ヒマジンノ国 -40ページ目

 ヒマジンノ国

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3日ほど仕事場に缶詰めになっていたので、中々世の中の様子が分からない状態にいました。一応スマホでSNSなんかを見ると、千葉県の復興が遅れているという話が多く見受けられました。片や、復興にいち早く動かなければいけないはずの政府が、内閣改造を悠長に発表しているとかで批判もあるようです。

 

その内閣改造については、小泉進次郎氏が初入閣したとかでニュースになっていたようですね。

 

自民党内のことを見てみると、安倍さんは恐らく財務省が嫌いで、本来消費税導入なんかも反対だったのでは、などと思えます。元々2017年消費税10パーセント増税から2年半引き延ばしたのは、恐らく彼だったと思うし、今回も消費税増税時期延期をほのめかしたのも、彼の側近だったと思います。それにすぐに反対したのが、菅官房長官と麻生財務大臣です。結局正式に安倍さんの口から消費税増税決定をきいたのが大阪のG20後だったかと思います。

 

安倍さんをどこまで評価するかは難しいですが、安倍さんを見ていると、彼はトランプとかプーチンのようなことをしたい(グローバル勢力から離れたい)のだろうと思うし、旧体制の力の源の財務省なんかには良いイメージを持っていないのではないかと考えています。彼自身、アベノミクスの本来の効果を折ってしまったのも、財務省の主張してきた消費税導入のせいではないか、と考えているのではないでしょうか。

 

先ごろトランプ政権になってジャパン・ハンドラーズ(日本政府をアメリカのグローバル勢力側から、操るためにあったといわれる組織)の力が弱まったのではないかといわれていたようですが、どうなんでしょう?ジャパン・ハンドラーズにしてみると、安倍さんは必ずしも扱いやすい相手ではないのではないかと思います。

 

今年の5月に菅官房長官が国賓に近い形でアメリカに招待されています。なぜ彼が、とか思っていました。異例な待遇のようでしたし、一体「誰」に呼ばれたのだろうかと思いました。彼にポスト「安倍」などという言葉も出ていました。

 

しかしその後ジャパン・ハンドラーの息がかかっているといわれる、小泉進次郎議員がわざわざ官邸で滝川クリステルとの婚約報告、その際に、菅官房長官に挨拶に行くという構図を見て、非常にやらせ的なものを見た気がします。はっきりいって、ちょっと急すぎますよね。保守の百田尚樹氏からもいわれていましたが、進次郎氏は何も政治的な成果は上げていません。発言もいつも無内容で、怪しさは充分。その後の、マスコミによる進次郎総理待望論など、ちょっとお馬鹿すぎる気はしていました。有名美人アナウンサーと結婚したからといって、政治のような難しい世界で急に出世させてしまって良いのかといわれれば、そんなわけもありません。

 

そして今回、内閣改造で小泉進次郎氏の初入閣となり、何らかの形で彼を総理にしたい人達がいるのではないかと思えます。ポスト安倍の筆頭ともいわれる岸田文雄氏の幹事長就任を止めたのも菅さんだとかで、どうなんだろうかと。

 

今の自民党政権を評価するわけではないですがその自民党政権のなかでも1番怪しくて危ないのが菅~小泉進次郎ラインではないかと思っていますそれに比べると安倍さんはまだましかと思いますが、日本売りの実態は安倍政権の逆成果なのは間違いなくて反省してくれないと困りますね

 

そして今回の千葉県の災害に対しても、内閣改造ばかりに熱中するなんて、さすがに人としてどうかとも思いますね。

 

・・・今回そんなことを感じました。

 

しかし、今後も自然災害は毎年増えるんでしょうねこの調子でいくといずれ政府もダメ、我々の住むところもダメ、みたいな感じになっていくのではないのでしょうか?国が国の体を為さない時代が来るのかもしれません。

 

とにかく自衛が必要な時代になったな、と思います。


千葉県で災害に遭われた方々は本当に気の毒だと思います。m(__)m寄付などできれば、したいと思います。

 

今日が決勝レースらしいです。

 

しかし、台風の影響もあって、自分は現地に行きませんが、昨日は幕張まで行って、レッドブル主催の飛行機レースの予選を見てきました。

 

 

友人の誘いです。正直いうとレースのルールも、パイロットの名前も知りません。

 

空気の詰まったパイロンという障害物の間を低空で飛び、そのタイムを競うというものです。

 

 

天気はあいにくの曇りでしたが、あれぐらい低空を高速(350キロぐらい?)で飛ぶ飛行機を初めて見ました。

 

我々のいた場所はコースの一番端っこで、丁度飛行機が旋回する場所でした。飛行機のエンジンの音が印象的です。

 

 

途中から少しやっていることが分かるようになりました。日本人で頑張っている人がいて、彼が飛ぶと拍手が起こっていましたね。

 

残念ながらこのレースは今年で最後らしいです。結構面白かったですね。

 

夕方には空も晴れて、気持ちの良い休日でした(*^^*)。

 

 

神社でお守りを買いましたが・・・結局腰痛は治りそうにありませんね。もう自分も45歳を過ぎましたので、駄目なものは何をやっても駄目でしょうか。

 

接骨院に通ってみたいと思います(;^ω^)。

 

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話は変わりますが、自分は「神」という存在はいるものだと考えています。自分が何かの宗教団体に属しているかといわれれば、そういうことはありません。しかし、超自然的なことや、人間を超越した「神」という存在はいても良いと考えています。

 

物理学者たちは私たち地球人の住む環境が、生物に丁度良い「微調整」がされていることを発見し、「神」の概念が必要なのかどうか思い悩んだといいます。反証は多次元宇宙論によってなされたようですが、しかし、これはどちらにもまだ決定的な証拠はありません。

 

自分としては「多次元宇宙論」が正解なのだとすると、何の議論もしようがないので、今回は初めから省いて考えています。

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この世の中には初めから決まっていて、どうしようもないことがあります。例えば「順序」です。物事は順序がなくては成り立ちません。数字などにおいても、1、2、3、4、5・・・という風に「順」に連なっていきます。

 

しかし、この「順序」が何か?と問われてみると、それが何かはよく分かりません。例えば、数字は1から始まりますが、その「1」とは何でしょうか?なぜ、数字は「2」から始っては駄目なのでしょうか?もっといえば「2」という数字とは一体何なのでしょうか?

