ヒマジンノ国 -39ページ目

 ヒマジンノ国

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日本でハロウィンを祝うようになってどれ位か知りませんが、比較的最近のことだと思います。ハロウィンはキリスト教でない、異教徒の収穫祭という位置づけでしょうか。

 

しかし、古代これがケルト人のドルイドたちによる、生きた人間を生贄にする、1種の悪魔崇拝が起源である、ということでもあるらしく、個人的には好きになれません。

 

ハロウィン参加者の、骸骨メイクとかゾンビメイクなどを見ていると、本当に悪魔崇拝っぽいと思えますね。クリスマスなんかはもう仕方ないとしても、ハロウィンは本来日本と関係ないできごとだし、ほどほどにしたら良いと思います。

 

しかし一体誰がこんなものを広めたんだろうと思います。色々原因はあるんでしょうが、例えばウォルト・ディズニーもその原因の1つかと思います。

 

ディズニーを全面否定する気はないんですが、昔からディズニーは「文化的侵略者」とかいわれていて、最近では「MKウルトラ」という洗脳技術の一端を担っているともいわれます。

 

ディズニーが狙いを定めているのは「若い女の子たち」、といえるでしょう。有名人の中にもディズニーに関わっていた人たちが沢山います。ディズニーのTVシリーズに出演していたリンジー・ローハンや、マイリー・サイラス。最近ではベラ・ソーンとかですか。女性に「お姫様になれ」的なイメージを植え付けることに関して、ディズニーほどうまい会社はないと思います。しかしそれが行き過ぎると、ちょっとおかしな人たちが生まれます。

 

リンジー・ローハンは薬物で捕まり、3度の交通事故を起こしています。マイリー・サイラスはほとんど裸同然の衣装で舞台に上がる歌手になりました。ハンナ・モンタナの時のイメージとは全く違います。ベラ・ソーンもインスタグラムで裸の写真を公開したりしてますね。またポルノ映画の監督をやるとかいってますけど。大丈夫でしょうかね?

 

↑)お下品になったマイリー・サイラス。

 

↑)ベラ・ソーン。私服らしいです(;^ω^)。

 

ディズニーのMKウルトラについては比較的細かく解説しているユーチューブ動画などがありますね。一見道徳的で模範的ともみなされるウォルト・ディズニーですが、キリスト教圏のわりに「神」のことなどが作品に出てくることがなく、魔女とか魔法とか、そういった怪しいものの方が良く取り扱われていることには注意が必要かもしれません。ディズニー・チャンネルでは結構ひどい番組もやっています。

 

ディズニーを全面否定する気はないですが、そこには「裏の顔」があることを覚えておいた方が良いかもしれません。どっぷりつかれば「お姫様」より「魔女」になる、という印象です。

 

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さて・・・ディズニーやハロウィンの話からそれます。

 

マイリー・サイラスとかベラ・ソーンのことを書いていて思い出したんですが・・・。どうしても彼女達が売春婦のように見えて仕方ないんですけども・・・。

 

売春婦といえば、かくいう自分も、昔は外国のポルノばかり見ていたことがありまして・・・・・・(;´Д`)。恥ずかしい話ですが。

 

・・・さらに、ちょっと話はずれますが・・・。気になったので、突然ですが、人間の「性行為」について簡単に書いてみます。人間、自己顕示欲が強まると、「そっち」の方に流れていくかな、と思いまして。

 

・・・あくまで個人的な意見ですけども。

 

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<快楽主義者とは?>

 

上述の話と並列して書いておいても意味があるかな、と思うので書いておきます。少し哲学的?に書いてみます。

 

さて、自分が知る限りにおいて、性行為を「快楽主体」で見るか、逆にあくまで、個々人の「劣情」なり、「苦悶」の発散と見るかで人生の回転軸が違ってくるように考えています。

 

本来、人間の持つ、個々人における、他人にいえないような「劣情」なりを、「秘密」を共有して良い「愛する人」と共に解消する行為として、「性行為」を行えば良いのではないのでしょうか。

 

ところが「ポルノ」は性行為における「快楽」を主体にするために、その「快楽」の原因となる「劣情」とか「苦悶」を常に持っていなけらばならなくなります。

 

まあ、その辺が1番のポイントかな、と思っているわけですが・・・。

 

これは性行為の持つ性質の、ある一面の見方ですが、その行為の「快楽」は「劣情」や「苦悶」の発散のためにある部分があり反対にいえば、既に「快楽」は「劣情」や「苦悶」を発散している人には必要ない場合があるということです。

 

つまりポルノに関わらず性行為の「快楽」主体で生きる人間というのは、自然と「劣情」や「苦悶」を好むようになり、傍から見れば嫌な人間になっていくということですね(あくまで可能性として、ですが)。

 

自分から「苦しむこと」や、「いけないこと」を求めるなんてのは、おかしい人がやることですね。彼らはそれを「新しいこと」とか「カッコ良いこと」とかいって、人を騙すわけです。

 

そういう人と付き合うのは、普通の人にとってかなりしんどいかと思います。

 

人間が、このネガティブなサイクルにはまると中々抜け出せないかと考えています。だから、正常なサイクルに戻る必要がありますが、一旦はまった人には難しいかもしれません。

 

「性行為」をあくまで「目的」でなく「手段」と見ている人とは、違う人生観を持つようになるといっても過言ではありません

 

これを「堕落」、というのかな。

 

チンピラみたいになってしまうかもしれませんね。

 

こういうことって、人間の性格を作っている、根本にあることだと思っていますね。

 

さて、先に書いたマイリーサイラスとかベラ・ソーンとかを見ていると、どっか「快楽主義者」に見えてしまうのは自分だけでしょうか。本来自分は嫌いはないんですけども・・・。容姿の美しさや、セクシャリティーで他人に無理やり好印象をねじ込みますが、その内面の性格はどんなものでしょうか?

