ヒマジンノ国 -37ページ目

 ヒマジンノ国

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ドストエフスキーの小説には「予言的」といわれる側面がある。地下室の手記で描かれているような「地下の住人」は、インテリゲンチャの出現と合わせて登場した、「自意識過剰の人々」を明確に描いている。

 

「外」の世界に触れることなく暮らそうと思えばできる現代だが、それは一つ間違えれば、人生の大事な時期を、何の挫折を知ることもなく、生きていくことになるかもしれないということを、示してもいる。

 

それは単に、「気位」だけが高く、協調性のない人間を作ってしまうことにもなりかねない。現代に起きる「引きこもり」の人々の中にはもしかしたら、このドストエフスキーの描く人物像に「自分自身」を発見するのかもしれない。

 

自分もまた、学生時代にドストエフスキーの「罪と罰」を読んで、衝撃を受けた者の1人だ。

 

現実を知らない人が、時に自分を「優れた人間」と考えたがる理由を、ラスコーリニコフは見事にいい当てている。

 

少し話はずれるが、実際、今の日本社会は大事な青年期を学生生活で、観念的な「学問」をさせて過ごさせる。それはもしかしたら「現実的な世界」を知らない人間を大量に作っている可能性がある、といえるのかもしれない。

 

彼らは自然と、頭で何事も考える癖がつき、実感を待たないまま大人になっていくという可能性がある。そして実感を持たない人間はおそらく現実を怖がるようになるだろう。

 

戦前(第2次世界大戦前のこと)は本当に勉強などしたくない人間なら、12、3歳程度で社会に出て、働かざるを得なかった。大学などに行くというのなら、本当に「勉強」ができる人間である必要があった。だが、今は技術的に試験さえ通ることができれば、本当に必要でなくとも、大学まで行くことができる(経済的な問題もありますが)。このような人間は、ドストエフスキーにいわせれば「知恵のある獣」になりやすい、ということだろう(偏見であることは承知しています)。

 

人間が生きる、ということは「頭で考えて生きる」ということ「のみ」ではない。確かに「頭で考えること」も必要だ。しかし「頭で考える」だけでは何事も成就しない。その上、同時に「現実を避ける」ようになると、「何かうまい考え」を見つけ出して、それで生きていこうとする(行動せずに)ようになる。これは詐欺師とか泥棒にも似た考え方に、近づき易くはなりはしないのか・・・?

 

「獣」とは「楽をして生きよう」、つまり「困難を避けて生きようとする」人間の性をいっている。そして、それが上手くいくようになってしまうと、自然と人間は動物的になっていくものだ。

 

こうした人間が巷にあふれていくこと、若者に増えていくことを心配していたのが、ドストエフスキーだった。

 

そしてそのような人間社会の行く先を、「カラマーゾフの兄弟」の中の「大審問官」で語っているわけである。

 

今日的にいえば、「大審問官」は第2次世界大戦で明らかになったように、「ファシズム」の到来を予言していたといわれている。

 

この「世知辛い世の中」で人々は絶望し、人間性の獲得をやめてしまう。「とにかく生きることさえできればいい」という一群の人たちに対して現れるのが、ラスコーリニコフがそのまま挫折もせず成長したような、例の「大審問官」である。彼は狡猾で、その道においては、経験が豊富だ。だから、人々の「望み」を熟知している(つまり、ラスコーリニコフが嫌がった、スヴィドリガイロフのように)。

 

人間は「責任」など負いたくないのである。それをまとめて引き受けてくれる人がいれば、多くの人は、喜んで自分を投げ出すだろう。

 

独裁者や、英雄と呼ばれるもの、または自分の信じ切った国家体制に対して、人々は自己の判断を投げ出してしまう。その時に何が起こるのかいといえば、人間の「獣性」の覚醒であり、責任の転嫁である。

 

自分が「正しい」かどうかを自分で客観的に見られぬ人にとってみると、彼らが望んでいるのはそんな自分を、「正しい」としてくれる「偶像」なのである。そしてそのことを知っている「支配者」は、それを自ら買って出るのである。

 

つまりここでいう「ファシズム」というのは、個々の人間の怠惰が呼び起こす、独裁制ということになる(言葉上の「ファシズム」でなくて、その原因の根幹にあるもの、という意味において)。それは共産主義でも、資本主義でも、いわゆるファシズムでも、どのような主義やイデオロギーに関わらず、条件さえ整えば現れてくる、人間の背徳への崇拝と一致するだろう。

 

そして時代を追うごとに人類は、大多数の人々が、その傾向を徐々に強めているのだと、大審問官の寓話は語っているのだ(これは、単純に主義、主張では断罪できないし、より分けられないことである。つまり、主義主張は、その正当性を欠くのなら、人間の背徳への志向への、隠れ蓑でしかないということだ)。

 

ドストエフスキーは1881年に亡くなった。まだ世界戦争が起こる前であった。20世紀に入り、ドストエフスキーの文学で描かれた内容は「現実」として表れてきた。

 