 

仮に数字が「2」から始まったとします。するとその次の数字は何になるのでしょうか?「3」?・・・いや2の倍数である「4」?それとも別の何かの数字でしょうか?いや、こういう思考そのものが、この世に存在する「順序」を前提とした思考方法で考えられているのであるから、その思考自体、前提としてはいけないのでしょうか?

 

多分ほとんどの人が数字(順序)が2から始まると考えた時、頭がおかしくなってしまう様な感覚に襲われるのではないでしょうか?

 

世の中にはどうやっても「犯すことのできない」領域が存在しているように思えます。つまりそこに「神」そのものの存在領域があるように思えます。

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知っている方もいるかもしれませんが18世紀のスウェーデンに神秘主義者エマヌエルスウェーデンボルグ(1688-1772)という人物がいました。スウェーデンボルグは彼の書いた一連の「神学」の書物で知られています。この書物の愛好家にはゲーテやドストエフスキーユゴーやユング、ヘレン・ケラーなどがいます。

 

彼のおこしたキリスト教の学派は、常識的な主流派のキリスト教徒からは決して受け入れられないような話ばかりを主張しています。スウェーデンボルグ自身が「靈界」を見てきたいう内容を大量に書物にしており、いわゆる「常識的な人々」にはその受容は容易ではないかもしれません。また、彼は原始キリスト教は「輪廻」を認めていたたものの、後の権威的となったキリスト教によってゆがめられてしまったと主張しています。

 

 

はたして、彼が書いたもののなかに「神」の全知全能についての記述があります以下に少し引用します。

 

「神は秩序です実体そのものである神は、形相そのものでもあるからです。」

 

「神の全能というと、現代では善きにつけ悪しきにつけ思し召しで、何でもできるような絶対的なものと考えているようです。もしそれが本当なら神にとって全地獄を天国にひきあげ、悪魔やサタンを天使に変え、この地上にいる悪党をひとり残らず罪からきよめ、改心させ、聖化し、再生させ、怒りの子から恵の子に、いわゆる義化 Justificare することができることになります。これこそただ、神のみ子の<義のおかげ>だということになるでしょう。ところが、神はその全能によっても、そんなことがおできになるはずはありません。なぜなら、それは宇宙における神的秩序の法則に反することになるし、人間ひとりひとりに与えられている秩序の法則に反することになりますこの2つの法則は、お互いにしっかりと結びついています

 

神の全能ということについて、以上のような愚かな説や信仰がもとで人は次のように考えるようになりますつまり神は牡ヤギ的人間をヒツジ的人間に変身させご自身の左側にいた人間を、気がむくまま右側に置き、また好みによってはドラゴンの靈を、ミカエルの天使にし、モグラのような知性しかない者に、ワシの視力をあたえ、一口で言って、フクロウ的人間を、ハト的人間に、なさることがおできだということです。

 

このようなことは、神の秩序の法則に反するから、不可能です。もっとも神は、そのようになさりたいと絶えず努力はしておられます。」(エマヌエル・スウェーデンボルグ著「真のキリスト教」、長嶋達也訳)

 

この記述は「神」の概念を考える際、真理の一つを述べているように思えます。罪人は罪を償うことなく善人になることができるというわけでなく、また、金儲けをしたいと思っても本来、何も働くことなしに金はもうかることがありません。

 

これは一見当たり前のことに様に思えますが、実際金儲けのために人をだましたり、また、罪を償うことなく自身を善人だという人は殊の外多いものです。そしてそれを見分ける法則自体が「神の秩序」ということになります。

 

スウェーデンボルグのいう「神の全能」についての議論は、一見キリスト教の「ゴッド」についての考えのように思えますが、私たち自身の普段生活を見ても彼のいう内容は「普遍性」を持っているように思えます。

 

この話だけで「神」の概念が全て語られるわけではないですが、「神」が存在し、もし自ら「ルール」を決めたのなら、「神」はその「ルール」は破らないということです。

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今日的な「神」の概念は(特に日本において)、いわゆる「お陰様」あるいは「御利益信仰」による様な観念に基づいているように思えます。自分が腰痛を避けたいがために神社で「お守り」を買ってくるという行為自体、一種の「御利益信仰」であって、本質的な「神」の概念の意味からいえばおかしい考え方だということがいえます。

 

確かに以前神社で買ったお札のせいで、病気が治ったように思えたことも否定しません。そういう、我々の知識では説明できないようなことも実際にあるように思います。

 

しかし、本来、損得とか、御利益が出ないからといって、「神」を信じるか信じないかという問い自体、本来、「神」という存在を人間の召使としか考えていない、ということでもありましょう。

 

本来、御利益信仰に関わらない限り、人間の現実的な生活と、「神」という概念で表される世界は矛盾しないと自分は考えています。

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「神の国」であるから「戦争には負けない」といった日本の軍人がいましたが・・・。しかし日本はこっぴどく負けました。

 

自分からいわせれば、こういう人達は「神」の概念について誤解があるように思われます。「神」は初めから私たちが「どうなるか」決めるているわけでなく、基本私たちが「どうするか」次第によって、結果が導かれると考えなければ、結局「お陰様信仰」に堕落してしまい、「偶像崇拝」となるのが落ちでしょう。

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自分はどこかの宗教団体に属してはいませんそれでも自分なりに勉強して、「神」の概念となるべきものだとかを考えたことがありますので、今回少し書いてみました。

