ヒマジンノ国 -41ページ目

 ヒマジンノ国

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見つけた!!(*‘∀‘)。

 

欲しいと思っていた国内版アルフレッド・コルトーのアルバム。吉祥寺で発見しました。中身はシューマンとドビュッシー、フランクとバッハ、パーセル、ブラームスなども。赤盤LP5枚組。

 

国内版LPの音質は若干落ちるかもしれませんが、オペラなら立派なリブレット翻訳が付いており、名演奏家のボックスなら専門家による詳しい解説がつきます。これぐらいしっかりしたものは最近のCDのライナーでは見かけなくなりました。とても助かります。

 

 

コルトーの元で学んだピアニストの遠山恵子さんと、その夫の遠山一行氏(故人、2014年没、音楽評論家)による書き物が載っています。遠山一行氏は1951年から1957年までパリ留学していたとのこと。彼はコルトーに詳しい人だったようです。

 

遠山一行氏は他の書物で次のように語っています。

 

<理屈からいえば、敵国へ行ったということです。だから、いろいろ不便でした。57年までいたんですけど、1年間、日本に帰ってきたものですから、正味5年ですね。・・・(中略)・・・

 

私は戦前を知らないから本当には分かりませんが、少なくとも音楽的に言えば、昔のヨーロッパが残っていた最後の時期といっていいでしょう。>

 

彼はここで生のコルトーや、フルトヴェングラー、ワルターの演奏を聴いたそうです。いいですね(゚Д゚)ノ。

 

彼のコルトー評はまさに核心をついていると思いますが、書くと長くなるのでやめます(;^ω^)。

 

アルフレッド・コルトーといえば1877年生まれの、20世紀最大のピアニストの1人です。今となっては技術的に劣るとはいえ、このような演奏の解釈は生で聴くことは不可能です。レコードで聴くしかありません!

 

コルトーといえばまずショパン。これは間違いないです。しかしそんなショパンを聴きつつも、自分が長らくコルトーを完全に魅力的だと感じられなかった理由は、彼の演奏をCDの録音で聴いてきたからでしょう。CDで聴く限り、コルトーの演奏が「箱庭的」に聴こえて仕方なかったのです。彼は曲の細部までうがった表現をするのですが、スケールが小さくて細部を聴き取るのが辛く、悪くいえば小手先の表現に聴こえて仕方なかったのです。

 

ところがLPになって、音の像が大きくなると、細部の表現なども良く聴きとれるようになり、意味が分かるようになりました。同時にコルトー特有の、色彩的な音色も聴きとれるようになりました。

 

今の時代からいえば古い表現には違いありませんが、曲の解釈を自己の内面のファンタジーから紡ぎ出して、その想いをこうも的確に伝えうるピアニストはめったにいません(パハマン?とか)。現代は技術的な制約が入るでしょうから、ここまで自由に自己の内面を表現するのは無理だと思います(技術より時には内容を優先させ得ること)。

 

このボックスに含まれているのは、シューマンとドビュッシーがメインです。遠山一行氏も指摘していますが、コルトーの音色はドビュッシーが合うのですね。コルトーの音色はまさに雫が滴るような音色で、輝かしさがあります。そこに「ロマン派の時代そのもの」を感じさせる雰囲気と解釈が加味されます。

 

といいたいところですが・・・しかし、遠山一行氏は次のように語っています(このLPボックスのライナーからの引用ではありません)。

 

<私の聴いたコルトーは、ほとんど晩年ですよね。若い世代のピアニストとはちがうけれども、あれをロマンティシズムの残滓というのはまちがっていると思います。やっぱりあれは20世紀の新しい演奏でしょう。・・・(中略)・・・

 

マチスだって、人間の体をかくときは非常にデフォルメするわけでしょう。コルトーの演奏もそういうものです。19世紀の主観的な自由とも違って、もっと知的な批評を潜った表現ですレコードで聴いてみると若いころの演奏は必ずしもそうでもないのかもしれないけど、僕が聴いたころは、そういう非常に批評的な芸術だと思いました。・・・(中略)・・・

 

詩人のオスカー・ワイルドも、批評論のなかで、批評の一番すぐれた形態は音楽の演奏だって言っている。これは素晴らしい言葉です。>

 

うーん、深いね(;^ω^)。

 

しかし今に生きる自分からするとこのコルトーのファンタジーにロマンを感じないというのは無理というものです。そこにはコルトーの高い教養からくる客観性が、曲の解釈に普遍性を持たせている、というべきでしょうか(;^ω^)。

 

ドビュッシーに比べると、シューマンは音が輝きすぎるかもしれませんしかしそこには物語を伴った解釈がありサロン的なアットホームな雰囲気を湛えて魅力的ですフランクについては、最近は演奏する人も少ないですが、コルトーはいうまでもなく最高です。感情の表現に嘘がありません。

 

LPを聴いていると、何より弾いているコルトーが楽しんでいる雰囲気がひしひしと伝わってきます。最近の演奏家からは聴こえないものです。技術的なことのせいでしょうか、緊張している人が多いのかしらん。昔はそんなにうるさくなかったのでしょう。

 

ドビュッシー・前奏曲集1集、子供の領分シューマン・ピアノ協奏曲、謝肉祭、ダヴィッド同盟舞曲集、子供の情景、フランク・前奏曲、コラールとフーガなどが含まれています録音は20世紀の前半から中葉にかけてのものばかりです。

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<悩み>

 

今日、アニメスタジオで放火があり、死傷者が30人を超えるそうです。自分の好きなクラシックの話題などを書くのですが、最近の世の中の様子を見ていると、そんなことばかり書いていて良いのか、疑問に感じるようになっています。あまりお気楽に生きていて良いのか、個人的に心配になってきています。

 

今日もイーロン・マスクが脳内インプラントの臨床試験を発表、また、ピーター・ティールがグーグルが中国と共謀してアメリカを裏切ろうとしていると発言し、それをトランプが支持しています。やはりトランプ大統領も何者かの傀儡(黒幕が何者かは分かりませんでしょうから(ブレーンがいなければトランプもあそこまで色々と自信をもって発言できないと思います)、その裏側が非常に怪しいと思えるようになりました。

 

そしてドイツ銀行もいよいよではないかということで、世の中がどの方向へ変わるか、その下地となるべきものが、我々のあずかり知らぬところで、ちゃくちゃくと進んでいるように思えて仕方ありません。

 

彼らの提示する新しい世界観が、危険なものになる可能性があります。

 

ブログは好きに書きたいと思っていますが、他に気になることが多く、「そちらがわ」の話題ももう少し増やすべきではないかと考えている、今日この頃です。

 

いきなりですが、かなり怖い話です。(>_<)


クリントン夫妻の親友といわれていた、ジェフリー・エプスタインという人物が逮捕されたそうです。

 

この人物はセレブリティー相手に未成年の少女を斡旋する女衒といわれ、彼の所有するカリブ海の島に多くのセレブ達が駆けつけていたというので、問題視されていました。一度は逮捕を逃れたエプスタインでしたが、今回の逮捕はガチではないかといわれています。

