ヒマジンノ国 -38ページ目

 ヒマジンノ国

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E・クライバーによる、R・シュトラウス「薔薇の騎士」(1954)。英国盤LXT2954-LXT2957。

 

 

モノラル時代、名盤といわれたデッカのレコード。元々CDで所有していた音源ですが、理解できなかったのでレコードで聴きたいと思っていたものです。ボックス入りで、随分凝った装丁です。内包袋には主要キャストである、マリア・ライニング、セーナ・ユリナッチ、ヒルデ・ギューデンが、カラーの美しい挿絵で描かれています。

 

↑)マリア・ライニング

↑)セーナ・ユリナッチ

↑)ヒルデ・ギューデン

 

E・クライバーは肩の力の抜けた指揮で、粋な演奏だといえます。彼はこれ見よがしに聴かせる指揮者ではありません。そのE・クライバーがR・シュトラウスの「薔薇の騎士」と、その前身ともいえる、モーツアルトの「フィガロの結婚」に歴史的名盤を残していることが興味深いところです。

 

彼は一見何もしていない軽い指揮をしているように見えて、実は細かい動きを表現していることが多く、不思議とそこから繊細な官能性を導き出していることが多いと思います。フィガロと薔薇に名盤を残している理由はそんなところにあるのでは・・・?

 

現代ではカラヤン盤などありますので、この演奏も中々ファーストチョイスにはならないかもしれないですが、クレメンス・クラウスの「こうもり」同様、古い時代のドイツの雰囲気と、洒脱な魅力を湛えている部分が聴きどころの一つでしょう。

 

歌手ではゾフィー役のヒルデ・ギューデンがおしゃまな雰囲気を出していて面白いです。

 

瀟洒な魅力に溢れた演奏だと思います。

 

 

カラヤンの旧盤(1956、ステレオ)がこの曲の理想的な演奏ともいえるものかと思います。感情ものっており、昼下がりの午後を思わせる感情、あるいは黄昏なのか、爽やかな朝の雰囲気なのか分からないような、曰くいいがたい、不思議な雰囲気なども良く出ています。

 

それに比べるとウィーン・フィルを使った新盤(1982-1984)は音響面におけるR・シュトラウスの可能性を追求した録音で、感情を完全に殺して、静謐な雰囲気を醸し出しています。

 

モーツアルトとR・シュトラウスは貴族的(シュトラウスの音楽は現代でいえば、セレブリティーのもの、というような雰囲気がある)ですが、モーツアルトは天真爛漫で、人間的感情に満ちています。それに比べると、R・シュトラウスは人工的ともいえる美感で、大人びています。

 

カラヤンの新盤はそのR・シュトラウスの音楽の持っている貴族的な部分を徹底的に詰めておりウィーン・フィルの持っているコクのある美しい響きを駆使しながら、音楽的な演奏を繰り広げています。

 

歌い手の雰囲気も傷一つなく、まるでマネキンのようですけども。それでも成立するのがR・シュトラウスの音楽です。

 

ラストの三重唱の巨大な響きなど、聴いていてただただ驚くようなスケールと美しさに圧倒されるのみです。

 

 

E・クライバーによるベートーヴェン「英雄」(1952)。ドイツ盤LXT2546。

 

 

彼の演奏した「田園」の時のようにせかせかせず、もっと堂々としていて、名演だと思いました。こういう演奏もできるのだということでしょう。

 

おまけで書く記事です(これは1月7日に書いたものです)。

 

ちょっと気になったことがあったので、書きます。

 

年始早々に、アメリカ軍がイランのソレイマニ氏司令官を殺害して、戦争になるのではないかと騒ぎになっています。自分はイランの知識など全くないので、何のことかサッパリ分からないでいました。イランとアメリカの戦闘自体は、去年の年末に断続的に続いていたようです。

 

一部報道ではソレイマニ司令官はイランの英雄だとかで、彼の殺害はイランの国民感情を著しく傷付つけているとか。戦争も辞さない姿勢だそうです。

 

まあ、最近のマスコミの報道では事実がちゃんと伝わってきているか微妙なものばっかりなので、判断しかねる部分もありますけど。

 

しかし急にトランプ大統領もどうしたのだろうかと。彼は昔からマスコミがいっていたほど好戦的な人物でもなく、色々な戦争は避けてきた感じがありました。しかし今度はトランプ大統領もイランの反撃に報復する構えで、引かないようです。

 

トランプの支持母体の1つである、Qアノンはこのソレイマニ司令官は、彼らのいうDS(ディープステート)といわれる、影の支配者たちの僕だったとかで、トランプの行いを肯定しています。

 

日本のマスコミでは全くやりませんが、トランプ大統領はアメリカを二分している、今の政府(トランプの政権、背後にNSAがいます)と旧態のDS(金融などを駆使し、アメリカ、ひいては世界を支配してきた影の政府のこと。手下にCIAがいるといいます)の片方の雄であるという、その事柄を理解しておく方が良いと、自分は思っています。

 

日本でもイランに物知り顔の人たちはソレイマニは「テロリスト」だったといい、一般のマスコミはソレイマニはイランの「英雄」だとしています。

 

これも中々分かりません。実際ソレイマニが「テロリスト」であって、それを知らないイラン国民が「英雄」だと思っている可能性もあるんでしょうか。さすがに現地を知らないと分からないことばかりだなあ、という気がしています・・・。

 

そんなことはまあ、どうでもいいのですが・・・実際このことはさして問題ではなくて、やはり我々が気になるのは・・・「本当にアメリカとイラクが戦争になるか否か」ということでしょう。

 

ソレイマニが「テロリスト」であれば戦争にならないだろうという人がいます。当然未だにアメリカとイラクの間でもそれなりの交渉の最中でしょうから、彼が「テロリスト」であれば、アメリカと事を構えることを良しとしなければ、イランも折れるかもしれません。

 

しかし・・・?もし、これがトランプ側とDS側の争いが表面に出てきたものだというのなら、お互い引かなくなる、という類のものなんでしょうか。

 

それを始めるのなら、「平和的な解決」を訴えてきたQアノンなんかもどうするんでしょうね。相手が悪人だから「殺していい」何てことばかりいっていると、結局行っていることと、いっていることの差が大きいと思いますね。やはり、色々理由つけたところで、詭弁だよなあ・・・。

 

 

 

と・・・まあ、書いてはみたものの・・・情報が少なすぎてよく分かりませんね。

 

第三次世界大戦の始まりだ、ていってる人もいたぐらいですが、どうなんでしょう。ちょっと様子見だと思いますが・・・。

 

なので・・・この件についてちょっと占ってみました。

 

易で出すと山地剥の上、タロットで出すと、塔の正位置でした!?