それは我々が今生きている社会の隅々に蔓延している、利己主義を正確に描写しており、それがとどのつまり人間の、「獣性」に結びつことであり、反対にそれを克服することが人間の「神性」に結びついていくことを、看過しているといって良いと思う。

 

私たちが何を基準に生きるか、それがひどく重要な問題である。「神性」なのか「獣性」なのか?文章だけでここまで人間の内部に内在する価値観を、はっきりと書いた作家は彼しかいない。

 

そのため、彼の小説を読む者は一時的に精神を、病むのかもしれない。しかし、それは逆にいえばその読者が、人間の「神性」というべき資質に気づいた瞬間ともいえる。

 

打算的でなく、狡猾でもない、いわゆる「普通の人間」にこそ、その「神性」ともいうべきものはある。ドストエフスキーの小説はそのことを明確に示しているといって、過言ではないといえるだろう。

 

政府もやっとコロナ対策に乗り出したみたいで、幾分はほっとしています。

 

かなり色んな所から突き上げがあったようです。当然だといえば当然かと思います。北海道など多くの感染者が出たせいもあって、保守系の人たちなど、色んな不満がくすぶっていたのが、今回出てきたようです。すでに北海道は淡路島ほどの面積が中国に買い取られ、北海道の人口を増やすために500万人ほどの中国移民を迎え入れる可能性もあるとか。

 

個人的に中国の方に何の恨みもないですが、色々問題のある国だとは思っています。自分は保守系でもないですが、今年4月に中国の習近平国家主席を迎え入れる予定なども、さすがにタイミング悪いだろうとは思いますけどね。

 

KYなのは間違いないです。

 

今回のコロナウィルスの問題の重大な原因の1つは、中国とWHOにあったのは明らかです。中国は未だに武漢の細かい情報を出してきていませんけど、その辺を明らかにするだけで、世界の人の対応はだいぶん違ったと思います。

 

また、遅いとは思いますが、日本も政府が動き出したようで、少しぐらいは不安も減ったような気がします。この件は自分も良かったと思いますし、そうあるべきだと思います。

 

台風15号の時、内閣改造を行っていた政府です。その後も千葉県が被災している、という情報が流れてきているのに、ツイッターでは安倍総理が、ラグビーのワールド・カップを成功させようという、映像を流し始め、自分は引いた覚えがあります。

 

超KYですよ。

 

別にラグビーのワールド・カップを成功させようというのは良いのですが、被災者に対して何のメッセージもない。当然ツイッターは首相本人が流しているのではないと思うし、映像も事前に撮ってあり、事務的に流していたのかもしれないですが、今の政権には「庶民」のほうを向いていないという感じがずいぶん前から、あります。

 

ラグビーのワールド・カップのスポンサーや、今回のコロナに関してもオリンピックに出資してくれた企業、あるいは経済の結びつきの強い中国などの方ばかり向いているような気がしています。

 

現状でいわゆる「桜の会」の問題の追及などしないほうがいいとは思いますし、野党がやっているように政争の道具にするのは反対です。しかし、与党も「桜の会」の名簿がないとか、ちょっとアホらしくて、酷いいいわけなど聞いていると、それで良いとは思えません。

 

こういうのはもっと野党などに追及される前に、身内から「おかしい」などという声などが出ないと、いけないのではないかと思いますね。道義的な問題ですよ。与党、野党関係ないですから。

 

このまま政権を擁護しても「嘘」をついても政権運営ができる(嘘とは決まったわけではないですが)、あるいは適当に言い逃れておけばよい、と誤ったメッセージを送るだけで、おかしなことになります。

 

そういうことを続けると、我々一般国民のほうを見ないで、好き勝手に自分たちの政策を進める政府ができてしまう、といえると思います。今回の政府の初動の遅れなども、その辺が大きな要因の1つだと思いますよ。緊張感がなくなるんですね。

 

野党のいっていることが正しくても、国民の受け皿になっていないので、国民の声として政府に伝わってないということです。

 

やはり今回の件を見ても「突き上げ」みたいのはいると思いますね。野党も国民の不満をちゃんと受けられるところがないと困ります。

 

まだ色々問題があるのでしょうがとりあえず政府が動き出したのは良かったかなと思いますし、応援したいかなと思います。

 

それで、必要なら、やはり我々側からもっと文句等もいわないと、だめだと思いますそうすることが政治家を育てることになると思うし、我々も成長できることになるのではないかと思いますね。


3/3、追記:習近平国家主席が来日を延期したとか。当たり前といえば、当たり前ですよね。まだまだ問題だらけの国内です。国内の人々の力で、色々改善されれば良いと思います。

 

あまりコロナのことばかり書いても仕方ないので、少し離れます。

 

 

R・ワーグナーの後期のオペラで、自分は大変好きな作品です。健康的で明るい内容は、聴くものを幸せにしてくれます。

 

かつては神聖ローマ帝国皇帝の拠点ともなった、16世紀のドイツの交易都市ニュルンベルグを舞台した大作です。上演時間は優に4時間を超えるもので、明朗で溌溂とした音楽が切れ目なく続き、ラストは圧倒的な満足感を聴き手に与えて、終わります。