 

ここでいうのなら、彼の所有する島で行われていたことが最大の問題事であって、そのおぞましさについて、ちょっと一般人の想像を超えているものとして、認識されています。

 

未成年に対する暴行は勿論ですが、彼女達に対する拷問、あるいは、彼女達を食する((゚Д゚)ノ!!)、という行為があったのではないかといわれています。これらの少女(あるいは少年)に対する行いは「悪魔崇拝」であるといわれ、実際我々が考えるよりも著名人や、聖職者に多いといわれてきました。


マジかいなー(T_T)。

 

そしてその行為をいかに暴くか、という問題について今回のエプスタイン逮捕がその告発の発端になるのではないかということです。

 

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エプスタインの所有する島(通称、乱交島)にある寺院の写真が下のものです。ここで集まった人たちが人倫に悖る行為を繰り返したといわれています。↓

 

 

一部流出している監視カメラの写真です。詳しい解説をしているネット記事がありますが、かなり危ない内容です。裸になった人達が拷問をしている場面が映っているといいます。↓怖い((( ;゚Д゚)))。

 

 

そしてこの島に通っていたのがクリントン夫妻や、オバマだといいます。写真も出回っているものがあるようです。

 

 

クリントンに関していえば1年に20回以上もこの島に通っていたといわれています。情報が正しいのなら、彼はかなりヤバい人です。

 

また他の著名人も名前を連ねているそうです。この件で芋づる式に逮捕者がでるのなら、かなりの衝撃があると思います。

 

ただまだ、完全に証明されているわけではありません。今後の報道を見たいと思います。

 

イヤー、人間て本当に怖いですね(;^ω^)。こんな風になってはいけませんな。

 

韓国のホワイト国除外に続き、ホルムズ海峡での有志連合の話といい、日本人がカッカしていることをいいことに、何だか妙な雰囲気です。トランプも日本が軍事的な選択肢を持つことには反対ではないでしょうから、安倍政権の改憲論にはやや追い風なんでしょうか。

 

まあ、自分がブログを事細かに書いても世の中変わるわけでもないですから、政治の話はそろそろ止めますが・・・。

 

今後10年とかいうスパンで、選択を間違えると日本だけが孤立する要素が出ているようで妙な気がしますね。

 

先日書いた「別荘」というより、世界がいうところの「ガラパゴス」という状況の方が今の日本には正確なのかもしれませんね。残念です(゚Д゚)ノ。

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個人的な話なんですが、毎年鎌倉に厄除けの「獅子頭」を買いに行っています。

 

自分が住んでいるところは、鬼門(東北)にお風呂があります。これが良くないのですね。鬼門と裏鬼門(南西)に水回りや玄関などがあると、鬼門なら男性、裏鬼門なら女性に厄が出るといわれます。

 

以前住んでいたところも鬼門に水回りがありました。その時に信じられないような腰痛(這ってトイレに行くぐらいのです)そして痔(!)になりました。鬼門の厄は腰から下の病や、腰痛などがあります。それが多くの場合、一家の大黒柱の男性などに出て、出世できなかったり、家運が傾いたりするといわれてきたようです。

 

こういうのをどこまで信じてよいのか分かりませんが、個人的な体験では、痔がひどくなってきたときに買ってきた、鬼門除けのお札を張ったところ、翌日から治ったので、毎年買うことにしていました(その神社は鬼門除けを廃止して、今は獅子頭になっています)。

 

しかし、今年はもう何年もひどい腰痛(立てなくなるぐらいの腰痛のことです。普通の腰痛はあります)と痔も出ていないので、一度獅子頭を買うのを止めてみようと思い、お守りを返しに行きはしましたが、新しい獅子頭は買いませんでした。

 

それで2週ほど仕事を続けていたのですが、すると、久しぶりに結構な腰痛になりました(゚Д゚)ノ。おーい!!

 

歩くには歩けるんですが、歩くだけでしんどい。これはヤバい、と思い悩んでいましたが、あんまり原因も分からず、やはりお守りが必要なのかと・・・。

 

少し休んでから、結局先日、お守りを買い直しに鎌倉に行ってきました。2週間で2度鎌倉に行ってきました。本当に面倒です。

 

まだ腰は少し痛いです。うーん、これって鬼門のせいなのか・・・?分からないなあ・・・。

 

また腰がひどく痛くなったら、鬼門のせいではないんでしょうけどとにかく物凄く疲れているみたいなので・・・。ううう・・・。

 

とにかく休養を多めにとる事にします。

 

参議院選挙が公示されました。

 

自民党が勝つんでしょうが、議席を伸ばすのか、減らすのかでかなり違うと思います。 自民党悲願の改憲につながるかどうか、というところでしょう。

 

しかし、個人的には先日書いた「グローバル化」という言葉で美化された、自民党による「日本売り」の事実を見ていると、今の政権は危ないかなとは思っています。

 

一応今回は自民党の悲願である「改憲」と、10月から導入される「消費税」の是非などが争点ですかね。

 

個人的に「改憲」自体「全く反対」ということではないです。自衛隊が飼い殺しになるのなら、憲法で規定し直すという認識自体はありうるし、日本のシーレーンを守りたいというのも分かります。しかし、結局「緊急事態条項」もできてしまったし、自民党の改憲案では文民統制ができるとは思えない内容です。

 

権力側にいかに軍隊と国民を使えるか、という様な内容になってきてますからね。

 

流出している自民党の映像などを観ても、彼ら今の憲法を改正して「明治憲法」に近づけたいのは事実のようで、これに熱心な議員はどうやら自分達が過去の日本(大戦中)の代弁者たり得ようとしているようです。

 

国民主権、基本的人権などは削りたいらしいですね。一番偉いのは「天皇陛下」とか「国体(!)」で、国民や軍隊はそれらの所有物とかにしたいんでしょう。あの時代の言論統制とか、人権無視とか異常だとは思うんですが、どうなんでしょう。本当に3流政治だという感じはしてます。割と露骨なんですよね。怖いぐらいです。

 

そのくせ彼らは裏でバンバン日本売りをしているわけです。いっていることとやっていることの差がひどくて、本当に今の自民党の保守ったって形ばっかりだなって思います。

 

アメリカや外国企業などが怖いから、そちらに良い顔をし、日本では組織的にまとまった保守に守ってもらう。

 

ちょっと甘い汁を吸い過ぎじゃなかろうか。自民党の政治家の劣化な気はしますけども。この、その場当たり的な政権とは何でしょう?日本の針路なんて出ませんよ。

 

国民の多くは自民党の改憲案は嫌いなんだと思います。意見いわない人が多いですけども。ですから、野党も、権力側でなく、国民の側の意見吸い上げた改憲案などを作ったらどうかと、素人目には見えますけどね。

 