 

これ、両方とも大凶で、剥がれる倒壊、崩壊・・・の暗示があります

 

うーん、ちょっと不吉ではありますね・・・。

 

霊能者の江原啓之氏が2020年のキーワードに崩壊という言葉を上げていましたけど、ちょっと怖いですね。

 

ということで、おまけの記事でした。

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1/9 追記

 

このブログを書いたあと、すぐにイランがアメリカを攻撃し、イランの指導者ハメネイ氏はアメリカ人80人を殺害と報告。しかし、トランプ大統領はその後、会見でアメリカ人の死者はいないと発表。

 

アメリカ人の死者がいないということで、トランプ大統領は一旦アメリカ軍の軍事的オプションは封印しました。ここでもまたトランプは戦争を回避した形になりました。イラクは反撃して一応メンツも保ったということでしょうか、落としどころができた風に見えますね。

 

しかしイランの指導者たちはソレイマニをどういう風に見ていたのでしょう。それにトランプがアメリカ人の死者がいないといったことを、イランの国民はどう感じているのでしょうテレビとかネットの情報だと分からないことが多いです。

 

個人的にトランプを好きとかでもないのですが現状で判断する限り、メディアは彼を悪くいい過ぎだと考えています。同時に、ソレイマニがアメリカにしてみると「テロリスト」であったという側面なども、もっとメディアは伝えていい気がしました。その辺がこういう事件を見ていても混乱する理由です。

 

イラン国民もソレイマニを嫌っていたなどという話もあります。

 

ただまだちょっと分からないことが多いです。もう少し様子を見たいと思いますね。色々失礼いたしました。m(__)m

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたしますm(__)m。

 

 

フランス印象派の画家、クロード・モネ(1840-1926)に関する本を読みました(ロス・キング著、長井那智子訳)。

 

 

クロード・モネは好きな画家で、もう10年以上前(20年ぐらい前かもしれないです)にブリヂストン美術館(今月中にアーティゾン美術館になるそうです)に行ったことがあります。ブリヂストン美術館のコレクションと、他に何点か特集で飾られていたのを見た覚えがあります。

 

陽光と、その光が色彩に及ぼす影響を追求した彼の画風は、フランス風のパステル調のエスプリが全面に出ているように思え、描かれた対象に自分が溶け込んでいくようです。彼が生前成功した理由も分かろうかというものです。

 

彼に比べると、ゴッホとかゴーギャンはもっとアジア的なテイストも多いように思われ、彼らがヨーロッパで簡単に成功できなかったのもうなづける気がしています。

 

モネの絵は、同時代のルノワールも良く似た感じですが、個人的に母性的な裸婦像なんかが苦手で、どちらかといえばモネの方が好きですね。

 

 

(↑ルノワールの有名な・・・<ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会>・・・陽光を意識しているところが、自分は素人ながら、モネなんかとよく似ているのかなと思ってしまいます。)

 

内容は主に晩年の大作(睡蓮の連作)についての記述で、オランジェリー美物館にいかに彼の作品が飾られるようになったか、ということが分かります。今では立派な観光名所なんでしょうが、オランジェリー美術館(モネの絵が飾れる場所が中々無くて、植物園を改造したもの)が設立当初、人気がなかったという事実なども結構興味深いですね。

 

彼の絵は「理性的な描写」の多い西洋の絵画と比べると、もっと思想的で感情的でもあるのかと思いますね。思想的なキュビズムと比べると、モネの絵は「快感」ともいうべき感情を優先させているともいえるんでしょうね。見ていて「楽しい」わけですね。そこが人気なんでしょう。

 

1840年生まれのモネは、19世紀の人間なんだと思います。20世紀に入ってより「知性的」あるいは「理性的」になった画家達と比較すると、彼の絵画は自然との調和があるように思えます。そこが現代に生きる我々にとっても面白いところでしょうか。

 

オランジェリーに飾られる大作たちは第1次世界大戦や、モネ自身の白内障などの苦悩を経て、送り出された名作だということがよく分かった読み物でした。

 

 

この本を読む少し前に1930年のアメリカ映画、「西部戦線異状なし」を観ました。

 

これがよくできた映画で、当時としてはかなり「リアリズム」に徹している作品だと思いました。原作はドイツの小説(自分は未読)で、戦場のリアルさを映像化することで、立派な反戦映画になっていると思います。映画評論家の双葉十三郎氏も絶賛していますね。

 

「再度前線に戻った青年は、塹壕の前の蝶をつかまえようと身を乗り出した瞬間、敵弾に倒れる。この日の戦況報告は<西部戦線異状なし>であった。このラストショットを見たとき、この感動は永遠に忘れないと思った。戦争の悲劇を反戦的な言葉などなしに、人間の客観的描写と見事な技巧で描き出した本作は、戦争映画における文字通りのマイルストン(里程標)となった(監督の名前が、リュウイス・マイルストン)。」(外国映画ぼくの500本、双葉十三郎、文春新書)

 

1930年(当然第2次世界大戦はまだ始まっていない)の映画だというのに、観ていると「プライベート・ライアン」や「ハクソー・リッジ」なんかを思い出しました。確かにこれは戦争映画の基礎となるような作品なんでしょうね。

 

 

今の時代に観ると、変わった演技に見えるところもありますが、第2次世界大戦のリアルな映画は多い中、第1次世界大戦を描いたものとしても貴重なのかなと思いました

 

先日「ナショナル・ジオグラフィック・チャンネル」でアフガニスタンでテロリストと戦う兵士達のリアルな映像を流していました。部隊にカメラマンがついて録画していくものです。

 

それを観ていると、まるで戦争の「映画」のようなんですね。残酷なシーンもあります。住民が死に、兵隊の仲間も死にます。モザイクはかけられますが死体も映されます。

 

こういうのを観ていると、逆に、映画というものも相当に「真実」に近い映像を作り出しているのだと思いました。「西部戦線異状なし」の塹壕戦の様子なんかもそう思って観ると、かなり違います。

 

 

モネの著作の中では、多くのページがこの戦争のことに割かれています。

 

出兵する彼の家族、そして友人で政治家のジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)の活躍など、映画を観てから本を読んだのでかなり印象的でした。

 

 

(↑フランスの首相にもなった、政治家ジョルジョ・クレマンソー。モネの理解者で、オランジェリー美術館の設立に貢献した人物です。第一次世界大戦中のフランスの首相でもあります。)

 

絵画も戦争も全て人間の営みなんですね。人間が「自ら作り出しているもの」なんですね。それを痛感します。だとすれば我々の未来はやはり自分達の力で、作り出して行くしかないのでしょうね。

 

 

スター・ウォーズのエピソード9、「スカイウォーカーの夜明け」を観てきました。結構面白かったです。

 

ジョージ・ルーカスの手を離れて、ディズニー用のスター・ウォーズになったという感じですね。そういうラインで観れば、面白いといって良いのではないかと、思いました。

 

監督のJ・J・エイブラムズがインタビューで述べていたように、ルーカスのミディ・クロリアン(作品のテーマである、理力であるフォースを媒介する生命体)をメインとした案は却下され、新しい世代に訴えるキャラクターの創造にディズニーは向かったと思います。

 

個人的な予想ではルーカスはミディ・クロリアンと、新たな敵である、ユージャン・ウォングを結び付けようとしていたのかもしれません。

 