 

当然、上に書いたことだけで全てが説明できるものではありません。とりあえず、短いブログ程度で書ける範囲で書いてみました。(*^^*)。

 

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やはりそろそろお札に頼る、みたいなことでなく、腰痛は自分で何とかする工夫をしなければいけないような気がしていますね。(;^ω^)。

 

腰痛のためにヨガなんかやってみようかな。

 

主にスイスでキャリアを築いたといわれる、ルーマニアの指揮者、オットー・アッカーマン(1909-1960)。

 

彼は「マイクログルーヴからデジタルへ」(岡俊雄著、ラジオ技術社)という著作によると「シュトラウスとレハールのオペレッタのスペシャリスト」だったそうです。さらに彼の録音したものは、「モノーラル時代のオペレッタレコードの傑作」とあり、どうしても集めたくなりました。

 

15歳でルーマニアの王立歌劇場でデビューしたそうですから、早熟した人物だったのでしょうか。セルに師事したそうですが、コンパクトな演奏は確かに幾分セルの影響もあるといえるのかもしれません。しかし、彼の演奏はもっと情緒的で、感情に溢れるものです。

 

1950年代に彼はシュワルツコップ、ゲッダ、クンツなどの一流キャストと共に5つのオペレッタをコロンビア・レコードに録音したそうです。「ジプシー男爵」、「ヴェネチアの一夜」、「ウィーン気質」、「メリー・ウィドウ」、「ほほえみの国」です。

 

 

J・シュトラウス2世の「ジプシー男爵」(1954)。33CX1329、33CX1330。

 

代表作である、「こうもり」の作曲がわずか42日だったそうですが、J・シュトラウスはこの「ジプシー男爵」を2年もかけて作曲しており、密度が高い音楽になっています。舞台もハンガリーになっていて、土着的な哀愁溢れる感情が表出される音楽となっています。

 

アッカーマンの指揮の特徴に、その「音楽の味の濃さ」というものがあると思います。音楽は粘ることがないのに、音に染み渡る味わいは充実感があり、当時の粋な空気感も伴っていることが魅力です。

 

ハンガリー風の土着感が、アッカーマンの味の濃い指揮で存分に発揮されています。ワルツにのって謳われる歌は、まるで、手作りのメリー・ゴーランドに揺られているかのような雰囲気があります。

 

 

フランツ・レハールの「メリー・ウィドウ」(1953)。33CX1051、33CX1052。

 

J・シュトラウスの「こうもり」と並ぶオペレッタの代表曲で、レハールの代表作でもあります。「こうもり」がワルツを主体とした、ウィーンの優雅な絵巻物だとすれば、「メリー・ウィドウ」はメロディアスな、色彩的ミュージカル、といったところでしょうか。

 

音楽はプッチーニのそれのように甘美ですが、そこにキャバレーを思わせるようなリズミックな湧きたつ音楽が加わって、盛り上げます。また、第2幕の「ヴィリアの歌」などエキゾティックで官能的です。

 

このレコードはアッカーマンの代表作といって過言ではないでしょうメリー・ウィドウの色彩感を表現するには、ステレオ録音による透明感が必要なように思えます

 

しかし、アッカーマンはモノラル録音ながら、味の濃い表現で、この音楽のしっとりとした甘い感情を、心から味合わせてくれます。

 

 

フランツ・レハールの「ほほえみの国」(1953)。33CX1114、33CX1115。

 

レハールの代表作の1つです。ウィーンと中国の北京を舞台にした音楽です。アッカーマンのオペレッタはとりあえず「ジプシー男爵」、「メリー・ウィドウ」と、この「ほほえみの国」の3つを揃えましたが、個人的にアッカーマンの演奏で一番良かったのはこの「ほほえみの国」でした。

 

この曲の前奏曲はとても美しいですが、アッカーマンの指揮は当時の雰囲気満点に、濃厚で流れの良い、子気味良い音楽に仕上げています。聴いていると、20世紀半ばにタイムトリップしたかのような気になります。本当に美しく、心から満足できます。

 

レコードでないとこの雰囲気は出ないでしょう。

 

全体に、黄昏のような哀愁に満ちたこの曲を、彼は最後まで味わい深く聴かせてくれます。

 

あまり演奏されない曲ですが、音楽自体も本当に素晴らしいです。

 

アルトゥール・トスカニーニによるベートーヴェン交響曲9番(1952)。

 

かなり探し続けてきたLPです。状態の良さそうなものをやっと見つけました。ALP1039、1040。

 

フルトヴェングラーの第9と並んで、歴史的に評価されてきたトスカニーニの第9。

 

CDで長らく聴いてきた録音で、個人的には「第9」は古い録音にしか食指が動きません。フルトヴェングラー、トスカニーニ、メンゲルベルグ、シューリヒト当たりぐらいまでです。第9を聴こうと思って手を伸ばすのは。ベートーヴェンの他の諸曲はそうでもないのですが、第9だけは内容の濃いものが好みです。

 

これこそ、高い理念を持った、高潔な人格にしかなし得ない、名演。

 

今更自分が演奏論を書いてみても仕方ないでしょうかね(;^ω^)。

 

威厳に満ち、ハイスピードで進めるその内容は、思いの他生々しいものがあります。清冽な情熱に耳を洗われ、前のめりになる苛烈な指揮は、聴くものを興奮させることができます。聴きだすと止まりませんね。

 

LPで聴くと、より音の生々しさが出てきて素晴らしいものがあります。本当に現代人が欠いてしまった、厳格で意志的な道徳観をもった人格を、リアルに見る思いがします。

 

 

トスカニーニの演奏するヴェルディ「椿姫」(1946)。ALP1072、1073。

 

最近は名演の紹介本にも載ることが減ってきた、トスカニーニの「椿姫」。やはり紹介されるのは「ボエーム」のほうでしょうか。しかし、歴史的な名盤だとは思います。

 