「護憲」か「改憲」か、という議論だけになること自体不思議でもあります。右巻きの人たちが有事に対応できない、という意見は一理ありますよね。それを野党が是々非々の議論ができないところに、今度は野党の劣化があるように見えます。「やらせ」じゃないかとさえ思う時がありますよ。

 

安倍さん、国会中継や討論などで、時々、内容についての議論をしましょうとか、野党にいってますね。あれは本音といえば本音でしょうね。安倍さんのいってること自体、いつも正しいかどうか微妙ですが、反対に野党がもう少ししっかりしていたら、政権自体ももっとまともに機能していた部分はあったかもしれません。もうちょっと議論を拮抗させる努力はないもんでしょうか。

 

ただまあ、「明治憲法」の復活じゃあ、対案出して議論するのも大変なのは分かりますけど。やらないと、改憲するなら選択肢が「護憲」か「似非明治憲法」しかないって、どこが議会制民主主義やねん、て思いますよ。

 

カルト教団の対決みたいになってきてます。

 

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島国である、英国、フィリピン、日本を比べると、英国は大陸に近く、文明が発達しました。しかし、この3つの国の中では一番大陸に近いので、戦争も多く、それなりの被害がありました。片や、フィリピンは大陸から離れすぎていて、争いは少ないですが、文明が発達しませんでした。

 

これに比べると日本は大陸から付かず離れずの丁度良い距離で、ある程度の文明の発達と平和を享受できました。サンスクリット語の般若心境の経典(写本)が法隆寺にありますが、これは本国のインドにあるものより古い(世界最古のもの)といいます。この写本にとって、シルクロードの最東端である日本が、大陸からちょうどよい距離に発達したのが幸運だったように思います。

 

また、「老舗」とかいわれるものも日本は多いといいますね。皇室の歴史を誇る人も多いようですが、物事が時間的に永くつづきやすい特徴は、日本にはあると思います。

 

ユダヤ教を発端とする、キリスト教は「砂漠の宗教」の側面を強く持ち、「無」から「有」を求める、パイオニア精神が強いようで、そこにギリシア文明が培った理知的な側面が合流することで、高度な科学文明を携えて世界を席巻しました。

 

ところが温帯湿潤気候(モンスーンに支配される中国なども似たところがあります)の日本は自然が豊かで、時として自然の激しさが強く(例えばヨーロッパの西岸海洋性気候などは比較的に大人しい)、そこに住む人間は忍従の傾向が強くなります。先の大陸からの距離と、この気候からくる忍従性は今の日本の、「平時に大人しい」性質を形作った一部分かと考えています(他の特性などはこれだけで説明しきれませんけども)。逆に自然が支配しやすいヨーロッパは自然に対する人間の優位感が出ます。

 

近代は科学技術が発達しましたので、大陸からの距離などもそれほど関係ありませんが、元々日本人は「平和的に」、なおかつ、「文明的に」暮らすには世界的に見て、比較的恵まれた環境にあったように思います。山本七平が、イザヤ・ベンダサンという名義で書いた著書「日本人とユダヤ人」の中で、日本人を「別荘の民」といい、ユダヤ人を「ハイウェイの民」と呼んでいますが的を得た表現ではないでしょうか。

 

しかし、別の側面をいえば、この「別荘」の居心地が良いのか、日本人は、あまり外出はしようとはせず、長い時間、そこに引きこもっていたように思います。外国に出ようと思ったのは、西洋文明を吸収した、明治維新以降でしょう。

 

第二次世界大戦みたいに日本人が凶暴化した例は本来珍しいんじゃないですかね。エマニュエル・トッドとか保坂正康さんも同じようなことをいっていたと思います。そこを基準にしようとするというのは、本来の日本人の気質を無視している気がします。

 

確かに科学の進歩はいつまでも「日本が別荘」という感じにはしてくれませんけども。

 

当然時代ごとにやり方は変える必要があるとは思うのですが、自民党の改憲案は極端すぎますね。知性はないと感じています。

 

そしてまた、H・G・ウェルズが「世界史外観」で近代日本のことを、次のようにも書いています。

 

<驚くべき知性と精力とをもって、彼らはその文化や組織をヨーロッパ列強の水準まですすめていくことに力を注いだ。人類の歴史上、そのとき日本がなしえたほどの長足の進歩をなしとげた国民はかつてなかった。1866年には、日本は中世的国民であり、極端な伝記的封建制の夢幻的な戯画であった1899年には、その国民は、もっとも進歩したヨーロッパ列強の水準に立つ完全に西洋化された国民となった。アジアはなにか宿命的にヨーロッパよりも遅れていて望みがないという定説を日本は完全に一掃した。日本に比較すれば、ヨーロッパのあらゆる進歩ものろのろしたものに思われた。>(「世界史外観、下」、H・G・ウェルズ著、長谷部文雄、阿部知二訳。)

 

隔絶された地域にいたとはいえ、文明化できる高い知性を養ってきたことと、また、受動的な、受け身の姿勢が合わさった結果、このような世界的にも稀に見る文明開化を成し遂げたといえるでしょう

 

あまり新しいものを考えることは、日本人の得意ではないこと(ベンチャーなども苦手でしょうか)ですが前提が提示されているものを吸収する能力はまさに世界一でしょうね。「自動車産業」でも「車」そのものを開発することはできなくても、「車」がこういうものだという「設計図」を渡されると、あっという間にそれを作ってしまいますね。ブラッシュアップさえしてしまう、という様な能力です。中国にも似たところはありますけども、ブラッシュアップまではいかない気がしてます。きめの細かさは、大陸的でない、日本の特性でしょう。中国は旺盛な生命力があるという感じです。

 

そういう能力を発揮すれば、日本人が政治を変えるのもあっという間だとは思うんですけどね。ただ、初動になる部分と、全体を見て、確実に正しいと思われる「全体像」は必要になりますけどね。やればできるとは思うんですね。

 

その為にはまずは「情報」じゃないでしょうか。有権者が必要な「情報」を集めて、多くの人が納得できる設計図をちゃんと提示できるのなら、政治を変えられる可能性は十分にあると思います。

 

「いいね」はいらないです(゚Д゚)ノ。

 

本の推薦です。とはいっても、自分が推薦しなくても売れているようなので、読んでいらっしゃる方もいるかと思います。

 

堤未果さんの「日本が売られる」という本です。

 

「水道民営化」、「種子法廃止」、「改正畜産経営安定法」、「農地法改正」、「森林経営管理法」、「高度プロフェッショナル制度」、「外国人労働者の受け入れ」など、これらの法律や決まりごとは、安倍政権下で「国家戦略特区」や「グローバル化」、はたまた「自由競争」の美名のもとに行われてきた、政策の数々です。実際にはこれだけにとどまりません。

 

こうした政策の意図と、その内容、そしてそこから派生する我々への影響など、知らない人がほとんどだと思います。そういう人にこそ、ぜひ読んでほしいと思う本です。

 

確かにこの本には情報のソースが明確に示してなかったり、一部に情報の間違い等あるらしいですが、しかし、「上述の政策が実際に決定されてる」以上、ここに書かれている情報は貴重で、問題よりも益することが多いといえます。

 

アベノミクスの目玉の1つといわれていた、国民に不人気な、竹中平蔵が仕切る「国家戦略特区」というものがあります。

 

この内容については、ざっくりといってしまえば、諸外国(日本も含む)の企業が日本で規制なく商売ができるようにするもの、といえると思います。

 

そのおかげで日本経済も活性化する、というような意見でしたが、実際はどうなんでしょう?