「ユージャン・ウォングは、別銀河から来た種族だった。彼らの伝説によれば、かつて機械文明と戦った経験から、ハイ・テクへの憎しみが強まった、というユージャン・ウォングは、手錠から衛星大のワールドシップまで、あらゆるものを‘‘育て‘‘、クローンにし、あるいは生体工学でつくりだす社会を発展させた。」(スター・ウォーズ全史、ダニエル・ウォーレス、ケヴィン・J・アンダースン著、富永和子、富永晶子訳)

 

しかし、このルーカスの正史は却下、出来上がってきたのは、旧来のスター・ウォーズを踏襲しつつ、新しい世代に訴えかける作品にすることだったように思われます。

 

ディズニー的には今後もコンテンツとして「スター・ウォーズ」を生かそうとするのなら、新しい世代に訴えなければなりません。同時に過去の世代を満足させるために過去作から大量の引用をした作品となったように思います。

 

作品の生みの親なら色々自由にできるんでしょうが、こうも世間に認知された作品を、別の人が作るとなると、色んなバイアスがあるんだろうな、と思わせる作品でした。しかし、その線を狙ったなりの作品になったように思います。

 

特に主人公のレイと、カイロ・レンのキャラクターは印象に残り、新たなヒーロー像は作り出したのかな、と思いました(しかし、サブ・キャラクター達の掘り下げは薄いようです)。

 

それに一応、エピソード4・5・6辺りのスター・ウォーズらしい感じを残そうとしたようで、今後もスピン・オフとなる作品を沢山作れるようにしたんだろうと、そういう感じがしましたね。そういう意味では「完結した」というよりも、ディズニー・コンテンツとして、ルーカスからディズニーに引き継ぎが終わった作品、という感じです。

 

これはこれでありなのかもと思います。

 

内容は、泣かす場面が多く、一本の作品としてはそれなりかなと。やはり自分の周りでも若い人は面白かった、という人が多く、年配の方の方が面白くなかった、という感じが多いようです。

 

新しい世代には受け入れられたんでしょう。個人的にはエピソード7は全く面白くありませんでしたが、エピソード7・8・9と続けて観ればそれなりのドラマなのかなと思います。

 

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今年もあと6日です。今年もブログを読んで下さってありがとうございましたm(__)m。

 

良いお年を(^^)。

 

今年もそろそろ終わりですね。(*^^*)

 

今年も自分は好き勝手にブログを書きました。自分の書きたいことは個人のブログぐらいでしか書けないので、こんなものかな。

 

他人様のブログを読んで、好意を持っても、あまり「いいね」とか、フォローは進んでしていません。どうも嫌がられることも多いのかな。長らく関係性のある方のみにしていることが、多いです。それもまあ、良いのか、悪いのか悩みますけども。

 

人間は個人ごとに意見の違いがあります。自分の意見を無理に勧めたいかといわれれば、それほどでもないです。

 

人間は自分の人生にそれほど不満がなければ、一々怒らなくても良いと考えるものでしょうか。今のところ自分は比較的安定しています。今後どうなるかは分かりませんけどね。個人的な意見を書くことが多いので、色々悩むことがあるのは事実です。なるべく、怒りとか不満から書かない、あるいは、書きすぎないようにしたいとは思っています。自分の性格上、難しいですけど。

 

さて何とかして今年の後半はクラシックのコンサートに行きたいと思っていたのですが、レコードばかり買い漁ったせいで、そちらに予算を回せませんでした。コンサートは来年以降にするしかないですね。

 

・・・それもすんなりいきそうもないけども。熱中できることがあるうちは、それをしつこくやった方が、個人的には良いことが多いです。


ゲルギエフを聴いた、ベルリン・フィルを聴いた、とか本当に羨ましいですが・・・。

 

うーん、もうしばらくレコードばかり買い漁りそうだな・・・(*‘∀‘)。

 

これが年内最後のブログになるかもしれないです。もう一度ぐらい書ければ、書くつもりです。

 

個人的には「地球温暖化」という言葉を使ってきたことがあるので、あまり大きなことはいえませんが、CO2による「温暖化」はもしかしたら間違いなのかな、と思い始めています。

 

スウェーデンの活動家、グレタ・トゥーンベリさんのことが話題になっています。確かにこの人は微妙ですね。バックに誰かいるのかな、そういう風には見えますね。トランプ大統領があれだけ食いついているとなると、普通じゃないんでしょうね。

 

一応アル・ゴアとか、グレタさんが環境問題を国際世論にすること自体は嫌いじゃないです。そのことを皆で考えることには意味があると思います。しかし、環境問題は貧困の問題と結びついてることの方が多いのかなと。

 

そうなってくると、中央銀行の問題ですね。そして「温暖化」の問題が「環境ビジネス」のようになっているのを見ると、グレタさんは資本家を批判しているようですが、あまりに「温暖化」のことを主張しすぎると、問題の論点が徐々にずれてしまう気がしています。そういう風に仕向けられている?

 

多分21世紀にはいってからだと思うのですが、北極圏に住むイヌイットたちがNASAに手紙を書いたそうです。星を見て生活している彼らは「地軸が移動している」と考えたそうです。星の位置が変わってきているというものです。太陽がかつて昇った位置に昇ってきていないというのだそうです。

 

また、ナショナル・ジオグラフィックによると2010年に起きたチリ地震によって地軸にズレができた、としています。地球の自転速度がわずかに早まった、とかいうのです。

 

チリ大地震でも地球の質量が一瞬、わずかに自転軸に向かって集まり、自転速度がわずかに上昇した、とかいうことらしいです。

 

自分も南国で海に潜ったとき、浅瀬のサンゴが死滅しているのを見て、海水温が上昇していると考えました。やはり温暖化なのかな、と。それがCO2によるものだという固定観念がありました。

 

しかし最近になってみて思うのは、もしかしたらこの「地軸のズレ」が地球環境の変化の原因ではないか、ということです。

 

これは必ずしも温暖化とは限りません。寒冷化の可能性もあります。

 

2016年、ナショナル・ジオグラフィックは、地軸のズレとは違う原因で、北極点がヨーロッパの方にずれたといっています。

 

でもそうすれば当然「極地」の氷は溶けるし、気候変動も生まれます。これは地軸のズレが原因でないにしろ、CO2が原因でもないという可能性があるということでもあります。

 

また、地軸が動くようなことになれば、地球内部の地殻活動も活発になろうかというものです。

 

必ずしもCO2が原因でない、そういう方向で考えた方が、最近我々のまわりで起きている災害などは説明がつくのではないのかということですね。

 

一応個人的には「地軸のズレ」説を推しておきます。気候変動だけでなく、地震なども多いですからね。

 

突拍子もない意見のように思えるかもしれませんが、最近の状況と良く照らし合わせて考えて見ると可能性はかなり高いと思いますね。

 

当然それが事実だとなってくると、今起きている災害というのは我々人間がいくら自然に抗っても、抗しきれないことになりますね。

 

