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に(南方)中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて申楽(猿楽)と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった。(wikipedia 猿楽より抜粋)

 

 能楽、即ち猿楽の元は「申楽」と呼ばれ、言い換えるとこの場合、「能」と「猿(申)」は同じ意味で扱われており、猿の元字である「申」は、いなびかり「雷」が走るさまにかたどる。「電(デン・いなづま:伸びる稲妻)が元字とあります。

 また訓読みでは「もう(す)」、常用外では「かさ(ねる)」「さる」借りて「のびる」「もうす」の意で、そこから「伸」(のびる)、「神」の意が生じ、その神に願い事をすることから、「申す」(もうす)意が生じたとされます。 -光村図書下126.東京書籍下047.教育出版下040より」

 

 そういえば何故か日吉大社の山王こと「神猿」は、「ま-さる」と読みますね。

 「ま」の読みを「神」にあてて読むんでしょうかね?(´・ω・`)

 「能」の字には我が国独自で「申」の意味を内包していると考えられそうです。

 

 そして最後の、等は「ら」の読みは「と」と読むべきでしょう。

 

 ニホンザル(Macaca fuscata)は、哺乳綱霊長目オナガザル科マカク属に分類される霊長類。

 

 ●文化の中のニホンザル(呼び名)

 日本語「猿(さる)」は、元来ニホンザルを指して使われた呼び名であった。 異称は「ましらで、和歌などでは盛んに使われる。南方熊楠によればこれは梵語に由来するものかという。

 

 ●山神としてのニホンザル

 猿は古来“山神”とされた。 猿は他の獣とは違って人の異形にして縮小態であり、それゆえに、山神の使者、あるいは神そのものとされたのも自然な成り行きであった。

南方によれば、田畑を荒らされるのを防ぐために猿に餌をやったことが、かえって猿は田畑の守り神であると認知させることになったのだという。 また日吉信仰はおそらくその字のとおり太陽崇拝に関係しており、日の出とともに騒ぎ出す猿は日神の使者と考えられたのではないかという。 中村禎里によれば、猿神が日本土着の起源をもつことは、これが日吉系の各社にかぎらず浅間など各地で山神信仰と結びついていることからも明らかだが、そうした山神としての猿信仰が、仏教とともに流入したインドの土俗神とおそらく習合し、さらに「日吉」「庚申様」「馬頭観音」「猿田彦」などの猿と関連づけられた“看板”を獲得しながら普及する中で、後世の日本人の信仰が形づくられてきたのだという。 なお、再度南方によれば、日本独特の民間信仰である庚申信仰で祀られる主尊・青面金剛とは、ラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神が日本で転化したものであり、青面金剛の足元にたびたび描かれる三匹の猿、「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿は、ラーマに仕えたハヌマーンの変形に他ならない。 とはいえ当然ながら、日本の信仰に表れる三猿は、まぎれもなく尻尾の短いニホンザルである。(wikipedia ニホンザルより抜粋)

 

 お猿はお顔が赤いゼヨ!! …ってな訳で、お猿の古名は「ましら」。

 よって麻能等-比古は、「ま(麻・神)-のぅ(能・猿・申)-と(人)」の意味となることから、「麻能等(ましら)比古神社は猿田彦神社の本社」と考えられるのである…ということで今回は勘弁してやって下さい(。-人-。)