 

ほとんど小説ともいえるような「セリフ」の分量、内容の深みなど、常識では考えられないような内容を誇っていて、聴き手にもそれなりの理解力は求められましょう。

 

マイスタージンガー12人を逐一登場させ、歌を作るルールを細かく説明させていくという、同時代のイタリアの大家、ジュゼッペ・ヴェルディでは馬鹿々々しくてやらないような面倒な内容を、R・ワーグナーは異常なまでの精神力で描き切っています。

 

 

R・ケンペによる録音(1956)。ALP1506-ALP1511。

 

 

モノラル録音における、決定的名盤といわれたもの。今でも欧州ではこの演奏を1番とみる人もいるといいます。

 

マイスタージンガーの録音では古くはトスカニーニ(1937、ザルツブルグ音楽祭のライヴ)の演奏が挙げられます。きびきびした進行、オーケストラの透明感、迫力のある集中度など、オーソドックスなこの曲の演奏として規範となるものといって良いと思います。

 

 

歴史的に商業用の録音が始まってから、この曲を始めてスタジオで録音したのが、ワーグナー演奏の大家、ハンス・クナッパーツブッシュ(1951、デッカ)で、これはあまり評判が良くないようです。しかし、個人的にはこの録音でこの曲を覚えた記録があり、思い出深く、世間の批評とは違う感慨を自分は持っていますが、書くと長くなるので止めます。

 

この後、トスカニーニの路線を引き継ぐ形で現れたのがこのR・ケンペの録音といえるでしょう。当時のものとしてはトスカニーニの録音は音が悪くないとはいえ、さすがに古いものです(フルトヴェングラーの録音は全曲そろわないので話題から外します)。故にケンペの録音は貴重といえたわけです。

 

おそらく彼の演奏としても、演奏だけとれば有名なローエングリンの録音の上を行くといっても過言ではありません。ベルリン・フィルとも思えないようなオーケストラの室内楽的な透明感は出色で、この曲のアット・ホームな雰囲気を美しく作り出しています。前奏曲はきびきびして健やかに進行し、教会のオルガンと合唱が鳴り響くころには、我々はこのニュルンベルグ市の空気を胸一杯に吸い込んでいる気持になります。

 

しかし、ワーグナーはなんという素晴らしい音楽を書いたことでしょうか!

 

前奏曲が終わると我々は16世紀のニュルンベルグ市にタイム・トリップしてしまいます。城壁に囲まれた、土気色の建物の魅力、そして街の中そこここに咲き誇る花々、これほどかぐわしい音楽が他にあるとも思えません。結局ドビュッシーがワーグナーの影響を離れえなかったのも、当然でしょうね。

 

音楽は細部まで描き切られ、完全なパラレル・ワールドを作り出していきます

 

 

(↑、自分の所有している、トスカニーニ、ヴァルヴィーゾ、ヨッフム、クナッパーツブッシュのCD。)

 

それゆえ、この音楽では録音の良さが1つの魅力となりえます細部までに秘められたニュルンベルグの香りを聴きだすことが、この音楽を陶酔的に楽しめるか否かの分かれ目になります(R・シュトラウスのオペラなども同様です)。

 

ハンス・ザックスによる有名な朝と夕の両モノローグをクナッパーツブッシュがステレオで入れています。自分はこれも良く聴いていました。この辺りを繰り返し聴くのも、マイスタージンガー入門者には良いと思いますね。

 

「リラの花がなんと柔らかく、また強く

 馥郁と香ることであろう

 何か歌ってみたい気がする。

 だが、私の歌は何の価値があるのだろう!

 この、単純な男の歌が!」

 

こう始まる、モノローグの歌(朝の方)は一見地味ながら、柔らかく香る陶酔感を伴って、このオペラの本質をえぐっています。こういった、静かな朗唱を聴き逃してしまうのなら、マイスタージンガーは長たらしい退屈な作品に見えてしまいます。しかし逆に、このあたりの魅力がわかり始めると、この曲は全編が、名曲で埋め尽くされていることを知るわけです。

 

ケンペ盤はオーケストラと歌のバランスも良く、非常に聴きやすいですしかし、モノラルとしては大変に音が良いものの、4時間半に迫ろうかというこの曲の巨大さを補うには、幾分音が固く思える瞬間もあるものです。

 

↑)ルドルフ・ケンペ

 

 

カラヤンによる録音(1970)。826227-826231。旧東ドイツのエテルナによるレコード。EMI、DG、エテルナはいくつかのレコードを、同じ音源で制作しているようです。カラヤンのマイスタージンガーもその1つ。EMIとエテルナの音源は同じです。しかし、どちらの会社のものがオリジナルに当たるかは、今の自分には分かりません。

 

共産圏であったエテルナは予算を国から支給され、レコード制作に集中できたという利点があったようで、音は良いです商売ではなかったということですね。HMV(EMI)はきらびやかで、はっきりした音ですが、エテルナは地味で音の輪郭線などがやや弱いながら、ステレオ特有の奥行きが臨場感を持って再現されており、重厚です。

