
未成年、米川正夫訳。
<未成年>
1875年に、20歳のアルカージー・ドゴルスキーの手記として書かれた、長編小説である。貴族と貧しい農奴の間に生まれた少年アルカージーが、貴族の父である、ヴェルシーロフに幻滅し、より建設的な生き方に目覚めていく工程を描いている。
ドストエフスキーの書いた長編小説の中では若干影の薄い作品のように思われる。

カラマーゾフの兄弟、原卓也訳。
<カラマーゾフの兄弟>
ドストエフスキーの最高傑作といわれている長編小説。作家はこの作品でトルストイに匹敵する作品を書きたいと願ったが、全てを書き終えることなく他界してしまった。
しかし完成された部分だけで、とても未完成とは思えぬ完成度があり、これで完結していても、何ら問題がないようにも思われる。
カラマーゾフ(黒塗り、という意味)の家族に起きるおぞましい悲劇を、「神」と「人」という観念を絡めつつ、あるいは人間の深層心理の底に潜む「悪意」などを浮き彫りにしながら描いている。
娼婦に熱を上げる父フョードルと、長男ドミートリーはお互いに仲が悪い。そのため、撲殺されたフョードルの殺人容疑がドミートリーにかけられたのは当然の成り行きであった。
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このフョードルを父とするカラマーゾフ家には3人の兄弟がいた。直情的な長男ドミートリー、秀才で頭の切れるイワン、純真で修道僧のアリョーシャである。ところがここに、かつて父フョードルが乞食女に産ませたスメルジャコフがおり、下男として使われている彼は、頭の良いイワンに強い共感を覚えていた。
はたして父を殺したのは誰なのか・・・?その事件を中心として、物語は進む。
事件の犯人ではないかと、疑いをかけられる長男のドミートリー。しかし、彼は直ぐにカッとはなるが、善良な人間であった。
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この「カラマーゾフの兄弟」においては、「小説」としての内容とともに、この作品においても、そこに述べられている「哲学的」側面が注目されてきた。
最も有名なのは、インテリのイワンが弟のアリョーシャに語って聞かせる、「大審問官」という物語である。イワンは「神」を信じているアリョーシャに対して、自身がなぜ「神」という存在を信じつつも、この「世界」を認めることができないかを語りだす。
このような、「神」と人間の相剋はドストエフスキー文学の重要な要素であり、この作家の作品を他から区別する要因でもある。
これらを読み飛ばしてしまっては、ドストエフスキーを本当に理解したことにはならないだろう。
ここでの、信心深いアリョーシャと、懐疑主義のイワンを通して語られるこの「物語」は、はるか昔から語られてきた、「神 」への信仰と、その「不信 」という問題の根本的原因を、浮き彫りにしている。
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<大審問官についての考察>
「大審問官」の内容はこの小説の一つの核ともいえる内容で、どうしても一言触れたいので、いくらかの抜粋をしてみる。以下は次男のイワンが、弟の修道士、アリョーシャに語って聞かせる内容の一部である。
それは明らかに人間への不信を表している。そしてその内容は、何の罪もない幼い子供を登場させることによって、より一層中身を強調させている、といえる。
先もいったように、以下のおぞましい思想の抜粋は、物語の中で、イワンのものとして書かれている。
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「ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。」
「俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇跡だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな。」
「ブルガリアでは、トルコ人やチェルケス人たちがスラブ人の一斉蜂起を恐れて、いたるところで残虐行為を働いているところだ。」
「まあ想像してごらん、ふるえおののく母親の手に乳呑児が抱かれ、入ってきたトルコ人たちがそのまわりを取りかこんでいる。やつらは楽しい遊びを思いついたもんだから、赤ん坊をあやし、なんとか笑わせようとして、しきりに笑ってみせる。やっと成功して、赤ん坊が笑い声をたてる。と、そのとたん、一人のトルコ人が赤ん坊の顔から20センチ足らずの距離でピストルを構えるんだ。赤ん坊は嬉しそうに笑い声をあげ、ピストルをつかもうと小さな手をさしのべる。と、突然、その芸術家がまともに赤ん坊の顔をねらって引き金をひき、小さな頭を粉みじんにぶち割ってしまうんだ・・・芸術的じゃないか、そうだろう?」
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イワンのいうところは「人間の愚かさ」である。どんなに高尚な目的が人間に与えられたとしても、人間はその本性に従う限り、キリストの教えに到達はできないし、それがこの世界であると同時に、不完全であることの証明であるというのである。
仮に「神」がいるとしても、なぜ「神」はこのような世界を作ったのか、ということである。その「世界」は、人間の「愚かさ」故、不完全でしかないというのだ。
そしてそこに現れるのが齢90になろうという、「大審問官」と呼ばれる老人である。人間には「自由」が与えられたとする。しかし、人間はその「自由」を乱用するとき、恐ろしい存在にもなれる。
子供を殺すトルコ人は果たして「自由」なのだろうか、違うのだろうか。このような非道な行動が実際に行われるとき、それは人間が「自由」であることの証明でなければならないのであろうか?
