
参議院選挙が終わったので少しだけ書きます。しかし、以下に述べるのは全くの個人的見解にすぎません。嫌な思いをした方がいたのなら、初めに謝っておきたいと思います。m(__)m
さて、結局今どこの国もお金がありませんから、国で管理するものを手放して、企業に売ろうという考えはどうしても出てくるようです。しかし、これを続ければ国の根幹を揺るがしかねないことになります。
1)れいわ新撰組のこと。2議席取ったようです。一見、実現できそうもない政策など掲げてましたから、よくやったのかと。この政党の候補者の中に元J・P・モルガンに勤めていた、大西つねきという方がいて、彼の説明するお金の流れの話が1つポイントだったかと思っています(当選はしていません)。
以下の話は色々いわれているようですが、やはりそこまで間違っていないと思いますので、書いておきます。
要はなぜ人が働いてもお金が溜まらないかという話です。
銀行家が発行する「お金(銀行券)」は元々「金」の証明書だったといいます。どれぐらいの「金(物質としての)」を持っていたかという証明書です。
そして多くの人がこの「金」をその保管者(これが銀行家になっていきます)に預けさえすれば、その「証明書」の交換によって、富の交換ができるということになります。これがいわゆる「銀行券」で、今我々が使っている「お金」ということになります。つまりいちいち「金塊そのもの」を動かすことなく、紙切れの交換で富が交換できる便利なものの開発ができた、ということです。だから「富」は元々「お金」という紙切れにあった訳でなく、物資の「金」にあったということになります。こうして同時に、他方で「保証書」は「お札(お金、紙幣)」に代わっていきます。つまり、「お札(紙幣)」の価値は、物質としての「金」が保証していたのです。
ところが、その保管者(銀行家)は「金塊」そのものが自分の保管庫に眠り続けるということに気付きます。皆紙切れのやり取りだけで生活を始めたので、金が全く動きません。それをいいことに銀行家はその「金塊」を元手に、「お札(お金)」の貸し出しを始めます。ところがこれは本来やってはいけない行為です。
100万円の「金」しかないのなら、市場に出回っている「お札」は100万円分でしかあってはいけないはずです。ところが、元々金をあずけた人の100万円分以外に、その「金」を元手にさらに市場に100万円分を貸し付け、実際の金の価値の量より多くの紙幣が回ることになります。そしてこれを銀行家が回収すれば、元手の物質の「金」100万円分を保管しつつ、新たな「お札」100万円分が手に入ります。つまり何もないところから、勝手に100万円分の価値をつくり出すわけです。100万円の「お札」をはじめに金塊をあずけた人が持っており、また同時に、その100万円の価値を裏打ちする、「金塊そのもの」が銀行家の「保管庫」にあります。さらにその上に、「お札(紙幣、しかし本来その分の金塊はない)」ができてしまっているわけです。この時点で「お札」自体に価値が出てきていることが分かります。
さらに銀行家は「お札(お金)」を貸し出す際、利子をつけます。100万円を10人に貸せば1000万円分の「お札」が市場に出回ります。ところが、ここに一律10%の利子をつけると、借りた人はそれぞれ110万円返さねばなりません。するとお金を借りた人全員が金を返すには、市場には1100万円分の紙幣がなければなりません。しかし市場には1000万円分しか出まわってないのです。人は手元にあるお金を見て、そこにある金額内で生活をしようとします。つまり、1000万円しかお札が回ってないのなら、100万円分慢性的にお札が足りない人が出るわけです。
すると今度は「お金が返せない」となると、銀行家は旦保から実際の価値あるものを借り手から奪っていくことになります。
先のいったような銀行家が他人の金を元手に始めた金貸しで出回るお札が多くなるかもしれません。しかしそのお札は借金でしかありません。
極力、実際のある金塊以上の「お札(お金)」が市場に出回らないようにすべきでしたが(金本位制)、それをせず、銀行家の利権ができるようにしたのがこれらの問題の1つであり、初めにずるをして、お金だけを儲けて得をした人がいるためにそのしわ寄せが他に回るのです。