 

ちょっと切ないものがありますね。

 

しかし、世の中誘惑は多いですから、ハロウィンのことなどに関しても、ちゃんと自分で考えて、判断して生きていかなければならないということでしょうかね。

 

適当に流されて生きていると、阿保になっちゃうかもしれません。

 

ムーミン・パークに行ってきました。

 

良い天気でしたので、埼玉の方に出かけました。ムーミンが好きとかではないです。なんか成り行きでムーミン・バレー・パークに到着・・・。

 

紅葉なんか見れればよいと思って出かけましたが、まだちょっと早かったようです。

 

比較的最近だと思いますが、埼玉県の飯能にある湖にムーミン・パークができたとかいうので、興味本位で入場しました。

 

世界でムーミンは700億円を超える市場規模らしいですが、その45%以上を日本が占めるらしいです。

 

45%!!

 

ムーミンは日本人が好きなゆるキャラに似ていると思うので、その辺が理由かも。

 

 

個人的には白いクリーチャーに見えますけどね。

 

 

オープンして間もないですが、そんなに評判は良くないですか・・・。色々お値段高めなんですね。それを除けば、今日みたいな秋晴れの日には結構綺麗かと思いました。

 

園内はずっと切ない音楽が流れてました。ちょっと建物が少ないですが、雰囲気は好きです。

 

 

ムーミン・ハウスとかありました。しかし入るのに1500円とか取られるので止めました。

 

 

ま、たまには良いかも。気持ちの良い一日でした(^o^)。

 

 

着ぐるみたちと写真撮れるみたいです。

 

今週はブログを書いている時間がありません(;^ω^)。週間の予定が色々変わって、うまく調整できませんでした。

 

しかし、やっと秋らしい季節になってきて、すごしやすいですね。紅葉なんか見に行きたいですけどね。季節の変わり目で体調の変化など気を付けたいと思います。皆さんもお体をお大事に。

 

2、3日中に時間があればブログを書きたいと思っています。

 

最近読んでみて面白かった本がこの、山崎浩太郎氏の「演奏史譚」です。クラシック音楽の歴史の節目の一つである、1954年と1955年について書かれたものです。日本人では吉田秀和氏、大岡昇平氏、山根銀二氏などの知識人が欧米で見聞きした公演などについて書き、国際的スターたちでは、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン、マリア・カラスなどが登場します。

 

その際の音源が多数紹介されていて、当時を知らない自分などは非常に興味深いものがありました。

 

 

↑)本書の中で紹介されている音源の一つ。パウル・クレツキがイスラエル・フィルを振ったマーラー交響曲9番(1954)。イスラエルが建国されて6年、テルアビブでイスラエル・フィルの初めての商業用録音。演奏は個人的にはそんなに好きではないですが、「歴史を聴く」という感じがしています。33CX1250、33CX1251。オリジナルのLP。

 

フルトヴェングラーの死、トスカニーニの引退、マリア・カラスの全盛期、カラヤンのベルリン・フィルの監督就任、オットー・クレンペラーのヨーロッパへの帰還、本格的な商業用ステレオ録音の開始など、この時期の音楽界は話題が豊富です。またそれらを確かめることができる音源が、近年は次々とリリースされているようです。

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<クリュイタンス>

 

共産主義者で、音楽評論家の山根銀二氏が1955年にベルリンでクリュイタンスを聴いたそうです。

 

「フランス人がなまじっかのドイツ指揮者よりもベートーヴェンをうまく演奏するとは皮肉だが、こういう現象はあまりめずらしくはないようだ。それにしてもクルイタンはいい指揮者である。」(本文から。)

 

彼はベートーヴェンの田園を聴いたようです。クリュイタンス(元々はベルギー人)のベルリン・フィルのデビューだったこの演奏に前には、同曲のセッション録音がされたのこと(モノラル、自分は未聴)。

 

 

個人的にアンドレ・クリュイタンス(1905-1967)も中々良さが分かりにくい指揮者の1人でした。このクリュイタンスや、イギリスのジョン・バルビローリなどはヨーロッパの伊達男という風情があり、その独特な味わいは粋な趣味の良さによってより一層引き立てられます。

 

バルビローリはまさに、英国紳士のダンディな味わいですが、クリュイタンスはもっと繊細で、香り高いところが魅力でしょう。

 

そのクリュイタンスの芸風はフランス音楽に力を発揮するといわれます。

 

 