 

HMV(EMI)の音は明らかに英国の音なんですね。それに比べると、エテルナはいかにもドイツの音といったレコードだと思います。C・クライバーの「トリスタン」とか「魔弾の射手」もDGよりエテルナの録音のほうが優秀といいます(アナログ盤の話です)。

 

 

マイスタージンガーの録音において、ケンペに続いて、最終的に、決定盤として出てきたのがカラヤンによる録音です(ステレオ)バルビローリ(!!残してほしかった)の代役として急遽呼ばれたためにドレスデン・シュターツカペルレを使用し、このオーケストラの長い歴史を感じさせる、美しい録音になっています。

 

このころのカラヤンの録音を見ると、ヴェルディはかつてのように感情をこめて演奏するのをやめて晩年に近いスタイル(感情を殺してオーケストラの美観を追求したやり方)で演奏しているのに対して、逆にワーグナーはオーケストラを散々動かして感情的に演奏しているのが特徴です。

 

トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤンはワーグナーについては、感情を殺してしまったほうが、美しく響くことが多く(フルトヴェングラーのトリスタン、カラヤンのリングやパルシファルなど)、感情的になることが悪いとはいいませんが、完成されたスタイルとはいいがたいところがあります。

 

しかし、この3者において「ニュルンベルグのマイスタージンガー」だけは別格で、彼らのやりたいようにやって音楽が生きる、という恵まれた特徴があります

 

カラヤンの演奏は、出だしから音楽はふっくらとし、柔らかく、繊細に響きます。テンポも適度に落としており、音楽の細部まで緻密に描き出していきます。ケンペの録音は音が悪いわけではなかったのですが、モノラル録音ですから、どうしても聴き手を包み込むような音の広がりがなかったのが、難点でした。しかし、ここではステレオ録音であるために、それが存在し、カラヤンはそれを意識的に使っているように思えます。

 

そして場面ごと、部分ごとに、意味合いのある表現で、少しづつ表情を変えているのも出色。これはケンペ盤になかった表現です。

 

歌手はケンペ盤のほうが優れているような気がしますが、カラヤンの豊かな指揮ぶりで聴く、マイスタージンガーは素晴らしいものがあります。

 

エヴァがザックスに靴を直してもらっているときに現れる、騎士のヴァルター。するとそのエヴァを見ながらヴァルターはザックスに習った美しい歌を歌い始めます。

 

それは16世紀ニュルンベルグ市での、美しい朝の一コマといえる瞬間です。

 

エヴァの意中の人であるヴァルター。成熟した青年ヴァルターの魅力が歌を通して伝わってくるシーンの素晴らしさ。

 

その後の、歌合戦の場である郊外の野原での、明朗で健康的な人々の迫力。

 

そして遂にザックスによってこの曲のまとめに入ると、音楽は前奏曲を後方で奏で始め、ニュルンベルグ市民の壮麗な合唱になる感動的なラストを迎えます。

 

この辺もケンペ盤では少し音の物足りなさを感じてましたが、カラヤン盤はさすがに、聴き手を包み込むような音の迫力があり、ラストの壮麗な合唱の盛り上がりも滑らかで、これ以上何を望もうか、です。

 

胸が一杯になる感動に包まれます。

 

↑)ヘルベルト・フォン・カラヤン

 

彼の残した遺産の中でも一級品の出来栄えだと思います。

 

新型ウィルスの影響を受けて、中国人渡航の禁止を求める請願が始まったらしいです。しかし、こんなことで、国に対して国民が請願を出すなんて、政治家も恥ずかしいと思わないのでしょうか。冗談抜きで、今の政治家はきついですね。民意を反映しないのなら、政治家でも何でもないでしょ。

 

我々もかなりひどい人たちを政治家に選んでいるということなんでしょうけど。

 

もしかしたら新型ウィルスが流行するかもと思い、部屋にこもってもいいように、都心で少し買いものを済ませました。

 

新宿の薬局でマスクでもないかと思って入ったんですが、そこのお客の半分以上は中国人。マスクもなく、こんなので大丈夫?とは思いました。

 

安部さんもうちょっと頑張ってくれないですかね。野党も協力してさ。TPOってのもありますからね。もう少し仲良くやったらいいねん。

 

新型ウィルスに感染している人が増え始めていて、先行き不透明です。

 

政府もトップ・ダウンで動いているように見えないです。新型ウィルスで、中国が情報を正確に伝えていない可能性もある中、私たち一人ひとりで防衛しないといけない感じになってきています。

 

今の内閣も台風15号で千葉県が被災しているとき、内閣改造をしていたぐらいのものなので、申し訳ないけど、信用はできません。アメリカ、中国、経済団体、日本会議、保守など皆に良い顔をしてきた内閣は結局、甘やかされすぎて、臨時に動ける基礎体力がないようです。怖いねえ。


もうちょい、先回りもしないものか。

 