とにかく、LPに良く音が入っていて、びっくりしますΣ(゚Д゚)。目の前で演奏が行われているようです。

 

演奏は一気呵成に進められますが、各楽器はよく歌い、熱量のある気品を保ちます。トスカニーニの熱いドラマを求める展開は、歌手、あるいはオーケストラに輝きを与え、強い求心力を発揮していきます。

 

またトスカニーニ自身がのっているせいか、良く歌うので、彼の地声が録音されています。ヴィオレッタ役のレチア・アルバネーゼの歌い始めに声を重ねてくることが多く、一瞬デュエットかと思いますね。それぐらい楽しんで演奏している、ということでしょうか。

 

ヴェルディの音楽はトスカニーニのようなドラマティックさは良く合うと思います(*^^*)。

 

ブルーノ・ワルターの演奏するマーラー交響曲4番(1945)。33CX1043。

 

ワルターの演奏するマーラー4番を初めて聴きます。シュワルツコップとのコンビで入れた有名なステレオ盤は聴いていません。

 

ソプラノはデジ・ハルバン(1912-1996)で、ちょうど今月のレコード芸術にこのワルターとハルバンによるマーラー4番のレコードの特集があり、興味深く読みました。

 

記事はデジ・ハルバンの人生に触れていて、面白かったです。

 

 

ハルバンについてはあまり情報がないようです。オーストリアのオペラ歌手だったようですが、4年程の短い期間ウィーンで活躍したのちに結婚して引退、その後戦争により、未亡人となった彼女はニューヨークに渡り、ワルターが世界に紹介したがっていた、マーラーの交響曲の録音に抜擢されたようです。

 

彼女自身、子供時代にウィーンでワルターと面会していて、彼女のオーディションなどにも付き合ったそうです。

 

 

録音も彼女の名前で検索するとヒットするのがこのマーラー4番がほとんどで、これだけで彼女のことを書くことは難しいです。しかしこの録音がこの曲の商業録音としては2番目であり、実質この録音がこの曲を世界に広めたものといって良いでしょう。

 

近代のマーラー演奏は各楽器の音色を生かして、パートごとの旋律を浮かびあがらせ、立体的であると同時に、色彩的な演奏を行います。近代的なオーケストラ美を存分に発揮できるのがマーラーの音楽で、その楽しみは感覚的であり得るものです。

 

ところがブルーノ・ワルターの演奏は、旋律の感情的な側面を自然に表現することが主題となっていて、近代的な機能美を発揮したマーラー演奏とは一線を画します。

 

旋律は時代錯誤かとも思われるほど優美な歌い方で歌い抜かれ、優しさが零れ落ちるような感情と、ロマンティックな雰囲気は、恍惚とした世界に我々を誘なっていきます。旋律の角は削り取られ、丸みを帯び、優しい魔法がきらめくような、ファンタジーの世界へと、私達は導かれます。愛情に溢れた演奏で・・・まさに21世紀でもなく、20世紀でもない、19世紀の味わいでしょうか。

 

感情の美しさに言葉を失うような演奏といえば良いでしょうか。

 

この4番は自然とファンタジーが組み合わされたような美しい曲ですが、そこに秘められた美しい感情を、自身の感情からこれ程はっきりと表現できるのは、ブルーノ・ワルターぐらいでしょう。

 

フィナーレのハルバンは特に癖のない(当時としては)、自然な歌い方です。

 

あくまで主観的な意見として書きます。m(__)m

 

 

かつて日本の軍人、石原莞爾がとなえた、東洋における王道主義と西洋における覇道主義は、結局西洋における覇道主義の勝利に終わったように思えます。

 

石原の考えた、「アジアの統一」は当時のアメリカの思う日本の在り方として1番困ったもののようでした。アジアで力を蓄えた日本がソビエトを滅ぼすという構図です。

 

日本は戦争に負け、軍事的なプレゼンスが無くなってもなお、おそらくは戦争する前から派生していた・・・日本の新興宗教における、「アジアの統一(昭和維新)」という考えは欧米の脅威であったといえるでしょう。戦後、田中角栄のような人物が現れた時、彼ら(支配者たち)は再びその脅威を感じたのかもしれません。

 

明快な証拠はないのですが、今日の中韓の「反日教育」というものを見ていると、アメリカの内通があって有り得たものかというふうにも考えています。彼らは、この思想(一応、大東亜、としておきます)の根本ごと世の中から抹殺したかったのではないかと思っています(欧米のやり方に反対する、論理的な思想として)。

 

リビアのカダフィ大佐は「アフリカ共和国」の構想を持っていたそうですが、彼もまた殺されてしまいました。

 

中央銀行をバックとして、富を蓄積してきた、戦後の支配者たちはこうした地域主権を認めない、グローバリズムで世界を自分達のものにしようとしてきたようです。

 

彼らは自分に従うか否かを常に秤にかけ、自分らに近しい者達には「飴」を与え、反抗する者たちには「鞭」を与えてきたようです。それが所謂、貧富の格差となって現れてきたわけです。日本の安倍政権についても、大筋でこの傾向を進めてきたように思います。外交はともかくとしても、国内政治はボロボロです。

 

ところがアメリカのトランプ政権がこれら戦後の支配者たちに反旗を翻し、彼らを駆逐し始めたことによって、状況が変わりつつあるようです。

 

今回の韓国のホワイト国除外も、かつての支配者の力関係のなかではできなかったことかもしれません。

 

そういう意味では安倍政権も少しづつ変わりつつあるようですが、日本の旧態への後退はあまり変わりがないようです。

 

今日の日本国憲法における「国民主権」や「基本的人権」が、観念的なもののため、各自の主張が特化されて、まとまりのないものになるという傾向は確かに問題といえるでしょう。いわば、「芸術表現はどこまで自由なのか」という様な、問いなどと同様に。

 