↑)クリュイタンスの演奏で比較的満足していたのは「音楽之友社」の雑誌の付録(左側のCD、ラヴェル)でついていた音源(モノラル)でした。英テスタメントから発売された、過去のフランス音楽の音源はかえって音も落ちて、魅力を全く感じられませんでした(CD、ベルリオーズ、ラヴェルなど。モノラルとステレオによる)。

 

 

↑)ステレオ音源で有名なラヴェルとフォーレ、クリュイタンスの代表盤ともいわれますが、そこまでの魅力を感じませんでした(CD)

 

 

やっと状態の良さそうなクリュイタンスのLPを一枚探してきました。ベルリン・フィルを振った全集から、田園です(1960、ステレオ)。ASD433(カラー切手のスタンパーです)。

 

音質がCDと全く違って、美しさが充満します。結局、当時のLPをそのまま使うと、その当時の雰囲気も同時に再現される、ということでしょうか。リマスタリングも好きです。しかし、リマスタリングでない、もう60年近く前の工業製品というものが、当時の空気そのものも運んでくれるような気がします。

 

どんなに伊達者で趣味が良くても、CDで聴くとそれが「過去の人の趣味の良さ」に聴こえて仕方なかったのだと気づきました。LPで聴くと、音の広がりが自然で、夢見るような美しさがあるように聴こえ、独特のアクセントも生き生きとしているように思えます。

 

こうやって聴くと「過去の人」には聴こえないと思えましたねクリュイタンスの場合、クレンペラーやジュリーニのような緻密さが売りではなくて、もっと自然に流しながらも滑らかな音の美しさと品格の良さで聴かせますね。

 

第2楽章の生々しくも美しいフルートの音色なども、正に出色だと思える訳です。

ドイツの、オットー・クレンペラー(1885-1973)という指揮者が好きで、CDで良く聴いていました。

 

 

第二次世界大戦でユダヤ人であった彼はナチから逃れ、アメリカに住んでいましたが、馴染めず1954年、ヨーロッパに戻ってきます。しかし彼は世間からほとんど忘れ去られており、指揮者として再起をかけた帰郷となっていました。

 

彼を救ったのはEMIの大プロデューサーだったウォルター・レッグです。1951年に聴いた「ジュピター」交響曲の終楽章が忘れられなかったといいます。1954年にフルトヴェングラーが死に、トスカニーニは引退します。1945年にレッグが録音用に用意したフィルハーモニア管弦楽団を鍛えていたカラヤンが、1955年にベルリン・フィルの音楽監督に就任すると、レッグとオーケストラに認められた彼は、このフィルハーモニアの監督に就任することとなりました。

 

商業用のステレオ録音が始まった頃、彼はフィルハーモニア管弦楽団を使って、コロンビアとの録音を開始しました。19世紀生まれの指揮者として、フルトヴェングラーとトスカニーニという、20世紀前半の「王」達が退いていく中、ブルーノ・ワルター同様、時代の節目を乗り越えたのです。

 

 

↑)モーツアルトの交響曲41番「ジュピター」と29番(1954)。33CX1257。クレンペラーとコロンビアとの録音第1弾です。ジュピターから録音が始まっています。晩年に比べると、ややあっさりとしていると思います。

 

 

↑)ベートーヴェンのエロイカ(1955)。33CX1346。コロンビア(EMI)はこの頃まだステレオ録音に懐疑的で、デッカに先陣を許してしまいます。しかしクレンペラー特有の重厚な響きは健在です。

 

クレンペラーは極度の躁鬱性障害の持ち主で、奇行も多かったといいます。頑固でいい出したら聞かない性格だったようです。若いころはそれが自分でコントロールできなかったようですが、彼は数々の試練に耐え、生き延びて行きました。

 

1932年指揮台から落下し、頭部に脳腫瘍を作ってしまい、1940年に手術を受けますが、半身不随になります。1952年にモントリオール空港で大腿骨を骨折、指揮を椅子に座ってしなければならならなくなります。

 

ユダヤ人としてナチスから追われますが、古くは左翼支持者でチェコなどの共産国での活動歴のあるクレンペラーは、アメリカでは危険人物とも思われていました。

 

しかし数々の試練を乗り越えて行く彼の内面には明らかに「偉大なる人格」が作り上げられていき、右手は不自由、言語も不明瞭なのにもかかわらずオーケストラは何か強靭なものに圧倒されて引き込まれていったようです

 

晩年の椅子に座って指揮する彼の姿は、本物の「王」を思わせます。

 

 

LPで彼のステレオ録音を集めたいと思っているんですが、あまり出回ってないので、中々大変です。LPの方がCDより生な雰囲気があるので、できうれば初期盤かオリジナルなものが欲しいですね

 

 

ブラームスの「ドイツ・レクイエム(1961)。本来ステレオで録音された物なんですが自分の所有している物は残念ながらモノラル。33CX1781、33CX1782。音は良いですね。重厚な味わいで深い音です。演奏も抜群でしょう。地から湧き上がるような歌があります。

 

 

シューマンとメンデルスゾーンの4番を集めた1枚(1960)。ステレオです。SMC91 274。オリジナルではないです巨人の足取りを思わせるような大きなスケールがあります

 

 