場合によっては、考え方の根本さえ見直さなければならなくなります

 

個人的には「環境問題」は環境問題ポピュリズムにならないように、立ち止まって考えてみなけらばならないように思っています。

 

スペインのソプラノ、ビクトリア・ロス・アンヘレスが歌う、椿姫(1959)。指揮はトゥリオ・セラフィン。ASD359-361、ED2。

 

レコード屋にいくと割と多く置いてあるのが、ロス・アンヘレスのレコードです。マリア・カラスやシュワルツコップ、テバルディなどに比べて少し地味な印象がありますが、レコード屋で沢山目につくので購入。

 

 

当時のレコード用内包袋に載っている、アーティストの写真の中、3人の女性のうちの1人(カラス、シュワルツコップ、アンヘレス)で、時代の花形だったことが分かります。

 

 

↑)これは別のLPの内包袋ですが、当時のスターたちの顔が並んでいます。多分1950年代後半から1960年代にかけてです。

 

 

↑↓)フィッシャー・ディースカウ、メニューインらに並んで、ロス・アンヘレス、マリア・カラス、エリザベート・シュワルツコップなどの顔が見えます。

 

 

ヴェルディの「椿姫」はこの作曲家の1番の人気作で、この作品の主役を歌えるのは、実力と人気を兼ね備えた、本当の歌手だけです。

 

アンヘレスの声は少し濃い、癖のあるものだと思っていましたが、全くそんなことはなくて驚きました。よくクリュイタンスの指揮した、フォーレのレクイエム(ステレオの方)に参加していることが話題になりますが、必ずしも印象に残っていなかったのは、その歌い口の自然さが原因だということでしょう。最初はちょっとヴィオレッタの印象とは違うかな、と思っていましたが、聴いているうちにヴィオレッタにしか思えなくなりました。

 

透明感のある、声の艶が美しいです。

 

少しテンポが遅い気がしますが、さすがにイタリアオペラの大家、セラフィンの指揮でこの曲の魅力が良く伝わってきます。聴いていると、ヴェルディがいかに巧みに物語の核心と、その意味合いを簡潔にまとめ、悲劇ですが、決して暗すぎない甘美な音楽に仕上げたかが、伝わってきます。しっかりした物語の一本の筋道に沿って、音楽が力強く構成されています。

 

原題の「ラ・トラヴィアータ」は「堕落した女」という意味合いで、これは高級娼婦ヴィオレッタの物語です。デュマ・フィスの原作だと主人公が生理の日に「椿」を身に着けたということから、特に日本では椿姫と呼ばれるようです。「椿」自体、日本から西洋に渡ったもので、「日本の薔薇」と呼ばれたものです。それ故、日本には「椿姫」という邦題を、何者かが定着させたのかもしれません。

 

高級娼婦ということで、本来の愛を知らない女性が、純粋な青年アルフレードの求愛によって「愛」に目覚めますが、ジェルモン家(アルフレードの家)の事情から身を引かざるを得ず、悲劇となる、というもの。確かに悲劇になったせいで、「娼婦」とはいえ、一途に男性を思う女性の心持が「マダム・バタフライ」同様に、より浮き彫りにされています。

 

アルフレード役のカルロ・デル・モンテも作為性のない自然な歌い方で、魅力を感じましたモーツアルトの「ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)」が女漁りを続けるいわば「最低の男」の像を力強く描いていますがアルフレードは好感の持てる、女性への尊敬の念を持った男性として描かれています。

 

仮に「椿姫」のような悲劇が本当にあったとしたら、当事者などはかなりつらいものですが、これを甘美な音楽に仕上げることで、聴き手の我々はそこで起きている意味合いを冷静に、あるいは感動をもって理解することができます。「ドン・ジョバンニ(これは一種のファンタジーでもありますが)」や「マダム・バタフライ」などにしても、悲劇などが芸術的に高められることで、教訓といいますか、私たちの人生観に整理された悲劇としてストックされていくわけです

 

そういう意味では「音楽の美しさ」などは重要なわけで、中々美しくない悲劇は受けいれられない、という意味においても、芸術上の美しさは重要である、といえると思います。

 

さて、このアナログ盤ですが、これは初期HMVのレコード(ED2)です。コロンビア・HMV・デッカはステレオ・レコード期の初期において3大レーベルといって良いと思います(英国において、コロンビア、HMVは合併してEMIとなります)。

 

 

(↑これが当盤のレーベル・デザイン。一応セミ・サークルとしておきます。しかし、HMVはこれと似たデザインが多くて、中々区別がつきません。)

 

このレコードはHMV(HIS MASTERS VOICE、つまりニッパー犬と呼ばれる、ワンコが、亡くなった自分の主人の声を蓄音機から聴くというマーク)のもので、初期盤は金縁ゴールドですがその1個型落ちのセミ・サークル・レーベルになります(レコードは金型がプレスを繰り返すほど劣化するので初めの頃のレコードほど音が良くなります。それ故、初期盤とかオリジナル盤が中古市場で高価になるわけです)。

 

 

(↑イギリスの風景画家の愛犬だったそうです。噛み癖があるのでニッパー犬とか。)

 

 

 

(↑これがHMVの初期ステレオのオリジナル・デザイン。コロンビアだとアミコロに当たると思います。金の縁がついています。これはコンヴィチュニーのオランダ人。)

 

 

(↑HMVとコロンビアの初期盤についている、EMIのシール。勝手に商品の価値を保証するものだと思っています。)

 

ED2(オリジナルの次の第2版のこと)辺りまでは箱に金色の「EMI」のシールが貼って有り(ED1とは別の位置)オリジナルに比べると落ちるかもしれませんが、音はかなり良いです。第1幕の前奏曲はヴァイオリンの音色を生かした音楽ですが、芯のある、艶々とした良い音色で、美しいです。

 

CDが登場し、レコードは無くなるといわれたようですが、今聴くと単純に音質と共に当時の作り手たちの雰囲気がレコードに残っているために、音質プラス・アルファの音色になっているといっても過言ではないでしょうその辺がレコードの面白さでしょうか。

 

ストリーミングが流行りだし、今度はCDが無くなるとかいわれてますが、どうでしょうかね。ストリーミングは巨大なインフラがいりますから良いことばかりではないと思いますけどね

 

最近はあんまり単純に物事を割り切る意見に、ついていけない時があります。

 

 

ビクトリア・ロス・アンヘレスの歌う、「マダム・バタフライ」(1954)。アンヘレスはステレオの新盤もあるそうですが、こちらは旧盤。指揮はガヴァツェーニ。ALP1215-1217。

 

ロス・アンヘレスの声が若く、本当に嫌みのない歌い方で、新鮮です。若干音が固い気もしますが、中々美しいと思います。

 

「椿姫」、「マダム・バタフライ」、「カルメン」は全て初演が失敗しました。それがジンクスなのかはよく分かりませんが、この3作を3大オペラという場合もあり、特に人気のある作品となりました。

 