 

今の安倍政権は、「私たち(政権側でなく)」がどうしても必要で、守ってきた「水」、「食」、「土地」、「農業」、「森」、「海」というものにかけてきた「規制(そういう規制があるわけです)」をとっぱらって、そこをこともあろうか、「諸外国の企業」に開放しているのです。多分、知識のない人は、読むと驚かれると思いますが、このままだと日本は「国の基礎」から切り崩されることとなります。ゾッとすることが多いですが、この表現は決して大げさなものでなく、真実だと思います(読んでみると分かります)。

 

「国家戦略特区」だけではありません。「TPP11」などにしても、この国の根本を破壊しかねません。

 

ベトナム戦争で「枯葉剤(ベトちゃんドクちゃんを生んだあの薬です)」を提供した、アグリビジネスのモンサント(バイエル社)なども触手を伸ばし始めています。彼らは「種子法」で守られていた日本農業界に参入して、彼らの「遺伝子組み換え」の種子などを売りつけるつもりです。彼らの売りつけるこうした「種」は彼らの提供する「農薬」しか受け付けず、これらをセットにして、低コストで売ってきます。

 

するとビジネスとして競争力の高いこれらの「遺伝子組み換え」作物は従来の日本の農業を駆逐して、彼らの専売になっていく可能性があります。農業こそ、国で保護すべき事柄ではないのですか?

 

この「遺伝子組み換え」作物とそれに適合した「農薬」は世界的に人体などに問題を引き起こしています。はたして、日本人皆でこういうものを食べなければならないのでしょうか?

 

「種子法」については元農林水産大臣の山田正彦氏などが活動を続けていらっしゃいます。(アメブロで見れます。↓自分個人として、支持政党などはありませんので、悪しからず。種子法に関しての取り組みなどの情報です。)

 

https://ameblo.jp/yamada-masahiko/

 

こうしたことは「農業」だけにとどまらないことが、この本には書いてあります。

 

グローバル化などといいますが、これは偽物のグローバル化であって、やっていることは「大企業」の好きなように商売ができる環境を作る事ばかりであり、それも一般市民を生活を破壊しても構わない、というようなことばかりです。

 

安倍政権、官僚、企業、マスコミはこうした政策を一体となって進めており、特にテレビなどのマスコミはひどく、これらの法案の内容や、その影響は全く説明しません。こうしたことがどれだけ異常なのかということを、我々は認識する必要があります。

 

要は彼らは「権力のある側」、いいかえれば「金のある側」のことばかりを優遇して、私たち「金のない側」についてはほとんど顧みていないのです。貧富の差が広がっている、といっているのに、彼らのやっていることはさらにそれを進めることばかりといえます。こうした行いは本当に止めさせなければいけません

 

竹中平蔵は経済を自由化(グローバル化)すれば、そこに関わる企業が儲かり、それが国民に還元される、というようなことをいっていましたが、結局ふたを開けてみると、儲かるのは企業ばかりで、その儲けも我々の財産を奪った末のものだったということが、はっきりします。詐欺と同じかと思いますが、騙されないようにしなければいけません。

 

トランプ大統領が出てきて、この傾向は少しとどめられたのかもしれません(彼は当初のTPPからの離脱を宣言しました。しかし何故か安倍政権は新しい枠組みでこれを進めようとしています)。

 

仮にトランプ大統領が出てこなければ極東で軍事的な危機が煽られる(オバマ政権時のことです。引き続き、ヒラリーが大統領であれば、極東は今以上の緊張状態だった可能性があります)ことで「日本が軍事化」すると同時に、上述のような「日本の内部からの切り崩し」が行われ、極右あるいは保守以外の人々は生活圏を追われ、一般市民が一種(アメリカの新自由主義と日本の極右が結合した政権)の隷属状態におかれる可能性があったと思われますが(大げさな表現だとは思いません)、その方向性は幾分おさまったかと思います。

 

ただ、このままではまだ危ないと思いますね

 

やはりまず知識の共有がいると思うのですそのためにはこの本はとても役に立つと考えています。本当に一度読んでほしいと思います(゚Д゚)ノ!

 

また余裕があれば前回載せた陰謀論の本も暇な時で良いので、読んでみてください今回紹介した本と共通する部分が多いと思います陰謀論をごりごりに勧める気はないのですが、それでもなお、おかしな部分が多すぎますね。参考までに、ということで良いと思いますので。

 

 

 

「れいわ新撰組」という政治団体を立ち上げた、山本太郎参議院議員が、今ちょっと人気だそうです。麻生さんの失言?もあってか、低所得者の今後の生活が見えない中、消費税反対などの反緊縮財政をとなえ、また、なぜ今低所得者の賃金が上がらないかなどの講演などをやっているようで、それに惹かれている人が多いようです。

 

アメリカのQアノンが日本に上陸して、ツイッターなどで色々騒いでいます。その中に、この山本太郎議員が自分達と同じ立ち位置かどうか、なんていう議論がありました。

 

Qアノンも主張の一部は旧エリートや、資産家への非難という部分もありますから、それが山本太郎議員の主張する、低所得者が儲からないという、この国の構造などの話と、合致するのかもしれません。

 

多分、陰謀論に近いところの話もあるのかと。

 

 

陰謀論といえば「金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った」安部芳祐著、という割と有名な本があります。タイトルは経済本みたいですが、内容はロスチャイルド家をメインに据えた陰謀論の本です。結構面白い本です。従来いわれている陰謀論について一通りまとめた本で、初版は2008年です。

 

色々問題あると思いますが、「陰謀論」に初めて興味ある人にはお勧めです。

 

保守系の好きなWGIPやコミンテルンの話も、少しですが、出てきます。結局、ユダヤの陰謀につながる、という話ですけども。

 

また、アル・ゴアなんかもロスチャイルドの使いで、原子力推進のために温暖化を訴えたとか・・・。温暖化の原因は未だによく分からないとも・・・。他にも911やヒトラーの話などもあります。

 

あれもこれも陰謀、という感じはあるかな。お腹一杯になるかもしれないです。

 

しかし、10年以上前の本ですが、今読むと、預言めいた部分もあります。


少し、本文から引用します。

 

それから、原発で怖いのは、やはり事故です。この地震国である日本に原発が54基もあること自体、危険なのですが、さらに信じられないことに、浜岡、柏崎刈羽、島根、美浜、敦賀、そして高速増殖炉もんじゅの近辺には活断層があります。特に、浜岡原発は活断層の真上にあり、東海大地震は必ず来ると予測されています。そうなれば、首都圏は壊滅です。ですから、直ちに原発は撤退すべきです。>

 

2000年には就労人口の3・6人で一人の老人を支えていたものが、2025年には1・8人につき一人となり、2050年には1・2人で一人を支えなければならなくなると試算されています。

 

これ、支えきれますか?