しかし片や、「明治憲法」における「天皇主権」も結局、本当に天皇そのものに「実権」があったとはいいがたく、それを「我がもの」として利用にしたものの意向が反映され過ぎた故に、ファシズム化したという事実もある故、もろ手を挙げて喜べるものではありません

 

本来なら、改憲においては、「人間の権利」について、以上の2点は少なくとも議論し、両面をカバーした意見が出されるべきだと思っていますが、そうはなってはいません。この点をちゃんと議論すれば、日本が自衛隊を仮に軍隊として明記した場合、その用途そのものも自然に出てくるとも考えられます。

 

改憲に国会の3分の2以上の賛成が必要だというのは「数を合わせればよい」ということではなく、憲法自体が国民の生活に大きくかかわるものであるため、少なくとも3分の2程度の人々の同意がいる、ということでしょう。しかし今の改憲勢力は数のみを合わせようとしていますこれは国民に今一つ憲法草案を明示しきれない、今の改憲勢力のせいでしょう。

 

数だけ合わせて改憲しても、不満分子が多いのなら自然と統制と弾圧とに向かうのが筋です。これは別に自民党だけに限ったことではありません。

 

与党、野党のコアな支持者がお互いの作る政権が独裁化するといい張っているのは、考えが違う自分達が抑圧されたり、弾圧されたりするのではないかという、恐れからでているというのが事実ではないでしょうか。

 

本来ならこのことは、ある程度まで、「個人的問題」として捉えられるべきだと思いますが、今日は政治信条にすり替えられてしまい、お互いがお互いを憎み合うようになってきています。

 

ホワイト国の除外によって、韓国の国力が弱まれば、朝鮮半島の統一にも影響を与えるのかもしれません。トランプが出てきたとはいえ、戦後70年以上、作り上げられてきた南北朝鮮、また中国の「反日教育」という負の遺産は日本側から消すことはできません

 

大陸側は反日国家とかいうことになるわけです。そうすれば今の改憲勢力には追い風ということになるのでしょう。トランプもまた、日本の矛先がアメリカに向かない限り、これを望む可能性が高い気がしています。

 

そこで出来上がってくる構図というのはお互い、第二次世界大戦のことを顧みていない国家同士の「業」の対立のようにも見えてくるのかもしれません。

 

これを石原莞爾流に考えれば、本当は「仕向けられた者同士」の対立なのかもしれません。しかし、結局東条英機らの率いる統制派に導かれた戦争自体が、石原のいう「王道」というよりは西洋流の「覇道(帝国主義)」に近しいものだった故、より物事がこじれたともいえます。

 

故にこの「業」というものは結局、日本の「業」そのものでもあるともいえます。

 

トランプのせいによって、曲がりなりにも、形を保っていた世界が崩されています。トランプがアメリカの右翼のようにいわれているにしても、彼のバックにいるリバタリアンたちなど、新世界の形は、スピリチュアリズム、超高度技術、また、社会主義か共産主義のようなものが混血した「何か」に取って代わられるかもしれません。

 

そしてそれは日本人にとって想像の埒外になることがあり得ます。その時、日本はアメリカに対してどのような態度をとるのでしょうか。

 

トランプは911のことについて既に言及(つまりテロでなかった、ということをほのめかしている)し、その証拠になりそうな写真もSNSで出回り始めています。

 

今後のことを考えると、色々と考えさせられることばかりが、頻繁に起きているように思えます。

 

以下に書くことはあくまで私見ということです。よろしくお願いいたします。m(__)m

 

 

 自分は韓国人に対するヘイトスピーチとか嫌いですし、片や、安倍さんの街頭演説で暴れたりするのも嫌いなので、関わりたくありません。

 

しかし日本のメディアの一部がいわゆる朝鮮系に支配されている、という話を聞くとそこはそこで問題だと思います。TBSアナウンサーの安住紳一郎氏が「ハングルができないと出世できない」といった声が公共の電波に乗って流れた、とか、先日も黒鉄ヒロシ氏が韓国問題を「断韓」という言葉で語ろうしたら、急に韓国語らしい言語が電波に乗って流れて、止められたとか。いわゆる戦後GHQが公共電波の要職に、当時の在日の人を入れたとかという話に遡るんでしょうが、ここは問題だと思います。NHKなども地下駐車場に中国人が車を止めて、そこから指示を出していた・・・これは噂レベルかもですが・・・という、話も聞いたこともあります。

 

個人的に人を憎み続けるのは趣味ではありません。最近の韓国自体も擁護するつもりもありません。しかし、韓国をボロカスにいっているブログなども個人的には中々きついです。

 

日本の公共放送が他国の人に支配されているのは問題です。これは止めさせるべきでしょう。

 

そしてこの辺に山本太郎氏とか、辻本清美氏も関わっているのではないか・・・といわれている話があります。中々厳密には分かりませんが、写真なども出ているものがありますから、全部噂でもないのかと思います。個人的には山本太郎氏もその辺のことは注視しないといけないかな、と思っています。

 

また、自民党にしても最近は周辺から不満が出ているようです。外国人労働者のことや、消費税のことなど。今になってみると、安倍政権というのはオバマやブッシュなどの推し進めてきたNWOの下請けみたいな政権だった、ということがはっきりしています。一応、日本の保守を「改憲」をぶら下げて引っ張ってきたみたいな感じですが、やっていることはグローバル化です。

 

山本太郎はそんな安倍政権のアンチみたいな感じになりつつありますが、もし彼も朝鮮系と関係があるのなら、これも問題ありということになるんでしょう。もう少し情報は集めたいと考えています。

 

しかし、山本太郎氏のいっていることは基本反グローバルなんですね。グローバルというのは左翼。だからアメリカのトランプなんてのは徹底した反グローバルだから、極右みたいな感じなのでしょうかね。世界的に見ればそうなんでしょうけどね。しかし日本では山本太郎は極左といわれるんですね。日本の場合、極右団体にグローバル主義の安倍政権が引っ付いているという「ねじれ」があるので、ややこしいです。