しかし、「バタフライ(蝶々さん)」は我々が日本人ということもあり、逆に親しみにくい部分も多いと思います。日本のことを良く知っている我々にしてみると、これは「日本」じゃない、ということが多いわけです。指揮者の朝比奈隆がいったように、これは「イタリア・オペラ」であり、時折日本の音楽が流れますが、その辺の折衷を楽しむ音楽ともいえるでしょう。

 

3大オペラにおいては、オペラの主題となる、女性の一途な心と、男性の嫉妬心、というものが、良く表れている場合が多く、この「バタフライ」には蝶々さんの一途で兼気な心が、聴き手の心を打ちます。

 

確かにこれはイタリアオペラだと思うのですが、蝶々さんのキャラクターには、日本の女性像がちゃんと表現されているように思います。アンヘレスも若々しい声で、初心な蝶々さんの雰囲気に合っています。

 

蝶々さんの年齢はわずか15歳。それをアメリカ人のピンカートンは自分の楽しみのために弄んでしまいます。ピンカートンはドン・ジョバンニ的人物で、こういう台本を読んでいると、西洋のオペラの台本は人間のタイプをよくよくより分けていて論理的に書いているなと思わせます。

 

プッチーニの音楽は蝶々さんの登場シーンから泣かせますね美しくも切ない音楽で、幼い蝶々さんの悲劇をはじめから予感させます。物語はかなり残酷なんですが、音楽のせいで聴いている者は幾分でも救われる思いがしますね。

 

しかし、それは単純な物語の美化ではなしえないということです。

 

カルロ・マリア・ジュリーニによる、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」全曲(1959)。SAX2369-2371(ED2)。

 

全く個人的なことですが、アナログ盤を聴くようになってから、名盤の基準が変わってしまいました。CDでも音質の問題はありましたが、それ以上に演奏家の演奏にこだわっていたように思います。ところがアナログ盤については、演奏そのものにおいても当然問題はありますが、それ以上にレコードとしての「価値」が強く意識されるようになりました。

 

骨董品の価値というのか。しかしそれもただ古ければ良いというのではなく、当然ながら「価値」の高いものは「演奏」と「音質」が良いということになります。

 

 

ジュリーニがコロンビアに入れた、モーツアルトのオペラ全曲、「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」の初期盤はとても価値があるものの1つです(ステレオ)。特にオリジナルは、日本では通称アミコロ(多分、網目状の模様のついた、コロンビアのレコード、という意味だと思います)と呼ばれ、ブルー・シルバー・レーベルとして人気があります。実際ほとんど売っているのもみないですし、値段も高額です。

 

 

(↑いわゆる、アミコロ。これはクレンペラーのフィデリオ。バイノーラルの効果を意識したデザインでしょう。)

 

今回はその1つ型落ちの第2版(ED2)です。有名なSAXのマトリックスのついたレコードでは後半からこの、ハーフ・ムーンといわれるレーベルのようです。ジュリーニのモーツアルトはこのED2でも珍しいんじゃないかと思います。

 

 

(↑これは当盤のレーベル・デザイン。ハーフ・ムーンとか、赤音符とか呼ばれているようです。)

 

聴いていると、これは本当に素晴らしいですね。

 

本当に「音」を聴くレコードだと思います。高貴で気品のある音がします。ジュリーニの指揮は重厚ですが、滑らかでエレガントです。

 

歌手陣も豪華で、ドンナ・エルヴィーラにシュワルツコップ、ドンナ・アンナに若き日のサザーランド、タイトル・ロールにウィーンのバリトン、エーベルハルト・ヴェヒターが起用されています。

 

↑)エーベルハルト・ヴェヒター

 

↑)ジョーン・サザーランド

 

とにかく全体に品が良く、格調高い美しさが目立ちます。豊かな音色、かっちりとした歌わせ方であり、歌い方ですが、ジュリーニによってイタリア風の雰囲気が出るのが最高です。しかし、この時ジュリーニはまだ45歳らしいですが、若いのに素晴らしいと思いました。

 

↑)エリザベート・シュワルツコップ

 

先を焦るということがなく、リズムも動かすということがありません。どのシーンも豊かな歌に溢れ、モーツアルト特有の官能美も立派な構成で発揮されていきます。ドラマを強烈に優先するということではないですが、SAX盤の持つ、暖かい充実した、コクのある音質が聴く者を魅了します。

 

これぐらい重厚な指揮だと、ちょっと重苦しくなりそうですが、しかし不思議と、イタリア風といったらよいのか分かりませんが、華やかな香気が香ってきます。個人的はその辺が1番、聴いていて、堪えられないところです。

 

この、気品ある、香り立つエレガントな雰囲気は何物にも代え難く、最高の思いにさせてくれます。

 

本当に素敵です。

 

↑)カルロ・マリア・ジュリーニ

 

 

ジュリーニによる、ヴェルディ「レクイエム」(1964)。SAN133-134。初出盤。金色の中に白い犬のレーベル。

 

 

カルロ・マリア・ジュリーニが巨大な表現力を駆使して、繰り広げる歌の饗宴です。ショルティのような直線的表現ではなく、大河の流れのような歌心を駆使した表現で、ところどころ、特にソリストに歌わせる部分で、じっくりとかみしめるように歌わせています。歌手も豪華で、シュワルツコップの他、クリスタ・ルードウィッヒ、ニコライ・ゲッダなどです。

 

やはりジュリーニが指揮すると重厚さが目立つようになると思います。歌い手もそれに合わせての起用かもしれません。自分としてはもっと直情的にすっきりとやってくれた方が、ヴェルディのレクエムは聴きやすいでしょうか。相当にテンポを落とすシーンもあり、ちょっともたれるかもと思う時がありますね。

 

確かに、これぐらいしっとりとやってくれた方が美しく響く部分もあり、その辺は好み次第かと思いました

 

巨大な壁画のようなレクイエムかと思います。

 

1947年からドイツの指揮者、フルトヴェングラーは戦後の演奏を開始しますが、戦争中に旧ベルリンフィルハーモニーは空襲で破壊されており(再建は1960年)、会場は急遽映画館であったティタニア・パラスト(現存)が選ばれました。

 

今日フルトヴェングラーの演奏を聴く人が、どれぐらいいるかは知りませんが、録音はモノラル録音しか残っていないために、常に音質の問題が付きまといます。近頃ではドイツのレーベル「audite」がRIAS(旧西ベルリンの放送局)に残っていた本物のオリジナル・テープから作ったCDが話題になったそうです(自分は未聴、音は良いといいます)。

 

同じレーベルが作った、ルツエルン音楽祭での有名な「第9」などは買いましたが(SACD)、個人的にはやはり音質の改善とはいっても、汚い音だという印象に変わりはなく、フルトヴェングラーのCDは、ここのところ長らく購入していません。

 

 

