今年は割と自由になる時間あって、喜んでいます。今年の後半はできるなら、久しぶりにクラシック音楽のコンサートに行ってみたいと思っています。
自分は音楽については「全くの聴き手」でしかありません(゚Д゚)ノ。
<最近感じること>
このごろはLPばかり聴くようになりました。ネルソンスのショスタコ―ビッチのCDを買うつもりでしたが、予算が回せていません(-_-;)。
さて、CDとLPの音質について色々いわれているようですが、その一つに最弱音の音の消え具合の良さの問題があるようです。
音が、再弱音から無音に消えていく際の自然さが、CDよりもLPの方が良いということらしいです。
反対に、弱音でなく、機械などで確かめたりはしてませんが、全体としては、最新のデジタル録音の解像度のハイファイ感は非常に高く、その点はLPよりもCDの方が良いと思います。きめが細かく聴こえます。
しかし、個人的な感想でいえば、LPの方が音の消え具合が良いということは、音が空間と直接つながっていくという感じがCDよりも強くなるということであって、音の空間的な広がりが出やすいということにつながると思います。このことが「CDよりLPの方が音が良い」ということなのかどうかは、各人の主観によると思います。
CDの質にもよりますが、多くのCDは弱音部で団子状になり易く、LPに比べると、音が消失する際は、急に音が消えるそうです。CDの音の硬さの原因はここら辺にあるのかもしれません。
過去の演奏家の録音は、現代に比べると必ずしもハイファイ率の高くないモノラル録音ばかりですが、これをCD化する際は結局、音の輪郭部を覆う弱音部を削ってしまうために、音の滑らかさが消えてしまい、音の共鳴性と自然さが消滅してしまうケースがほとんどのような気がしています。結果音が汚くなるわけです。
最近聴いていたミトロプーロスのマーラーやアンソニー・コリンズのシベリウスなども個人的にはLPだからということで購入しました。古い録音で、LPならではのノイズについてはどうしようもないですが、かつてCDで聴いてきたモノラル録音に比べて、こちらからの距離と演奏家との距離が直接的に感じられて、臨場感があります。必ずしも高度なハイファイ率がなくとも、そのリアルな雰囲気はいやがうえにも増します。
最近聴いた、ギーゼキングのピアノの音色にしても、目の前にピアノの音色があるように聴こえるのはそのような効果のせいだと思います。
(↑ワルター・ギーゼキングのドビュッシー。ドイツ人でありながら、よく練られた硬質の美しい音色は、ドビュッシーに向いていたといわれます。散漫でなく、コントロールされた音色だとは思いますが、硬質とはいえ固すぎず、人の手によるものだという感じがします。月並みですが、宝石のようなピアノの音色の美しさが、身近に、臨場感あるところで漂っているかのように聴こえるのが、LPの魅力なのかもしれません。演奏そのものは、プレリュードより、映像に惹かれます。詳しい人によると、これより以前の演奏の方が良いそうです。33CX1098、33CX1137。)
また元々音の切れの良い演奏をする指揮者である、ショルティとかマゼールなどの指揮者もLPで聴くことによって、かなりなじめるようになってきました。この問題は弱音部だけの問題でないとも思いますが、その点についてはここでは取り上げません。
(↑人工的な録音効果を加味して制作された、ゲオルク・ショルティの「ラインの黄金」。評論家の岡俊雄さんによると、ドンナーが岩を叩く場面のガキン!!という音は当時のオーディオ・チェックによく使ったぐらいの、驚くべき音質だったとのこと。ステレオ初期の優秀録音盤です。SET382ー384、ED2。)
過去の演奏家が聴かれなくなったのは、過去音源のCD化による音質の劣化があると考えられます。フルトヴェングラーとかトスカニーニみたいに有名な人々は良いですが、そうでない人々の演奏はかなり厳しい状況にあるでしょう。
こうした問題はかなりマニアックな問題かもしれません。しかし、雑誌やメディアによる情報統制によって、我々は今考えているよりも情報弱者になっています。自分はこうした情報をほとんどネットでしか得られませんでした。あるいは廃刊になった書籍などで。
自然界では種の多様性などといわれています。種類の多様性はより多くの生命が発達するのに、お互いが影響し合うことが必要だということです。その逆は死を招きかねません。能率性によって、価値観がある程度まで一元化する場合はあると思いますが、「単純に」価値観が一つだけになってしまう可能性があります。そうすると、それに見合わない人々や種は、次々に淘汰されてしまいます。一部の者は生き残るかもしれませんが、他は死んでしまいます。いずれはその一部の者も、死んでしまうでしょう。
音楽についても、聴き手とか演奏家にも同じことがいえると思います。LPを聴くようになって分かったことですが、本当に自分の知らない演奏家が多いということす。今朝もオランダの演奏家のオッテルローと、ピアニスト、コル・デ・フロート(1914-1993)によるベートーヴェンのコンチェルトの3番を聴いていましたが、澄み切って美しい演奏でした。他にもマノンのハイライトをフランスのソプラノ、ジャニーヌ・ミショー(1914-1976)で聴いていましたが、失われていくのは惜しい内容です。これらはもう現代はほとんど名前さえ知られていない人々です。
(↑両方とも10インチ盤。コル・デ・フロートはオランダのピアニスト。1959年に神経障害で左手だけのピアニストになりました。これは障害を受ける前の、1950年代の録音。指揮者共々澄み切った演奏で、透明感があります。ABR4047。ジャニーヌ・ミショーはフランスのリリック・ソプラノ。フランス語のオペラ、マノンのネイティヴによる歌唱による美しさがあると思います。LW5204。)
LPを聴くようになって、本当に今まで知らない演奏家が増えました。
20世紀の2つの大戦で、力を増大したのは政治と軍事、それに科学と経済の分野でした。これらはそれまでの市民社会を破壊して、物理的な力で社会を一元化していき、それに見合わない人々を淘汰していきました。
世界は不気味なほど平均化され、個人の独創性が虐げられたのです。
芸術の多様性は人々がお互いを尊重したうえで、各自がそれぞれの自由を認めた時にこそ現れるものと思います。そして、一元化と多様性は同居できるものとしての認識されるべきでしょう。
そこにはまとまった、意志疎通のできる寛容な市民社会が必要です。
現代だけでも膨大な録音があるのは承知しています。しかし今日、クラシック・メディアも情報の統制ばかりせずに、自分達を振り返って、過去のこれほど沢山あるアーカイヴを、再び見直す時期に来ているのではないかと思います。