支えられるはずありませんよね。

現在、後期高齢者医療制度が「姥捨てだ!」と批判されていますが、まだまだ序の口です。本格的な姥捨て社会は、これから始まります。

 

このままいけば・・・・・・・ですが。>

 

311の原発事故は最近の陰謀論者によると、あれも陰謀だったとかいう話ですし、かたや、年金問題はずっといわれ続けてきたことなので、今さらという感じの人もいるのかもしれません。

 

それでもやはり実際に起きている事件と比較すると、それなりに説得力はあるかなと思いました。

 

そして、この本の著者の安部芳祐氏なんですが、つい最近まで山本太郎議員の政策秘書をしていたといいます。今は違うようですが、山本太郎議員もこうした話を知らないはずもないかと思います。

 

 

 

 

Qアノンの最近の活動などを見ても、従来のシステムに対する批判が世界的に強くなっているのでしょう。こういう動きは当分続くのかな、という感じですね。歴史は繰り返すという気がしています。

 

結局、保守、リベラル、Qアノンなど皆各自で意見が精鋭化している感じもあって、危なっかしい感じも出てきています。自分達だけが正しい、という印象がどの団体からもしています。そして、どの団体も旧来のやり方に対する批判はありますが、その後の未来像などは中々提示しきれていません。

 

「仮に」Qアノンのすることが全部成功したとします。彼らのいう、「カバール」とか「ディープ・ステート」といわれる組織が犯してきた、戦争犯罪、資金誘導、そして政治家、セレブ、または宗教関係者が犯してきたという、幼児性愛とカニバリズム・・・など、こうした現象が本当に告発されるというのなら、今まで「白」といわれてきたものが一瞬にして「黒」にひっくり返るわけです。

 

しかしそうなると今我々がいる世界の「価値観」自体が一瞬でひっくり返るわけでその空白部分をどう埋めるか、なんて話はほとんど出てきませんこれ、結構難しい問題であるはずです。余程説得力がないとね。平気で宇宙人の啓示なども持ち出してくるかもしれません。個人的に他星の存在など、否定はしませんが、その辺の話も玉石混交、色々ありますからね。信用に足るものかどうか、判断できる材料はほぼないです。

 

また、金融リセット後のシステム自体は既にあるみたいないい方もします

 

こんなに怪しいのもあるかなとは思いますねだまし討ちじゃない保証はどこにあるんだろうと思います彼らも敵対する勢力と「同じ穴の狢」ではないの?・・・という不安は個人的なものですが、まあ・・・分かりませんね

 

初めは応援したいな、とか思っていましたが、思いの外ヘラヘラした感じもあって苦手になってきました・・・(-_-;)。

 

若い人でこういうのに参加したいと思っているのなら、一度理性的になってじっくり考えてからの方が良いというのが、自分の最近の意見ですね。(+_+)

 

カルロス・クライバーによる、ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」(1975)。日本製のLP。

 

ウィーンの上流階級の雰囲気を盛り込んだオペレッタで、古典的な作品の中でも、格別に華麗で洒落た内容です。特に仮面舞踏会での印象的なワルツは誰もが聴いたことのある曲で、馴染みやすいものがあります。今ではセレブ達の年始の慰み物と化した、ニューイヤー・コンサートの定番です。

 

カルロス・クライバーのきりっとしたリズム、情熱的なアタック、透明感あふれる詩情が、現代の我々にもその美しさを十分に堪能させてくれます。天才の技です。

 

第2幕の結部はポルカから、参加者全員でのワルツとなり、この曲に私達が抱くイメージを十全に表現していると思います(*^^*)。

 

 

クレメンス・クラウスによる「こうもり」(1950)。LXT2550、2551。英国盤のLP。

 

存命時、クレメンス・クラウス(1893-1954)ほど、貴族的なウィーンの雰囲気を湛えた指揮者はいないといわれたそうです。彼は私生児でしたが、父親は皇帝フランツ・ヨーゼフの宮廷の騎士だったそうで、19世紀末のウィーンの宮廷の雰囲気を身に着けているようです。

 

 

作曲家R・シュトラウスと友好的な関係にもあり、オペラの台本なども提供しました(カプリッチョ)。反面、同僚のE・クライバーやクナッパーツブッシュがナチスに抗議して要職を外されたり、亡命したりする中、彼はナチスに取り入り党員にもなろうとしました。しかし、ユダヤ人を助けたりもしていたようで、独自の哲学を持っていたように思われます。R・シュトラウスにも似たようなところがありました。

 

 

(↑R・シュトラウス「カプリッチョ」。ウルフ・シルマーの演奏、マドレーヌをキリ・テ・カナワが歌います。1992年録音のCD。クレメンス・クラウスが提供した台本によって、オペラは音楽が先か言葉が先かという問題が取り扱われます。18世紀の、ロココ風のパリ郊外の城が舞台とはいえ、冒頭の、涼し気で、しなやかな弦楽6重奏から、19世紀末のウィーンを思わせるような、爛熟した、透明感ある美の世界が繰り広げられます。)

 

1939年、まだナチス政権華やかなりしころ、このクレメンス・クラウスはウィーン・フィルにヨハン・シュトラウス一家のポルカとワルツで構成したプログラムを提案、これが後のニューイヤー・コンサートとなります。

 

そういう意味ではこの「こうもり」は本場物の名録音として語り継がれてきたものです。

 

今聴くと非常に味わい深い演奏で、のんびりしています。現代の演奏家のように、飛行機で世界中を飛びまわって、忙しい演奏家達とは違う様子です。

 

1950年のドイツがまだ復興中で、ドイツの仲間たちとじっくり演奏している感じがあります。このような、現代から見ると時代錯誤的な演奏からは、ローカルな味わいと、その特有な瀟洒な感じが魅力かなと思いました。


(一応、ヨハン・シュトラウスとR・シュトラウスは別人です。(+_+)また、ヨハン・シュトラウス2世はヨハン・シュトラウスの息子です。(*^^*))

 

 

今年は割と自由になる時間あって、喜んでいます。今年の後半はできるなら、久しぶりにクラシック音楽のコンサートに行ってみたいと思っています。

 

自分は音楽については「全くの聴き手」でしかありません(゚Д゚)ノ。

 

<最近感じること>

 

このごろはLPばかり聴くようになりました。ネルソンスのショスタコ―ビッチのCDを買うつもりでしたが、予算が回せていません(-_-;)。

 

さて、CDとLPの音質について色々いわれているようですが、その一つに最弱音の音の消え具合の良さの問題があるようです。

 

音が、再弱音から無音に消えていく際の自然さが、CDよりもLPの方が良いということらしいです。

 