1929年の世界恐慌では取り付け騒ぎが起こり、「お札(銀行券、お金)」では不安な人々が「金」と「お札」の交換を要求しましたが、金が足りずに銀行や企業が倒産したようです。その後、再び世界は持ち直し、大量の「お札」が発行されるにつれ、金(物質としての)が足りなくなり、ニクソン大統領がドルと金の交換を止めさせたために、金本位制は崩壊します。現在では借金を申し込んだ際に紙幣が発行されることになっているようですが、金から独立した上述の「お札(紙幣)」の効果はそのままです。
つまり現在でも銀行は他人にお金を貸し付けることにより、自分達が回収できる紙幣を増やせます。現在ではお金は権力みたいなものですから、銀行に力が集中します。そして、借りた方は利子が発生して、借りた側でお金の取り合いとなるわけです。
この話は以前書いた安部芳祐氏の「金融の仕組みはロスチャイルドが作った」という本に書いてある事柄です。
れいわ新撰組は殆どマスコミに取り上げられませんでしたが、この辺りの話題が一番のネックだったのかな、という感じです。マスコミの嫌う話題ではないかと思います。
正直庶民の生活が苦しく、国家の財政さえも銀行の支配下にある状況を説明するのに、この解説は有効だと考えています。他にも似たようなことをいっている候補もいたようですが、話題性のある党からこの議論を持ち出したのはれいわ新撰組が初めてではないでしょうか。
結局現状だとどんな良い話題を持ち出しても「お金」がネックになってできません。ですから、ここの大本の議論はされるべきです。山本太郎は多分このことは知っているはずです。トランプがやろうとしていることと同じ方向性が見えます。個人的に彼を特別応援するわけではないですが、この政党の政策をみると、トランプが成功したのでその方向性を狙っているのではないか、という風に見えますね(銀行は中央銀行を含めて民間です)。
2)自民党の改憲案についてです。あんまり自民党のことばかり悪口書いても仕方ないのですが、感じたことを少しだけ書きます。あまり気乗りはしませんけども。
改憲に必要な3分の2議席を与党は割り込んだようですが、これは当然でしょう。多分に消費税のことがありますから、その辺のことが原因でしょう。
一応今回安倍さんが消費税を認めたのは、その結果を財務省のせいにして、財務省の力を封じたいからだ、という様な話も出てきているようですが、どうなんでしょうかね。
個人的にですが、これはかなりの推論にもなるのですが、自民党の改憲案が嫌なのは「日本会議」の影、もっといえば「生長の家」の影が見え隠れするからです。保守から信じられないぐらい嫌われている、菅野完氏が書いた「日本会議の研究」という本があります。この本の中で菅野氏は「日本会議」が「生長の家」の影響を色濃く受けていることを指摘しています。
「生長の家」は元々大本教という宗教から、考えが合わず独立した谷口雅春(すでに亡くなっている方です)という人が設立した宗教団体だといって良いものだと思います。この団体は今は分裂して比較的温和な傾向を持つ団体と、原理的な傾向をもつものとに分かれていると思います。「日本会議」に影響をもつのは原理的な傾向を持つ団体の方です。こういった宗教の教えを一括りで説明などできませんが、天皇を頂点とする宗教国家のようなものを彼らが目指してるのは間違いないようです。
個人的にこういうものを全て否定する気はありません。こうしたことは各自に考えがあるものです。
さて、その核の1つになるのが「憲法問題」です。
今の日本国憲法によると自衛隊は総理大臣の指揮下に入ります。ところが彼らは革命政府ができて、総理がその革命政府の長となってしまうと、日本は守れないというのです。つまり軍隊が革命政府のものとなるためです。
故に日本の国の一番の長である天皇陛下の元に指揮権を戻さねば、日本は亡びるといいます。
何かしら「国王」を得る事、それは国の安定と発展に寄与することが多いといえます。特にその文化や特性をよりよく反映する場合、いざとなれば、他国の政治的概念とか影響を最大限排除することができます。
以下は少し個人的な考えを交えて書きます。