ブルックナーの「ロマンティック」(1963)。オリジナル?かもと思っています。割と出回っているLPでしょうか。SAX2569。ちょっと推進力にかける気もしますが緻密で重厚な響きが嬉しいです。

 

 

ドヴォルザークの「新世界」(1963)。買ったときに「オリジナル」と銘打ってあったから、オリジナル盤と信じています。SAX2554。CDで良く聴いていた音源です。ロマンティックな感情を排した、分析的でクールな演奏です。理性と情熱がせめぎ合い、迫力と曲の構造的な魅力が迫ってきます。大きな何かに支えられた、演奏です。

 

クレンペラーの指揮姿が映像で残っていますが、不自由な体で指揮する姿は、見ているだけで、自分は泣けてきそうになりますフルトヴェングラーの指揮姿もそうですが、視覚的に、見ているだけで伝わってくるものがありますね。

 

本当に、あらゆる不幸をものともせずに乗り越えていく姿は、尊敬に値するものです。本物の大指揮者の1人だと思います。

自分個人として、CDで聴いて中々魅力が理解できなかった指揮者の一人に、イタリアの指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニ(1914-2005)がいます。

 

 

アルトゥーロ・トスカニーニ、ヴィクトル・デ・サバタの後を継いで、スカラ座の芸術監督として期待されましたが、およそ3年で辞任してしまいます。ジュリーニの歌劇、もっといえば彼の芸術に対する完成度のこだわりの高さが災いしたようです。利益と効率性が重視されるこの世界で、ジュリーの態度は必ずしも懸命とはいえなかったということでしょう。

 

しかし反面、彼の芸術監督としての完璧性が発揮された、1955年の「椿姫」の公演はオーケストラ、演出(ルキノ・ヴィスコンティ)、装置、衣装、演技(マリア・カラス)が本物の総合芸術として称えられています。

 

 

↑)マリア・カラスの歌唱と共に、ライヴで燃え立つジュリーニの指揮(特に後半)が聴きもので、スカラ座の黄金時代の貴重な記録です。

 

 

その後は、1968年にオペラ指揮者として完全に身を引くと、オーケストラ指揮者として、主に独墺系のレパートリーを得意として活躍しました。彼の指揮は本人の完璧主義を反映して、一部の隙もない緻密さ、豊かで重厚な響きを旨としています。これを楽しみで聴けるか、あるいは、緻密すぎて息苦しいと取るか、で大分聴き手の印象も変わってくるでしょう。CDで聴いてきた限り、自分は後者で、重苦しい演奏が多いと思っていました(CDで聴く限り、有名なマーラーやブルックナーよりも、ブラームスが最善ではないでしょうか。・・・だからといって、マーラーやブルックナーも聴かない訳でもありませんけども)。

 

LPではとりあえずグラモフォンは避けてます(LPの音質であまり良い思いをしたことがないからです)。EMIはやや古い録音ですが、音質は良くて素晴らしいと思いました。

 

以下は最近探してきたLPです。中古LPは必ずしも欲しいものが手にはいる保障がなく、その時々で聴きたいものを見繕っています。

 

 

モーツアルトの「レクイエム」(1978、1979)。ASD3723。

 

CDで駄目ならアナログ盤で、ということで最近はクラシック音楽を聴いています。ジュリーニに関しても、CDで聴いていた時とは違う魅力を見出すようになりました。特に、彼の指揮するオーケストラの音色の充実感と、濃い味わいです。CDの時のようにツルツルした音の感触でなく、もっとオーケストラの音が生で伝わってきます。音が解放されて伝わってくるように思われ、音楽の中で呼吸しているような感じがします。

 

LPで聴くとジュリーニの作り出す響きは、オットー・クレンペラーのような力感溢れる、緻密さがあるもののようです。そして悠揚と歌う歌唱性があります。

 

モーツアルトのレイクエムでも、ソロよりも、コーラスとなった時の押し出しの強さが目につきます。緻密で一点もおろそかにしない迫力、そして内面から盛り上がってくるような感情の流出で歌われると、その偉大さに打たれます。高貴で、荘厳な演奏です。最近の愛聴盤です。

 

 

ブルックナーの「交響曲2番」(1974)。ASD3246。

 

ブルックナーの音楽としては、比較的起伏が少ない、田園風の曲をジュリーニの指揮で聴きます決して先を急ごうとしない、真摯な指揮ぶり、重厚なフォルテでブルックナーの自然描写を聴くことができます滑らかな歌謡性は特筆されるべきでしょう

 

曲に対する解釈で特別気になることはないのですが聴き終わった後の充実感というのか、部屋に漂う重厚な美の残り香というのか、そういうものを彼の指揮から感じるようになりました豊かな音楽を聴いているという実感があります。

 

オットー・クレンペラーとか、アンドレ・クリュイタンス、ジョン・バルビローリという、名指揮者達の初期LPのステレオ録音の魅力と同じものが、ジュリーニの録音にもあるように思います。LPから流れ出てくる音質の魅力、美感は素晴らしいと思います。

 