自分も東京に住んでいるんですが、満員電車とか大丈夫なんでしょうか。余程気を付けないと広まる気もしますね。

 

こういうことを書くと怒られるかもですが、政治とか世界情勢に興味をはらわない人が多い国で選ばれる政治家が、逆に自国民に興味を持たないというのは、本当に因果としか思えないです。

 

マスコミにしてもね、それこそ、表向きはバラエティー番組ばかりやって、他方は、中国、韓国、政府の利権を代弁するような感じばかり(局ごとにどこの利権を代弁しているか、違うようですが)。そしてそれぞれの支持者がそれをおかしいと攻撃してばかりで、国民の分断に一役買っていますね。そりゃあ、おバカも増えるよ。もし本当に辻本清美議員などが北朝鮮と関係などあるというのなら、これほどうまく日本人を分断している例もないよね。


普段溢れる情報が、このように占拠されてしまっては、物事を冷静に、自分の思考で洞察できる人が育ちません。


誰かが得をしてるんだ。

 

こんなことばっかり書くとヒトラーの「我が闘争」みたいになるので止めるけど。

 



体を冷やすと人間の免疫機能は弱まるといいますからね。ちゃんと体を温めて、十分な休息をとるようにしたいと思っています。

 

皆さんもお大事に。

WHOのコロナウィルス対応はひどいですね。もしかしたら日本国内はそんなに広がらないかもしれませんが、中国の様子を見る限り、限りなくパンデミックに近いように見えます。

 

疫病のことは、分からないことも多いので、一旦様子を見たいと思います。

 

 

サー・トーマス・ビーチャムによる、グリーグの「ペール・ギュント」(1957)。ASD258。

 

 

ビーチャム卿の演奏する「ペール・ギュント」の名演。一般に演奏されている「ペール・ギュント組曲」とは違う内容です。

 

本来の組曲よりも、もっと多彩で、ビーチャム独自の考えが反映されています。ビーチャム自身が創設したロイヤル・フィルを用いて、歌のソリストあり、合唱ありの楽しい演奏です。

 

彼が子供の時から好きだったという曲なだけに、思い入れが感じられて濃厚なメルヘンに仕上がっていると思います。立体的な音質も最高。

 

これを聴いているとストコフスキーを思い出しますね。「音楽の楽しみ」ということにおいて、ストコフスキーは聴衆に向けて、あるいはビーチャムは演奏することそのものにおいて、決して忘れていないんですね。

 

音楽は本来「楽しみ」なんだ、ということです。

 

 

ビーチャム・オペラ・カンパニーで演奏していた、ジョン・バルビローリ、他には指揮者では、エイドリアン・ボールトなど、ビーチャムを快く思わなかった人も多かったそうです。

 

イギリス楽壇を牛耳っていた、ともいわれるような人でしたから、あくどいこともしたんでしょう。お金の使い過ぎで破産もしたそうです。

 

「サー・トーマス・ビーチャムはエキセントリックで好事家という、イギリスの大ブルジョワの典型であった。三回結婚し、最後の妻は秘書をしていた女性であった。最初の妻と離婚する前から交際を始めて以来、三三年間にわたり恋人だったレディ・キュナードを含めると、四人の伴侶がいたことになる。」(「偉大なる指揮者たち」、クリスチャン・メルラン著、神奈川夏子訳)

 


(↑、モード・キュナード。ビーチャムの恋人だった婦人。音楽を愛好する女性だったようで、芸術家などを支援していたようです。1911年にビーチャムと知り合ってからは、彼の音楽活動の資金調達などをしていたといいます。)

 

ビーチャム卿の、そこにある音楽愛は本物です。とにかく興味深い人には間違いないですね。ペール・ギュントも、本来の組曲しか知らない人には一聴の価値ありかと思います。

 

しかし、ビーチャム卿、実際の人物を知らない後世の我々にしてみると、「あなたは最高だ」といいたくなります。

 

破産したとはいえ、後世に残るオーケストラの創設と、音源を作り出したということは、とても価値のあることです。ブルジョワが、お金を一体何に使うかということを考えさせられる事例でしょう。

 

国家の財政を傾かせたかもしれませんが、バイエルンのルードヴィヒ2世の作った、ノイシュヴァンシュタイン城が現在でも重要な観光地になっていることを思いだしました。

 

 

ビーチャムの演奏するベルリオーズ「幻想交響曲」(1959)。ASD399。

 

 

音は最高です。繊細で緻密なステレオ。みずみずしいビーチャムの指揮ぶりが明瞭にとらえられていますね。第1楽章の鈴が鳴るようなヴァイオリンの合奏、弾力のある低弦の音色など、涼しげでしゃっきりしています。

 

フィナーレも凝っていて、おどろおどろしい雰囲気を作り上げています。ペール・ギュント然りですが、物語の要素などがあり、想像力を働かせる音楽でのビーチャムの指揮ぶりは魅力ですね。何か仕掛けがあります。

 

 