(↑ルツエルン音楽祭での第9のSACD。彼の残された最晩年の第9の演奏で、EMIがフルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲全集を作る際、有名なバイロイト盤との選択肢に入っていた録音です。テンポは非常に遅く、これを最晩年の「疲れ」とみるか、「円熟」とみるかで評価は分かれるでしょう。バイロイト盤に比べて「深み」があることを指摘するのは間違いではないと思います。)

 

ただSACD用のテープを利用した、ウィーン・フィル(主に)との全集のLPはかなり気にいっていて、その滑らかな音の流れや、音の美しさに惹かれて、今のところ歴史的な初期盤に手を出さずに済んでいます。

 

 

↑)ワーナーによる新しいベートーヴェン交響曲全集のLP。

 

しかしこれはベートーヴェンの交響曲全集なので、他の作曲家の演奏も聴きたいと思い始めていました。そんな時に読んだのが評論家、許光俊氏の「クラシックの至宝」という本で、ウィルヘルム・フルトヴェングラーとベルリン・フィルハーモニーによる、戦後の一連のライヴ録音からの一部が、LP化されているという情報でした。以下に少し抜粋します。

 

「ことに数年来、音質が良くなったという触れ込みでフルトヴェングラーの有名な演奏が次々に出直している。絵画の方でも『天地創造』や『モナリザ』を洗浄したらこんなことが分かったという類の話が盛んにされているのとそっくりだ。」

 

「もしあなたがフルトヴェングラーに関心を持っていて、アナログ・プレイヤーを所有しているのなら、このセットは入手すべきである。また、もしプロの書き手なら、これを無視してフルトヴェングラーを語ってはならないだろう。今後の基準となる製品だということはだれも否定できないだろう。」

 

このLPの存在自体は知っていましたが、何分自分が、LPそのものを聴きだしたのが去年の後半からでしたので、詳細はよく分かりませんでした。

 

しかし、正直ここまで断言調で書かれているものに、興味を持つなという方が難しく、フルトヴェングラーの新しいLPが欲しいと持っていた自分は聴いてみることにしました(LP14枚組でお高いですが、ヤフオクなら半額程度で購入できる可能性があります)。

 

 

収録曲はベートーヴェン、エロイカ2種(1950,1952)、田園2種(1947、1954)、第5、2種(1947、1954)、シューベルト、グレイト(1953)、未完成(1953)、ブラームス、第3、2種(1949、1953)、第4(1948)、ブルックナー、第8(1949)、ワーグナー、トリスタンとイゾルデから「前奏曲」と「愛の死」(1954)、他。(全てティタニアパラストでのライヴフルトヴェングラーとベルリン・フィルによる)

 

音質については全くもう、CDで聴いて来た時とは比較になりません今までテレビのモニターで見ていた時のような感じが突然映画館の大スクリーンに変わったかのようです細部の見え方、聴こえ方というのか、それが非常に明晰になり、生々しさが比べ物にならなくなりました。

 

他のアナログ盤でライヴ録音を聴くと比較的がっかりすることが多かったのですがこのLPの鮮度はそういった過去の思いを吹っ飛ばしてしまいました。

 

初期盤の持つセッション録音の持つ魅力は、人工的な録音効果と呼ぶべきものだと考えています。つまり「音」だけが「録音」され、会場で聴いている音の聴こえ方ではない魅力というのか。「音」そのものを間近で聴くという喜びです。

 

それがライヴ盤はどうしても会場の咳払いや、空気の音が入り込みますから、セッション録音に比べてドキュメンタリー感は強まり、音もセッションに比べると落ちるわけです

 

ところがこのLPは、どの部分も非常にくっきりと音像が浮かびあがります。セッションのように音だけ聴くという感じではないですが、解像度の高さと音の良さが手伝って、ティタニアパラストに臨席しているかのような臨場感を出しています。音の鮮明さを得る為に、色々細工はしているのでしょうが、聴いていると、ティタニア・パラストでの厳粛で静かな雰囲気を感じますね(過去のCDの録音に比べて、です。モノラルで音が固い部分は当然あります)。

 

従来からフルトヴェングラーの録音で、マイナスにいわれてきたことが、表現のディフォルメに関する「やり過ぎ感」でした。しかし実演を聴いた人たちが一様に口をそろえていうのが演奏会では、そのテンポの急変やダイナミクスの変化が自然に聴こえる、ということです。ここに一つ、録音しか知らない我々の負い目があった訳です。録音しか聴いてこなかった我々は、それを体験できてこなかった、ということです。

 

吉田秀和氏もフルトヴェングラーの実演を聴いてレコードで聴くときとの印象の違いに驚いたといいます。以下は吉田秀和氏の証言です。

 

「レコードで聴くと、フルトヴェングラーがしきりと細かくテンポを動かして、早めたり、おそくしたりするのが、ややわざとらしくきこえる。しかし実際にきくと、そのテンポの変化は、いつもダイナミックな変化と照応していて、音量が細かく増減し、それにつれて音色もきらめくような輝きから艶消したようなピアニッシモ、いや艶々していて然も微小な弱音に至るまで、変化しているので、少しも不自然に感じられない。これはまたトスカニーニのように絶対にイン・テンポでおしきっているようにきこえるくせに実は細かくふくらんだり、しぼんだりしながら動かしているのと、実に見事な一対をなしている。ともかく、フルトヴェングラーは、見ながら実演に接するのと、レコードできくのとは大変なちがいがある。」

 

多分ですが、今回のLPはこうした過去の批評家たちがいってきた、フルトヴェングラーの実像に一番近い音質のものではないかと思います(実演にどの程度近づいているかは分かりませんが、このLPでは時に演奏家の息遣いのようなものが感じられる瞬間があります)。

 

戦後初の演奏会による「田園」(1947)など、一見音が悪いように聴こえますが、強音部の脂っこいほどの鮮明な音色を聴くと、今まで感じていたのと違う印象に襲われました。自分はフルトヴェングラーの音色はもっと芯のあるマイルドなものだと思っていたので、これほど透明感が感じられるとは思ってもいませんでした。

 

オーケストラの各楽器のソロも明晰に聴こえてくる部分もあり、初めて聴くような感じがします。1947年、5月25日録音の第5(有名なグラモフォン盤は5月27日、表現にそれほどの差はない)、におけるベルリン・フィルの伸びのある、雄渾な金管群の迫力なども今まで聴いたことがありません(聴いたことがあるのかもしれませんが、聴こえ方が違います)。

 

ブルックナーは低弦の音が鮮明で、迫力があります濃縮された感情の表現はややくどさを感じさせますが、迫力も相当なものだと思います。シューベルトのグレイトは線の太い、壮大な迫力があり、未完成の第2楽章の切実で悲劇的な味わいは、フルトヴェングラーにしかなし得ない表現でしょう。

 

ブラームスの第3(1953)もフルトヴェングラー流の、前進性をはらんだ表現で、ブラームスというよりは時折ベートーヴェンを感じさせます

 

