人間の性愛に対しての考察を少しだけ書いておきます。前回の「ハロウィン」の記事の続きで書こうと思っていたのですが、内容が前後しました。
また以下の記事は個人的な考えと偏見によるものです。一見人々全体に対して論を述べているかのように書いていますが、本質的に「性」の問題はケース・バイ・ケースであって、各人が考えるべきことであります。ただ、そこに単純化したものの考えができる部分もあるだろうとは思い、自分なりにまとめたものです。
あくまで「参考」という意味合いで理解していただければと思います。
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前回(ハロウィンの回)の続きとして、人間の性愛について、もう少し掘り下げます。個人の経験として、西洋の芸術や、学者などの意見が好きなものですから、そこらあたりから引用をしていきます(こうした内容がキリスト教の持っている、純潔の概念を免れないことは止むを得ないので、先に書いておきます)。
性愛の興奮が本人の「劣情」や「苦悶」などの交換条件だとすれば、前回書いたように「快楽(オルガズム)」を最終的な目的(手段でなく)とした行為は本人の堕落を招く可能性があります(若い時は仕方のないこともあるかもしれませんが)。それは最終的に各人の内面と肉体的な分離を促し、物理的(動物的な行い)に惹かれながらも、内面的には「憎しみ(一種のニヒリズムから)」を抱くようになるといっても過言ではないように思えます。
<リヒャルト・ワーグナーのトリスタンとイゾルデから>

「トリスタンとイゾルデ」というR・ワーグナーの描くオペラの中で、身分の違いから決して結ばれることのない恋愛なども、似たような効果を生むことがあると思います。
外的(社会的)な障害を傾向をもつ恋愛は、その「社会的障害」を取り除かなければ成就しません。しかし、その「社会的障害」に対しても「性愛の快感」は働くのであって、そこにはまった人間は「疑似的な障害の解決」である「性の快楽」に頼るようになるという構図です。故にこの作品に「道徳的解決」を求めようとすると、最後は悲劇を描かなければいけないことになります。だからこそ、象徴的にイゾルデの「自慰的な死(イゾルデ愛の死と呼ばれる音楽)」となります。
この社会的障害の強さの程度によって、性的な興奮な度合いも高まりますから、どうしても取り除けないような障害は、興奮の程度を著しく高めるわけです。
前奏曲と第2幕のデュエット、そしてイゾルデの愛の死は明らかに「性行為」を暗示した音楽ですが、この難しい問題に対して、下品にならないように設計されていることが、この芸術家の力量を示しています。
「トリスタンとイゾルデ」はこの「破滅」に向かう、性愛がつくりだす「ヒロイズム」の陶酔感があり、その疑似的体験が人々を虜にする部分でしょう。
しかしこの連鎖が続く限り、こういった行いは「悲劇」以外の何ものでもなく、普通に暮らそうとすると、心理的な「不安」や「恐怖」を抱くようになるのは免れないように思います。当然それは常に「不安」や「恐れ」を抱いていた方が「性の興奮」に近づけるからでもあるといえるわけです(それが常態化するということ)。
ワーグナーのオペラだと「パルシファル」に出てくる「クンドリ」という淫婦などがその象徴ともいえます。R・ワーグナーの業績は多岐にわたるといえますが、キリスト教圏が抱いてきた「アダムとイヴ」の原罪の解決に対する回答の一例を提出したことが、その一端といえると思います。

エマヌエル・スウェーデンボルグの著作に「結婚愛」というものがあります。彼はこの著作の中で次のように述べています。
「ここでは本当の結婚愛 amor vere conjugialis についてとり扱っているわけで、俗に言われている結婚的愛 amor conjugalis についてはとり扱いません。後者はある人にとっては、限られた性愛以外の何物でもありません。結婚愛は、英知を渇き求めその英知にむかっていっそうの前進を続けていく人にしかありません。主はあらかじめそのような人を予知され、その人たちに結婚愛を供えてくださいます。この結婚愛はかれらにとっても性愛から始まります。いやむしろ性愛をとおして始まりますが、性愛が起源ではありません。それはちょうど英知が段階的に高まり、光に照らされてくるような感じで始まります。英知と結婚愛は別れられない連れなのです。」
エマヌエル・スウェーデンボルグは以前少し触れましたが、スェーデンの靈能者で、一応神学者としておきます。
ここでスウェーデンボルグは人間の愛を、動物的な「性愛」から「純粋な愛」に高めなければならないことを暗示しています。
また他の著作では次のようにいっています。
「神は、愛そのもの、英知そのもの、この愛と英知こそ、神の本質である。」
そしてこの「愛」の反対語が「悪」であり、「英知」の反対語が「偽善」だとします。確かに人は「悪」を愛することが可能です。「姦淫」を愛した人は自然とその性質が「姦淫」に近づくことが予想されます。これは「愛」が本人を「悪」に導くパターンです。それ故、その「愛」が本当に正当なものが判断するためには「英知(経験や知識など)」が必要だということになります。しかし経験や知識だけを知っていても、愛と行動を伴わないのなら、それを行わないので何も成し得ないがために、「偽善」となるわけです。
スウェーデンボルグは「結婚愛」という著作の中でその他のことについてもかなり詳しく述べています。一夫多妻制のこと、売春よりも不倫の方が道義性において問題があること(この場合、売春はあくまで個人的性欲の差に注目しています。余剰の性欲を解消するのにやむを得ない場合があるとし、浮気や不倫の場合は直接的に、信頼あるものへの裏切りになるからだとしています。つまり不倫はまず自分への配偶者への裏切りと共に、浮気相手の配偶者への裏切りでもあるわけです。ところが、これは男性目線ですが、娼婦に対する場合、割り切った関係であり、あくまで性欲の問題に注視しています。故に、道義上の問題は薄れます。しかし、上述したように、娼婦自体、自ら生き方を自覚しない限り、負の連鎖に入る可能性は充分にあるといえます。これが問題でないともいえないとは思います)。さらにスェーデンボルグは本当の意味合いでの結婚愛(外面の結婚でない)などについて述べています。ちょっとここでは書き切れませんので、止めます。