反対に、弱音でなく、機械などで確かめたりはしてませんが、全体としては、最新のデジタル録音の解像度のハイファイ感は非常に高く、その点はLPよりもCDの方が良いと思います。きめが細かく聴こえます。

 

しかし、個人的な感想でいえば、LPの方が音の消え具合が良いということは、音が空間と直接つながっていくという感じがCDよりも強くなるということであって、音の空間的な広がりが出やすいということにつながると思います。このことが「CDよりLPの方が音が良い」ということなのかどうかは、各人の主観によると思います。

 

CDの質にもよりますが、多くのCDは弱音部で団子状になり易く、LPに比べると、音が消失する際は、急に音が消えるそうです。CDの音の硬さの原因はここら辺にあるのかもしれません。

 

過去の演奏家の録音は、現代に比べると必ずしもハイファイ率の高くないモノラル録音ばかりですが、これをCD化する際は結局、音の輪郭部を覆う弱音部を削ってしまうために、音の滑らかさが消えてしまい、音の共鳴性と自然さが消滅してしまうケースがほとんどのような気がしています。結果音が汚くなるわけです。

 

最近聴いていたミトロプーロスのマーラーやアンソニー・コリンズのシベリウスなども個人的にはLPだからということで購入しました。古い録音で、LPならではのノイズについてはどうしようもないですが、かつてCDで聴いてきたモノラル録音に比べて、こちらからの距離と演奏家との距離が直接的に感じられて、臨場感があります。必ずしも高度なハイファイ率がなくとも、そのリアルな雰囲気はいやがうえにも増します。

 

最近聴いた、ギーゼキングのピアノの音色にしても、目の前にピアノの音色があるように聴こえるのはそのような効果のせいだと思います。

 

 

(↑ワルター・ギーゼキングのドビュッシー。ドイツ人でありながら、よく練られた硬質の美しい音色は、ドビュッシーに向いていたといわれます。散漫でなく、コントロールされた音色だとは思いますが、硬質とはいえ固すぎず、人の手によるものだという感じがします。月並みですが、宝石のようなピアノの音色の美しさが、身近に、臨場感あるところで漂っているかのように聴こえるのが、LPの魅力なのかもしれません。演奏そのものは、プレリュードより、映像に惹かれます。詳しい人によると、これより以前の演奏の方が良いそうです。33CX1098、33CX1137。)

 

また元々音の切れの良い演奏をする指揮者である、ショルティとかマゼールなどの指揮者もLPで聴くことによって、かなりなじめるようになってきました。この問題は弱音部だけの問題でないとも思いますが、その点についてはここでは取り上げません。

 

 

(↑人工的な録音効果を加味して制作された、ゲオルク・ショルティの「ラインの黄金」。評論家の岡俊雄さんによると、ドンナーが岩を叩く場面のガキン!!という音は当時のオーディオ・チェックによく使ったぐらいの、驚くべき音質だったとのこと。ステレオ初期の優秀録音盤です。SET382ー384、ED2。)

 

過去の演奏家が聴かれなくなったのは、過去音源のCD化による音質の劣化があると考えられます。フルトヴェングラーとかトスカニーニみたいに有名な人々は良いですが、そうでない人々の演奏はかなり厳しい状況にあるでしょう。

 

こうした問題はかなりマニアックな問題かもしれませんしかし、雑誌やメディアによる情報統制によって、我々は今考えているよりも情報弱者になっています。自分はこうした情報をほとんどネットでしか得られませんでした。あるいは廃刊になった書籍などで。

 

自然界では種の多様性などといわれています。種類の多様性はより多くの生命が発達するのに、お互いが影響し合うことが必要だということですその逆は死を招きかねません。能率性によって、価値観がある程度まで一元化する場合はあると思いますが、「単純に」価値観が一つだけになってしまう可能性があります。そうすると、それに見合わない人々や種は、次々に淘汰されてしまいます。一部の者は生き残るかもしれませんが、他は死んでしまいます。いずれはその一部の者も、死んでしまうでしょう。

 

音楽についても、聴き手とか演奏家にも同じことがいえると思いますLPを聴くようになって分かったことですが本当に自分の知らない演奏家が多いということす。今朝もオランダの演奏家のオッテルローと、ピアニスト、コル・デ・フロート(1914-1993)によるベートーヴェンのコンチェルトの3番を聴いていましたが、澄み切って美しい演奏でした他にもマノンのハイライトをフランスのソプラノジャニーヌ・ミショー(1914-1976)で聴いていましたが失われていくのは惜しい内容です。これらはもう現代はほとんど名前さえ知られていない人々です。

 

 

(↑両方とも10インチ盤。コル・デ・フロートはオランダのピアニスト。1959年に神経障害で左手だけのピアニストになりました。これは障害を受ける前の、1950年代の録音。指揮者共々澄み切った演奏で、透明感があります。ABR4047。ジャニーヌ・ミショーはフランスのリリック・ソプラノ。フランス語のオペラ、マノンのネイティヴによる歌唱による美しさがあると思います。LW5204。)

 

LPを聴くようになって、本当に今まで知らない演奏家が増えました。

 

20世紀の2つの大戦で、力を増大したのは政治と軍事、それに科学と経済の分野でした。これらはそれまでの市民社会を破壊して、物理的な力で社会を一元化していき、それに見合わない人々を淘汰していきました。

 

世界は不気味なほど平均化され、個人の独創性が虐げられたのです。

 

芸術の多様性は人々がお互いを尊重したうえで各自がそれぞれの自由を認めた時にこそ現れるものと思いますそして、一元化と多様性は同居できるものとしての認識されるべきでしょう。

 

そこにはまとまった、意志疎通のできる寛容な市民社会が必要です。

 

現代だけでも膨大な録音があるのは承知しています。しかし今日、クラシック・メディアも情報の統制ばかりせずに、自分達を振り返って、過去のこれほど沢山あるアーカイヴを、再び見直す時期に来ているのではないかと思います。

 

ロリン・マゼール(1930-2014)によるシベリウス交響曲2、3、6番(1964-1968)。

 

若き日のロリン・マゼールによるシベリウスです。オーケストラはウィーン・フィルで、レコードの音も線が太く、非常に良いです(*^^*)。各楽器を良く鳴らし表現は明快で、曖昧さがなく、華やかです。近代的な解釈かな。

 

3番と6番は各1面に音楽を押し込んでいて、響きに伸びがないかもしれないですね。残念。1曲に1枚使ってほしいところかな。演奏は良いと思います。

 

2番は2面使ってますので、細部などが良く聴こえます。若いマゼールは冷徹ですが、情熱に溢れています。ここでは冷徹さが独特の冷たさを生み、シベリウスの音楽の雰囲気によく合っているかと思いました。ウィーン・フィルのまろやかさは後退しますが、音色に魅力があるのは確かです。

 

 

SXL6125(ED3)とSXL6364(ED2)です。英国盤。

 

 

ギリシアの哲人といわれた、ドミトリ・ミトロプーロス(1896-1960)によるマーラー交響曲1番「巨人」(1940)。

 