やはり個人的にはアナログ盤で聴いて、初めてジュリーニの音楽の美しさを実感できるようになりました。彼の音楽をつくり出す際の緻密さは、この指揮者の持っている真摯さや真面目さの表れであって、芸術そのものに打ち込んだ人間の持っている、荘厳さが各所からにじみ出てくるような印象です。

 

「音楽の聖なる神殿」ともいえるような雰囲気があることを、LPで、彼の指揮から初めて実感しました。

 

さらにジュリーニのLPが欲しくなりました。コロンビアのSAX盤ステレオを1度聴いてみたいです。

災害がありましたので、自粛していた話題がありましたが、他に書いていきたいこともありますので、進めます。

 

 

「ランメールモールのルチア」全曲(1959)。33CX1723、33CX1724。

 

 

「ランメルモールのルチア」全曲(1953)。33CX1131、33CX1132。

 

↑)マリア・カラスによる新旧有名なLPです(ちなみに、マリア・カラスにおいて、最も名演といわれているのは1955年によるカラヤンとのライヴです)。こちらはスタジオ録音。

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「ランメルモールのルチア」はイタリアの、ガエタノ・ドニゼッティ(1797-1848)による歌劇です。同時代のジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835)らと共にまとめられて、ヴェル・カント・オペラと呼ばれることが多い作品を書いた作曲家です。

 

今日我々はワーグナー、ヴェルディ、プッチーニ、R・シュトラウスという作曲家の時代を経てきているため、ロマン派のオペラには親和性がありますが、ヴェル・カント・オペラには中々なじめないものがあります。ロマン派のオペラは歌だけでなく、管弦楽による味の濃い内容を有しますが、ヴェル・カント・オペラの多くが管弦楽だけで魅力を感じさせる場所が少なく(ロッシーニの書いた前奏曲はどれも魅力的ですが)、内容を「歌」に頼ることが多いために、歌を単にメロディー・ラインだけでなく、内容に即して追う必要があります。我々日本人にしてみると、台本と付きっ切りで鑑賞する他しかないのが現状でしょう。

 

また、ヨーロッパにおいても、20世紀半ば、マリア・カラスが出現する前まではイタリア歌劇におけるヴェル・カントの歌唱は失われており、彼女によって再演されることによって、ベッリーニ、ドニゼッティの作品が再び日の目を見たといえます。「アンナ・ボレーナ」、「清教徒」、「ノルマ」そしてこの「ランメルモールのルチア」などです。

 

ロマン派の歌唱に慣れてしまった歌手たち(特に女性歌手でしょうか)にとってみると、「ノルマ」やこの「ルチア」における歌い手の比重は相当なものがあり、その長大で劇的な歌の内容を、「歌」そのもの、またその技術そのもの、によって表現するという難しさは頭を悩ませたに違いありません。「ルチア」についてはカバリエなどが録音を残しているらしいですが、聴いた評論家によると、あまり魅力が感じられなかったとのことです。

 

例えばこの「ランメルモールのルチア」においては「狂乱の場」という有名な場面があります。特に今回はこの場におけるカラスの歌唱について書いておきます。

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舞台はスコットランドで、そこに住む敵対する貴族のお話です(ランメルモールは地方の名称です)。敵方のエドガルドを愛しているルチア、しかし、ルチアの兄エンリーコは窮状にある自分らの状態を脱するために、ルチアを政略結婚させてしまいます。

 

こうして愛する人と引き裂かれてしまうという、「惨状」に襲われたルチアは気がふれてしまいます。そして遂に、愛していない夫を手にかけると1人幽霊のように現れ、仲を引き裂かれてしまった最愛の人、エドガルドとの結婚の喜びを歌い出します。ここが「狂乱の場」で、15分はかかるような長丁場のアリア、それを歌い手は一人で歌い切られねばなりません。

 

気のふれた女性の心理を歌うのにもかかわらず、ドニゼッティの書いた音楽は常にルチアの心理に寄り添い、美しくはかない、現実には起こり得なった、繊細な彼女の結婚の喜びを歌い上げていきます。そしてそれを強調するのが、高難度の装飾的歌唱が求められる、コロラトゥーラを駆使した後半部分で、このオペラの頂点を築きます。

 

技巧とルチアの心理が一体と成って織りなすアリアが完璧に歌われると、聴き手は息をのみます。

 

 

ベルリンでカラヤンと共演した1955年とのライヴと、初めてカラスがEMIのスタジオに入って録音した1953年の録音が双璧でしょう(↑カラヤンとのライヴはCDによる。)

 

個人的にはフィレンツェでのスタジオ録音である1953年盤をとります。ジョン・アードウィンによって、最も満足のゆくレコード「LP時代の栄光」といわしめたレコードです(ユルゲン・ケスティング、「マリア・カラス」から)。

 

当時29歳のカラスはまだ若く、声も素直に出てきます。技巧も完璧、LP特有の情報量の多い柔らかい音、同時にまた、決して美しいとも思えない彼女の声ですが、気の遠くなるような装飾を施した歌を聴き終わるとき、その美的空間の創造性に圧倒されます

 

控えめなドニゼッティの管弦楽は優しく、自然で透明感があります。そこに不吉な、なおかつ宝石のような装飾にみちたアリアが、かかります。その奥行きのある彫塑性を体験すると、イタリア人の作り出した美の世界に魅了されます。