しかし、常識的に「犯罪」とも思われる行為があるとしても、人間は状況が許せばそれを「行える」。果たしてそんな世界を「肯定」していいのかとイワンはいう。このような世界を作ったのが「神」だとするのなら、その「世界」など認めたくないのだ。
そして人間というのはその本質に関していう限り、「自由」にかまけて堕落してしまう動物ではないのだろうか、ということも。
イワンの創作の物語の中で、大審問官は偶然現世によみがえってきた、本物のキリストにこう繰り出す。
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「(キリストが)服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。お前は、人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の靈がお前に反乱を起こし、お前と戦って、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、≪この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!≫と絶叫しながら、地上の靈の後について行くのだ。お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの叡智と科学との口をかりて、≪犯罪はないし、したがって罪もない。あるのは飢えた者だけだ≫と公言するようになるだろう。≪食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!≫お前に向かってひるがえす旗にはこんな文句が書かれ、その旗でお前の教会は破壊されるのだ。」
「人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代わりに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。
人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。」
「あの力強い悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、お前は人間がこの地上で探し求めているものを、ことごとく叶えてやれたはずなのに。つまり、だれの前にひれ伏すべきか、だれに良心を委ねるか、どうすれば結局すべての人が議論の余地ない共同の親密な蟻塚に統一されるか、といった問題をさ。なぜなら、世界的な統合の欲求こそ、人間たちの第三の、そして最後の苦しみの他ならないからだ。」
「とにかく、人間の良心を支配し、パンを手中に握る者なくして、いったい誰が人間を支配できよう。われわれは帝王の剣を受けとったが、受けとった以上、もちろんお前をしりぞけ、彼(悪魔)のあとについたのだ。そう、人間の自由な知恵と、科学と、人肉食という非道の時代が、さらに何世紀か続くことだろう。なぜなら、われわれの知らぬうちにバベルの塔を築きはじめた以上、彼らはしょせん人肉食で終わるだろうからな。だがそのときこそ、けだものがわれわれのところに這いよってきて、われわれの足を舐め、その目から血の涙をふり注ぐのだ。」
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つまり、現れたキリストに対して、大審問官が告白したことはもうすでに自分たちが「悪魔」に仕えているということであった。
キリストの教義は理想的でこそあれ、実際の人間にはとても実現できるものではない、というのがイワンの主張である。「パンのみに生きるにあらず」、キリストはかつてそういって、単純な利便による人間の支配をしりぞけた。つまりキリストは彼に従う民衆が、彼(キリスト)と同じレベルの人間になることを欲し、単に「食うだけ」、「寝るだけ」、「生きるだけ」にとどまらず、「隣人への愛」を含む、より崇高な生き方へと導こうとしたのだ。そこには「形」で支配する生き方でなく、人間自らがほっこんから、「隣人愛」を欲する生き方を望まなければ、本質的に解決しない類のものである。
しかしここで「神」が強制的に人間を「他人を愛するよう」仕向けたのであるのなら、それは人間でなく「神」の「ロボット、操り人形」になってしまう。
それを私たちはどう見極めればよいのか?自分が隣人愛を持っているなどという、その証明はどこでされるのか?
故に、それが証明されるために、選択の「自由」がある。この「自由」がなければ人間は「力づく」で従わされる「奴隷」でしかない。何をしても良い、という状況に置かれて、初めて人間は試される。
自分が何をするか、それを決める権利が自分にあってこそ、初めて行いは自分に証明されるのである。
しかし、そこに「キリスト」の失敗があると、イワンはいう。先に述べた「トルコ人」の例のように、人間は自由を獲得すると、結局自分を律するができずに、その「愚かさ」を露呈する、というのだ。そしてそういった人たちのために、彼らを統率する「大審問官」が必要になるという。
こうして「大審問官」は民衆に「食うこと」を保証し、彼らの「愚かさ」という「罪」をかぶってやる代わりに、彼らを支配するのである。
そしてそんな存在こそは・・・まさに「悪魔」に違いないのである。
確かにイワンの作ったという、この「寓話」には一定の説得力があるのかもしれない。
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しかしそんな強気なイワンも、実は彼を尊敬していたスメルジャコフが、父親殺しの本当の犯人だと知って、心底驚く。
スメルジャコフはイワンに近づきたいがために、イワンが心から父親を憎んでいることを察知し、いうなれば、イワンの代わりに父親をほとんど完全犯罪に近い形で殺してしまうのである。
つまりイワンこそが、間接的に父親殺しの犯人なのである。ドミートリーが犯人ではなかったのだ。事実を知ったイワンは己の「悪心」に気が付くと、徐々に気がふれ始める。
そして殺人犯のスメルジャコフはそんなイワンに幻滅し、首をくくってしまう。
ところが、今や殺人犯とみられているドミートリーは有罪を免れない。そのためにアリョーシャはドミートリーを助けようと奔走するのであった・・・。
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この小説の奥深いところにある真実を知るのなら、おそらく人は「自由」と「神」との意味合いを、再び見直さなければいけない、と考えるしかなくなるだろう。
そして、そのような深い意味合いを持ちつつも、「カラマーゾフの兄弟」は自然な小説として成立している。
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一連の長編の作品の中で、ドストエフスキーはどんな人間にも「良心」の衝動があることを述べている。「罪と罰」のラスコーリニコフしかり、「カラマーゾフの兄弟」のイワンしかり。そしてそれを「悪のたくらみ」の対として置いている。
ラスコーリニコフにとってのスヴィドリガイロフ、イワンにとってのスメルジャコフ。この2人の人物は頭が切れ策謀家であると同時に、「悪」への志向がある。しかしこの「悪」への志向はより強く「善」を意識しているから生まれてきた、ともいえる。
より「純粋」に「悪」を培養しようと思うのなら、より「純粋」に「善」を意識していないとできないからだ。そしてその「純度」を増せば増すほど、人間の持つ「良心」はより人間の持つ「神性」をあらわにしていくのである。ドストエフスキーの小説にはそれがある。そしてその問題は特にこの「カラマーゾフの兄弟」において掘り下げられている、といっても過言ではないだろう。