そして建設的に考えるのならば、日本はその「天皇陛下」を頂点とする、有機的な国家体制を謳ったのが「国体論」だと思っています。天皇というのは日本民族の「親」というような存在であり、その配下である人民はそれを慕う、というような形で形成されるべきもの、といえるでしょう。その国家というのは、国家に属する者たちがそれぞれを「家族」のように思いやり、支え合うもの、ということです。この国家像はかなり道徳的に純粋な国民でしか成り立たないようなものです。もしうまくいったのなら、近代西洋国家の想像を絶するものになったかもしれません。国そのものが1人の人間のような感じでしょうかね。
ところが戦後欧米から入ってきた「天賦人権」によって、各個人の権利が最大限に拡大されて、各々が権利のみを主張することにより、その「家族」のような「(日本らしい)国家観」が形成されなくなったということです。いわゆる個人主義ともいうべきもので、人々がばらばらに生き始めている、ということでしょう(故に基本的人権などは削るべき、というような発想になります)。
そしてその問題を解決しているのが、「立憲君主制」である「明治憲法」ということになります。軍隊は「統帥権」という名のもと、天皇のものということになり、日本独自の道徳観念も明治憲法は反映していると見ます(個人的に明治憲法自体が悪者、などという議論はするつもりはありません。これはその憲法を扱うものが何者か、という問題でもありえます)。
この件に関してはあんまり色々いうのは止めますが、現在の自民党の「改憲案」がこういった方向性を曲がりなりにも目指そうとしていることを、憲法学者の樋口陽一氏や小林節氏が指摘しています(彼らは必ずしも肯定して指摘しているのではありません)。
この問題について個人的な考えはやはり「時流」に合わないと思うし、かなり「生長の家」独自の考えも入っているように思えてなりません。また、仮に天賦人権(人権は生まれた時からあるもの)という考えがおかしいとしても、これだけ情報化社会が発達しているとなると、日本人が外国の思想に触れないというのは無理があります。戦前であれば国民の思想的背景も、国家が純粋培養できたかもしれません。しかし、SNSなどの発達した昨今、現代人の頭の中の考え迄矯正するのは不可能に近いです。やろうとすれば暴力に訴える可能性が高くなるとしか思えません。
はたして谷口雅春氏は次のように語ったといいます。
<これら多くの国民に、何の啓蒙もせずに、直下に「明治憲法復元」などと称えたのでは、われわれの憲法復元運動について来る人は極めて少なく、何の力にもならないから、先ず占領憲法を不満に思っている〝改正勢力〟を味方につけて結集することが必要であり、これらの人々がかく憲法改正の必要を切実に求めていても、現行憲法が生きているとして、その憲法改正条項で改正しようとするならば、現在及びちかき将来の情勢では所定の国会の議席三分の二以上の改正賛成を得ることが不可能である。
この壁につき当りたる時、「改正勢力」を一転して、「国会の審議無用」の現憲法無効・帝国憲法復宣言にまで転向させる--その地均しとして「改正勢力を結集し」ておき、その人数を増加しておき、帝国憲法復元宣言が出たときに、国民の大多数がそれに対して抵抗的騒擾を起さないで、平和裡に復元が出来るように基礎固めを着々なさねばならぬ>
どうしても今やっている自民党の改憲案を見ていると、上述の発言に近いところ(当然全く同じとはいいませんが・・・)を動いているように見え、結局どこか1つの宗教家の意見に泳がされすぎではないかという気もしています。
まあ、この辺もはっきりした証拠があるわけでもありませんが、気になります。公明党の支持者などその辺が事実だとしたら、どう考えるのか聞いてみたい気にもなります。実際人間、政教分離などといっても全く分離などすることなど不可能です。しかし行き過ぎの場合は止めるべきだと思いますね。
もっと事細かに書くべきでしょうが、これ以上は思想の自由などの問題もありますのでやめます。ただ個人的に今の自民党の「改憲案」に対する不安というのはこの辺を発端にしています。
とまあ・・・こんな程度の話で終わりにします。嫌な気分にさせたなら、重ねてお詫びいたします。すいません。m(__)m
「いいね」もいりません。