 

これに比べると55年のライヴ盤は若干声に陰りがあるような気もしますが、カラスのライヴ特有の緊張感のある歌い方と、躍動感が素晴らしいと思います。デズモンド・ショー・テイラーは次のようにいったといいます「あえてこう言おう、彼女がいまよりうまく歌うことはもうないだろう、と」(これもケスティングの本からの引用です)。

 

自分の場合、どうしてもライヴ盤はCDしかないので、LPである1953年盤を推します。

 

 

59年のスタジオ録音は本来ステレオ録音です(自分のLPはモノラル。当時はまだステレオが普及しておらずステレオ録音を沢山普及していたモノラル録音の装置用に、あえてモノラル盤としても販売していたようです。音は良いです)。

 

カラスの声には明らかな陰りが見えますがそれをカヴァーするために陰影の濃い円熟した歌声で聴かせてくれます。これはこれで魅力があり、味わい深いものがあります。

 

技巧については明らかに衰えており、コロラトゥーラも明晰さを失い、ルチアの心情の吐露をすることで補っていきます最後の決め所も金切り声に近い声になっており、これを好むか好まないかは個人の嗜好によるでしょう。

 

はたして、これらは現代でも体験できる、伝説といっても過言ではない録音たちに間違いありません。

 

 
 
↑、2021年11月6日、追記:1953年のマリア・カラスのルチアです。狂乱の場からの切り抜きです。スタジオ録音を始めたカラスですが、既に全盛期からは調子を下げ、声質は下降線に入っていました。しかし、このルチアなどは全盛期の雰囲気を留めている名録音だと思います。高音部の張り、艶、滑らかな流れなど素晴らしいと思います。

前回の続きで少し書きます。神示の話です。

 

先日書いた、「大本教」には有名な「聖師」といわれる人物がいて、これを出口王仁三郎(1871-1948といいます。

 

ちょっと怖い話も書いておきます。

 

 

この出口王仁三郎氏は、日本の行く先を正確に予言をしたりして、随分神がかった人物だったようです。

 

さて、この人物がとなえた理論に「日本雛形理論」があります。オカルト界隈では割と有名な話だと思いますが、興味深い話なので書いてみます。

 

日本の国が「北海道」、「本州」、「四国」、「九州」でできているものが、世界の5大陸(南アメリカは台湾になる)を示している、というものです。以下の図のようになります。

 

 

北海道が北アメリカ、本州がユーラシア大陸、四国がオーストラリア、九州がアフリカということになります。小学校時代、ウェゲナーの大陸移動説を習いました。南米とアフリカの海岸線が同じ形をしており、ひっつけると元はもっと大きな大陸の一部だったのではないのかという話です。

 

しかし、この日本の「雛型論」はそれよりもっと驚きのある、類似性があるように思えます。琵琶湖とカスピ海、エベレストと富士山の位置も近く、こうまで似ているのでは確かに普通ではないように思えます。また他方で、日本で起こることは世界に伝播するとも伝えられ、それがこの「雛型論」の特異性でもあるように思えます(さらにこの日本の原型は奄美諸島にあるとします)。

 

巻貝の渦が黄金比を形成しながら大きくなっていくように、この世界の地理も一定の形を形成しながら大きくなっていくというような感じですね。

 

日本は先日書いた「艮の神」が竜体の形をしており、自ら転がってできた「島」といわれており、神々はそれを「おのころ島」といったといいます。特に「日本」の状況が世界に伝播するという話などは、「日本」の世界に対する重要性を説いているように思えます。出口王仁三郎は次のようにいったそうです。

 

「日本は世界の胞衣(えな)であり、雛型であり、世界の要である。」

 

実際にこの理論が本当であるのなら、日本は樹木に例えるのなら、「枝葉」よりも「幹」、「幹」よりも「根」というべきもので、結果よりも原因に近いところにいることになります。艮の金神は日本人は世界民族の「親」である、といっているようです(個人的にいたずらにナショナリズムを煽るのは好きではありません。「親」の意味はよくよく考えて見る必要があるようにも思われます)。

 

仮に人類史を一種の神話と見るのなら、これを敵方(ユダヤ人といわれる。一方で日本人の兄弟ともいわれているようです)も知っており日本を貶めることが、世界の国々を疲弊させることの近道であるという様なことでもあるようです神示から少し引用しておきます。

 

<すべてはスメラとユダヤの戦いぞ。スメラはこの方の一厘をしっているヒノモトの身魂であるぞ。ユダヤは一厘を知らない「分かつ知恵」の身魂であるぞ。今までの世は「知恵」の世であるぞこれからの世は「智慧」の世であるぞ戦いではあるがスメラは戦わずに勝つのぞ。戦っている者は自滅するのぞ。ヒノモトの民は世界の民に一厘知らす親であるぞ悪の企み企てる者、自らがあやま知にとらわれておるのを知らんぞ悪を企んでおると自分が滅ぶぞ。悪の神もお役目ぞ。そなたが釣られていけば魔釣りに引っ掛かるぞそなたが滅ぶぞ悪の芽は残らず切っているのぞ。次の世は悪は存在できん世であるぞ今の今も悪はないのぞ悪を悪と見ているそなたが悪を創り出しているだけぞ。>