 

実際今度は山本太郎がテレビで消費税の財源を大企業や高所得者からとる、という話をすると、局のアナウンサーなどが無理やり割り込んで話を遮ったりします。今度は大企業に対する局の忖度があるわけですね。これも問題です。

 

こうなってくると右も左もダメ?ということですか?大体、極右がグローバル系で、極左が朝鮮系?何なんでしょうか、分からないですね

 

どこをみても日本人が、純粋に日本人のためを思って、物事を決めていることがないと思うのは自分だけでしょうか?分断されていると思うんですけどね。

 

まずマスコミは右も左も悪口を垂れ流すのをやめてほしいです(あんまり自分も偉そうにはいえませんけどもね・・・(;^ω^))。最近はマスコミが一番ひどいかと思うぐらいで・・・。

 

右だの左だのって、多分個人それぞれどちらかに近いとは思うのです。それはそれで良いと思うのですね。できる限り悪口止めるところから始めた方が良いのかもしれませんね。そうでないと日本人同士が一致団結できません。それをやらないと、本当に日本人が日本人のために物事を決める日は永遠に来ないのかもしれません。

 

とまあ、・・・とりあえず、そんなことを書いてみました・・・。まずは自分にいい聞かせておきたいと思います(;^ω^)。

 

参議院選挙が終わったので少しだけ書きます。しかし、以下に述べるのは全くの個人的見解にすぎません。嫌な思いをした方がいたのなら、初めに謝っておきたいと思います。m(__)m

 

 

さて、結局今どこの国もお金がありませんから、国で管理するものを手放して、企業に売ろうという考えはどうしても出てくるようです。しかし、これを続ければ国の根幹を揺るがしかねないことになります。

 

れいわ新撰組のこと。2議席取ったようです。一見、実現できそうもない政策など掲げてましたから、よくやったのかと。この政党の候補者の中に元J・P・モルガンに勤めていた、大西つねきという方がいて、彼の説明するお金の流れの話が1つポイントだったかと思っています(当選はしていません)。

 

以下の話は色々いわれているようですが、やはりそこまで間違っていないと思いますので、書いておきます。

 

要はなぜ人が働いてもお金が溜まらないかという話です。

 

銀行家が発行する「お金(銀行券)」は元々「金」の証明書だったといいます。どれぐらいの「金(物質としての)」を持っていたかという証明書です。

 

そして多くの人がこの「金」をその保管者(これが銀行家になっていきます)に預けさえすれば、その「証明書」の交換によって、富の交換ができるということになります。これがいわゆる「銀行券」で、今我々が使っている「お金」ということになります。つまりいちいち「金塊そのもの」を動かすことなく、紙切れの交換で富が交換できる便利なものの開発ができた、ということです。だから「富」は元々「お金」という紙切れにあった訳でなく、物資の「金」にあったということになります。こうして同時に、他方で「保証書」は「お札(お金、紙幣)」に代わっていきます。つまり、「お札(紙幣)」の価値は、物質としての「金」が保証していたのです。

 

ところが、その保管者(銀行家)は「金塊」そのものが自分の保管庫に眠り続けるということに気付きます。皆紙切れのやり取りだけで生活を始めたので、金が全く動きません。それをいいことに銀行家はその「金塊」を元手に、「お札(お金)」の貸し出しを始めます。ところがこれは本来やってはいけない行為です。

 

100万円の「金」しかないのなら、市場に出回っている「お札」は100万円分でしかあってはいけないはずです。ところが、元々金をあずけた人の100万円分以外に、その「金」を元手にさらに市場に100万円分を貸し付け、実際の金の価値の量より多くの紙幣が回ることになります。そしてこれを銀行家が回収すれば、元手の物質の「金」100万円分を保管しつつ、新たな「お札」100万円分が手に入ります。つまり何もないところから、勝手に100万円分の価値をつくり出すわけです100万円の「お札」をはじめに金塊をあずけた人が持っており、また同時に、その100万円の価値を裏打ちする、「金塊そのもの」が銀行家の「保管庫」にあります。さらにその上に、「お札(紙幣、しかし本来その分の金塊はない)」ができてしまっているわけです。この時点で「お札」自体に価値が出てきていることが分かります。

 

さらに銀行家は「お札(お金)」を貸し出す際、利子をつけます100万円を10人に貸せば1000万円分の「お札」が市場に出回ります。ところが、ここに一律10%の利子をつけると、借りた人はそれぞれ110万円返さねばなりませんするとお金を借りた人全員が金を返すには、市場には1100万円分の紙幣がなければなりません。しかし市場には1000万円分しか出まわってないのです。人は手元にあるお金を見て、そこにある金額内で生活をしようとします。つまり、1000万円しかお札が回ってないのなら、100万円分慢性的にお札が足りない人が出るわけです。

 

すると今度は「お金が返せない」となると、銀行家は旦保から実際の価値あるものを借り手から奪っていくことになります。

 

先のいったような銀行家が他人の金を元手に始めた金貸しで出回るお札が多くなるかもしれません。しかしそのお札は借金でしかありません。

 

極力、実際のある金塊以上の「お札(お金)」が市場に出回らないようにすべきでしたが(金本位制)、それをせず、銀行家の利権ができるようにしたのがこれらの問題の1つであり、初めにずるをして、お金だけを儲けて得をした人がいるためにそのしわ寄せが他に回るのです

 

1929年の世界恐慌では取り付け騒ぎが起こり、「お札(銀行券、お金)」では不安な人々が「金」と「お札」の交換を要求しましたが、金が足りずに銀行や企業が倒産したようですその後、再び世界は持ち直し、大量の「お札」が発行されるにつれ金(物質としての)が足りなくなり、ニクソン大統領がドルと金の交換を止めさせたために、金本位制は崩壊します。現在では借金を申し込んだ際に紙幣が発行されることになっているようですが、金から独立した上述の「お札(紙幣)」の効果はそのままです。