第4楽章を聴くと音が遠いなあ、と思っていたんですが、どうもこの曲の世界最古の録音らしく、納得、しかしその割には音は良く聴こえてきます。SPの復刻音源でしょうか(-_-;)。ちょっとその辺は良く分からないです。

 

演奏は端正ですが、メカニックな感触のないヒューマンなものです。楽器の鳴らし方など、マーラーの雰囲気をよく出しています。好きな演奏で、かなり聴いています。

 

 

33CX1068。英国盤。

 

 

サー・トーマス・ビーチャム(1879-1861)のチャイコフスキー交響曲4番(1957、1958)。

 

裕福な家庭に生まれ、音楽に私財を惜しげもなくはたいた、英国の紳士ビーチャム卿のチャイコフスキーです(*^^*)。中庸を得た表現ですが、音楽に充実感があり、素性の良さを思わせます。

 

迫力に不足もなく、かといって、うるさくもないです。音楽を聴く楽しみを感じさせてくれる1枚です。まさに紳士かな。

 

音は良いです。透明感と暖かさと、そして艶があります。デッカがLXTシリーズ、コロンビアが33CXシリーズなら、HMVはAPLシリーズがモノラル録音の主力でしょう。

 

 

APL1667。英国盤。

 

 

アンソニー・コリンズ(1893-1963)によるシベリウス交響曲6番(全集からの1枚、詳しい録音年は不明、全集としては1952-1955)。

 

英国人、アンソニー・コリンズはグスターヴ・ホルストに学んだといわれている音楽家です。映画音楽の作曲家だったらしいですが、演奏家としては、シベリウスの交響曲全集が有名なようです(*^^*)。

 

演奏はのんびりとしていて、味わい深いです。近代的なマゼールの演奏と比べると、相当な差があります。途中野暮ったすぎるほどの進行で、現代、こんな演奏をする人はいませんね

 

音はデッカの録音で、まあまあですかね。

 

 

LXT5084。英国盤。

 

マリア・メネギーニ・カラスの演じる「トスカ」(1953)。33CX1094、1095。英国盤。

 

1952年に伝説のソプラノ、マリア・カラスの、初めての「全曲盤」として、チェトラに録音されたオペラは「椿姫」でした。そして続く「ジョコンダ」の録音の後、1953年、大手EMIに移籍した彼女が録音したのが「ランメルモールのルチア」、「清教徒」、そしてこの「トスカ」です。

 

多分にこの「トスカ」は世界的に彼女を名を広める役割をし、爾来、今日までこの曲の決定盤として認識されています。この録音はこの歌劇の、劇的な側面を強く打ち出しており、スタジオ録音とは思えぬようなシリアスな表現があり、その真実性が胸を打つのです。

 

「トスカ」はヴェズリモ・オペラであり、歌の美麗な表現が全体を覆うのではなく、その現実的なドラマの表現こそがその本質につながる道です。故に、マリア・カラスの、歌の性格を掘り下げていくヴェル・カントの技術がこの曲の隅々までドラマを表現していく手伝いをし、熱気ある表現としています。

 

近頃良くある、歌の美しさを表現したものでなく、また、カラヤンのように指揮者主体による表現でもない、テイト・ゴッビ、ビクトル・デ・サバタ、そしてマリア・カラスという表現者が三者三様に表現をして、一個の有機体を構成している稀有な例です。

 

<全くの余談>

 

1923年、12月3日に生を受けたマリア・カラスは四柱推命で空亡を取ると、「寅卯」となります。日本の旧暦は数字の5と6との組み合わせでなる、60進法で作られています(120と見る見方もある)。それを、天をあらわす、10種の天支(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)、と地をあらわす12種類の地支 (子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)に変換して表現しています。

 

確かに現在の暦を見ると、1月およそ30日、1年12カ月という風な、60進法にかなり近い進行を見せてはいます。当然1年は360日ではないし、地干が太陽か木星の運航を元にしていて、天干が月の運航を元にしているとは厳密にはいえませんが、占いというものが過去の星観測から生まれた可能性は多分にあるように考えています。生まれた時の、各星の位置の影響(重力かあるいは磁場)によって人間の性格や性質が変化するというのが、いわば四柱推命の一端かと思えます(この件に関しては全くの個人的見解であることを書いておきます)。

 

甲子園のネーミングの元になっている、「甲子」は10(5)の進行をあらわす天干の初めをあらわす甲と、12(6)の進行の初めをあらわす子の組み合わせで、「甲子」(きのえね)となります。実際甲子はこの干支で表す暦の一番初めに来る表記となります。そして乙丑、丙寅・・・という風に続いていくわけです。

 

人間は不思議とこの暦の影響を受けているといえます。60年が1サイクルで、人間の人生はその時間的長さにおいて、2サイクル分になっているといえます。長生きした人でも人間は120年ぐらいが現界であり、また、60年で還暦、つまり一旦人生は元に戻るということです。

 

還暦になって、「赤いちゃんちゃんこ」を着る風習は、一度人生の初めに戻って「赤ちゃん」に戻る、という意味合いがあります。つまり61歳からは第2の人生と見るわけです。

 

ところが細部を見ると、12個の地干と10個の天干には2個の差があり、これによって生まれた人間に性格の差が出ると見ます(つまり、地支のサイクルを中心に見ると、酉で天支の最後の癸に到達してしまい、天支を使い切っていまいます次の戌にはまた天支の初めの甲に戻り、甲戌となってしまいます)。

 

このサイクルのひずみのために、人間には生まれた日によって、6種の傾向を持つ性格があるとされ、それぞれ子丑空亡、寅卯空亡、辰巳空亡、午未空亡、申酉空亡、戌亥空亡となり、人によってはこれを殺界などと呼びます(有名な占い師がいますね。その占い師は寅卯空亡を木星人とか名前をつけています。色々勝手に名乗ってますが、あの原型は四柱推命です)。

 

前置きが長くなりましたが、各空亡はそれぞれ独自の性格を持ち、行動や考えなどに強い影響を持ちます

 

マリア・カラスの寅卯空亡は強い信念を持ち、こうと決めた考えがあると、圧倒的な力でそこを目指して突き進んでいける能力があるというものです。また6空亡中、もっとも「力そのもの」が強いといえ、「力そのもの」に頼る傾向があるといえます(反面小回りと融通が利かないようです)。

 

そして(人によっては)その行いが極端になり、人に嫌われる原因ともなります。マリア・カラスを見ていると如実にこの傾向が現れており、それが彼女の人生に大きな影響を与えていることは間違いがないようです特に晩年の孤独などは全盛期に自分のやりたいことを散々やろうとした故に、人々が離れていったようにしか見えません

 

ルキノ・ヴィスコンティとマリア・カラスが一緒になってインタビューに答えていた映像があったと思いますがその中で彼女は共演者たちが自分の練習の徹底ぶりを批判していることに不満をいっていたと思いますが、それもさもありなん、という感じです。

 