最後に1枚。ヘンデルの「忠実なる羊飼い」(多分ビーチャムの編曲)とハイドンの交響曲93番の組み合わせ(1950)。ML54374。

 

 

SPの復刻かな。こちらのほうがビーチャム卿の素の資質が出ている演奏だと思います。ヘンデルの美しい曲と、明快なハイドンの曲のように、短いフレージングで、力む必要のない演奏のほうが、彼は曲の魅力を引き出しやすいようです。

 

オペラからの編曲でしょうか、ヘンデルの「忠実なる羊飼い」組曲なども涼しげでクリーミーな味わいがあり、ヘンデル特有の聖なる感じも合わさって、とても素晴らしいです

 

もう亡くなりましたが、かつてのNWO(ニュー・ワールド・オーダー、世界統一政府)の親玉といわれていたデイビッド・ロックフェラー(1915-2017)は地球上の適切な人口は20億人だといっていました(直近では5億人とも)。今いる70億近い人口のうち、50億人は余剰だというのです。

 

 

(↑、デイビッド・ロックフェラー。アメリカの銀行家で、日本の天皇とも懇意だったといいます。第2次世界大戦後の本当の意味での世界の「王」だったという人も多いです。アメリカの大統領よりも大きな力があった、ともいわれていた人です。世界政治への発言力は公の秘密だった、というべきでしょう。

 

2002年に彼が国連に送った手紙には次のようにあったといいます。≪終末がやってきました。好むと好まざるとに拘わらず、それは私たちがだれでも直面しなくてはならない運命なのです。2001年9月11日、世界中の人々が終末の始まりを目撃しました。私たちが見たもの、体験したものは(大変悲惨な出来事でしたが)、これから間もなく起こると思われる大災害にくらべれば、まだ大したことではありません。
  悲しいことに、(あの事故で)非常に多くの生命が奪われましたが、なおそれ以上の多くの生命が失われることになっています。しかしながら、これらのことはこの「古い制度(=国家体制)」の崩壊が始まるに従って、次々と起こり続けるでしょう。≫

 

その際NWOへ世界が移行する工程表も述べたといいます。しかし結局それらは全て失敗しているようです。)

 

以前書きましたけど、国連で採決された「アジェンダ21」がこの意向をくんでおり、国連やあるいは、世界的なエリート、金持ちは計画通り地球上の人口を減らしたがっているのではないかといわれてきました。

 

今日その傾向はやや収まってきているようですが、未だに「陰謀」を続けている人たちもいるという話です。

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ここまで書いてきて、もうお分かりかもしれませんが、今回のコロナウィルスの蔓延も、その人類減らしの可能性があるんじゃないかと思っています(あくまで個人的に、ですが)。

 

当然、はっきりとした証拠もありませんし、誰かが意図的にやったのか、あるいは何かの事故なのか、分からないことも多いですが・・・。

 

SARSやMARSにしても、生物兵器として、人為的に撒かれたのではないかという話は絶えません。今回も武漢付近に生物兵器の工場があったといわれています。

 

元々コロナウィルスは4種類しかなかったそうです。それも全て肺炎になるような強力な毒性のものでなく、せいぜい風邪の原因になる程度のものだったそうです。しかし2002年にSARS、2012年にMARSが発生し、強力な毒素を持つものが発生したといいますが、本当でしょうか?それぞれコウモリ、ラクダが原因だといわれていますが急にそんな毒素の強いウィルスが、しかも21世紀に入って、立て続けに発生するのも不自然な気がしています。

 

しかも発生するごとに、徐々に強力になってきているというのは、どういうことなんでしょう?

 

疑いの目は向けたくなります。

 

片や、現在アメリカではインフルエンザが大流行し、たくさんの死者が出ているといいます。2019年から2020年にかけて、2000万人が罹患し、2万人が死んだといいます。

 

2019年の日本でも222万人(去年の2月ごろ)が罹患し、史上最高記録だったといいます。

 

インフルエンザについても、依然としてケムトレイルから散布されているという噂が絶えません。ケムトレイルは飛行機雲を装った、人体に有害な物質からできる噴霧で、たくさんの目撃情報があります。興味のある人は1度調べてみると良いと思います。

 

自分もケムトレイルのことを知ってから、飛行機雲について良く観察するようになりましたが、明らかにおかしな飛行機雲があるということに気づくようになりました。

 

元々飛行機雲は飛行機のエンジンの排気ガスなので、発生してもすぐに消えていきます。しかし、ケムトレイルは散布されると、20分ほどかけて幅の広い帯状の形となり、その後徐々に消えていきます。特に本物の飛行機雲と、ケムトレイルらしき雲とが同時に見えるときなどがあり、明らかな差があると思うようになりました。

 

↑)普通の飛行機雲。すぐに消えていくのでそれほど長くはなりません。

 

↑)ケムトレイル。長い線を描いて、すぐに消えずにしばらく滞留します。帯状になっていくことが多いようです。

 

明らかにケムトレイムだと思う場合は、その場をすぐに離れるようにしています

 