 

日本は「おのころ島」と共に「皇御国(スメラみくに)」ともいったようで、文中の「スメラ」は日本を指します(ヒノモトも日本人を指す)。「雛型論」が正しいとしてみて、日本人が世界の民の「親」であるとするのなら、今日私たちの国の政治や資源、あるいは財産などがこうも「諸外国」に売り出されているのをみると、今後それが世界に伝播し、その世界もかなり悲惨なものになる、ということなのかもしれません(「分かつ知恵」、によるやり方)確かにユダヤ人の一部は今後世界の国々が手に負えなくなるとここぞとばかりに自分達の「王」なるものを掲げようとするのかもしれません

 

・・・わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来る見た。この獣は、子羊(イエス・キリスト)の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていたこの獣は、先の獣が持っていた全ての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた(ヨハネの黙示録から。666の獣は大淫婦から子羊に似た獣に乗り換える)。

 

・・・所謂『進歩』したと称する文明諸国に我々は、無味乾燥、淫蕩的卑猥な唾棄すべき文学を創造しておいたが、我々は此の傾向を世界支配達成後も尚ほ暫くは放置しておかなければならぬさうすれば我々の崇高な政治上の政策や言論は著しく目立って来るのである(シオン長老の議定書から)。

 

 

まあ、いずれにせよ、「神の民」とか「世界民族の親」とか、これが本当なら、その宿命はとても大変なものになるという事が思い起こされます

台風19号が通り過ぎました。被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。m(__)m

 

 

このタイミングでこういうことを書くことは、少し問題があるのかもしれません。ただ、一応書いておきたいと考えてましたので、書いてみます。

 

宗教関係の話です。

 

かつてないような自然災害が起きています。

 

日本の神道系の神示では長らく、「世の立て替え、立て直し」ということをいってきているところがありました。「天理教」とか、「大本教」などです。これを神示として降ろしてきていたのは、「艮(ウシトラ)の金神」といわれる神様です(ウシトラは丑寅、つまり東北、鬼門を表しています)。

 

古事記には「国之常立神」、日本書紀には「国常立尊」と呼ばれていた神様のようです。神話では古代厳しい神則で他の神々を治めていた、大神様ということになるらしいですね。

 

しかし、その律法の厳しさ故、疎まれ、神々の反乱にあって、その座を追われ地に下ったとされます

 

その際、この神は体を引き裂かれたといいます。今日我々が元旦に捧げる鏡餅は、この神の「骨と肉」、雛飾りの草餅は「皮膚」、端午の節句のちまきは「髭と髪の毛」、七夕のそうめんは「筋」をあらわしているといいます。そして門松は「墓」の象徴であるといいます。

 

地に下り、本来正義の神であるこの「神」は地獄の一時的な管理者になったとのことです。これがいわゆる、地獄の閻魔大王」であるということになります。

 

そして封印された神であるこの「艮の神」が再び復権するとき、世の中は「悪」から「善」へと変わりゆき、その際に起こるのが「世の建て替え、立て直し」ということになります。自分は信者でもなく、少し大本教の文献を漁った程度ですが、この神の封印を解いたのが「大本教」だったようです。今から120年以上前、明治中期にこの「艮の神」が教祖にかかり、その神示を降ろしてきたといいます。

 

「三ぜん世界一度に開く梅の花、艮の神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。」

 

「何れの教会も先走り、とどめに艮の金神が現れて、天の岩戸を開くぞよ。岩戸開きのあるということは、何の神柱にも分かりておれど、どうしたら開明になるという事は、分かりておらんぞよ。」

 

ところが第二次世界大戦の直前に、大本教は「国家神道」と対立したという事になり、弾圧を受けます。

 

その後、この神はいわゆる「宗教団体」というものを避け、新たに個人に神示を降ろすようになりますこれが「日月神示」(ひふみ神示とも)です。昭和19年から始まっているとされます(他にも個人に降ろされている神示は多数あるようですが、日月神示が一番有名かと思います)。

 

 

「ニニ(フジ)は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはつきり助けて七六(むず)かしい御苦労のない世が来るからみたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。」

 

その後、世の中は変化しましたが、遂に、1991年の10月10日に、国常立の尊は地上復権を宣言したといわれています。

 

「現れませる国常立の大神は

 世の大革正進めますぞよ

 

 大自然の力動具備し現れませる

 国常立の大神なるぞよ

 

 地の上の総てのものはよみ返り

 真一つの道に帰れよ」

 

人類文明が頂点に達した時、この神は、その人心の騒乱を完全に収めて行くといいますが、その際、人間の心の在りようによって、社会的な騒乱や、天変地異等が起こるとされて来ました。

 

あくまで噂の範囲を出ませんが、改革は2000年からといわれていたものが10年遅れているとされ、30年かかってされるといいます。「日月神示」には「かのととり」という記述が多く見られ、おそらく最後は辛酉(直近では2041年)になるのでは?などともいわれているようです。

 

 

そして2018年にまた新たな神示が出始めました。「大日月地神示」というものです。自分も読みましたが、どうも最近の現象はこの「神示」に書かれている通りに出ているように見えて仕方ありません。