これは個人的な体験ですが、寅卯の人と一緒に仕事をする際、それが特に上司の場合、その内容が本人の本意に合わなければ、合うまで徹底的にやらされるのが常といえますどんなに時間がかかってもやらされるわけで、もしそれが比較的同等の立場の場合、喧嘩になってもおかしくはありません。これは想像にすぎませんがおそらくマリア・カラスはそれぐらい徹底したやり方を共演者にも求めていたことが予想されます。

 

メトロポリタン歌劇場の支配人だったルドルフ・ビングと契約でもめた時のマリア・カラスの激高ぶりも映像に残っていますが、その女性とは思えないような激しさはまさにこの空亡のなせる業ともいえます。

 

つまり彼女は多くの場合、人よりも芸術を選んでいたわけで、あの歌唱の徹底した内容主義は多くの人間関係を犠牲にして作ったのだともいえます彼女が女虎とか悪女とかいわれる理由の一つは、この他人の心を犠牲にしてでも追い求めた、自己の芸術の内容せいだった、といっても過言ではないでしょう。

 

作曲家であればリヒャルト・ワーグナーも同じ性質だったと考えています

 

「ノルマ」をはじめとする高度なヴェル・カント・オペラを歴史的に復活させた功績、あるいは歴史的に見て、これ以上は歌えないだろうと思われる名録音の数々、スカラ座での伝説的な公演などの歴史的偉業は彼女の徹底したやり方(才能があったからでもありますが)があってこそともいえたと思います。

 

しかしその徹底したやり方も、人生全体に必ずしも通じるわけではなく、徐々に破局を迎えていくわけです。

 

美輪明宏氏の本に「正負の法則」という本があります。彼はこの本の中で、人生には「負」を払ったぶんだけ「正」を得ることができるのが、この世の法則だという内容です。

 

成功者は沢山の「負」を先払いすることによって、自己の成功を勝ち取るのだといいます。成功したスポーツ選手であれば、その裏には血のにじむような苦しい練習があったのかもしれません。この苦しい練習こそ、先払いの「負」であり、その他の成功者は練習なり、失敗なりで先に「負」の清算をしている可能性があります

 

当然、先天的な才能と、強力な人格がマリア・カラスの成功を後押ししたのであり、たゆまぬ徹底した努力こそが彼女の「負」の先払いだったといえるかと思います。

 

ところがです。人は成功を繰り返し、次々に栄光を得ていく中で、知らない内に自分のまわりが成功である「正」ばかりとなっていく場合があります。こうなってくるとその「人」に対して、不幸な事件とか、失敗などが起こる様になるといいます。良い家に住み、良い家族を持ち、仕事にもお金にも不自由しなくなると、その人のまわりは全て「+」ばかりとなってしまい、その人の「+」の許容量を超えてしまうのです。故に「正」の上にさらに「正」を重ねようとすると、自然とその人には不幸が巡ってくるということになります。

 

美輪明宏氏の本から、歴史的に有名な女性についての寸評がありますが、そこから3人分をチョイスします。

 

「エリザベス・テーラーはアカデミー賞も受賞し、世界一と言われた美貌の持ち主でしたが、富と名声に恵まれて、子供たちもいて、何が<負>かと言うと、ここぞというときに必ず大病をするのです。それも大手術を伴うような命がけの大病ばかり。しかも八回も結婚と離婚を繰り返し、一生、男性の愛情による平穏が得られなかったのです。

 

マリリン・モンローは死んでからもう何十年になるのに、いまだにグラマラスで魅力的な女の代表だと言われています。けれど、長生きをしていたら、そうはいかなかったと思います。不幸な出生をし、生存中は劣等感と不安で薬漬け、次から次へと夫を替え、あげくの果ては大統領までを巻き込んだスキャンダル。そして悲惨極まる謎の死。そういった<負>を支払って彼女は死後永遠のアイドルとしての<正>の名声を残しているのです。

 

ダイアナは冷たい夫と離婚をし、富や名声、地位までもそのままだった。離婚が成立して、姑や夫にいじめられることもなくなり、最愛の恋人と大恋愛をした。もう何もかも全部手に入れてしまったのです。欠けているものが何もなくなってしまった。そうなると、この世の法則、地球の法則に合わないためにあの大事故で無残に消えてしまいました。」(ああ正負の法則、美輪明宏著)。

 

マリア・カラスもこういった、世界的名声の著名人に漏れぬような生涯だったといえます。歴史的に残るオペラの偉業を残し、太っていた体型を改め隈取りの濃い美人となり、ヘップバーンに入れ込んでファッションにも凝りもしました。イタリアオペラの聖地であるスカラ座では女王となって、1人の女性として、手に入れられる栄光はほとんど手にしたといえます。

 

もし彼女に欠けた部分があったというのなら、子供ができなかったことでしょうか。

 

そしてマリア・カラスもまた、ダイアナ妃のように舞台から退きつつも、海運王のアリストテレス・オナシスの恋人となり、長らく彼女を支えてきたメネギーニと離婚しました。

 

スカラ座で声の出なくなったスキャンダル辺りから彼女の人生は斜陽を迎えていたと思いますが彼女は世界的名声の上にさらにあたらしい恋人とその子供を得ようと奮闘したわけです。ところがオナシスは前妻と分かれた後、カラスとは結婚せず、ジャクリーン・ケネディと「ビジネス上の問題」から、結婚をし、マリア・カラスはオナシスの子供を身ごもったものの、帝王切開で取りだした後、その日のうちに子供は亡くなっています

 

メネギーニによるとカラスは子宮奇形という病気だったらしいですね。本来子供ができる体ではなかったようです。

 

 

こうしてマリア・カラスは晩年、ひっそりと孤独な生活をする羽目になったといえます。おそらく彼女の強力な成功体験が、飽くなき欲望を叶える原動力となったのでしょうオペラ舞台から退いたのち、前夫のメネギーニとひっそりと暮らしていたといのなら、彼女の晩年はまた違ったものだったかもしれません

 

・・・さて、話が大分寄り道にそれました。

 

このオペラの中で、トスカは恋人を人質に取られ、ファルネーゼ宮でスカルピアに自分の手籠めになるように迫られます。それを必死に阻止しようとするトスカ。そして最後はスカルピアを刺し殺すまで、この辺りは本当に激しい表現が必要で、こうした狂言を真実味を出してやるのは中々演じる本人も本気になるのが難しいと思います。

 

マリア・カラスとテイト・ゴッビは名役者だと思います。本物のトスカとスカルピアのように聴こえますね。

 

1953年はマリア・カラスが人生で最も幸運な時代の頃だったと思います。1940年後半が彼女の声の全盛期なら、その後の1955年ぐらいまでは彼女の役者人生の最盛期でしょうか。

 

10年ちょっとしか活躍できなかったマリア・カラスですが、その合間に録音されたものが現代においても最高の認識をもって迎えられるのは、どれぐらいこの時代に彼女が全力を振り絞っていたかの、証左だと思います。