何度も散布されているのを見ると、我々の吸っている空気が汚染されてきている可能性がある、ということではないのでしょうか。

 

こういうことはまず「知ること」から始めないと、何時までたっても世の中変わらないままです逆にいえば「ばれないように、自然に発生しているかのようにみせかけている」人たちがいる可能性があるということです。

 

馬鹿バカしいと思う人もあるかもしれませんが、飛行機雲などでも良いので1度じっくりと観察してみてほしいと思います。

 

日ごろからマスクをしたりお風呂に入って体をきれいにしたりすることがかなり大事かな、と思っている今日この頃です。

サー・トーマス・ビーチャム(1879-1961)は20世紀のイギリス楽壇の名物男として知られた人物でした。製薬会社ビーチャム(現在はグラクソ・スミスクライン)の御曹司で、多大な財産を自分のオーケストラ創設のために惜しげもなく使い、アカデミックな教育を受けていないにもかかわらず、指揮も自ら行いました。

 

当時のイギリスの大人物の1人だったといえるでしょう。EMIの大プロデューサー、ウォルター・レッグは彼の助手を務めていたそうです。

 

 

楽曲のコンサートのみならず、アメリカ滞在時にメトロポリタン歌劇場の常連だったように、オペラも得意とし、「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス」を3大退屈男と称し、ディーリアス、ベルリオーズ、プッチーニなどのメロディアスな楽曲を愛し、得意としていました。

 

 

ビーチャム卿の指揮する「カルメン」(1958-1959)。ASD 331-ASD333。英国製。ED1。

 

 

先日E・クライバーの指揮を「肩の力が抜けた指揮」と書きましたけど、ビーチャム卿の指揮はそれ以上で、全く理屈っぽいところがありません。喉のつかえがとれるようなあっさりした指揮ぶりで、音は柔軟で、潤いがあります。

 

迫力も必要なら十分に発揮できますし、音には人間的な感情が程よく乗っています。魅力にあふれた楽しい指揮ぶりです。

 

カルメンのアナログ・レコードだとやはりカラスかカラヤンの旧盤ぐらいに人気が集まるようですが、ビーチャム盤も良質です。

 

カルメンをビクトリア・ロス・アンヘレスが歌っています。ファム・ファタールなカルメンの資質を表現するのなら、やはり自身にその特性があるマリア・カラス(カラスのカルメンについては1度書きました)なのかもしれませんが、アンヘレスも悪くないです。

 

ちょっと声に癖はあるかもしれませんが、彼女は何を歌ってもそのキャラクターを素のまま表現できる能力があり、カルメンも聴いていると、「カルメン」そのものに聴こえてきます。個性が強くない人なんですね。でもそのおかげで、役柄にすっと入って行けるようです。

 

ファースト・チョイスにはならない、ということかもしれませんが、良い演奏だと思います。日本ではやたら、「この演奏が最高」、という「1番」マニアばかりです。それでかもしれませんが、ビーチャムもあんまり人気がないようです。有名な評論家がしつこくいいふらすとかしない限り、人気が出ないようです。

 

カルメンにしても、カラヤン盤のこととかマリア・カラスのことばかりさんざん聞かされて、自分はもうお腹一杯です。確かに、名演だとは思いますけどね。

 

1番良い演奏を聴くということ、それは結局「楽曲」の理解に必要なことだと思います。でもその先までいかないと、中々音楽を楽しむところまでいかないかもしれません・・・。

 

・・・などと生意気なことを考えさせられる演奏で、「音楽の楽しみ」というものをビーチャムは体現しているように思われます。

 

本当に好きな人じゃないと、自分の財産を投入してまでやらないと思います。高度なアマチュアなのかもしれませんが、それだけではすまないものがあります。演奏する楽しみを決して忘れてないところは素晴らしいです。

 

音の雰囲気も最高です。インターナショナルなカラヤンの指揮ぶりとは違い、ローカルな雰囲気も音から伝わってきて、その辺も魅力ですね。

 

 

ビーチャム卿の指揮する「ラ・ボエーム」(1956)。英国製。ALP1409-ALP1410。

 

 

ステレオ録音に乗り遅れていたEMI、この盤は1956年の録音ですが、モノラルです。しかし音は非常に良くて、同年録音、ケンペのマイスタージンガー同様、聴きやすいです。マイスタージンガーぐらいの規模だとモノラルで足りない部分がありますが、ボエームであればこれでも充分でしょう。

 

ビーチャムの資質と楽曲の性格が見事にマッチした名演で、イタリアの指揮者とはまた違う味わいに仕上がっています音は柔らかく、演奏は抒情性に富みます。歌手も素晴らしく、ミミに再び、ビクトリア・ロス・アンヘレス、ロドルフォにユッシ・ビョルリンク

 

アンヘレスについてはカルメンにところに書いた通りです。

 

この演奏の聴き物はビーチャムの指揮と、同時にビョルリンクの歌唱にあると思っています

 