最後にユングの理論から少し書いておきます。
心理学者のカール・グスタフ・ユングは人間の内面に精神(魂)が存在するとして、そこに名前を付けました(人間の深層心理を発見したのは、ユングの師に当たる、ジークムント・フロイトだそうです。ちなみにコンプレックスという言葉を世の中に定着させたのはこのユングだといいます)。
男性の場合これを「アニマ」といい、女性の場合これを「アニムス」といいます。そして男性の場合(女性にはこの傾向はないという)、この「アニマ」は対象となる女性の像によって、その成長が表現されるとしています。
ユングは「性」の成長について、かなりはっきりとした意見を述べているので、参考として、ここに書いておきます。
人間の「性」の成長について、これは段階的に成長するものであって、ユング博士は第1段階を「娼婦」のアニマとし、人間としての尊厳というよりは、より動物的な意味での女性を、象徴的な像として示しています。
これは、子孫を残すという行為としての性であり、相手への愛情よりも人間個人の、動物的な衝動によって突き動かされている像といえます。性を商売とする行為などへの肯定などが、この時期にはあるといってもいいかもしれません。
これが成長すると、「ロマンティック」な性質を帯びたアニマとなり、単に無数に存在する女性であればよいというイメージから、1人の女性を慕う状態に入るとしています。これによって男性は自分が何か1人の人物を選び取らねばならないという、決断をせねばならず、人間としての成長を促されます。
ところが、母性への意識が強く、人間としての「個」、そしてその人間よりは「家」としての人間の在り方を求めてきた日本の男性は、「娼婦」のアニマとの対決を避けるきらいがあり、その「退行」が見られるといっても過言ではないでしょう(家に縛られ、個人として生きて行くということが難しいわけです。それ故環境的にそういう状態がない状況を創り出そうとしてきたといえます。しかし反対に個人的な体験での克服がないために、意識的に色仕掛けをされると、なびいてしまう男性も多い、ということになります)。
故に日本においては、「姦淫」の問題に対して、気を付けなければならないのは「女性」であり、「男性」ではないという構図が出来上がるようです(全ての日本人男性がそうだということではありません。そしてそのこと自体が「良い」、「悪い」とはまた別問題といえます)。いわば、「性的」に「清楚」でどこか「幼さ(無垢)」ともいえるものを備えた女性を求めていくのが、日本人男性の傾向ともいえるのかもしれません。
さて、ユングは、さらに進んで、男性個人がこの状態をさらに克服すると、「靈的」といわれる女性像を男性は内面に獲得することになるといいます。セックスがお互いへの尊厳と、聖なる愛とに変換されるとします。ここまで来ると人間は平和な境地に達しているといっていいのかもしれません。
最後は「叡知」といわれる「アニマ」になるといわれ、あるいは「両性」的な存在、弥勒菩薩とか、両性具有の天使を思わされる存在に近づくとしていますが、これは我々にはあまり現実的ではないのかもしれません。
(「アニムス」については「成長」という概念はなくとも、当該女性の好む男性像によって直接的な影響があると見た方が良いと思います。)
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個人的な話ですが、前回ちょっと書きましたが、外国のポルノをさんざん見ている時期がありました(恥ずかしい話ですがね)。すると、平時、つまり何もない時に、散々心に「不安」を感じるようになったので、これは危ないと思うようになりました。「不安」だけでなく、ときに意味もなく「恐怖」を感じたりしたものです。その原因を自分なりに考えていくと、上のような事柄に辿りつきました。これは自己卑下などにも結びついていることがあると思います。
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」はわざわざ「昼と夜」という意味合いを分けて使わせていますが、要は「昼」は快楽を貪ることができないのでより「不安」は露出する世界であり、「夜」は快楽に浸ることができるので、不安は快楽に変わる世界なわけです。
しかし本来なら、無理やり「快楽」を得ようとしなければ、その「不安」や「恐怖」そのものがいらなくなるわけです。
大昔から「性の問題」は西洋、東洋共にあったと思いますが、単純に欧米風の性の快楽をむき出しにした行為というものに対する対処法というものが、この国にはないということを自分は知り、その理解は自分でするしかありませんでした。
そうでなければユングのいう、「娼婦」のアニマのところを永遠にさ迷うことになります。自分のまわりには多くの女性関係を誇る男性(日本人です。しかし日本人は西洋と違うといいつつも、原則的には変わらないところもあると思います)もいますが、これもケース・バイ・ケースであるはいえ、本来それほど威張るようことでもないでしょう。
異性関係が多いとか少ないとか、そういうことを非難しているのではなくて、それをわざわざ誇るか、誇らないかという様なことです。そこから何か学んだのなら、その人は謙虚になるだろうと思います。わざわざそれを誇るということは、いい歳をして、「娼婦」のアニマを抱えたままといえるわけです。
まあ、それこそ西洋人の描きだした、「ドン・ジョバンニ」のように、女たらしを、誇りをもって悪びれもしないのなら、それもまた一興かもしれませんけども。
ヨーロッパの芸術や文芸にはこうした「男性」の問題をあつかったものが多くあります。以上のようなことを理解していないと分からないことも多いように思えます。