ワーグナーの、トリスタンとイゾルデの前奏曲と愛の死は、すこぶる感動的で、前奏曲の冒頭はフルトヴェングラーらしい弱音でおずおずと始まり、よく練られた音色が不健康な性愛の憧れを、切々と訴えていきます。この辺りは本当に心に沁みます。そして煌めくような弦の音色に彩られながら、気の遠くなるようなオーケストラの爆発力は、イゾルデの愛欲に沈む官能性を表現して余りありません。

 

しかしこうやって聴いてくると、やはりチェリビダッケが比較的フルトヴェングラーに似た響きを創造していたのだと改めて認識させられましたフルトヴェングラーは作曲家のいいたいことを代弁しようと必死ですが、チェリビダッケにはそういうところがない、という差はありますけどね。

 

 

ルツエルンの「第9」も近頃同じレーベルからLP化されました。日本語の解説を平林直哉氏が書いていて、このLPを、ルツエルンの第9の最終形としています。ライナーから少し引用しておきます。

 

「しかし、音の出方、響きの質感、遠近感などがCD、SACDとは全く異なる。別な言い方をすれば、音のリアルさや何とも言えないふくよかさと温かさがにじみ出ていて、一歩も二歩も生の演奏に近づいたと感じないわけにはいかなかった。」

 

第1章など、テンポはかなり遅く、時に繊細な弱音を響かせますが、CDだとどうしても「音」が、キンキンした小さな機械の部品のような響きになってしまいます。LPではそれが柔らかな、今現在その場で発生しているかのような音色で、かなりの美しさがあります。

 

CDはどうしても全体像を見せるような感じになるので、LPの持つライヴ感に似た響きは出ないようです

 

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ウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)とは?

 

 

ドイツの、フルトヴェングラーという指揮者は音楽が「芸術」であることを身をもって体現していた指揮者でしたそれは一種の宗教にも近く、近代的なスマートな指揮者達とは一線を画します。世界最高といわれるベルリン・フィルを率いた指揮者としてカラヤン(カラヤンは8代目、フルトヴェングラーは7代目)と比べられる時もありますが、一般的な愛好家ではなく、コアなファンにしてみるとその「神秘性」において隔世の感があります。

 

神秘性などといっても、どういうものかは分からない人がほとんどでしょうが、それは芸術至上主義の徹底的な肯定、というべきもので、導かれる音楽の内容は一言で語り切れないような奥深さがあります。

 

モノラル録音しか残さなかったのでその神秘性は今なお健在かと思います。

 

2度の世界大戦を経験し、特にナチスとのかかわりあいで彼は辛酸をなめました。

 

単純に天才であるとか、ないとか、そういうことでもいい切れない存在であり、今でも「ドイツ音楽の理解者」としては、個人的には彼が本当の意味での第一人者ではないかと思っています

人間の性愛に対しての考察を少しだけ書いておきます。前回の「ハロウィン」の記事の続きで書こうと思っていたのですが、内容が前後しました。

 

また以下の記事は個人的な考えと偏見によるものです。一見人々全体に対して論を述べているかのように書いていますが、本質的に「性」の問題はケース・バイ・ケースであって、各人が考えるべきことであります。ただ、そこに単純化したものの考えができる部分もあるだろうとは思い、自分なりにまとめたものです。

 

あくまで「参考」という意味合いで理解していただければと思います。

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前回(ハロウィンの回)の続きとして、人間の性愛について、もう少し掘り下げます。個人の経験として、西洋の芸術や、学者などの意見が好きなものですから、そこらあたりから引用をしていきます(こうした内容がキリスト教の持っている、純潔の概念を免れないことは止むを得ないので、先に書いておきます)

 

性愛の興奮が本人の「劣情」や「苦悶」などの交換条件だとすれば、前回書いたように「快楽(オルガズム)」を最終的な目的(手段でなく)とした行為は本人の堕落を招く可能性があります(若い時は仕方のないこともあるかもしれませんが)。それは最終的に各人の内面と肉体的な分離を促し、物理的(動物的な行い)に惹かれながらも、内面的には「憎しみ(一種のニヒリズムから)」を抱くようになるといっても過言ではないように思えます。

 

<リヒャルト・ワーグナーのトリスタンとイゾルデから>

 

 

「トリスタンとイゾルデ」というR・ワーグナーの描くオペラの中で、身分の違いから決して結ばれることのない恋愛なども、似たような効果を生むことがあると思います。

 

外的(社会的)な障害を傾向をもつ恋愛は、その「社会的障害」を取り除かなければ成就しません。しかし、その「社会的障害」に対しても「性愛の快感」は働くのであって、そこにはまった人間は「疑似的な障害の解決」である「性の快楽」に頼るようになるという構図です。故にこの作品に「道徳的解決」を求めようとすると、最後は悲劇を描かなければいけないことになります。だからこそ、象徴的にイゾルデの「自慰的な死(イゾルデ愛の死と呼ばれる音楽)」となります。

 

この社会的障害の強さの程度によって、性的な興奮な度合いも高まりますから、どうしても取り除けないような障害は、興奮の程度を著しく高めるわけです。

 

前奏曲と第2幕のデュエット、そしてイゾルデの愛の死は明らかに「性行為」を暗示した音楽ですが、この難しい問題に対して、下品にならないように設計されていることが、この芸術家の力量を示しています。

 

「トリスタンとイゾルデ」はこの「破滅」に向かう、性愛がつくりだす「ヒロイズム」の陶酔感があり、その疑似的体験が人々を虜にする部分でしょう。

 

しかしこの連鎖が続く限り、こういった行いは「悲劇」以外の何ものでもなく、普通に暮らそうとすると、心理的な「不安」や「恐怖」を抱くようになるのは免れないように思います。当然それは常に「不安」や「恐れ」を抱いていた方が「性の興奮」に近づけるからでもあるといえるわけです(それが常態化するということ)。

 

ワーグナーのオペラだと「パルシファル」に出てくる「クンドリ」という淫婦などがその象徴ともいえます。R・ワーグナーの業績は多岐にわたるといえますが、キリスト教圏が抱いてきた「アダムとイヴ」の原罪の解決に対する回答の一例を提出したことが、その一端といえると思います。

 

 

エマヌエル・スウェーデンボルグの著作に「結婚愛」というものがあります。彼はこの著作の中で次のように述べています。

 

「ここでは本当の結婚愛 amor vere conjugialis についてとり扱っているわけで、俗に言われている結婚的愛 amor conjugalis についてはとり扱いません。後者はある人にとっては、限られた性愛以外の何物でもありません。結婚愛は英知を渇き求めその英知にむかっていっそうの前進を続けていく人にしかありません。主はあらかじめそのような人を予知されその人たちに結婚愛を供えてくださいます。この結婚愛はかれらにとっても性愛から始まります。いやむしろ性愛をとおして始まりますが、性愛が起源ではありません。それはちょうど英知が段階的に高まり、光に照らされてくるような感じで始まります。英知と結婚愛は別れられない連れなのです。」

 

エマヌエル・スウェーデンボルグは以前少し触れましたが、スェーデンの靈能者で、一応神学者としておきます。

 