個人的にはロドルフォは、デッカのセラフィン盤におけるカルロ・ベルゴンツィが最高だと思っています一見楽観的ですが、悩み深いロドルフォの性格を、彼は甘美に歌い上げています。それに比べるとカラヤン盤のパバロッティは楽観的で、時に乱暴な歌い方でさえあります。ロドルフォは少し思慮深い部分がでていると、よりそれらしいと思えます。

 

ビョルリンクはどちらかといえばパバロッティのような、スケールの大きい、楽観的な歌い方かと思います。確かにパバロッティの歌声は美しく、硬質で、金色に輝いています。それに比べると、ビョルリングの声はずっと柔らかく、歌声自身も美しいと思いますが、それ以上に歌い手の優しい性格に滲み出ており、素晴らしいです現代にはいないタイプの人ですね。

 

ロドルフォの人肌に触れるような繊細な優しさを、実感させる歌声です。こういうのもありだと思います。

 

↑)ユッシ・ビョルリンク

 

この声がビーチャムの指揮とよく合うんですね第1幕はベルゴンツィ、テバルディ、第3幕はネトレプコ、ヴィラゾンあたりが好きでしたがこれを聴いているとそんなことはどうでも良いと思えてきます

 

舞台はフランスですが、たっぷりした甘い味付けは完全にイタリアの歌です。激しく心揺さぶられる瞬間があります

 

アンドレ・クリュイタンスによる「ホフマン物語」(1964-1965)、フランス盤。SAN154FーSAN156F、ステレオ。


この作品のスタンダードな名盤、ともいわれているものです。

 

 

音は良く、滑らかなクリュイタンスの指揮と音色を堪能できます。全体に保存状態が良かったレコードです。

 

 

オペレッタの作曲家、ジャック・オッフェンバック(1819-1880)によるオペラです。最晩年にオペレッタでなく、オペラの作曲を試みたオッフェンバックですが、完成を見ることなく他界し、友人のギローが完成させたとされています。

 

名曲で、物語の内容も凝っており、聴きごたえがあります。

 

主人公の詩人、ホフマンがルーテル酒場で学生たちに聴かせる、3つの「恋愛話」で構成されているのが特徴ですね。現実とメルヘンが巧みに合成された3つの物語は、主人公のホフマンをだしに、人間の愚かさがユーモアと愛情をもって描かれており、風刺的でもありながら、コミカルに楽しめる作品です。

 

自分は昔から小澤征爾の録音を聴いてきましたが、これが中々なじめず、いつも途中で聴くのを止めていました。

 

しかし今回のクリュイタンス盤は味が濃くて、面白かったです(クリュイタンスはオール・フランス人キャストによるモノラル盤もあるらしいですが、自分は未聴)。

 

小澤の指揮は軽く、透明感がありますが、カロリー不足でした。そこに来ると、クリュイタンスはグランド・オペラ風のきらびやかな指揮で、豪華です。豊かに流れる音楽は魅力です。夜の街、綺麗な街並のネオンが輝いているような・・・美しさ、とでもいえば良いのでしょうか。

 

歌手はこの頃のEMIらしい、いつもの豪華さです。ホフマンには全盛期のニコライ・ゲッダ。甘い声に堂々とした歌いっぷりは、甘ったれた性格のくせに、同じ過ちを繰り返す、ホフマンらしい感じが良く出ています。

 

↑)ニコライ・ゲッダ

 

機械仕掛けの人形オランピア、ヴェネツィアの高級娼婦ジュリエッタ、そして薄命の歌い手アントニアに恋するホフマンは、いずれも実らせることができません。

 

聴いていて一番面白いのは、オランピアのストーリー。魔法の眼鏡をかけてしまったホフマンには機械仕掛けの人形オランピアが、本物の人間に見えて仕方がなく、恋をしてしまいます。

 

そのオランピアが歌うアリアは、ゼンマイが切れそうになると、歌も止まりそうになり、助手が再びゼンマイを巻き戻します。この辺が音で表現されている感じはまさにメルヘンでしょう。楽しい場面です。

 

歌手は見た目も人形のような、ジャンナ・ダンジェロ(当初はレッグによってカラスを起用する予定だったとか。また、ダンジェロは商業用録音がほとんどない歌手だったようです)。

 

↑)ジャンナ・ダンジェロ

 

ヴェネツィアの高級娼婦、ジュリエッタになんとシュワルツコップ。薄命のアントニアにはビクトリア・ロス・アンヘレス。

 

真面目な印象のある、シュワルツコップが娼婦というのが怖いですね。騙されたホフマンをあざ笑う、売春婦の気の強さをみせるシュワルツコップに、何か異様なものを感じるのは自分だけでしょうか

 

歌手になる希望を捨てきれない、純真なアントニアはアンヘレスが当たり役でしょう。充分だと思います。

 

 

2時間半ぐらいかかる長いオペラですが豪華さ、というよりは、豊かさ、を満喫できる演奏で、やはりクリュイタンスの指揮が美しいです。オーケストラも必要であれば存分に鳴らし、洒落た味わいも逃しませんでした。

 

↑)アンドレ・クリュイタンス