 

つまり現在でも銀行は他人にお金を貸し付けることにより、自分達が回収できる紙幣を増やせます。現在ではお金は権力みたいなものですから、銀行に力が集中します。そして、借りた方は利子が発生して、借りた側でお金の取り合いとなるわけです。

 

この話は以前書いた安部芳祐氏の「金融の仕組みはロスチャイルドが作った」という本に書いてある事柄です。

 

れいわ新撰組は殆どマスコミに取り上げられませんでしたがこの辺りの話題が一番のネックだったのかな、という感じです。マスコミの嫌う話題ではないかと思います。

 

正直庶民の生活が苦しく、国家の財政さえも銀行の支配下にある状況を説明するのにこの解説は有効だと考えています。他にも似たようなことをいっている候補もいたようですが話題性のある党からこの議論を持ち出したのはれいわ新撰組が初めてではないでしょうか。

 

結局現状だとどんな良い話題を持ち出しても「お金」がネックになってできませんですから、ここの大本の議論はされるべきです。山本太郎は多分このことは知っているはずです。トランプがやろうとしていることと同じ方向性が見えます。個人的に彼を特別応援するわけではないですが、この政党の政策をみると、トランプが成功したのでその方向性を狙っているのではないか、という風に見えますね(銀行は中央銀行を含めて民間です)。

 

2)自民党の改憲案についてです。あんまり自民党のことばかり悪口書いても仕方ないのですが感じたことを少しだけ書きます。あまり気乗りはしませんけども。

 

改憲に必要な3分の2議席を与党は割り込んだようですが、これは当然でしょう多分に消費税のことがありますから、その辺のことが原因でしょう

 

一応今回安倍さんが消費税を認めたのは、その結果を財務省のせいにして、財務省の力を封じたいからだ、という様な話も出てきているようですが、どうなんでしょうかね。

 

個人的にですがこれはかなりの推論にもなるのですが自民党の改憲案が嫌なのは「日本会議」の影、もっといえば「生長の家」の影が見え隠れするからです。保守から信じられないぐらい嫌われている菅野完氏が書いた「日本会議の研究」という本がありますこの本の中で菅野氏は「日本会議」が「生長の家」の影響を色濃く受けていることを指摘しています

 

「生長の家」は元々大本教という宗教から考えが合わず独立した谷口雅春(でに亡くなっている方です)という人が設立した宗教団体だといって良いものだと思います。この団体は今は分裂して比較的温和な傾向を持つ団体と、原理的な傾向をもつものとに分かれていると思います。「日本会議」に影響をもつのは原理的な傾向を持つ団体の方です。こういった宗教の教えを一括りで説明などできませんが、天皇を頂点とする宗教国家のようなものを彼らが目指してるのは間違いないようです

 

個人的にこういうものを全て否定する気はありません。こうしたことは各自に考えがあるものです。

 

さて、その核の1つになるのが「憲法問題」です。

 

今の日本国憲法によると自衛隊は総理大臣の指揮下に入ります。ところが彼らは革命政府ができて、総理がその革命政府の長となってしまうと、日本は守れないというのです。つまり軍隊が革命政府のものとなるためです。

 

故に日本の国の一番の長である天皇陛下の元に指揮権を戻さねば、日本は亡びるといいます。

 

何かしら「国王」を得る事それは国の安定と発展に寄与することが多いといえます。特にその文化や特性をよりよく反映する場合、いざとなれば、他国の政治的概念とか影響を最大限排除することができます。

 

以下は少し個人的な考えを交えて書きます。

 

そして建設的に考えるのならば、日本はその「天皇陛下」を頂点とする、有機的な国家体制を謳ったのが「国体論」だと思っています。天皇というのは日本民族の「親」というような存在であり、その配下である人民はそれを慕う、というような形で形成されるべきものといえるでしょう。その国家というのは、国家に属する者たちがそれぞれを「家族」のように思いやり、支え合うもの、ということです。この国家像はかなり道徳的に純粋な国民でしか成り立たないようなものです。もしうまくいったのなら、近代西洋国家の想像を絶するものになったかもしれません。国そのものが1人の人間のような感じでしょうかね。

 

ところが戦後欧米から入ってきた「天賦人権」によって、各個人の権利が最大限に拡大されて、各々が権利のみを主張することにより、その「家族」のような「(日本らしい)国家観」が形成されなくなったということです。いわゆる個人主義ともいうべきもので、人々がばらばらに生き始めている、ということでしょう(故に基本的人権などは削るべき、というような発想になります)。

 

そしてその問題を解決しているのが、「立憲君主制」である「明治憲法」ということになります。軍隊は「統帥権」という名のもと、天皇のものということになり、日本独自の道徳観念も明治憲法は反映していると見ます(個人的に明治憲法自体が悪者、などという議論はするつもりはありません。これはその憲法を扱うものが何者か、という問題でもありえます)。

 

この件に関してはあんまり色々いうのは止めますが、現在の自民党の「改憲案」がこういった方向性を曲がりなりにも目指そうとしていることを、憲法学者の樋口陽一氏や小林節氏が指摘しています(彼らは必ずしも肯定して指摘しているのではありません)。

 

この問題について個人的な考えはやはり「時流」に合わないと思うし、かなり「生長の家」独自の考えも入っているように思えてなりません。また、仮に天賦人権(人権は生まれた時からあるもの)という考えがおかしいとしてもこれだけ情報化社会が発達しているとなると、日本人が外国の思想に触れないというのは無理があります。戦前であれば国民の思想的背景も、国家が純粋培養できたかもしれません。しかし、SNSなどの発達した昨今、現代人の頭の中の考え迄矯正するのは不可能に近いです。やろうとすれば暴力に訴える可能性が高くなるとしか思えません。