 

この本の内容について、自分があれこれ書くことには抵抗があります。基本過去の文献と同じことが書かれています。初めて読んだとき「怖い」と思ったものです。

 

別に宗教の勧誘とかで書いているわけではありません読んでみて、最近の世の中の傾向に一番合っていると思えます。最近の自然災害などを見てもこの「神(最近では靈団としている)」のいう通りになってきているように見えます。

 

1996年に出た神示などには次のように書かれていました。

 

「常識が崩れておるぞ。暑い所が寒くなる、寒いところが暑くなる、雨が降る所に雨が降らん、異例なことや前例無きことばかりぞ史上初のできごとが、史上最高の、史上最低の記録が続出しておるぞ。この方の大掃除の知らせにまだ気づかんのか。今までと違うことが起きておるのは、今までと違う世界になる予兆でござるぞ。」

 

ヨハネの黙示録が世界的な出来事を描いているとすれば、この大日月地神示を読むと、人間の各個人の問題などをあつかっているとも思えますけども。まあ・・・これぐらいにしておきます。

 

興味のある方は読んでみてください。判断はご自身でお願いいたします。m(__)m

 

大した話でもありませんが、以下は個人の主観的な意見ということでお願いします。m(__)m

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台風17号が発生したそうです。この台風も日本をかすめていくようです。

 

最近は自然災害の規模が大きくなっているように思えます。自分の子供の時はここまでひどい災害は、21世紀以降で見られるほど、多くなかったと思います。

 

少し気になっていることを書いてみます。

 

近頃の異常気象などについては、気象兵器などの噂なども取りざたされているようです。なんでそんな兵器を使ってまで、異常気象を作る必要があるのか、などという意見も当然ありますが、そこは陰謀論が基本となっているようです。

 

衛星などで海水温などを上昇させることにより、台風を発生させたりできる、という話などがあります。昔はそんなことあるのか、と思っていましたが、仮に「温暖化」が原因でなければ、その可能性も捨てきれないかと思い始めています。ロシアのプーチン大統領はおかしな台風や地震は人工的なものだ、と発言しているようですが(2017年)。こんな発言はプーチンかトランプぐらいしかしませんかね。

 

これらの暴風雨によって生じた破壊は、初めから、米政府内部の奥深くの、陰で活動している者たちによって計画されたものだ。」
 

「トランプはとても賢明な人だ。彼はそれを計算していたとは思う。しかしそれはどう考えても彼とは関係ない。」

 

「ロシアの衛星は、これらのハリケーンが機械で作られたものであることを確認した。 」
 
「それは自然に起こったものではない。それはもう一つの金持ちのゲームだ。 」
 

特に最近は猛暑日が増え、年々最高気温が更新される様な感じです。衛星でマイクロ波を照射して、大気の気温を上げることもできるとか。「アジェンダ21」(一部で地球上の人工を減らしたいと考えている人たちがいるといわれています。特に経済力のある支配者たちなど。アジェンダ21はそのことをまとめた内容だといわれています)ではないですが、「温暖化」を演出しながら、人口減らしをできる可能性はありうるかと思いますが・・・。

 

まあ、証拠はないですけどね。ただ最近の様子からだと、気象兵器にまつわる噂も全部嘘ではないのかと思えてきます。

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しかし、今回の千葉県の惨状を見ていると、「絶対」ということがない時代だな、と改めて思います。毎年このレベルの自然災害が起きるとしたら?本来なら、自然災害を元から無くす方法などを考えていかないといけませんが、どうしたら良いものやら。

 

自然災害の元を断つ、となるとどうしたら良いのでしょうか?仮に上述のような一部の人間によって、使われている気象兵器のせいだとしたら?

 

「温暖化」、「気象兵器」など色々可能性があると思いますが、本来なら一個づつ原因を当たってみる必要はあると思いますね。ちょっと現実離れしている話と思われるかもしれませんが、でも何等か方法を考えていかないと、どんどん国自体がボロボロになっていく気がしています。

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今回の千葉県の災害について、もう少し現実的な話だと、やはり政府の災害対応は、初動に問題があったと思いますね。自民党も運が悪いのかも分かりませんが組閣中だったというのが、ちょっとひどいですね。もう少し演出でもいいから「必死感」みたいのも出ないものか、とさえ思います。千葉県の被災者はテレビも見れないからどうしようもないですが、千葉県以外の人も政府の対応は見てるのにどうかなと・・・。不安になる人も多いと思います。

 

他人事のように見えてしまう、というのは時代のせいなんでしょうかね・・・。8月にも九州で大雨があったばっかりですからね

 

 

政府も油断していたんじゃないでしょうか。確かに最近の災害全てを予測しろといっても難しいと思いますので、気の毒といっては気の毒ですが、組閣中だっというのが今の内閣の象徴的な行為だった気がしています。

 

皆で協力して助け合っていくしかないですね。とりあえず政府も一回頭下げた方が災害対策のギアも入れやすいと思うんですけどね。自分も腰痛持ちでボランティアなどは無理です寄付ぐらいしかしてません。あんまり役に立ってないですけど

 

問題意識の共有などできればな、と思っています。