ここでスウェーデンボルグは人間の愛を、動物的な「性愛」から「純粋な愛」に高めなければならないことを暗示しています

 

また他の著作では次のようにいっています。

 

「神は、愛そのもの、英知そのもの、この愛と英知こそ、神の本質である。」

 

そしてこの「愛」の反対語が「悪」であり、「英知」の反対語が「偽善」だとします。確かに人は「悪」を愛することが可能です。「姦淫」を愛した人は自然とその性質が「姦淫」に近づくことが予想されます。これは「愛」が本人を「悪」に導くパターンです。それ故、その「愛」が本当に正当なものが判断するためには「英知(経験や知識など)」が必要だということになります。しかし経験や知識だけを知っていても、愛と行動を伴わないのなら、それを行わないので何も成し得ないがために、「偽善」となるわけです。

 

スウェーデンボルグは「結婚愛」という著作の中でその他のことについてもかなり詳しく述べています一夫多妻制のこと、売春よりも不倫の方が道義性において問題があること(この場合、売春はあくまで個人的性欲の差に注目しています余剰の性欲を解消するのにやむを得ない場合があるとし、浮気や不倫の場合は直接的に、信頼あるものへの裏切りになるからだとしています。つまり不倫はまず自分への配偶者への裏切りと共に、浮気相手の配偶者への裏切りでもあるわけです。ところが、これは男性目線ですが、娼婦に対する場合、割り切った関係であり、あくまで性欲の問題に注視しています。故に、道義上の問題は薄れます。しかし、上述したように、娼婦自体、自ら生き方を自覚しない限り、負の連鎖に入る可能性は充分にあるといえます。これが問題でないともいえないとは思います)。さらにスェーデンボルグは本当の意味合いでの結婚愛(外面の結婚でない)などについて述べています。ちょっとここでは書き切れませんので、止めます。

 

 

最後にユングの理論から少し書いておきます。

 

心理学者のカール・グスタフ・ユングは人間の内面に精神(魂)が存在するとして、そこに名前を付けました(人間の深層心理を発見したのは、ユングの師に当たる、ジークムント・フロイトだそうです。ちなみにコンプレックスという言葉を世の中に定着させたのはこのユングだといいます)。

 

男性の場合これを「アニマ」といい、女性の場合これを「アニムス」といいます。そして男性の場合(女性にはこの傾向はないという)、この「アニマ」は対象となる女性の像によって、その成長が表現されるとしています

 

ユングは「性」の成長について、かなりはっきりとした意見を述べているので、参考として、ここに書いておきます。

 

人間の「性」の成長について、これは段階的に成長するものであって、ユング博士は第1段階を「娼婦」のアニマとし、人間としての尊厳というよりは、より動物的な意味での女性を、象徴的な像として示しています。

 

これは、子孫を残すという行為としての性であり、相手への愛情よりも人間個人の、動物的な衝動によって突き動かされている像といえます。性を商売とする行為などへの肯定などが、この時期にはあるといってもいいかもしれません。

 

これが成長すると、「ロマンティック」な性質を帯びたアニマとなり、単に無数に存在する女性であればよいというイメージから、1人の女性を慕う状態に入るとしています。これによって男性は自分が何か1人の人物を選び取らねばならないという、決断をせねばならず、人間としての成長を促されます。

 

ところが、母性への意識が強く、人間としての「個」、そしてその人間よりは「家」としての人間の在り方を求めてきた日本の男性は、「娼婦」のアニマとの対決を避けるきらいがあり、その「退行」が見られるといっても過言ではないでしょう(家に縛られ、個人として生きて行くということが難しいわけです。それ故環境的にそういう状態がない状況を創り出そうとしてきたといえます。しかし反対に個人的な体験での克服がないために、意識的に色仕掛けをされると、なびいてしまう男性も多い、ということになります)。

 

故に日本においては、「姦淫」の問題に対して、気を付けなければならないのは「女性」であり、「男性」ではないという構図が出来上がるようです(全ての日本人男性がそうだということではありません。そしてそのこと自体が「良い」、「悪い」とはまた別問題といえます)。いわば、「性的」に「清楚」でどこか「幼さ(無垢)」ともいえるものを備えた女性を求めていくのが、日本人男性の傾向ともいえるのかもしれません。

 

さて、ユングは、さらに進んで、男性個人がこの状態をさらに克服すると、「靈的」といわれる女性像を男性は内面に獲得することになるといいます。セックスがお互いへの尊厳と、聖なる愛とに変換されるとします。ここまで来ると人間は平和な境地に達しているといっていいのかもしれません。

 

最後は「叡知」といわれる「アニマ」になるといわれ、あるいは「両性」的な存在、弥勒菩薩とか、両性具有の天使を思わされる存在に近づくとしていますが、これは我々にはあまり現実的ではないのかもしれません。

 

(「アニムス」については「成長」という概念はなくとも、当該女性の好む男性像によって直接的な影響があると見た方が良いと思います。)

 

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個人的な話ですが、前回ちょっと書きましたが、外国のポルノをさんざん見ている時期がありました(恥ずかしい話ですがね)。すると、平時、つまり何もない時に、散々心に「不安」を感じるようになったので、これは危ないと思うようになりました。「不安」だけでなく、ときに意味もなく「恐怖」を感じたりしたものです。その原因を自分なりに考えていくと、上のような事柄に辿りつきました。これは自己卑下などにも結びついていることがあると思います。

 

ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」はわざわざ「昼と夜」という意味合いを分けて使わせていますが、要は「昼」は快楽を貪ることができないのでより「不安」は露出する世界であり、「夜」は快楽に浸ることができるので、不安は快楽に変わる世界なわけです。

 

しかし本来なら、無理やり「快楽」を得ようとしなければ、その「不安」や「恐怖」そのものがいらなくなるわけです。

 

大昔から「性の問題」は西洋、東洋共にあったと思いますが、単純に欧米風の性の快楽をむき出しにした行為というものに対する対処法というものが、この国にはないということを自分は知り、その理解は自分でするしかありませんでした。

 

そうでなければユングのいう、「娼婦」のアニマのところを永遠にさ迷うことになります。自分のまわりには多くの女性関係を誇る男性(日本人です。しかし日本人は西洋と違うといいつつも、原則的には変わらないところもあると思います)もいますが、これもケース・バイ・ケースであるはいえ、本来それほど威張るようことでもないでしょう。

 

異性関係が多いとか少ないとか、そういうことを非難しているのではなくて、それをわざわざ誇るか、誇らないかという様なことです。そこから何か学んだのなら、その人は謙虚になるだろうと思います。わざわざそれを誇るということは、いい歳をして、「娼婦」のアニマを抱えたままといえるわけです。

 

まあ、それこそ西洋人の描きだした、「ドン・ジョバンニ」のように、女たらしを、誇りをもって悪びれもしないのなら、それもまた一興かもしれませんけども。

 

ヨーロッパの芸術や文芸にはこうした「男性」の問題をあつかったものが多くあります。以上のようなことを理解していないと分からないことも多いように思えます。