 

はたして谷口雅春氏は次のように語ったといいます。

 

<これら多くの国民に、何の啓蒙もせずに、直下に「明治憲法復元」などと称えたのでは、われわれの憲法復元運動について来る人は極めて少なく、何の力にもならないから、先ず占領憲法を不満に思っている〝改正勢力〟を味方につけて結集することが必要であり、これらの人々がかく憲法改正の必要を切実に求めていても、現行憲法が生きているとして、その憲法改正条項で改正しようとするならば、現在及びちかき将来の情勢では所定の国会の議席三分の二以上の改正賛成を得ることが不可能である。

 

この壁につき当りたる時、「改正勢力」を一転して、「国会の審議無用」の現憲法無効・帝国憲法復宣言にまで転向させる--その地均しとして「改正勢力を結集し」ておき、その人数を増加しておき、帝国憲法復元宣言が出たときに、国民の大多数がそれに対して抵抗的騒擾を起さないで、平和裡に復元が出来るように基礎固めを着々なさねばならぬ>

 

 どうしても今やっている自民党の改憲案を見ていると、上述の発言に近いところ(当然全く同じとはいいませんが・・・)を動いているように見え、結局どこか1つの宗教家の意見に泳がされすぎではないかという気もしています。
 
まあ、この辺もはっきりした証拠があるわけでもありませんが、気になります。公明党の支持者などその辺が事実だとしたら、どう考えるのか聞いてみたい気にもなります。実際人間、政教分離などといっても全く分離などすることなど不可能です。しかし行き過ぎの場合は止めるべきだと思いますね。
 
もっと事細かに書くべきでしょうが、これ以上は思想の自由などの問題もありますのでやめます。ただ個人的に今の自民党の「改憲案」に対する不安というのはこの辺を発端にしています。
 
 
とまあ・・・こんな程度の話で終わりにします。嫌な気分にさせたなら、重ねてお詫びいたします。すいません。m(__)m

 

「いいね」もいりません。

 

ピアニストといっても星の数ほど存在し、無名な者は時間とともに忘れ去られていきます。特に日本においては本質的にクラシック音楽が、オリジナルカルチャーでない故、世界的に有名であるか無名であるか、そこは非常に大きなポイントになり得るわけです。

 

しかし長らく音楽を聴いていると、有名な人の名も聞き飽きるというものです。また同じ人・・・?みたいな。そうすると、たまには変わった人の演奏も聴いてみたいと思うようになります。

 

当然有名な人達は素晴らしいですが、繰り返し聴けば、幾分は・・・演奏そのものに対しても・・・聴き飽きるというものです。ポリーニ?アルゲリッチ?バックハウス?ルービンシュタイン?ホロヴィッツ?・・・彼らは天才なのに、珍しくない存在になったわけです。

 

 

ベンノ・モイセイビッチ(1890-1963)によるシューマン、ラフマニノフのコンチェルト(1952、1940)。CLP1008、英国盤。

 

モイセイビッチを聴きたくてCDで探したことがありますが、なかなかに良いものが見つからず、結局断念したことがあります。LPで1枚手に入れましたが、彼の本質はラフマニノフと合うということらしく、できうればそこも聴きたいところです。しかし、ロマン派にも理解があるということですから、シューマン、グリーグも悪くないかと。

 

モイセイビッチはユダヤ人であり、家族は帝政ロシアで暮らしていました。しかしそこで起きたユダヤ人弾圧により、彼らの多くはイギリスへと亡命します。モイセイビッチも少年時代にロンドンへと移り、やがてはイギリス人ピアニストとして大成しました。

 

70歳で亡くなっていますので、もし、もう少し長生きしたら、大家として日本でも少しぐらい話題になったのかもしれません。

 

このレコードから聴こえてくるのは、抑制された美しい、品のあるピアノの音色、そして楽曲の意味合いを決して外さない、高貴な造形です。今聴いてもそれほど古さは感じさせないし、なにより「品」があることが素晴らしいです。名演奏家なのは間違いのないところです。

 

 

モニーク・ド・ラ・ブルショルリ(1915-1972)による、チャイコフスキーのコンチェルト(1952)。PL7720。VOXのLP。

 

フランス人のブルショルリ、彼女の録音も探したことがあります。モイセイビッチよりもさらに少なく、CDで聴くことを諦めていました。54歳で亡くなった彼女は、1966年ルーマニアで交通事故に遭い、左手が使えなくなり、歩行には杖が必要になりました。視界も歪んだために、演奏活動を諦めたのです。

 

全盛期にはチェリビダッケと共に、アメリカ、ロシア、ドイツ、ヨーロッパなどを回ったといいます日本ではほとんど知られていな人ですが、詳しいファンの間では、最早伝説的な人になりつつあるのかもしれません。

 

女性とは思えぬようなスケールの大きいピアノ、感情のこもった表現など、若くして大ピアニストの風情がありますモラルトの指揮も素晴らしくヴァイオリンの音色が心に沁みますね。隠れた名盤といっても良いかと思います。

 

VOXレーベルに33回転で数枚録音があるそうです。偶然発見した1枚です(*^^*)。

 

 

モーラ・リンパニ―(1916-2005)によるラフマニノフ1番とグリーグのコンチェルト(1954)。CLP1037、英国盤。

 

日本にも来日した、イギリス人ピアニスト、モーラ・リンパニ―ロシア音楽を愛し、ラフマニノフを得意としていたとのこと。最近亡くなった方です。あまり逸話などは分かりませんね。

 

演奏そのもについては、明快ではっきりしたピアノのタッチが、精神的な健康さを呼び込んでいるように思えますラフマニノフの1番自体あまり聴きませんが鬱屈した雰囲気のあるこの作曲家の楽曲を、聴きやすいものにしているように思えました美しい部分がありますね。

 

グリーグも健康的に聴こえます。明るい感じがして悪くないですまあまあかな?